14 レクスは聞いてみたい ✤
レクスは自室の天井画を眺めていた。
画の中央に帆船。帆船の上に浮かんでいる女神。絵を囲むように植民地を意味する動植物が描かれている。
アシャール城が建てられたのはおよそ四百年前で、この国が「太陽が沈まない国」と言われるほど世界中に植民地を増やす前だ。だからこの天井画はあとから描かれたものだろう。
女神の右手には平和を意味するオリーブの枝、左手には繁栄を意味する黄金のゴブレット。
遠近法を用いた絵は、天井が空に向かって広がっているかのように見える。
今日、書店で取り寄せた本を受け取った帰りに、ニナとウィリアムが食事をしているのを見た。
テラス席の二人は楽しそうに笑顔でしゃべっていて、レクスは(なぜあの二人が?)と驚いた後で、ウィリアムがニナをメイドとして誘っていたのを思い出した。
(本気で引き抜くつもりだろうか。それは困る。……いや、困ることはないのか。掃除なら別の人を雇えばいいことだ。でも、ニナは断っていたはず)
驚いただけでなく落ち着かない気持ちにもなったが、ニナが誰と食事をしようが同居人の自分が口を出すことではないと自分に言い聞かせた。
レクスはニナに聞きたいが聞けずにいることがある。ニナの占いのことだ。
ニナに限らず不思議な力を持つ人の話は世界中に存在する。
大半は思い込みか嘘だと思う一方で、世界中に常識外の能力者の話が言い伝えられている以上、ひとかけらの真実が潜んでいるのでは、と思っている。
今朝、契約している情報サービスの会社から電報が届き、『ミーガン鉄道に粉飾決算あり』と書いてあった。その情報が新聞に出るのは明日だ。
裁判の件もそうだ。ニナが占った時点で部外者はミーガン鉄道が訴えられていることを知らなかったはず。
(ニナがミーガン鉄道を選ばなかったのは偶然なのか。それともニナには本当に特殊な能力があるのだろうか。なぜミーガン鉄道を選ばなかったか、理由を知りたい)
気になっていることはもうひとつある。
最初に食事の誘いを断った時、ニナはレクスの背後を見てほんの一瞬だけ驚いた顔をした。その時の彼女の目が、レクスの背後を読むような動きをしていた。
(あれはなんだったのだろう)
食事に関してはいい思い出がなく、子供の頃は食事の時間が苦痛だった。
レクスは食が細かったが、養育係は食べ終わるまで席を立つことを許さなかった。両親は養育係を信頼して口を挟まなかった。
食後、あまりの苦しさにトイレで吐いたことが何度もある。
ニナにスープを勧められた時、それを久しぶりに思い出した。そうしたらニナが驚いた。
その後もレクスが何かを食べる時、ニナは必ずレクスの背後をチラリと見る。
(最初に食事に誘われた時、僕の背後に何か見えたのか? いや、まさか……)
首を振って起き上がり、タイプライターで最近気になっているレンデガル族の文化について情報をまとめることにした。
植民地にいたレンデガル族は文字を持たなかったが、特殊な記憶能力を持つ者に膨大な量の情報を伝えさせてきた。
レンデガル族には時折、常人には考えられないほどの情報を暗唱できる者が生まれるらしい。彼らはその者を『語り継ぐ者』として大切にしていた。
その文化に終止符を打ったのは、彼らを支配下に置いた我がエルノーブル国だ。
最近、その『語り継ぐ者』の末裔という女性の学者が現れた。
彼女自身は『語り継ぐ者』ではなく、『語り継ぐ者』だった祖父が書き残した内容について論文を書き、学会に提出した。
「妄想と事実をごちゃまぜにしている」と批判する学者もいれば、「手つかずだったレンデガル族の歴史の封印が解かれた」と絶賛する学者もいる。
レンデガル族の口伝はレクスの本来の研究対象ではないが、彼女の論文を読んだ時は手つかずの巨大な墳墓に足を踏み入れたかのような興奮を感じた。
「僕はレンデガル族の超人的な記憶能力を『ありそう』と受け入れてるのに、ニナの話は信じきれないでいる。思い込みはよくないな」
ニナの占いの能力をもっと詳しく知りたい。
レクスはタイプライターから手を放し、窓の外を見た。そろそろニナが帰ってくる時刻だ。
しばらく外を見ていたら、ニナが足取り軽く帰ってきた。今日は元気そうだ。
あの夜、泣き腫らした顔で「私は魔女じゃなかった」と言うニナは、必死に泣くのを我慢していた。
その健気な様子に胸を締め付けられる思いがした。
彼女の師匠はこの城を譲渡すると言われたのに手続きもせず、売り飛ばそうともしなかった。ニナを育てたことは損得勘定ではないはずだ。ニナを育てたいから育てた。それで間違いない。
そんなことを考えていたら、ニナがドア越しに声をかけてきた。
「夕食を一緒に食べませんか?」
「食べたい。お願いします」
食卓に並べられた夕食は魚と芋の揚げ物に煮豆だった。魚は苦手で、子供の頃のことを一気に思い出した。
子供時代にニシン料理を食べたら、全身に蕁麻疹ができた。ずいぶん苦しかったのを覚えている。
それ以来、実家ではレクスにだけは魚が出されなくなった。
(あっ。今日は魚なんだ)と思った瞬間に、ニナがレクスの背後を見た。
そしてレクスがニナを見ていることに気づくと、ニナは素早く目を逸らせたが、顔が強張っている。
(今、絶対に僕の背後を見た。僕が蕁麻疹の過去を思い浮かべたのと同時に。やはり彼女には何かが見えるのか?)
「魚は嫌いですか?」
「いや。魚を食べるのがすごく久しぶりなんだ。子供の頃にニシンで蕁麻疹ができたものだから、家族と料理人が怖がってね」
「白身の魚でもだめでしょうか」
「わからない。少し食べて様子を見るよ」
ニナが止める前にひと口食べた。そのあとは豆や芋を食べて様子を見た。ニナも魚を食べずにいる。二人で時間をかけて豆と芋を食べ、パンも食べて様子を見たが、何も起きなかった。
「白身の魚なら蕁麻疹は出ないようだ。魚もいただくよ。冷めてしまったね。悪かった」
「気にしないでください。他にも受け付けない食材があったら教えてほしいです。それより、もし体調が悪くなったらどうするつもりだったんですか。近所に病院があるかどうかもわからないのに」
「他の食材は問題ないよ。病院は車で数分のところにある。引っ越しする前に調べた。それより、ニナに聞きたいことがあるんだ」
「なんでしょう? お魚、オーブンで温め直しますね」
「僕の背後に何が見えるの?」
両手に魚の皿を持って背中を向けたまま、ニナの動きが止まった。
「何かが見えるんだよね? 初日にスープを勧めてくれた時、僕の後ろを見て驚いていた。それからは僕が食事をするたびに、いつも背後をチラリと見てホッとしている。今もそうだった」
「ええと……それは……」
「君の目に何が見えているのか知りたいんだ。教えてほしい。すごく興味がある」
ニナがやたらゆっくりオーブンに魚を入れ、ぎこちない動作でレクスを振り返った。
「私が何を見ているかを知ったら、レクスさんは怒るか不快に思うんじゃないかしら」
「絶対に怒ったりしないよ。不快にも思わないと思う」
ニナは答えず考え込んでいる。魚が温まって、ニナはミトンをはめた手で、お互いの前に魚料理の皿を置いた。
「本当に怒らないんですね? それなら嘘はつきたくないからお話しします」
レクスの目にはニナが少し怯えているように見えた。