102 私たちの第二章
もう一度、伯爵様の手を挟んだ。倒れる前まで記憶をさかのぼると、酷い頭痛に不安を感じている記憶があった。鎮痛薬を飲んでベッドに横になり、伯爵様は後悔している。
『レクセンティウスが家に寄りつかないのは私のせいだ。フローレンスは私を恨んでいるに違いない。自分は厳しいばかりの父を嫌っていたのに、気がついたら父と同じことを言い、同じ横暴な態度を取っている』
『フローレンスにもっと優しくしてやりたいのに、なぜ私は……』
もっと記憶をさかのぼると、子供時代、青年時代の伯爵様が、その父親から「役立たず」とか「無能なやつめ」と罵られていた。傷ついているのに泣くこともできず、部屋に閉じこもって床の模様を眺めて過ごしている子供時代の伯爵様。
これは当人の了解なしには話せない。いくら奥様が許可すると言っても、話してはいけない内容だ。
奥様に「どうでしたか? 私にできることはありましたか?」と尋ねられた。
「奥様への願いごとは見当たりません。伯爵様は『フローレンスにもっと優しくしてやりたいのに』と後悔していらっしゃいました」
「そう……」
フローレンス様はそっと手を伸ばし、伯爵様の乱れた前髪を指で整えた。
「あなたが不器用なことなんて、私はとっくに知っていたわ。レクセンティウスに申し訳ないと思っていることも、わかっていた。レオポルド、目を覚まして。私を一人にしないでよ」
フローレンス様の声が痛々しくて、聞いているだけで胸が痛い。レクスさんがフローレンス様の反対側から話しかけた。
「父上、目を開けてください。僕は父上に言いたいことがたくさんあるんです。今まで父上に言えなかった文句も、感謝も、ちゃんと聞いてくださいよ」
マクシミリアン様が「くっ」と喉から声を出して、目を潤ませている。
そこへ侍女服姿の女性がやってきた。手に赤い包み紙の小箱を持っている。
「机の二番目の引き出しから持って参りました」
「ありがとう。助かったよ」
レクスさんが包み紙を剥がして箱を開けると、青い文字盤の腕時計が入っていた。フローレンス様が時計を見て息をのんだ。
フローレンス様は小声で「驚きだわ。ニナさんは本当にこんなことまで見えるのね」とつぶやいた。
レクスさんがその腕時計を伯爵様に握らせた。
「父上、この腕時計を僕に贈ってくれるんでしょう? ちゃんと父上から渡してください」
そう言ってレクスさんは、両手で握った伯爵様の手に額をくっつけた。
私はフレッド君がお城で待っているからそこで帰った。学校に入学した時点で、ジェシカさんはウィリアム様にお返ししたのだ。
バスに揺られながら、しみじみと自分の手を見た。
他人の喜びも、苦しみも、憎しみも、後悔も、読み取ることができる私の手。この能力を持って生まれてきてよかった。伯爵様の後悔を、フローレンス様とレクスさんに伝えられてよかった。
あとは伯爵様が目を覚ましてくださることを祈ろう。全力で祈ろう。
アシャール城前のバス停で降り、郵便受けを覗いた。アナベル様からフレッド君に手紙が届いている。この二年間、欠かさず週に一度のペースで手紙が届く。最初こそ「手紙の返事が早すぎる」と言っていたフレッド君も、最近では楽しみに返事を書いているようだ。
「ただいま。フレッド君、時間旅行はいよいよ明日ね」
「うん。オレ、博覧会でお菓子を買って食べるんだ」
「買ってもいいの?」
「いいよって、スパイクさんが言ってた。でも周りの人に話しかけちゃだめって。そうだ、大師匠に習った火魔法を見るか?」
「見たい。ぜひぜひ見せてほしい」
フレッド君は居間の中央に立ち、肘を曲げて両手のひらを上に向けた。小声で呪文をつぶやくと、その手のひらの上に一匹ずつ炎のネズミが現れた。二匹のネズミは体が炎そのもので、向こう側が透けて見える。
「すごい。熱くないの?」
「全然。大師匠は竜でもワシでもペンギンでもいいって言ったけど、オレはこのネズミを気に入っている。かっこいいだろ?」
「かっこいい。フレッド君は天才だわ」
「よせやい。照れるだろ」
レクスさんから連絡はなくて、どうなったかなあと思いながらフレッド君と二人で夕食を食べた。
交代でシャワーを浴びてフレッド君が眠った。私は起きてレクスさんの帰りを待っていると、レクスさんの車が戻ってきた。勢いよくドアが開き、階段を駆け上がってくる足音が聞こえる。悪い予感しかしなくて構えていたら、ドアを強くノックされた。私はドアに飛びつくようにして開けた。
「ニナ、病院まで来てくれる? 父上の意識が戻ったんだ」
車を運転しながらレクスさんが「峠は越したらしい。よかった。ホッとした」と言う。レクスさんと伯爵様が関係を修復する時間はあるらしい。よかった。本当によかった。
病室に着くと、伯爵様は目を開けていた。レクスさんに「上手くしゃべれないらしいんだ。父上の心を読んでくれないだろうか」と頼まれた。
伯爵様の手に触れた。私の中に流れ込んできた伯爵様の心の声は、記憶ではなく今現在の思考だった。それも私に向かっての、心の声。
『レクセンティウスと仲良く暮らしてくれ。君に息子を託す』
「全力でレクスさんを大切にします。でも伯爵様、お元気になって直接レクスさんにも話しかけてください」
『私は話せるようになるのだろうか』
「大丈夫です。必ず回復して話せるようになります」
このやり取りをレクスさんに伝えると、レクスさんもフローレンス様も、マクシミリアン様も涙ぐんだ。
看護師さんが入って来て、「今日はもうお帰り下さい。患者さんが疲れてしまいますよ」と言われた。居合わせた全員が帰ろうとしていたら、フローレンス様に呼び止められた。
「ニナさん」
「はい」
フローレンス様が私をそっと抱き締めてくれた。
「今日はありがとう。そしてこれからも、どうぞよろしくね」
「はい。はい。こちらこそよろしくお願いします」
◇
それから半年。私とレクスさんは今日、結婚した。式が執り行われたのはローゼンタール家のホール。
伯爵様は杖をついての参加で、自分の足で歩けるまでに快復した。
式が始まる前、レクスさんと伯爵様が笑顔で会話をしているところを見ていたら、笑うと二人がよく似ていることに気がついた。
レクスさんにそう伝えたら「そう……笑うと似ているのか。今まで気づかなかったし、言われたこともなかったよ。僕と父上は長年、相手の笑顔を見ないような関係だったからね」と苦笑している。
今まではそうだったろうけれど、これからは違う。
伯爵様はまだ歩けなかった回復期、お見舞いにうかがった私に向かって、「これで人生が終わるんだろうなと覚悟したときの、あの後悔のつらさは……二度と経験したくないものだった」とおっしゃった。
伯爵様は変わられたのだ。
厳かな雰囲気で結婚式が終わり、今は広いお庭で結婚披露パーティーをしている。
ワインを飲んでほんのり酔っているラングリナ師匠が、「フレッド、なにか祝いの魔法を披露できるかい?」と声をかけた。スーツに蝶ネクタイでおめかししているフレッド君は、「よっしゃ! 見てて!」と張り切った。
(あっ、ちょっと不安)と思った私は勘が働いたんだと思う。
フレッド君が空を見上げながら両手を大きく回し、「来い!」と叫ぶ。
参加者たちが頭上を見上げ動揺した。「きゃあっ」と悲鳴を上げた女性もいる。私もギョッとした。
私たちの頭上に、全長数十メートルの巨大なクジラが登場したのだ。クジラは白い腹を見せて、悠々と空中を泳いでいる。
「ニナ、これは俺が今一番好きなやつだぜ!」
「そ、そっか。今は鯨が一番なのね?」
「うん! ペンペンは一番とかじゃない。ニナとレクスと同じ、俺の家族だからな!」
そう言ってフレッド君は、前歯が抜けた笑顔で笑う。レクスさんもお義父様も師匠も笑っている。
驚いていた参加者の皆さんも、少し遅れてやっと笑顔になってくれた。
ウィリアムさんが呼んだカメラマンは、フラッシュを光らせてクジラを撮影している。ウィリアムさんは人気作家であるレクスさんの結婚式の話を雑誌に載せるらしい。
私はレクスさんと手をつないで鯨を見上げた。
古城で暮らす私たちは、それぞれが思いがけない形でここに住み始めた。
親のことでひそかに傷ついてきた私たち三人の、ここまでが第一章。
今日から始まる第二章で、どんな物語が展開するのか、とても楽しみだ。
◇
そうそう、フレッド君の博覧会の感想はひとつだけだった。
「お菓子の味がどれもイマイチだった。オレは昔のお菓子より、今のお菓子の方が好きだぜ」
これだけ。
「他の感想? んんん、特にないぜ」と答えて、土産話をとても楽しみにしていたレクスさんをがっかりさせていた。
✁┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
本章はここで完結です。下の☆☆☆☆☆で評価していただけるととても嬉しく、後日談へのモチベになります。
しばらくお休みをして、余裕のある時に後日談を書こうと思っています。
フレッド君が子供のときの話を続けるか、若者になってからの話(数年後)を書くか、悩み中です。
ではまた。 守雨





