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私のことを愛していなかった貴方へ  作者: 矢野りと


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3.聞きたくなかった声

社交界ではカトリーナ・ガザン侯爵夫人の帰国は好意的に受け止められていた。



『麗しの黒薔薇』の美貌は健在どころか磨きが掛かり、その立ち振舞は人々を惹き付けてやまない。


貴族にとって社交界の中心人物との繋がりを持つことは大切な社交だ。

だから男女問わず彼女に積極的に話し掛け、なんとか親しくなろうとしていた。





夜会でもカトリーナは多くの人に囲まれ、一人一人に丁寧に対応している。これではいろいろな疲れを癒やす為に帰国したのに、気が休まるどころか疲れ切ってしまうだろうという有様だった。


だがみな自分こそは彼女の助けになれると思っているのか引く様子はない。



その様子を見兼ねてカトリーナの友人達が動いた。自分達が盾となり彼女に群がる人々を牽制し始めたのである。


その効果はてきめんだった。


彼女を守る友人達とは学園に在学中に生徒会で一緒に活躍していた役員で、爵位が高くみな社交界で一目置かれているような人物だった。


そんな彼らを敵に回したくはないと群がっていた人達は渋々彼女から離れていく。



そしてカトリーナの周りには親しい友人達がいつもいるようになった。


もちろんその中にアーノルドやライアンもいる、彼らも生徒会役員だったからだ。






そのせいで私がライアンと一緒に過ごす時間が減っていった。以前はほとんどの時間を私と過ごしていたが、最近は私と数曲踊ると彼はすぐに離れていってしまう。



今日の夜会でも数曲踊り終わるなり、彼は当然のように私から離れていこうとする。



「ちょっと友人達のところに行ってくるよ。リーナも友人とお喋りでも楽しんで」



そう言うと夫は私からの返事を待たずにもう背を向け始めている。彼の視線の先にはあの『麗しの黒薔薇』がいる。


だから私が今どんな表情をしているか彼は知らない。


もし振り返って私を見たら、きっと優しい彼はここに留まってくれるかもしれない。



 あと少しでいいから、ここにいて。

 ねえ私を見て、お願い…。


 

縋るように彼の背に手を伸ばすが、すれ違うように一歩足を踏み出した彼には届かなかった。宙を彷徨う手をそのままにして振り返らない彼に向かって声を掛ける。



「ライ、いってらっしゃい…」


「すまない、これも付き合いなんだ。すぐに戻ってくるから、変な奴から声を掛けられても無視して。なんか困ったことがあったらすぐに俺のところに来てくれ」



いつものセリフを口にして去っていく彼がすぐに戻って来たことは一度だってない。

以前の彼なら私と離れているのは心配だと言って夜会で長時間離れていることはなかった。


でも今は夜会終了間近にならないと私のことを思い出さないらしい。



…彼は変わってしまった。



いいえ、この言い方は正しくない。彼は変わってしまったのではなく、あるべき姿に戻ったのだろう。学園に在学中は熱い眼差しを彼女に向けていたのは知っている。


婚約者がいる身だから友人として節度ある態度で接していた、だけどうちに秘めた想いは一目瞭然だった。



政略結婚とはいえ婚姻を結ぶ前から愛人を持つのは褒められた行為ではないが、既婚者が常識の範囲内で愛人を持つことは許されている。



つまりライアンとカトリーナはお互いに既婚者だから、彼が秘めたる想いを形にしても今は許される立場にあるということだ。



彼はそれを望んでいるのだろうか。



今の穏やかな生活を捨てることなく真実の愛が手に入るというならば、それを望んでもおかしくはないだろう。


愛人を持つことは貴族の特権だから、愛人を持っても誰からも非難されることはない。



淑女である妻はそれを受け入れるのが務め。

悋気でも見せようものなら『みっともない』と影で笑われる。




でも私に耐えられるのか…ライアンが彼女と愛し合うのを。



…きっと受け入れられない。



彼女に友人として接している夫の姿を遠くから見るだけで心が削られていく。

彼が彼女に笑い掛け、それに応えるように微笑む彼女を見ると『やめて、彼は私の夫なの。奪わないで』と叫びたくなる。




彼を取り戻したい。




きっと間に合うはず、夫はまだ友人として傷心の彼女を労っているだけ。その想いを伝えている様子はない。



今までは良き妻として彼を引き止める言葉は口にせず、咎めることなく送り出してきた。


でも彼を失うくらいなら、私の気持ちを素直に伝えよう。

彼の気持ちが私にないとしても、彼は私の言葉を聞き流すような真似はしない。


愛がなくても家族として培ってきた絆はある、彼が妻子に向ける優しさに嘘はなかった。



家族を愛している彼の気持ちを利用しようとする私は浅ましい。

そんなことは分かっている、でも…。



私から離れた場所にいる夫に目を向ける。彼は友人達と一緒にカトリーナを囲んで談笑している。


『彼を失いたくない』という強い想いが私を突き動かした。


静かに彼らに向かって進んでいく。

誰も私が近づいていることには気がつかずに楽しげに会話を続けている。



 大丈夫、きっとライは私の手を取ってくれる。

 妻としては大切にされている。

 だから…きっと大丈夫。


 彼は家族を蔑ろにしたりしない…。




私は夫に『もう帰りたい』と言ってあの場から彼を引き離すつもりだった。そして二人っきりになってから私の想いを伝えよう。


『ライ、愛しているわ。

…私を愛して、今すぐでなくてもいいから。

いつまでも待っているから。

だからお願い、もう彼女を見ないで…』と。



どうなるかは分からないけど、このまま待つのは心が限界だった。




彼らの話し声が聞き取れるほど近づいた時に『ライ……』と夫を呼ぶ。でも私の声はカトリーナの明るい声にかき消されてしまう。



「もう、ライったら!許さないから」



彼女の言葉に耳を疑う。

彼女は私と同じ言葉を口にしていた。それは夫の愛称で私だけの呼びかたのはずだった。



 えっ…なんで『ライ』って呼んで…いるの。

 どうして、それは私だけのものなのに…。




聞き間違えではなかった。

婚約者でも妻でもないのに彼女は私の夫を親しげに『ライ』と愛称で呼んでいた。 



彼もそれを咎めることはなく受け入れている。




それが『私だけの宝物』ではないなんて知りたくなかった。






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