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夜のかたすみ

作者: みと

むしゃくしゃしてやった。反省はしていない。

 夜の闇が世界を飲み込んでいた。瑠衣のバイト先の小料理屋は、この辺りで1番遅くまでやっているから、ラストまで入っていると外は真っ暗になってしまう。何度か閉店の作業を手伝ううちに、いつのまにか店長の代わりに1人で閉店の作業を任されるまでになってしまった。瑠衣は、バイト先の裏口にぽつんとついた電球をたよりに靴を履く。スマホを確認すると、高校の時の友人や家族からメッセージが届いていた。お誕生日おめでとう!今年も良い一年になりますように。瑠衣はため息をついて暗闇を見上げる。

「ハッピーバースデー、私」

 小さなつぶやきは誰にも聞こえることはない。本当ならば、彼女たちのメッセージ を心から喜ぶ必要があった。本当ならば、愛のこもったメッセージのひとつひとつに返事を返す必要があった。産んでくれてありがとう、私と仲良くしてくれてありがとう、なんて言葉を返せたならば、もっとよかった。こんな自嘲的な気分になるなんて間違っていた。

 でも、こんな夜は、こんな闇が口をあんぐりと開けて待ち構えているような夜は、どうしようもなく自分がちっぽけになったような気がする。大学に通い先週留学から帰ってきた奈緒も、看護学生で実習が辛いといっていた美和も、みんな優しい。彼女たちはみんな、大学もいかず演劇の道を志した自分をかっこいいと言ってくれるけど、瑠衣はときどき彼女たちが妬ましくなった。つまらない大学の授業も嫌味な実習先の指導係も、耐えた先に確かに積み上げたものが残る。でも、自分が走り続けて、いつか走れなくなった時、振り返った先には何か残っているのだろうか。そんなことを考えないためにも隙間なくスケジュールを詰め込んでいたはずだった。でも、こんな夜は、ふと我にかえってしまう。いま、自分がやっていることに全く意味はなくて、ただただ時間だけが過ぎていっているんじゃないだろうか。夢を必死に追っているはずが実態のない恐怖にいつも追われている。時々それから逃げることが最重要になっていると感じることがあった。

 スマホに新しく通知が入る。それはよく使っているラジオアプリからで、いつもバイト帰りに聞いている番組が始まったようだった。瑠衣は習慣化した動作でイヤホンをしたあと、アプリを開き、番組を再生した。瑠衣が楽しみにしているのは、番組というより番組の中の1コーナーだった。昔売れたらしい、その赤池歩という漫才師のことを、漫才を見ない瑠衣はこのコーナーで初めて知った。彼は時々自分のことを一発屋といったが、頭の回転の速さが伺える軽妙な語り口はいつでも瑠衣を笑わせた。そしてなにより、自分が舞台に上がり光を浴びたときと同じ景色を、彼も見ているということが瑠衣を勇気づけた。それだけで彼にどこか仲間意識を感じていた。彼のラジオを聴くことは、瑠衣にとって日々の唯一とも言える楽しみだった。

「本当にこの人、おもしろいな」

 少し気が晴れた。1人きりの家に帰るのが怖くて座り込んでいた裏口から、立ち上がり歩き出す。まだ番組は続いていて、それを聴くでもなしに歩いて帰る。と、電波が不安定なために雑音が混じるラジオから信じられない言葉が聞こえてきた。今日で赤池歩さんは卒業ということでーー。耳を疑った。ラジオアプリを後ろで流したまま、「赤池歩 卒業」と検索窓に打ち込む。検索結果はそっけなく、今聞いている番組のツイッターしか出てこなかった。公式サイトすらまだ更新されていないし、リスナーと思われるツイートもまだ数えるほどしかない。なぜ。困惑したままの頭はしかし聞き逃さなかった。まあ、舞台もぼちぼちにして、ちょっと実家の方を手伝おうと思っておりまして…… ようやく立ち上がった足から力が抜けていくような気がした。ふらふらと道端に座り込みうずくまっていたが、しばらくするとふつふつと怒りの感情が湧いてきた。なんでそんな簡単に、あっけなく、幕をひけるのか。置いて行かれた私はどうすればいいのだ。

 怒りのまま瑠衣は歩き出していた。幸運なことに終電はまだまだ先だった。電車と地下鉄を乗り継ぎ、我にかえったときには既にラジオ局の入ったビルの下だった。これでは完全に不審者だ。瑠衣は深呼吸で気持ちを落ち着かせた。自販機で彼がいつも収録後に飲んでいると言っていた缶コーヒーを買う。これを渡せばよくいるファンに見えるだろう。落ち着かなかった。彼の写真はラジオ番組の公式ホームページにのっていてみたことはあったが、実際に会うのとはなにか違う気がする。彼がスタッフと連れ立ってビルから出てきた時、数メートル離れた場所にいる瑠衣にさえ空気が変わったのが分かった。瑠衣は彼から目が離せなかった。彼は全く気取っていなかった。でも、彼がいるだけで空気が変わってしまうような何かを持っていた。そしてそれは、瑠衣の毎日には決して存在し得ないような、”自然さ"だった。彼はスタッフに別れを告げるとこちらに歩いてきた。いつものように、缶コーヒーを買いに来たのだろう。瑠衣は深呼吸して、彼の前に立った。

「あの、これ」

 彼は少し驚いたように立ち止まって、瑠衣を見た。迷惑そうなそぶりも嬉しそうなそぶりもなかった。

「今日卒業ってきいて」

 それで全部察したようだった。そっか、ありがとう、わざわざきてくれたんだね、と静かに呟く。その語り口はいつもラジオで聴いている快活なものとは違っていた。しかし、それはやはり彼の声と言葉だった。彼は、コーヒーをうけとりその場で飲みだした。2人で横並びになる。

「それでどうやってここまできたの」

「電車と地下鉄で」

「そんな遠くから」

「あの、私今日誕生日なんです」

 自分でもなにを言っているのかわからなかった。なんの脈絡もない。さすがの彼も一瞬たじろいだが、ふっと笑った。

「じゃあ、僕がもらってちゃダメじゃん」

 おいで、と瑠衣に背を向けて歩き出した。自販機まで来ると、こんなもので申し訳ないけどお祝い、と小銭をいれた。

「好きなのどーぞ」

「あ、はい」

 勢いに押され、ジュースを取ってから慌てた。そんなはずじゃなかった。焦ってお金を返そうとする瑠衣に歩は、いいよ、おめでとう、と笑った。

「ちがうんです、誕生日でいろいろ考えちゃって、私の今まではまちがってたんじゃないかとか」

「ああ」

 彼は苦笑いした。彼も身に覚えがあるのだろうか。

「これから大丈夫かなって。私、演劇やってて、でも全然未来も見えなくて、これから大丈夫なのかなって思って」

 そうか、それは…… 歩は言い淀んだ。簡単に大丈夫と言ってしまえる世界じゃないことは、彼自身も痛いほどわかっているのだろう。何か言おうとしている彼を遮って、瑠衣は続けた。

「でも、あんたの話を聞いてると、大丈夫だと思えるんです。大丈夫じゃなくても大丈夫って」

 あんたって…… 口の端で彼は呟きながら、そっかと微笑んだ。

「だから、ありがとうございました」

 彼は呆けてしまったようだった。瑠衣も自分が最後に伝えた言葉が感謝だったことに戸惑っていた。彼は気を取り直して茶化したように頭を下げた。

「こちらこそありがとう。サインする?」

「じゃあ、一応……」

一応って……とやはり彼は笑いながら、瑠衣が渡したジュースにサインをかいて手渡した。

 気をつけて帰りなね、送ってあげられなくてごめんね、と差し出す。瑠衣は受け取って、それをじっと見つめた。自分はこれであと少し、ラジオがなくてもがんばれるだろう、そんな気がした。

「ありがとうございます。じゃあ」

 彼は壁にもたれ、左手を挙げてひらひらと振った。夜はどこか薄くなってきたようだった。いずれ、彼らにも朝が来て太陽が闇を照らすだろう。

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