100 小さな交流と師匠の願い
レクスさんに「フレッドのことは僕に任せて、いつも通り仕事に行ったほうがいい」と言われて出勤し、夕方早めに帰宅した。
フレッド君がしゃべらない静かな夕食を終えて眠ってから、レクスさんがアナベル様からの手紙について話をしてくれた。アナベル様は古参の魔法使いの弟子になったものの、師匠の家に住み込んで教えを乞う形はとらないらしい。
貴族に魔力持ちが生まれた場合、例外的に師匠が通う場合があるのは聞いたことがある。
「アナベル様は氷魔法に才能があったらしい。それが嬉しくて手紙を書いてきたんだ。フレッドが読めない単語を聞きに来たから読んでやったんだけど……フレッドは焦ったんだろうね。僕の不注意だ。本当にうかつだった」
「子供って、何をしでかすかわからなくて怖いと思いました。でもフレッド君はもう同じ失敗はしないと思うんです。賢い子ですから」
レクスさんは黙り込んでいる。子供を育てるのは難しいと思っているのだろうか。私はそう思っている。
だが、フレッド君はこの日を境に変わった。魔法の練習に関してとても慎重になったから、それを寝かしつけながら褒めた。
「フレッド君はすっかりお兄さんになったわね。もう、隠れて魔法を使わないことにしたのね?」
「うん。オレがしんだら、ニナとレクスがかなしむだろ?」
「そうね。本当のお母さんも悲しむわね」
「うん。だからオレ、ぜったいにやくそくをまもる」
この子は賢いからお母さんに会いたいとは言わないけれど、フレッド君の心には、いつもお母さんがいるんだと思う。フレッド君がかっこよくていじらしくて、ほっぺにチューッとした。フレッド君は「なんだよぉ、やめろよぉ」と言いながら笑っている。
この笑顔を守りながらこの子を育てる。私は固く決意した。
氷魔法事件からしばらくして、私は王家から依頼を受けた。マイヨールによって操作された美術館職員の記憶から、偽の記憶を取り出す仕事だ。マイヨールの有罪が決まり、彼は二十年の禁固刑が決まった。彼の年齢からすれば終身刑も同様の刑期だ。
そのマイヨールから、月に一度くらいの割合で手紙が来る。同じ能力を持つ私に、同族意識のようなものを持っているのだと思う。
レクスさんは私がマイヨールに関わることを歓迎していないが、私は両親の存在を教えてくれた彼に少し感謝している。
◇
フレッド君が氷魔法で失敗した秋の日から二年が過ぎた。
フレッド君はわずか七歳にして火魔法、水魔法、氷魔法、植物魔法の使い手になった。彼は今や魔法協会の顔だ。
スパイクさんは魔法使いに対する世間の意識を変えることにした。「時代遅れの特殊能力者」「実在が疑われる存在」から「優れた能力を持つ社会に有用な存在」と世間に訴えることにしたのだ。
雑誌や新聞にフレッド君の愛らしい笑顔の写真が載ることも多い。
レクスさんは毎年「今年の一冊」に選ばれ続け、王子様みたいな外見と学者兼投資家兼小説家という肩書で話題の的だ。
そして私の立場も大きく変わった。この私が魔法協会の副会長に就任したのだ。
かつて魔法協会の理事たちが当時の会長と共に理事を辞職した際、年配の魔女が副会長を務めたのだが「後進の育成に専念したい」と申し出て辞職し、スパイクさんが私を指名した。
恐ろしいことに私もたまに新聞や雑誌のインタビューを受ける。おかげで失せ物探しと恋占いの店は、一ヶ月待ちの大繁盛になっている。
魔法使いと認定されたベンジャミン君のところには、毎日のように「自分に魔力があるかどうか鑑定してほしい」という依頼が来ているそうだ。
私は今日、マイヨールのいる刑務所へ面会に来た。
「私のことを門前払いした魔法協会が、基礎魔法を使えない人間を認定するようになったんだな」
「ええ。おかげで絶滅寸前だった魔法使いは、一挙に四倍増だから。いい方針転換だったと思う」
「あんたは運がよかったな」
そう言うマイヨールを黙って見返すと、彼は視線を逸らした。
「今日はどんな本を持ってきてくれたんだい? 本を持ってきてくれたんだろう?」
「ええ。あなたが好きそうな古代の美術品についての本を」
そう言って手提げから大型の本を取り出し、仕切りのすき間から向こう側へと滑らせた。荷物検査は済ませてある。マイヨールは顔を輝かせるとさっそく本を開いた。
「これは素晴らしい。最近出た本だな? ありがとう。これでしばらくは退屈に苦しまなくて済む。まだ刑期が残り十八年あるからなぁ。あんたの差し入れだけが生きる楽しみだ。そういやあんた、魔法協会の副会長になったらしいな」
「ええ。私が副会長だと特殊能力のみの能力者が申請しやすくなる、というスパイクさんの判断なの」
マイヨールは無言でうなずき、目は美術の本に向けられている。
これまで当人から聞いた話では、彼に師匠はいないそうだ。孤独に生き、魔法協会という同族から能力を否定された人。恋人に暴力を振るった以上孤独なのは自業自得だけれど、彼を哀れだなと思う私だってマイヨールと同じ経験をしていたらどうなっていたか。
師匠に救われなくても今と同じ気持ちで生きていたかは怪しい。マイヨールを「この人は悪人だから」と切り捨てるのは簡単だけど、私にそんな資格があるのか。そんなに私は清いのか。
正直わからない。私の心の中に悪意の芽が全くないとは断言できない。
たくさんの人の記憶を見続けた結果、人の心が何をきっかけに黒く染まるのかは誰にもわからないと思っている。大人しそうなお嬢さんの心に邪悪な思いが潜んでいることも、偏屈な人が困っている人に長年手を差し伸べていることも知っている。上っ面だけで人の本音は判断できない。
「そろそろ帰るわ。今日は師匠が仕事でパロムシティに来るの」
「俺の能力を消したあの人か。元気にしているんだな」
「ええ」
「あの人に伝えてくれ。『能力を消されたことを恨んでいる。だが、それ以上に感謝もしている』と」
「後半だけ伝えておきます。じゃ」
「また来てくれるかい?」
「たぶん」
これからクローディアさんのお屋敷で食事をする。有名なレストランのケータリングを予約しているのだそうだ。どんなご馳走が出るのか楽しみだ。
「こんにちは。お邪魔します。師匠! お久しぶりです!」
「ニナ。元気そうだね。副会長の就任おめでとう」
「お祝いのナスタチュームをありがとうございました。またペンダントにして身につけています。ほら」
笑顔でペンダントを見せながら、私は内心驚いている。師匠が急に老け込んでいた。知らせの鳥で話は聞いていたが、師匠は二ヶ月ほど前に家の中で転んで骨折した。
自分で使える手段は全部使ったらしいが、持っている魔力を放出して自分に使えば、効果がないわけではないが、他の人に使うより効果は出にくい。
師匠は骨折が治るまで私に何も言わなかった。村の人たちに交代で助けてもらっていたらしい。
クローディアさんが冷たい炭酸水のグラスを掲げた。
「さあ、食事にしましょう。午後になったらフレッドが帰ってくるんでしょう? ここのケータリングは評判がいいのよ」
「美味しそうです! アルフィーさんは?」
「彼は映画の撮影に参加していて、今は国外にいるわ」
魔法協会が積極的に魔法使いの存在を世に知らせるようになって、アルフィーさんは仕事を替えた。映画界の特殊効果を担当しているらしい。今はあちこちから引っ張りだこだ。
豪華で美味しい昼食を食べていたら、クローディアさんが「師匠にお話があります」と言って姿勢を正した。師匠は返事をしなかったが、食事の手を止めた。
「師匠、私の家に引っ越して一緒に暮らしていただけませんか。もう一人暮らしは危険です。同じ家に人がいれば防げることも、あの家で一人だと防げません。お願いします、うんと言ってください」
ええ? それならアシャール城で私と、と言いたかったがクローディアさんに先手を打たれた。
「ニナ、あなたは店を構えて外で働いている。副会長の仕事もある。フレッドの指導もある。いずれ自分の子を産んで育てる未来もある。師匠を見守るのは無理だわ」
「……ええ、クローディアさんのおっしゃる通りです」
師匠は少し悲し気な笑みを浮かべていたが、クローディアさんに顔を向けた。
「わかった。世話になるよ。面倒をかけるけれど、よろしくお願いする」
「ああ、よかった! 師匠、仕事ならパロムシティにいくらでもあります。暇を持て余すことなんてありませんから」
「いや、私ができる仕事はクローディアにもできるだろう。私はフレッドを指導したい。週に二度、状況によっては三度、あの子に魔法を教えたいんだ。ニナ、フレッドの答え次第だが、それでもいいかい?」
寂しい。私があの子を指導したい。そう思う気持ちはあるが、フレッド君のためには間違いなく師匠が指導したほうがいい。
「もちろんです、師匠。フレッド君をよろしくお願いします」
「ありがとう、ニナ。フレッドは最後の弟子になるだろう。私が知っていることは全て教えるから」
「楽しみにしています」
「じゃあ、フレッドの学校帰りに私が車に乗せて、ここに連れてくる。帰りはアシャール城まで送り届けるわ」
話がとんとん拍子に進んだ。あとはフレッド君がどう答えるかだ。





