気が楽になる
前回「ただの毒舌?」で自問自答をしているうちに、知らず知らずのうちに背負っていた罪悪感に気づきました。そんなに、自分を痛めつけなくていいんだよ。
自問自答からの自分への慰めと励ましです。
身近な人からの心理攻撃って、攻撃する側も、される側も、人間関係が近すぎて、判別しにくいのが悩みです?
今回の個人的お悩み?も、そこから派生する無用な罪悪感・・・そこから自由になり始めているのかな?
一足飛びに解決するとは思わないようにしています。
弱さも矛盾もまるっと自分自身ですからね<(_ _)>(*^-^*)
お付き合いいただきありがとうございます<(_ _)>(*^-^*)
現実の生活は元気でやっております<(_ _)>(*^-^*)
個人的人間関係における個人的解釈ですので、すべての対人関係に当てはまるとは限らない点にご注意いただけますと助かります<(_ _)>(*^-^*)
前回短編「ただの毒舌?」で自問自答して
「親しいはずの人」が
「ただの毒舌」で
わたしの心に心理的ダメージを与えてくる人だと
再認識したことで
なんだ
自分は
心が冷たいから
ひとづきあいがへただから
怠け者だから
「親しいはずの人」
「親しくあるべき人」
「親切にするべき人」
に
あまり近づきたくなかったわけではなかったのだ
仕方のないことだったんだ
と
いまさらながら
腑に落ちた
長年
ポジティブな自己暗示のほうが
心の健康や
人生にプラスだと
理屈ではわかっていたし
ポジティブな言葉を選んで
鼻歌のように
掛け声にしたり
自分を励ます習慣に
助けられてきたが
「親しいはずの人」
「親しくあるべき人」
「親切にするべき人」
にたいする
自分の逃げ腰に
どうしても
役立たず
怠け者
どんくさいからねえ
と
ぼそぼそ
ささやきかけてしまっていて
それを
意識的に止めることもできず
なんだかなあと思っていた
「親しいはずの人」
「親しくあるべき人」
「親切にするべき人」
は
真面目で勤勉で努力家でいい人ではあるが
二言目には
毒舌が混じる
ただの毒舌だ
聞き流せばいいんだと
わたしは
自分のスルー力の未熟さに
悪いのは自分だと
いわゆる
罪悪感に
いつの間にか
おかされていたらしい
「親しいはずの人」
「親しくあるべき人」
「親切にするべき人」
は
付き合いが長いから
それこそ
わたしの
大切にしているものも
弱点も
私自身以上に
把握している面もあるだろう
楽しい話で盛り上がって
わたしが
心底
心を開いて
笑っているときに
わたしの
無防備な
弱点に向かって
「親しいはずの人」
「親しくあるべき人」
「親切にするべき人」
は
毒矢を放つ
わたしの
好きなこと
好きな話題
ノリノリになることも
熟知しているから
フレンドリー以上に
フレンドリーに
ごくごく自然に
アットホームに
わたしの心を
ひらいてしまうから
たちが悪いのだ
「親しいはずの人」
「親しくあるべき人」
「親切にするべき人」
は
心が解放されて
盛り上がってきた瞬間にこそ
わからないように
毒矢を放つ
そのメカニズムには
うすうす
ここ数年は気づいていた
楽しい話をしていたはずなのに
なぜ
わたしは
今
心が重いのだろう
楽しい話をしていたはずなのに
なぜ
いつの間にか
言い争いになって
わたしが悪いという
雰囲気でおわってしまったのだろう
そういうことを
何度も
何年も
何十年も繰り返して
わたしは
「親しいはずの人」
「親しくあるべき人」
「親切にするべき人」
のご機嫌を取るために
「親しいはずの人」
「親しくあるべき人」
「親切にするべき人」
の言動に
好意的に
擁護的に
つきあう癖が
デフォルトでついてしまっていて
なにか
微妙なことを言われていても
気づきにくくなっていたらしい
楽しい話題の真っ最中に
楽しく
好意的に
盛り上がりあう方向性の
会話の最中に
なにげなく
毒のある
しかし
わざわざ
「聞き捨てならないねえ」
と
ちゃちゃをいれるには
やや
微妙な
本当に
絶妙なレベルの
イケズを
放り込んでくるのだ
本当に
馬鹿な人だなあ
そして
かわいそうな人なんだなあ
と
昔から
思ってはいたが
ほんとうに
さみしい人なんだなあと
しかし
私の力ではどうにもならない
「親しいはずの人」
「親しくあるべき人」
「親切にするべき人」
が、自分で自覚して
自分の問題として修正するしかない話で
わたしが
どうこうできる
領域ではないのだ
「親しいはずの人」
「親しくあるべき人」
「親切にするべき人」
は
「ただの毒舌」を
気楽に放り込んで
わたしを
支配しているような(あるいは教育しているような)
錯覚を起こしているのかもしれないね
そして
ためになるアドバイスと
「ただの毒舌」の
境界線も
曖昧だから
難しいんだよね
ためになるアドバイスであっても
耳に痛いことって
ままあるわけですし
全く
叱られたり
注意されたりしないで
育つ
子供も
新人も
まあ
あんまりあり得ないわけで
多少理不尽であっても
いいことと悪いことの
境界線を
学んで
適応していくのがふつうだろうから
全くの
無駄でも
間違いでもないんだろうしね
言い方の問題でもあるんだろうけどね
聞き流せばいいと思っていた
今でも
聞き流すしかないし
聞き流すのが無難だと思っている
聞き流しても
とらわれてしまう
スルー力
もっと
きたえなくっちゃと
思っていた
たかが
「ただの毒舌」じゃないかと
思っていたから
・・・・・
ああ、
わたしの心は心理的に
殴られていたんだ
噛みつかれていたんだ
危害を加えられていたんだ
楽しい会話の最中に
わからないように
毒を混ぜ込まれていたんだ
わたしの心は
深い部分では
言葉にならないレベルで
これって
暴力じゃんって
ちゃんと気づいていたんだ
だから
「親しいはずの人」
「親しくあるべき人」
「親切にするべき人」
なのに
近づきたくなかったんだ
仕方がないじゃないか
だって
頼まれて
助けに行ったって
ひどい目にあわされるんじゃ
おっかないじゃないか
攻撃をかわせばいいじゃないか
右から左へスルーすればいいじゃないか
って
思っていたけど
そこまでして
なんで
「親しいはずの人」
「親しくあるべき人」
「親切にするべき人」
に
合わせなきゃならないの
自分を
痛めつけて
遊んでいる人に
親切にできないからって
なんで
罪悪感を
感じなければいけないの
そんな必要ないじゃない
おかしいのは
「親しいはずの人」
「親しくあるべき人」
「親切にするべき人」
のほうじゃないの?
・・・・・
自分が自分の親だったらば
そんな
危険な人に
無防備な
信頼や
親しみを
寄せられないからって
罪悪感を持つのは
おかしなことで
危険な人に
警戒心を持つことこそ
普通の反応でしょうよって
自分が自分の親だったらば
うずくまっている
自分に
語りかけて
慰めるだろうし
もうそんな
きけんなひとのところへは
いってはいけないよって
教えるでしょう
それだけの話だったのだ
悲しいことに
それだけの話
だったのだ
・・・・・
お付き合いいただき
ありがとうございます
気づいたからには
落ち込んでいるわけではありません
むしろ、
心理的疲れを自覚できたことのほうが
安全だと
わたしは解釈します
むしろ
はっきりして
ある種
迷いが減って
気が楽になっている真っ最中です
いつも
お付き合いいただきありがとうございます
心配をおかけしてすみません<(_ _)>
では、また!<(_ _)>(*^-^*)
個人的人間関係における個人的解釈ですので、すべての対人関係にあてはまるとは限らない点にご注意いただけますと助かります<(_ _)>(*^-^*)いつもお付き合いいただきありがとうございます<(_ _)>(*^-^*)現実の日常生活は元気でやっておりますので大丈夫です!ご心配おかけしてすみません<(_ _)>(*^-^*)