16 マクシミリアン様と少年
レクスさんが「食費は全部僕が負担するから夜も作ってほしい。冷えた肉やパンより作りたてのニナの料理の方がずっと美味しい」と言う。それはお金の面でもレクスさんの健康の面でも、願ってもない申し出だ。
レクスさんが朝食を見てふわっと笑った。
「お。おしゃれな朝食だね」
「ハムとチーズを挟んでバターで両面を焼きました。レストランのメニューにあったので」
「今度、メニューの開発を兼ねて僕と食事に行かない? そのまま買い物をして僕の車で帰れば楽でしょ?」
「ではそのうちに」
レクスさんが微笑んだ。メガネをかけた王子の微笑みって感じ。
今日も順調に仕事をこなして買い物を済ませ、少し早めにお城に帰った。
するとお城の玄関前に立派な二頭立ての馬車が止まっている。制服を着た男性が御者席に座っていて、食材で膨らんだ袋を抱えている私をチラリと見た。
(使用人が正面玄関を使うのか?)と思っているのだろうが、裏口は鍵がかけられているし、今はその鍵を持っていない。ぺこりと頭を下げて玄関から入った。
居間のドアをノックして「ただいま帰りました」と声だけをかけた。
「入っていいよ」と言われてドアを開けると、レクスさんの向かい側に、レクスさんと似た顔立ちの人が座っていた。
「今、お茶をお持ちします」
「いや、いい。兄のマクシミリアンだ。もう帰るから気にしなくていい」
「レクス、そんな冷たいことを言うなよ。頼むよ。メイドがちゃんといるんじゃないか」
「彼女は掃除を担当しているだけで、メイドではありません。昼間は外で働いているんです」
「じゃあ、メイドの人件費は私が負担するから誰かを雇ってくれ」
「無理を言わないでください」
私はいないほうがよさそうだ。居間を出ようとしたら、足元から「のどがかわいた」という子供の声。見たら茶色の髪に茶色の瞳の坊やがいた。五歳くらいか。君、ずっとそこにいたの?
「ではミルクをお持ちしますね」
「オレ、みずがいい」
そう言って少年が私のスカートをつかんだ。オレ? よく見たら服装が思いっきり庶民だ。しかも着古してる。
「台所へ一緒に行きますか」
「うん」
このお城の台所には井戸がある。水道も引いてあるが、私は井戸水の方が美味しくて好きだ。
少年はゴクゴクと井戸水を飲んで「ここのみず、うまいな」とつぶやいた。
口調といい服装といい、絶対に庶民だ。この子はどこの子なんだろう。
「オレはここにすてられるのかな」
「そんなことを言われたんですか?」
「かあちゃんがとうちゃんのせわになれって。かあちゃん、こいびとができたんだ」
その母ちゃんはマクシミリアン様の奥様ではなさそう。マクシミリアン様が父親か。
マクシミリアン様はレクスさんにこの子を預けようとしているのかな? だとしたらそれは無理なのでは? こんな小さい子の世話をしていたら研究ができないでしょう。
でも、この子にそんな話し合いを聞かせたくないなあ。
「坊や、畑でニンジンを抜いてみませんか?」
「ああ、いいぜ。オレはフレッドだ」
「じゃあ行きましょう、フレッド様」
「さま? ただのフレッドだぞ」
私の小さな畑の作物は、五月に入って順調に育っている。ニンジンと青菜とレタスと二十日大根が収穫の頃合いだ。
「これがニンジンです。葉っぱの付け根を持って引っ張ってください」
「んんんんっ! ぬけないな」
「引っ張りながら少し左右に揺らすのがコツです」
「んんんんっ! わっ! ぬけた! すごい! ニンジンだ!」
「上手ですよ」
ニンジンを抜くのが楽しかったらしく、フレッド君は立て続けに五本抜いた。二十日大根も抜いた。
フレッド君がやっと笑ってくれたところで玄関のドアが開いた。
マクシミリアン様が「フレッド、こっちに来なさい」と声をかけた。フレッド君は返事はしないものの、とぼとぼと玄関に入っていく。
台所でニンジンの皮を剥いていると、マクシミリアン様が台所に顔を出した。
「私は帰るが、しばらくフレッドのことを頼む。迷惑をかけて申し訳ない。いずれ必ずあの子のことは何とかする」
「私とレクスさんでフレッド君を見守りますのでご心配なく」
「よろしくお願いするよ。すまないね」
マクシミリアン様はそう言って台所のドアを閉め、やがて馬車が去った。
急いで居間に行くと、フレッド君はソファで眠っていた。レクスさんがフレッド君を見ながらため息混じりに説明してくれた。
「話を聞く限り、兄の子なのかどうかも怪しいんだよ。なのに兄は突っぱねられなかったらしい」
「フレッド君のお母さんは『父ちゃんの世話になれ』と言ったらしいですよ」
「そうらしいんだが……兄は身に覚えがあるようなないような状態らしい。数年前に泥酔して目が覚めたら女性の家で、それきりその女性とは顔も合わせていないそうだ。なのにいきなり手紙で呼び出されて『あなたの子だ』と押し付けて母親は姿を消したんだ」
「そうですか……」
「その母親を見つけるまで預かってくれって。この子が気の毒で断り切れなかった。それに、兄は義姉の実家から援助を受けている。こんな話が耳に入ったら、どれだけもめるか。この子がつらい思いをするだろう」
あなたはやっぱり優しい人ですね。
夕食を作り、二人で食べた。フレッド君は精神的に疲れたのだろう。レクスさんが運んできた毛布をかぶってぐっすり眠っている。
子供に罪はないのよね。気の毒に。泣いていないところがいっそう胸が痛むわ。
食器洗いが終わったころに外でエンジン音がして、自動車のライトが近づいてくる。
「今日は慌ただしいな」とレクスさんがため息をついた。
車から降りたのはウィリアムさんで、眠っているフレッド君を見るなり「誰の子だい?」とレクスさんに視線を移した。
「僕の子ではないんだが、しばらく預かることにした」
「レクスの子とは思ってないよ。お前にそんな甲斐性はないからな」
「息をするように失敬なことを言うな。実は……」
レクスさんが正直に事情を説明している。
(家の恥になることでもウィリアムさんには話すんですね)と、二人の信頼関係の強さを感じた。
「なるほど。あの気弱そうな兄上なら他の男の子供でも体よく押し付けられそうだ」
「僕もそう思っているよ」
「うちに子育て経験が豊富なメイドがいるから、明日にでも来させようか? 人件費は兄上持ちなんだろう?」
レクスさんの顔が明るくなった。
「いいのか? 助かるよ」
「二十年の付き合いじゃないか。その代わり」
「やっぱりか。条件はなんだ?」
「うちに書いてくれよ。ダンテ鉄道のパンフレットに書くらしいじゃないか」
「耳が早いなあ。わかった。書くよ。メイドを頼む。明日から早速困るんだ」
ウィリアムさんが立ち上がって、「本当か! 約束だぞ!」と嬉しそうに声を大きくした。
「書く。少し考えを変えることにしたんだ」
「ああ、父上の件か。お前は家を継ぐわけじゃないし、こうして自立しているんだ。好きに生きればいいんだよ」
「絶縁されるのは別にいいんだよ。ただ……」
「母上を守りたいんだろう? 絶縁されたら母上との連絡は俺が取り持ってやる」
「そうだな。そのときは頼むよ。お前はなぜか父上の評価が高いしな」
「俺が息子じゃないからさ。親なんてそんなもんだ」
レクスさんの育った環境が垣間見える話だ。