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  作者: 山中 洸
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其の壱

 どこかの観光地だろうと、いまだから思う。

 キャラメルや小さなガムが陶製の動物の置物の間にある。大人たちが肘を乗せているカウンターの上に座って、コルク玉を詰めてもらったライフル銃を構えるが、重くてすぐに銃口が下がってしまい狙いが定まらない。母親が笑顔でそっと手を添える。

 記憶は橋を渡っている場面へと続く。

 母親の青い浴衣の腰の柄の鶴に手を突かれそうで怖かった。つないだ冷たい母の手がある。しかし細い指とひんやりとした感触は嫌ではなかった。

 一年中日本各地を旅していたから、どこでの記憶かはわからないが、ただその記憶にはいつも温泉の硫黄いおうの匂いが一緒だ。

 それからあとの記憶もあるが、最初に思い浮かぶのが、射的と、橋と、母の手なのだ。

 その思い出の中に父親の雪之丞は出てこない。

トオルは、一週間ほど前から海沿いの温泉場にいた。

 関東屈指の温泉場で、日本旅館が近代的なホテルに変わるのも早かったが、不況の風に吹かれ、期待を寄せた温泉ブームも山奥の秘湯ばかりにスポットが当てられたものだから何の恩恵もなく、一時の神話めいた集客力はなくなっている。

 頼まれれば少人数でも芝居をする一座から、若手の役者三人にウマとおりん、舞台美術の徳三が加わり、大きなホテルで芝居をしていた。客寄せのために呼ばれたのだが、大学が夏休みのトオルもちょい役として手伝いをしていて、この温泉場に来てからの日数分だけ切られて死んでいた。

 ホテルのバイキング形式の朝食を済ませて、あてがわれた部屋でひと休みしてから、トオルは舞台のある大広間に向かった。

 トオルたちの部屋は地下のクラブの奥にあるので、夜中遅くまで下手なカラオケが聞こえてきて、ぐっすりと寝た記憶がここ数日なかったが贅沢は言えない。朝食もあり、手足を伸ばして眠ることができるのだから、寺の本堂で毛布にくるまって震えながら過ごす普段の仕事を思えば恵まれている。

大広間では、黄色のホットパンツをはき、ホテルのタオルでねじり鉢巻をしたおりんが掃除をしていた。いつもどこか噛みあわない格好をするのはこの娘の特技だ。

 トオルと同じ回数だけ切られているウマが昨夜の芝居で大袈裟に倒れて突っ込んで作った書割の傷を、美術の徳三が修復をしている。

「おりんちゃん、ウマさんは?」

「間違いなくパチンコでしょう」

 受け狙いの芝居をして大道具を壊したウマへの怒りが、おりんの手にした雑巾の絞り方に表れている。

 別段ウマに用事がある訳ではなく、自分自身に外に出る口実が欲しかっただけだ。

ホテルの木のサンダルをひっかけて朝の湯の町を歩く。

 山が海のすぐ近くまでせり出しているこの土地には、急ではないが坂が多い。ほのかに上る湯気の見える浅い川に、道端の木の枝が触れそうにして頭を垂れている。手摺に行燈型の照明のある橋に続く家々は、何かしら観光にすがって生きている、とわかる造りになっている。

 表面にデコボコのある石材の舗道は歩きづらく、宿のサンダルで来たことを少し後悔しながら、パチンコ屋のある町なかへと向かった。

 坂の途中の民家の石段で老女がうずくまっていた。

 初めは、座って休んでいるのかと思ったが、腹に手をあてて明らかに苦しそうにしている。

「どうしました?大丈夫ですか?」

 トオルは両膝をついて老女の顔を覗き込むようにして声をかけた。年齢は隠しようもないが、それでも西洋人形のように整った顔が苦痛に歪んでいる。

「ちょっと胃が痛くて」

小さな花柄模様のワンピースに薄いブルーのカーディガンを羽織った服装は、観光客のものではない。

「ご自宅は近いのですか?」

「う~ん」

 老女の背中がさらに丸くなった。

「送ります。それとも救急車を呼びましょうか?」

「いいえ、だったらタクシーを拾って来てちょうだい」

 昔の女にしては大柄で、白髪というよりは銀髪といったほうがふさわしい艶やかな美しい髪をしている。

 坂道をくだって海岸線を走る国道に出ると、運よく空車が通りかかった。慌てて手を上げて停めた。

「すいません、お願いします」

「はい、どちらまで?」

 乗り込んだのは良かったが、老女の行き先を聞いていなかった。

 とりあえず老女がいた場所まで行ってもらうと、老女はまだ苦しそうにしていた。

 老女をタクシーに乗せようとして一人で手古摺っているトオルに、素早く下りて来た運転手が手を貸して、老女を後部座席に押し込むようにした。

 車内でぐったりとしている老女の背中をさすっているトオルに運転手が、

「どちらまでですか?」

 と、大きいが優しさを含んだ声になった。

「おばあさん、どこまでですか?」

「エスパス」

 消え入りそうな声で老女が言う。

 ふたたびトオルが聞くと、同じ答が返ってきた。

「運転手さん、エスパス、ですって。わかりますか?」

「はいわかります。この上の老人ホームですよ。ねえ、そうですよね、おばあちゃん」

 老女が弱々しくうなずいた。

運転手が車を発進させた。

 右折して横道に入ったとたんに急勾配になった山道を登って行く。

 広葉樹の木々の葉をすり抜けた陽の光が、雑な舗装のアスファルトの道に遊び、、そして後ろへ流れて行く。心地良さそうな風景だが、しかし今は見惚れている心境ではない。

 老女は、肩に下げていたポシェットから携帯電話を取り出してトオルに渡すと、

「短縮の五番」

 と、絞り出すように言って、五本の指を広げた。

「えっ?短縮の五番を押せばいいんですね」

 老女がまた弱々しくうなずく。

 トオルがキーを押すと、呼び出し音が鳴って女が出た。

「山本さんですね、どうしました?」

 先方の電話は、誰から掛かってきたかがわかる、番号表示になっているらしい。

「あのう、道で倒れていまして、いまタクシーでそちらに向かっています。ええとあと……」

「五分」

 カーブで大きく慎重にハンドルを切りながら、運転手が言う。

「五分で着きます。おなかが痛いと言っています」

「はい、わかりました。待っています」

 トオルは電話を切って老女に返した。

 別荘らしい建物が並ぶ一画を抜けると、タクシーはオレンジがかったピンク色の広い門を入って、大きな建物の玄関の前で止まった。

 潮風から身をかがめるような低い屋根の二階建てで、南国のホテルを思わせる建物の壁面にはヤシとシュロが不鮮明な影を落としている。

 玄関の門と同じような色の制服を着た若い女が、車いすを押して待っていた。タクシーの老女の座っている側に回ると、

「山本さん、さあ、手を回してください」

 と、早口で言う。

 カナリアのさえずりのように明瞭で美しい声だ。

 老女の手を自分の首に回させて、体を反転させると、車いすに座らせた。トオルと運転手がようやくこなした作業を、いとも簡単にやってのける。壊れるかと思うほど細く華奢な体のどこに、そんな力があるのかトオルは驚いていた。

「ありがとうございました」

 女はそれだけ言うと注意深く、それでいて急いだ足の運びで車いすを押して館内に入って行ってしまった。

 無駄の無い動きだ。あっけにとられているトオルに運転手が、

「このホームには保健室みたいなものがあって、医者がいるんだ」

 医師が常駐する高級な老人ホームであるらしい。

 運転手は心を落ち着かせようとしているのか、自分自身に言い聞かせるように、、ふうと息をついた。

「そうなんですか」

「そう、二、三回医者を乗せたからね。大丈夫かなあ、ばあさん」

 運転手は、建物の中を、落ち着かない様子で、覗き込むようにしている。

「運転手さん、タクシー代、まだ貰ってないでしょう?」

「うん、そんなのあとだ。ばあさんの治療が先だ」

 背はあまり高くないが、がっしりとした体つきをしている。

 制帽をかぶり、白い手袋をしていなければ、漁船の操縦をしている方が似合いそうな男だったが、しきりに老女のことを気にしている。

 トオルは優しさと見た目とのギャップに戸惑いながら、気づかないうちに男を見詰めていたが、半ば宙に遊んでいるその視線に運転手が気づいて、

「俺の死んだお袋と同じ年くらいかなあ、なんか心配になってしまうんだ」

 と、言い訳のように言ってから、照れたような表情になった。

「それにな、この施設では入居している年寄りが先月死んでいるんだ。事故だったんだが、それも気になってね。ほら、続くときって、続くだろ?」

 帽子を取り、額の汗を拭いながら、今度ははっきりとトオルの方を向いて言う。

「お祓いする時の神主も俺が乗せたんだ」

 トオルも行きがかり上待つしかなかった。

 手持無沙汰で落ち着かない時間を我慢していると、十分としないうちに老女が車いすに乗せられたまま玄関に戻って来た。

「あんたたち、ありがとうね。迷惑かけたねえ」

「ばあちゃん、大丈夫か?」

 運転手が、まだ心配そうに尋ねる。

「注射を打ったらすぐに治ったよ。あれで案外名医なのかもしれないねえ」

 さきほどまでの苦しみ方が嘘のように、老女は元気な声になっていた。

「何言っているんですか、山本さん。全部自分のせいでしょ」

車いすを押している女は叱るような口調になったが、目が笑っている。

 真剣な顔も美しいが、笑顔はもっと素敵なのだろうと思わせる、はっきりとした顔立ちをしている。何より、黒目勝ちの大きな目が印象的な女だ。

「かき氷を一気に食べたんですって」

「だって、昔のかき氷はあんなに大きくなかったよ」

「はい、そうですねえ」

 女は優しい声になった。年寄りの扱いに慣れているようだ。フラッペと呼ばれるようになってから、かき氷は確かに大盛りになった。残してはいけないと無理をして一気に食べてしまったのは、いかにも昔の人間らしい。

「だからおなかの冷えと、あと軽い胃痙攣なんですって。心配はないそうです」

「わざわざ言わなくてもいいでしょ、恥ずかしい」

 老女が若い女の尻を平手で軽く打つ。まるで孫とのじゃれ合いを楽しんでいるようにも見える。

「ばあちゃん、良かったね」

 運転手が帽子をかぶり直しながら、嬉しそうに言った。

「そうだ、私、まだタクシー代払ってなかったわね」

 老女は肩に掛けているポシェットから財布を出すと、札をティッシュペーパーで手早く包んで、ひとつを運転手に、もうひとつをトオルに差し出した。

「はい、ありがとう」

「山本さん、少し休みましょう」

「そうだね」

 意外なほど素直に言う事を聞いて車いすに乗ったまま奥へと行く。

 制服姿の女が振り返って深々とふたりに頭を下げた。

「さて、あんた、どうする?」

 ボンネットのバックミラーを調節しながら運転手がトオルに聞いた。トオルは歩いて帰るつもりでいた。

「乗って行きなよ、どうせ戻りだし、エントツで行くから」

「エントツ?」

「そうか知らないよな。昔のタクシーのメーターはクイズの札のようなものが立っていただろう。客が乗るとそれを倒したものなんだ。メーターがデジタルになってそれも無くなっちまったが、札を立てたままメーターを動かさないで走るのがエントツだ。客から直接金を貰う、まあ運転手の小遣い銭稼ぎだったけど、いまは出来ないし、運転手でも若い奴は知らないだろうな」

 現在のタクシーは、タコメーターやGPSで動きが管理されている。

 坂を下りながら運転手は老人ホームのことを話し始めた。

「あのホームは、有料でそれも超がつくほど高級なんだ。入るだけで三千万とか四千万とかかかるらしいよ。そのくせ毎月の食費や電気代も取るんだって言うから、しっかりしているな。もっとも、俺たちには関係ない世界のことだけどね」

 タクシーが赤信号で止まった。運転手が貰ったティッシュを開いて声を上げた。

「だめだあ、こんなに貰えるわけないだろう」

 少しだけ考えていたが、札をティッシュに包み直すと、

「半分だけ貰った。あとは兄ちゃん、返しておいてくれ」

 と、運転席から上半身を捻って、トオルに無理矢理押し付けるように渡した

 タクシーが老女を乗せた場所に戻、りドア開けてトオルを下ろすと、

「じゃぁな」

 とだけ言って走って行ってしまった。

 トオルは完全に運転手のペースに巻き込まれていた。

「田所隆か」

 タクシーを見送りながら、トオルは助手席のダッシュボードの上に標示されていた運転手の名前をつぶやいていた。

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