津軽によせて
私の中の太宰治の印象には強烈に陰鬱な死があった。
明治期の文豪なのだから亡くなっていて当然なのだがそれだけではない。
国語の授業で『走れメロス』を読んで以降、初めて自主的に触れた作品が『人間失格』だったこと。
玉川での入水自殺でこの時期の文豪は自殺が多いという理由の一人になっていることも大きい。
『女生徒』や『ろまん燈籠』など明るく軽やかな作品や、文芸部の合宿で太宰治ゆかりの地で足跡を辿るなどし、陰鬱一辺倒の人でなく、厚みのある人生を送り、太く短く生きた人だと言う実感を得た。
しかしながら一番の転機となったのは、漫画『編集王』での主人公の台詞である。
元ボクサーで『明日のジョー』を心の師、ロールモデルとする漫画編集者である主人公は、人足らずの純文学雑誌を手伝うことになる。そこで出会った太宰治を敬愛する編集者に言うのである「太宰治って『明日のジョー』みたいな人なんですね!」と。
主人公の、不案内な分野であっても自分に引き寄せて理解しようとする人間性を見せる台詞であり、同時に、太宰治が誰かのヒーロー足りうる人物であることを示す台詞でもある。
ここから太宰治に対して、強い関心を持つようになった。
そうして、『津軽』を読んだ。
『津軽』の本編は正に太宰が死を意識する所から始まる。先立って行った文士達の享年を妻に言って聞かせ、自分もそろそろその年頃だと、それ故に旅に出るのだ、と。
こ難しい序文とこの流れで、これは陰鬱な話になると腹を括って読み始めた。しかしながら、そうして始まっておきながら、本書の基調はごく明るい。何度本気で笑ったか解らない。
文豪という肩書が休暇にでも出てしまったかのように、本書の太宰はかわいらしく親しみやすいおいちゃんと言った風情である。
友人たちと朗らかに飲み、故郷の観光地を巡って遊び、非常に愉快に過ごしているのが解る。
あんまり生き生きとバカ話が続くものだから、友人のSNSに茶々を入れるような気分で手紙を送れば返事が来そうな気さえしてくる。
友人達と、こんな所に義経来てる訳ないよな、などと愛着故に故郷の名所をくさす所など、私自身が友人達と、なんでもかんでも坊ちゃんつけりゃ良いってもんじゃないぞ、とやはり愛着故に故郷をくさしていた頃と重なる。
時折、ふらりと過去の記憶の陰や、太宰自身が持つ本質的な哀愁が紛れることはあっても、本作の基調は明るい。カラリとして爽やかで湿った所がない。
たけを訪ねる感動的なシーンも、創作説が有力ながら、お涙頂戴然とした盛り方をせず、あくまで胸のあたたかくなる、地に足の立った描かれ方をしている。
結びの言葉も軽やかで、思わず「あんたも達者で、また会おう」と返したくなる。
亀井勝一郎氏による解説によれば、太宰にとって最も幸福な時期に書かれたものだという。
だがたとえ、これから彼にとって辛く苦しい時期が始まるとして、朗らかに、穏やかに過ごせる時期があったことは救いだったろうと、自分の経験に照らして思う。
仕事で上手くいかず、死に体のままなんとか日々をやり過ごしていた時、楽しく充実した日々を思い返すことは私の一つの支えだった。
もう一度ああ言う日々が巡ってくるかも知れないと思うことが数少ない希望だった。
彼もそうだったら良いと思う。
彼の最後の作品は、ユーモア小説だった。
先日、失礼かもしれないと思いつつ若くして病気でお亡くなりになった方のSNSを拝見した。
病気の苦しみを呟く合間に他の人が描いた面白い漫画や、下らなくも笑える冗談がたくさんあった。
自分もこうやって生きて死にたいと思う。