陸 数学。
するな、と言われるとしたくなる。人間は誰しもそうなる。なんとかなんとか反応だとか言うらしいけど、そんなのはどうでもいい。
とにかく、私は今、するな、と言われて身に危険を感じていて、且つ、知りたいという強大な知識欲も湧いている。
その二つのせめぎあい。いや、知識欲の方がやや優勢。
唐津部先輩の過去を知ったところで何が壊れるのか、それも知りたいような気もする。一種のマゾヒズムかもしれない。
私の心だとかがそこまで強靭とは言えない、けれど、そう簡単に壊れるようなものでもない筈。
私は星山先輩の忠告を無視することにした。
部室に戻ると星山先輩はまだ帰って来なかった。棚島先輩がいきなり話しかけてきた。
「どうだった?星山。あいつが誰かと歩くなんて無いからさ、珍しくてね。」
「ああ、はい。別に普通でした。一緒に歩くだけで話もしませんでした。」
これは嘘。勿論、あのことは言わない。
「へー。成る程ね。ありがとう、オリゴ糖。」
「・・・グラニュー糖?」
なんで返したんだろう。部室の気温が私のせいで下がった気がする。
いや、私のせいでは無くて、棚島先輩のせい、だ、よ、ね?
新たな短編のアイデアは現れ無かったので棚島先輩の真似をして今日出た宿題をやることにした。数学は得意だからスラスラできる。けれど、英語が厄介。中学校の英語すらさっぱりわからなかった私に高校英語なんかわかるはずがない。文学部だけど、理系コースにしよう。
ともあれ英語に苦戦しながら取り組んでいると、星山先輩が帰って来た。
「お帰りパエリア。」
棚島先輩は意味不明なことを言う。ギャグですらない。
「ただいま。」
星山先輩は私の方は全く見もしないでいつもの席についた。
そろそろ短編発表。なぜかそんなことを考えながら星山先輩が席につく様子を見ていた。
確かに短編発表がある。普通ならそこに対して色々と心構えとか緊張とかするのだろうけど今は唐津部先輩のことが優先だ。
「ねぇねぇ、木内君、ほら最近ラノベを読むけどさ、面白いの?」
中多先輩だ。よほど私にラノベを読んで欲しくないことがわかる。
「私にとってはそこまで、ですけどね。ただ、難解では無いから、なんと言うか、入り込み易いですね。」
「成る程ね。でも、やっぱり、秋目の方が343倍面白いよ。」
343?・・・。7^3だな。
「なんで7の三乗なんですか」
「7が三つでラッキーセブン・・・みたいな?」
なんだそれは。
「ラッキーセブン・・・ですか。私は7より9の方が好きですけどね。」
何を張り合ってるんだ、私は。
「9か、9ってさ、なんか、あんまり好きじゃないな。」
えー。
「でも、なんか、よくないですか?9で割ることができれば素因数分解のときに一桁減るので。」
「素因数分解とかしないからいいでしょ。」
「数学の授業とかでするじゃないですか。」
「普段の暮らしではしないでしょ?」
「します。」
中多先輩は目を丸くした。
「いつ?」
「渋滞のとき、前の車のナンバーを素因数分解します。」
「へえ。足したり引いたりして10にするやつならよくやるけど。あ、素数とかだったらどうするの?9000番台とかだと100までの素数すべてでわり算しなきゃじゃない?」
中多先輩は数学が苦手だと言うが、以外とそうではないらしい。というのも本当に数学を知らないならこういうときに100までの素数ではなく、4500までの素数という。(これは経験則に基づく憶測だが。)
「ええ、でも、20回程度しかわり算をしない訳ですから別段苦ではありません。」
「えー。97とかで正確にわり算できる自信はないけど。」
「まあ、でも、1000までの素数はある程度覚えてるので、3桁ナンバーならすぐに素因数分解できますよ。」
「へえ。じゃあウチのナンバーの5864を素因数分解してみてよ。」
5864。
4で割れる。
えーっと・・・。
「確か、733は素数なんで2^3×733だと思います。」
「あ、そう。間違ってるかわかんないからなんとも言えないけど。」
中多先輩は黙ってしまった。というか、なんで素因数分解の話なんかしているのだろうか。まあ、いいや。・・・。あ、7^3からだ。
「中多先輩。」
「ん?」
「中多先輩って本当は数学得意なんじゃないですか?」
「こいつは万能だからね。」
苦々しく唐津部先輩がそう言った。成る程、悔しいんだな。これは。
「まあね。一応、今までの定期テストは全部90点台だから。」
頭おかしい。
「そうそう。だから、勉強はこいつに教えてもらえ。私にできるのは声優当てくらいだ。」
確かにそれは需要がない。
「ねえ、木内君は好きな教科は何?」
「私は数学ですね。数学オリンピックに出たこともあるんですが、予選で落ちました。」
「予選で落ちたの木内君が出来なかったのか問題が難しいのかどっち?」
「問題が難しいんだと思います。20問くらいあって4問程度正解すると決勝進出なので。」
「へえ。よし、出て見ようかな。」
「あ、じゃあ私も出よう。今年こそ決勝に行きたいですから。」
「おーい、ここは文学部だ、ぞう。パオーン。」
棚島先輩が呼び掛けてくれたお陰で漸く文学部だということを思い出した。
「そういえば棚島先輩は何が得意教科ですか?」
「日本史。覚えるだけだから。」
それは日本史の先生に喧嘩を売っているのでは無いだろうか。
「世界史だと片仮名ばっかで混乱するんだよね。ピヨピヨって。」
「それはわかります。」
「だよね、混乱するとピヨピヨってなるよね。」
「そこじゃないです。」
棚島先輩はえー、と言って不貞腐れた顔をした。