空を見上げる人々
血みどろの戦場から、金髪の少女が空を眺めている。辺りを埋め尽くす死体や打ち崩された城を燃やす炎がユラユラと少女の髪へ手を伸ばしても意に介さない。ただ、これ見よがしに瞬く星の一つを掴んでやろうと手を伸ばしては空を切る動きを繰り返している。
あれもダメ、これもダメ。少女は目に見えるものを何一つ手に入れられない歯痒さに食い縛る。
「あそこに行けば届く。あの星と同じ、黒い海を泳ぐ力さえあれば」
けれども少女はすでに知っていた。
どんなに大きな力を手に入れようと、どんなに美しい純白の翼を手に入れようと、呪われた運命から逃れることだけは叶わない。今ここに立っている自分の姿が、生涯を余すことなく描いているのだと。
「それでも……」
少女は夢を見る。炎が髪に燃え移り、激情を誘おうとも。束の間の安らぎを求めて小さな手は伸びる。
炎は、そんないじらしい手を呑み込んで笑う。
花は摘まれるために咲くのだと嘲る。
少女は炎に巻かれて息絶えた。それは、誰の目にも明らかに見えた――――
万物に活気を注ぐ太陽が頂点で腰を下ろし、昼休憩を取る正午。人々が都心を賑やかにしている最中、まるで奴隷にあてがわれたかのようなみすぼらしい家屋に一人の黒髪の乙女が横たわっていた。
囚われの乙女はどんな扱いを受けても清らかであろうと規則的で楚々とした寝息を立てている。そう、たとえ彼女の周りに無数の酒瓶が転がっていようと――――
「……うに?!」
不意に、毛に張りをなくした極太の歯ブラシが唇をこじ開けて歯茎の上を滑っていった。
……とは言いえ、こうやって起こされるのは一度や二度のことじゃない。
奴は事あるごとに憂さ晴らしのように私の顔を踏みつけていく。わざわざ目覚まし時計を止めてまで私の爽やかな目覚めを妨げることに執念を燃やしている。
まあ大抵、悪いのは私の方なんだけど。
奴はまるで銃口のごとく歯ブラシを口に突っ込んだまま寝起きの女の子に優しい軽快な尋問を始める。
「”おはよう”などと寝惚けたことは言ってくれるな。イエスかノーで答えろ。この空き瓶の山は昨晩、お前一人で築いたものだな?」
ラベルの違う750mlの空き瓶7本が可憐な眠り姫を見守る小人たちのようにベッドの周りに転がっている。姫の他に人影はおろか、猫の姿一つない。
言い逃れできる要素はなく、する必要もない。なぜなら、今私が抱きしめている1本も含め、彼らと過ごした素敵な一夜はどんな邪悪も寄せ付けない夢のようなひと時だったのだからっ!
「…ひ、ひゃい…、おいひくいひゃひゃきまひた」
「ファッキュー!!どうやって見つけ出した!お前の目から逃れるためだけに大枚はたいて特殊なワインセラーまで造ったんだぞ!?」
呆れ返る空き瓶の持ち主は悪態を吐きながら歯ブラシを引き抜くと、追撃とばかりにフサフサの尻尾で私の鼻を執拗に撫でまわした。
「は、は……、へぁっくしゅんぁっ!!」
全神経を集中してするくしゃみは爽快で清々しい目覚めにはもってこいだけど、代償としてしばらく視界にチラチラと現れるお星さまと戯れなきゃならない。あとは鼻から勢いよくバンジージャンプする奴を引き留めるのも忘れるべきじゃない。洗い物を増やしたくなければ。
「目は覚めたか、お姫様?」
「……うん…ずびっ……」
壁がベニヤ板なこともあって、冬場は真昼間でも冷え込みがヤバい。
重量級の鼻水くんの救出に辛うじて成功し、口の中で抜けた歯ブラシの毛を取っていると、少しも気が晴れないというような太々しい視線をくれる白いデブ猫がモーニングコールのおかわりをかましてきた。
「そうか、取り敢えずこの件は後回しにしてやる。それよりも早く支度しろ。きり江から出頭命令が出てるからな」
「え、ママが?アタシ何か悪い事したっけ?」
「心当たりがないか?例えば相方に仕事を押し付け、自分は自宅で相棒が苦心して取り寄せた高級ワインたちを一晩で空にしてくれたとか。おい、美味しかったか?」
「……そうは言うけど、そんな大した仕事じゃなかったでしょ?アンタも楽しんでたじゃん。ホワイトデビル様?」
「やめろっ!アレはアレ、コレはコレだ!俺の秘蔵っ子たちを奪ってくれた上にささやかな趣味までバカにしようというなら、その喉笛噛み切って盗られたものを返してもらうぞ!」
さながら凶悪な吸血鬼みたく牙を剥き出しにし、短い足を精一杯伸ばして威嚇の姿勢を見せつけるけれど、不格好というかなんと言うか。むしろ、煽ってくださいと言っているように見えてつい……
「だいぶブレンドされてるけどそれでも良ければ……おっと」
バネ仕掛けのオモチャのように繰り出される右フックを軽くいなし、追撃を喰らわないよう散らかった空き瓶を巻き込みながら転がり起きた。
「へへ、今さらアンタのパンチなんかがアタシに当たるわけないじゃん」
「ふん、寝起きでその身のこなしは褒めてやる。だがそれで俺はやり過ごせても、きり江はどうかな?アイツとの約束はもう一時間を切ってるぞ?」
デブ猫ことパンタグラフは自信たっぷりに言い放ち、「俺は初めからこれを狙っていたんだよ」と言わんばかりの安っぽい悪党の笑みを浮かべてみせた。
「なんでもっと早く言わないのよ!」
「そんなこと言ってくれるなよ。あんなに気持ち良さそうに寝ていたんだ。俺なりの優しさを示してやったんだろうが」
「ねえ、この前買ったパンツどこやったっけ!?」
だらしない格好で必死に汚部屋を引っ掻きまわす姿はさながら空き巣のようで実に滑稽だ。年長者を敬わない愚か者にはお似合いの末路とも言ってやれる。
……それはさておき、職場に行くだけなのになぜ勝負下着なんだ?
「さあな。だから日ごろから整理整頓を心掛けろと言っているんだ。それとも毎日の宝探しが退屈な日々に刺激を与えてくれるとでも?どれ、俺も一つ手を貸してやろう」
「あ、こら、テメエ!」
一週間のローテーションが層になった洗濯物の中に頭を突っ込み、前足で勢いよく掘り進む。進めど進めど俺の欲望を満たしてくれるものなんてある訳ないのだが、このそこはかとなく暗く柔らかい場所に身を置く感じは……ふむ、悪くない。
「真面目に探せよ!遅刻して怒られる時はアンタも一緒なんだからね!」
「……はあ、お前を反省させるのは本当に骨が折れるな。あの女の娘だとつくづく実感するよ。ほら、お探しのものはこれだろ?」
俺は意図せず掘り当ててしまった布切れを尻尾で釣り上げて渡した。
性根の曲がった母親を持つと、娘の躾けは果てしなく面倒で毎日が頭痛と試行錯誤との闘いだ。
それで最終的に俺まで甘やかしてしまうから何も進展しない。
その後も俺は目一杯、コイツを甘やかしてしまった。栄養満点の朝食をサービスすることから始まり、ヘアセット、メイク、耳掃除、尻尾のマッサージなどなど。プロ顔負けのスキルを見せつけ、たっぷり二時間かけてやった。
「……」
「覚悟は決まったか?」
「黙れ」
俺が面倒をみている小娘、柊和子10才は、猫派の治安を守る立派な警察官なのだった。
ネオ・コロニー・カンタービレ、通称「ネコ缶」。
例外なくこの宇宙の神秘であるはずの天体の一つに、そんなふざけた名前を付けた奴らがいた。
おおよそ100年前、新たなエネルギー資源を求めて旅立ったという太陽系第三惑星地球出身の宇宙人、それが「彼ら」だ。
彼らは原因不明の機械トラブルでやむなくこの不毛の地に降り立ったが、その頃のネコ缶に生命はなく、食料になる有機物もなかった。しかし彼らはそんな過酷な環境下でも紆余曲折を経て、見事この星特有のエネルギー物質「マタタビ」を発掘、活用することに成功する。
ところが、マタタビの発する放射線はまるで彼らの来訪を拒むかのように命を蝕み、脅かした。
「我々はすぐにでも全滅する」
そんな悪夢が彼らを極限状態まで追いやった。
彼らは持ち前のアンドロイド技術、クローン技術を駆使し、またしても奇跡を起こしてみせたのだ。
彼らはマタタビに適応した体を手に入れ、勢いのまま、この星に簡易的な「地球」を再現するような文明までもたらした。
文明の誕生からたった100年で、ここまで爆発的な発展を遂げた星など他にあるまい。
それだけが唯一「ネコ缶人」として誇れることと言ってもいいだろう。
「それでもこの星に閉じ込められたままなんだから皮肉だよね」
俺の横を歩くこの、義務教育履修済みの人間は、要領がいいくせに他の人間よりもよっぽど頑固な奴だった。
「まだそんなことを言っているのか?惑星外逃亡の思想は重罪だぞ?だが確かに、今の家よりはブタ箱の方がよっぽど壁が厚く暮らしやすいかもしれんな」
「アタシが、警察なんだけど?」
「もちろん知っているさ」
「……」
文明的にも人口的にも爆発的な進化を遂げたネコ缶だが、人間が活動可能な領域は惑星全体の5分の1程度でしかない。その上、それを3分割にする派閥が存在している。それが猫派、犬派、鼠派。
各勢力が持つ武力には大きな差があるが、各派閥を取り締まるトップが例の地球人の生き残りということもあって、派閥間のいがみ合いは厳しく取り締まられ、一応の秩序は保たれている。
さらに、ネコ缶にはもう一つの大きなタブーが存在する。それが「乗り物の製造」だ。飛行機はおろか、車やバイクなどエンジンを用いる乗り物の一切を禁じている。
生活圏が限られているとはいえ、距離にして数百キロある領土を行き交うには不便に思えるが、その点はクローン技術によって向上した身体能力で補われている。
そして、このタブーの本来の意味は「シールド」からネコ缶人を護ることにある。
それが存在している理由は誰にもわかっていない。だが、ネコ缶の大気圏に寄り添うように存在するそれは、星の外へ脱出しようとするものにあらゆる手段を用いて撃ち落としてくる。光学兵器、重力波、隕石の誘導などなどなんでもござれだ。
こんなものが自然に存在するはずもなく、一部ロマン主義者たちは地球人や他の宇宙人による陰謀論を囁き、反社会的組織をつくっては空を目指そうと問題を起こしてくれる。
その筆頭とも言える過激な組織が、昨晩、俺が仕留めた「象牙の岬」だ。
「何がそんなに悪いんだろうね。人の夢にケチつけるなんてなんか大人げなくない?」
自ら「警察官」などという真逆の職を選んでおきながら時折その気を見せるからこの小娘は本当に油断できない。まだ家で飲んだくれている方が保護者としては安心できる。
とはいえ、俺にヒモ女を養殖する趣味もない。どんなバカになったとしても、自立するだけの能力くらいは身に付けさせてやらないと育てる甲斐がないと言うものだ。
「いいか、ワコ。夢という言葉を安易な盾にするな。これまでお前が捕まえてきたバカ共がなんと言ってお前を罵倒したか忘れた訳じゃあるまい?」
言葉は違えど、奴らは一様に自分を肯定し、その度に夢や理想を掲げて俺たちが苦労して築き上げてきた秩序を気軽に貶してきた。犯罪者にとって、「夢」も「理想」も自己防衛か他人を非難するための隠語でしかないんだ。
「…憶えてるよ。でもさ、人に迷惑さえかけなきゃよくない?それが思いがけず世界を救うことだってあるかもしれないじゃない」
「なるほどな。それは一理あると言っていい。だが、『一理』だ。ワコ君にはその一粒の砂金を見極める力があるのか?だとしたら君も今日から一流の敏腕プロデューサーだな!」
「……ヤな奴」
どんなに捻くれたガキでも怒られれば気分が萎えるし、ムカつく。まさにそんな表情だ。
「ヤな奴結構コケッコー。俺たちの仕事は本来そういう役回りなんだよ」
そんなガキがどうして「警察官」なんて向かない職を選んだのか。それがどれだけ俺をムカつかせるものだったしても、俺はその想いを否定したくない。
なぜなら、そういうところがコイツを護ってやりたい思わせるところでもあるからだ。だからこそ俺はそれをサポートもしなきゃならない。
……「親」ってのは本当に大変な仕事だ。
「お前の思い描く善悪を俺がすべて決めつけることはできん。『夢』という言葉も本来はかけがえのないものだ。お前が職権を濫用し、男の体を触りまくって未来の王子様候補を探すのに余念がないようにな」
「……!?」
思い切り殴られた。元気があることは素晴らしいことだ。願わくば、その元気がこの子の望む夢を成就させてくれることを祈るばかりだ。
黒く太い尻尾に首を絞められ引きずられながら、俺は親の鑑のような自分を密かに褒め称えていた。