10.聴こえなかった声〜ライアン視点〜①
俺は学生時代に一人の女性に恋をした。
彼女を慕う者は多く『高嶺の花』と分かっていたので、その想いを告げることなく胸に仕舞い込んだ。
それは自分にとって美しい思い出で生涯その思いは褪せることはないと思っていた。
そして学園を卒業し政略結婚でアリーナと婚姻を結んだ。お互いに愛はないけれども尊重し貴族の夫婦らしい関係を築くはずだったが、現実はそうならなかった。
大人しい女性だと思っていた彼女はよく笑う人で、どんな時でも俺の話を楽しそうに笑いながら聞いてくれる。
『こんな仕事の話なんてつまらないだろう?すまない、女性が喜ぶ話が出来なくて…』
『そんなことないわ。あなたがしてくれる話は知らないことばかりだから面白いし、自分の世界が広がったように思えて飽きないもの。
だからもっと聞かせて頂戴』
目を輝かせながらそう言う妻の表情に嘘はなかった。
口下手な俺はそんな彼女の態度が有り難く、窮屈だろうと想像していた結婚生活は思っていた以上に楽しいものとなっていった。
些細な会話に癒やされる日常。
それがいつしか自分にとってかけがえのないものになっていた。
俺を支え寄り添ってくれるのが彼女で良かったと思い始めた頃に自分の気持ちの変化に気づいた。
気づけばアリーナの姿を目で追い、彼女にも自分だけを見てもらいたいと渇望する。
いつの間にか俺は自分の妻に恋をしていた。
そして恋が愛に変わるのに時間は掛からなかった。
鈴を転がすような笑い声に胸が高まり、彼女の側に少しでも長くいたくて色々と理由をつけては纏わりつく。
自分でも情けないとしか思えない姿だった。
でも彼女は呆れることなく『ふふふ、仕方がない人ね』と言って俺を見つめながらその身を寄せてくれる。
見つめ合う彼女の瞳に俺と同じ熱を見つけた時は舞い上がった。
ああ、君も俺を愛してくれたのか。
アリーナ、有り難う。
大切にする、誰よりも君を愛しているから。
俺はアリーナを愛して『本当の愛』というものを知った。
学生の頃に経験した恋は嘘ではない。でもそれは愛ではなかったから綺麗な思い出として片付けられたのだ。
今では当時の想いは色褪せ、ただの過去でしかなかった。
でもアリーナへの想いはそんなものではない。
彼女は俺の半身であり、どんな時でも永遠に一緒にいたい存在となった。
可愛い妻を独占したい俺はアリーナのことを『リーナ』と呼び『ライ』と呼んでもらう。
余裕がない俺の周りへの牽制に友人達は『まったく余裕がない男になったな』とからかってくるがそれでも構わなかった。
俺の中ではアリーナが何よりも大切だから。
ある夜会で久しぶりにカトリーナ・ガザンの名が出た時は正直『懐かしい名だな』としか思わなかった。
友人達が麗しの黒薔薇の帰国に浮足立っているが、俺の心が揺らぐことはない。
だが彼女の帰国理由を聞き心がざわついた。
妻であるアリーナもなかなか子供が授からず、俺は親戚から『跡継ぎは必要だ』と愛人を勧められた。もちろん断ったがそれにより彼女への風当たりは更にキツくなり心無い言葉にどれほど心を痛めていたか知っている。
傷心のカトリーナの噂を聞いたことであの頃のアリーナの哀しそうな顔を思い出し胸が締め付けられる。
周りがカトリーナの話で夢中になっている時も俺の頭の中にはあの当時の妻の姿しかなく、傷ついたアリーナを心の中で優しく抱きしめている。
話し掛けられていたが、アリーナのことで頭が一杯だった俺は適当に話しを合わせて流していたようだ。
そして暫くするとカトリーナ・ガザンが母国へと戻ってきた。
久しぶりの女神の帰国に友人達はおおいに盛り上がり、騒がしい周りから彼女を守るという大義名分を掲げそれぞれ懐かしい思いに浸っている。
最初こそ誘いを断わろうとしたが、カトリーナの味わっている痛みがアリーナの過去と重なったら断りづらくなった。
貴族社会は男性が優位の世界だ。
不妊の責任も女性だけに押し付け、その痛みに寄り添うよりも愛人を作る夫のほうが多い。
彼女に同情した、今の彼女に寄り添う夫はいない。
昔と同じように見られたいと必死に取り繕うように微笑んでいる姿を見て『可哀想な人だ…』と憐れんだ。
この国にいる間だけは孤独を忘れさせてあげようと思い、アーノルド達と一緒に友人として彼女を支えることにした。
そこに特別な想いは一切ない。
ただの友人としての行動だった。
だから後ろめたい気持ちはなかった。カトリーナがこの国にいるのはきっと短い間だけだ。
それくらいなら、…大丈夫だろうと。
同じ経験をした妻なら何も言わずとも俺の行動を分かってくれるはずと思い、わざわざ彼女の名を妻の前で出すことはしなかった。
そして妻が体調を崩してから様子がおかしいことに気がついた。
俺を見る目は以前と同じく愛を感じるし、俺の愛を拒むこともない。
だけど会話のなかで『ライ』と甘い声音で呼んでくれることがなくなった。
『ライ』がいつの間にか『ライアン』に戻っていた。
俺への愛がなくなった訳ではないことは分かる。アリーナの心が離れたなら俺は絶対に気づくはずだ。
愛されてはいる…。
それは変わらないのにどうしてなんだ…?
心当たりはカトリーナの存在だった。
アリーナも俺が昔彼女に恋していたことは知っているはず。だから何も言ってこないけど快くは思っていなかったのだろう。
淑女らしく何も言わずにきっと我慢していたんだ。
俺は自分の行いを反省した。
同情からの行動だったとはいえやり過ぎてしまった。俺だけでなく友人達も一緒だから軽く考えていたのだ。
それに『アリーナなら分かってくれる』と彼女の優しさに甘えていた。
愛し愛される関係を築けたことに驕っていた俺は彼女の気持ちをちゃんと考えずもせず、自分に都合よく思い込んでいた。
…馬鹿な自分を呪いたくなる。
きっと彼女は怒っているのだ、だから『ライ』と呼ばない。
自業自得だった。
俺は妻にまた呼んでくれと懇願するより己の行いを正してまた彼女が呼んでもいいと思ってくれるのを待つことにした。
こちらの気持ちを押し付けるだけでは駄目だ、自分が変わらなければいけないんだ。
俺が撒いた種なんだから。
それからは体調を崩している妻に寄り添い、今まで以上に自分の気持ちを素直に伝えた。
使用人に生暖かい目で見られていようが気にせず、どこでも妻に愛を囁き時間が許す限り側にいる。
そんな時間が俺にとっては何よりも幸せで、彼女がそれを拒絶しないことに感謝する。
『リーナ、愛しているよ。ルイスと三人で過ごすのも楽しいけれど、たまには二人だけの時間も欲しい。君を独占したいんだ、夫なんだからそれくらい許してくれるだろう』
『私もあなたを愛しているわ。あなたと二人の時間を楽しみたいけどルイスはどう思うかしらね、ふふふ』
その腕に息子を抱きながら『お父様はこう言ってるけど、どうかしらルイス?』と笑ってくれる妻が愛しくて堪らない。
ルイスを抱いている妻を優しく包み込むように抱き締め、そのこめかみに口付けをする。
彼女が嬉しそうな表情を浮かべてくれることにホッとしてしまう。
まだアリーナに見捨てられていない。
そう思える日々にまた『ライ』とアリーナが呼んでくれる日も近いと信じて疑わなかった。




