101 レオポルド・ローゼンタール
アシャール城に帰ると、「おかえり!」とフレッド君が出迎えてくれた。
「ただいま。今日はお友達と遊ばないの?」
「歯がグラグラしてて、気になる。遊びたくない」
「今日くらいには抜けるんじゃない?」
「そう願いたいぜ」
大人びた返しをして、フレッド君は台所へ向かう。おなかが空いているのだろう。彼は今、下の前歯二本と上の前歯一本が抜けていて、発音しにくそうだ。
去年、まず下の前歯が二本立て続けに抜け、やっと永久歯が顔を覗かせたところで上の前歯が一本抜けた。この歯が抜ける前のグラグラ動く期間が「すっげえイライラする!」のだそうで、万事におおらかなフレッド君の意外な一面を見た。
テーブルに買ってきたスコーンを並べて、フレッド君にはミルクティーを淹れた。前歯を使いたくないフレッド君は、スコーンをフォークで小さくしてから口に運んでいる。
「師匠がね、フレッド君に魔法の指導をしたいそうなの。週に二回か三回。もしフレッド君が指導を受けるなら、クローディアさんが車で学校にお迎えに行って、帰りはここまで送ってくれるそうよ」
「いいぜ。師匠に教わる。ここでニナと一緒に暮らせるなら、魔法を誰に教わってもいい」
迷うことなく了承されて、肩透かしをくらった気分だ。フレッド君は小さくしたスコーンを奥歯で慎重に噛みながらチラリと私を見て、「心配すんなよ」と言う。
「心配はしてないわ。師匠に教わったほうが確実だもの」
「そうじゃねえって。俺が誰に魔法を教わっても、俺の母ちゃんはニナのままなんだろ? だったらそれでいい。他はどうでもいいよ。このスコーン、うめえな。また買ってきてくれよ」
「うん、わかった。それとね、今朝フレッド君が登校した後で担任の先生から電話があったわ。あなた授業中にノートを書かないそうね。なんで?」
「あー、それか」
ちょうどそこにレクスさんが帰ってきた。今日はアーネストビルディングに入っている書店でサイン会があったはず。レクスさんを見てフレッド君は少し気まずそうな顔になったが、正直に理由を話してくれた。
フレッド君は最初こそ真面目に黒板の内容をノートに書き写していたらしいが、「一回書けば覚えんのに、五回も六回も書けって言うからさ。面倒くせえなって……」という理由だった。
レクスさんは自分でコーヒーを淹れていたが「なるほどね」と小声で漏らした。
「本当にフレッドが一回書いたり聞いたりするだけで覚えるなら、僕は書かないという選択もありだと思う。だけど担任の先生にしてみれば、クラスに五十人近くも子供がいるんだ。生徒全員に同じことをやってほしいと思うのは自然だよ。一人一人の能力に合わせて指導しろと要求したら、担任の先生が大変すぎる」
「俺が先生の……都合っていうんだっけ? それに合わせんのか?」
「フレッドの心に余裕があるならそうすべきでは? たださぼっているだけと思われてニナに電話がくるよりいいと思うが」
「ああ、なるほどな。わかった。明日からは先生の言うとおりにするよ」
いや待って。説得も納得も、方向が違う気がするわ。でも男子二人がうんうんと納得しているし、今後はノートをちゃんと書くという結論になったからいいのか?
フレッド君が初等学校に通うようになってからわかったのだが、彼はものすごく頭が良かった。学校に行く前から読み書きの覚えが早いなとは思っていたが、入学してからはっきりした。とにかく理解が速い。
最近はレクスさんの書棚から本を借りるようになって、ずいぶん難しい本も読むようになった。
「そうだ、スパイクが昔の『ハクランカイ』ってのに連れていってくれるんだ。しかも無料! すげえだろ!」
「それはまさか、百五十年前の博覧会のことかい? なんでそうなったんだ?」
「インタビューはもう嫌だって言ったんだ。『魔法を使えるって、どんな気持ち?』とか同じことばっか聞かれるからもう飽きた。そしたら、インタビューを受けてくれたら時間旅行に連れて行ってやるって。ハクランカイに一時間いられるんだってさ!」
たしか二十分の時間旅行でも目の玉が飛び出るような金額だったはず。それを一時間? レクスさんはとてもわかりやすく羨ましそうな顔をしている。見てきたことを聞かせてほしいとフレッド君に頼んでいて、無邪気な少年みたいだ。
夜、いつものように二人だけのおしゃべりの時間になった。互いに忙しい身の上になってからは、具合が悪くない限り二人でおしゃべりをする。最近は結婚をどうするという話題が多い。
「父が反対していても関係ないよ。もう学費は全額返したし、別々に暮らしている。僕たちはもう二十七歳だよ? 親の意見を気にする必要はないよ」
「ん-……、それはそのとおりなんですけど」
私は他人だしこのままローゼンタール家との縁がなくなっても別に困らない。
だけどレクスさんは父親の反対を押し切って私と結婚すれば、今以上に顔を合わせにくくなるだろう。今だって月に一度の食事会でしか実家に帰らず、食事を済ませるとさっさとアシャール城に戻る。
師匠の骨折で思ったけれど、離れて住んでいると相手の老いに気づかない。五十を過ぎたらいつなにが起きてもおかしくない。レオポルド・ローゼンタール伯爵は、もう五十九歳だ。
この先の後悔を生むようなことをしてほしくない。レクスさんとお父様の間に挟まれたお母様も気の毒だ。お母様はきっと、レクスさんにもっと会って話をしたいのではないか。
はっきりした結論が出ないまま事実婚のような状態で二年が過ぎてしまっている。
そんな状態のアシャール城に今日、マクシミリアン様から電話がかかってきた。レクスさんのお父様がお屋敷の中で意識を失って倒れたという。
レクスさんと私は教えてもらった大きな病院に駆けつけた。病室には憔悴した様子のお母様とマクシミリアン様がいて、お父様は眠っていた。
お母様が「来てくれてありがとう」とか「どうなるのか不安なの」と言っている間も、レクスさんは無言で立ち尽くしている。マクシミリアン様が「父上、レクセンティウスが来ましたよ」と声をかけると、お父様の瞼がピクリと動いた。
マクシミリアン様がレクスさんを振り返って、「聞こえているんだろうか」と自信なさそうにつぶやいた。するとレクスさんが枕元に顔を近づけて怒ったような声で話しかけた。
「父上、レクセンティウスです。しっかりしてください。母上を一人にするおつもりですか!」
お母様が「うっ」と呻いて顔を覆った。肩が震えている。
「あの、私がお父様に触れてもよろしいでしょうか。触れることができれば、意識があるのかどうか知ることができます」
マクシミリアン様は私の力を知っているけれど、お母様はおそらく噂でしか私のことを知らないだろう。失礼を承知でお願いしたら、マクシミリアン様が「頼むよ」と了承してくださった。お母様は困惑した表情で何もおっしゃらない。
「失礼します」とお母様に会釈をして、薄いかけ布団の上に置かれているお父様の左手を両手で挟んだ。そして見える記憶を声に出して伝えた。
昨夜、書斎で酷い頭痛に襲われたこと。危険を感じたが、椅子から崩れ落ちた後はもう動けず、大きな声も出せなかったこと。お母様のことを心配したこと。そして孫たちにもう会えないかもと思ったこと。薄れゆく意識の中で、レクスさんを思い浮かべたこと。そして……。
「お父様はレクスさんにお祝いの腕時計を渡したいと思いながら渡せずにいたようです。今年の一冊に選ばれたときに……青い文字盤の腕時計を買って、そのうち渡そうとしていました。でもお祝いを贈るなら、レクスさんの小説を暖炉で燃やしたことを謝らなければと思っても謝れず、机の上から二番目の引き出しに入れたままです。赤い包み紙の小箱です」
「父上……」
「倒れて動けない時に『それを渡したい。おめでとうと言いたい』と思った記憶までは見えました。今も耳は聞こえています。お母様がこの病室で泣いていらっしゃるのを聞いて、『泣かないでくれ』と思っていました」
「使用人に電話してくる。上から二番目の引き出し、赤い包み紙、だね。それを持ってきてもらう」
「ぜひそうしてください」
レクスさんが早足で出て行き、私が立ち上がろうとすると、お母様が「待って」と言って私の腕に手を置いた。
「私にできることはないの? レオポルドが私に望んでいることがあるなら、それを知りたいの」
「伯爵様の記憶をさかのぼって見ることになりますが、よろしいのですか?」
するとお母様は泣き腫らしたお顔でうなずいた。
「いいわ。妻の私が許可します。それにあなたは、レクスの未来の花嫁だもの」