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幕間:永遠の意味を知った日

 私の幸せは何処にもない。私が愛したものは何処にもいない。私が求めたものは何処にも存在しない。

 私には何も残されていない。何も残されていないのならば、もはや世界などどうでもよい。何ひとつ残らずこの足で踏み潰してしまおう。誰も彼もを平等にこの手で踏み躙ろう。それが、私が抱く憎しみの理由だった。正しいと信じて疑わなかった。それなのに。

 初めて見た。あんなにも曇りのない、まるで晴れ渡る空のように澄み切ったつぶらな瞳を見たあの日、私は己の真の願いを知ったのだ。


 太陽が沈み、燃え尽きる寸前の空から身を隠し、大木に身を委ねた。

 剥き出しにした掌から生暖かい液体が零れ落ちた。粘り気のある液体を服で拭う。当然衣服にも滲んだ。それで良いと思った。どうせこの程度の衣服なら代わりは幾らでもあるのだから。

 有り体に言えば、だ。また私はこの手で人を踏み躙ったのである。度々思うことがある。人は何故こうも欲深いのか。何も知らなければ幸せになれたものを、どうしても知ろうとする。今回もその類だった。嗚呼、とても愚かで、とても愛らしいとすら感じた。踏み潰す行いに躊躇いは無いのに、僅かな憐れみが私の道を閉ざしてしまう事を知った。

 だから言い切れる。答えは否だ。知らなければいい事ほど知りたがるのが人間である。恐怖からなのか好奇心からなのか、それはもう分からない。故に己の行いに一片の後悔などなく、胸を突き刺すような罪悪も特に無かった。

 一方で胸の空くような清々しさだけがあった。曇る視界が広がるような、そんな錯覚を覚え、口元が吊り上がる。その様は雨上がりの青空によく似ていた。雨が降ると、外に出れないね、などと俯きながら言う、幼い声を何処かで聞いたような気がした。


 私の住む世界はあまりにも殺伐としていた。荒野を耕すようなもので、混沌を極めていた。今思えば国としてひとつになろうかと模索していたのだろう。理想はひとつになった国で豊かに生きていく。本当に理想だけを詰め込んだ伽藍堂だった。空腹では歩けないように、名誉を渇望する者は大勢いた。

 渇望した結果、人を■し、人に■され、歴史に■される。繰り返しだった。壊れた音響機器の不協和音を耳にしながら生きてきて、私も例外無く■されたのだ。私の理想や願いは無価値なものとして排斥され、月日が経った今では私の名があったことを知る人も少なくなっているだろう。

 多民族が縦横無尽に動く行いを許すほど世界は甘くなかった。強くなければいきていけない。ただそれだけの話なのだ。それこそ、よくある魔王と勇者の話のようなことが現実で起こったといえば綺麗にまとまる。

 私もその歴史の最中に在り、そして何もかもを踏み台にしたが、踏み躙る者の存在など一々覚えていない。

 ただ、明確な違いがあった。

 その時には少なくとも罪悪感や憐れみは残っていた。祈る行いさえ躊躇いもなくやり遂げた。誰もが私を憎んだだろう。誰もが私を恨んだだろう。いつか、と決意しただろう。その日が遂にきたと言われればそれまでだ。

 そして、私は遂に誰かに踏み台にされたのだ。


 私を踏み躙るのであればこれほどまで何かを憎むことはなかっただろう。だが、私の大切な世界は戯れに破壊されたのだ。せめて私の世界が欠片でも残っていればよかったのに、欠片すら残されることを許さなかった。他の者は欠片でも世界を残されたのに、私の世界は何処にも残されていなかった。

 私の世界を根こそぎ破壊した歴史を憎んだ。

 


 絶対に赦しはしない。お前たちが破壊するのならば、私も同じように、何もかもを滅ぼしてみせよう。何もかもを焼き尽くしてやる。この大地が荒野になるまで、決して私は赦さない。

 この胸にある怒りが、何故こうも無限に湧き上がるのか、あの日まで私は終ぞ知らずにいた。



 ある日のことだった。それは、夜も更けた頃、だろうか。とにかく暗い闇が続くばかりの日だった。

 森林が闇に覆われる様を見上げながら、何をするでもなく空を仰いで立っていた。

 始めは開けなかった視界にも大分慣れてきた。かつての自分はこのような闇の中を歩く事は無かった。日が落ちる前に帰路に着き、それからずっと他愛ない話を聞いていた。何不自由なく暮らしていたのだ。身を寄せ合いながら、それなりに幸せだったのだ。

 こうして、今になって夜の道を歩く。初めて見上げた月明かりはほのかに淡く光る。しかし、存外明るいようで道筋を照らすくらいには眩しいと感じたものだ。同時にこの光を何故森林は隠してくれないのかと項垂れたほどだ。

 もちろんそれはただの戯言だ。もう手遅れである事実に何ら変わりは無い。もはや、後戻りすら出来ない。この掌も、この服も、もう焦げ付いた匂いが染みつき、決して落ちない。だからこそ、せめてもの憐れみを望んだ。

 滲むような紅を隠す暗闇を切望し、闇の中に己の姿を隠した。

 ここまで来るのにこんなにも短かったのだろうか。それでいてここまで辿り着くのに随分長い時が経った気もした。感慨深く思いながら、私は遂に踏み台にした忌々しい有象無象の顔を鮮明に思い描いた。

 聖女のように祈りながら傲慢な欲を露わにした女。祈りを正当化する姿に怒りを覚えた。傲慢だ。その理由を知れば知るほど、必ずこの手で終わらせてやりたいと願う程には。

 次に思い起こした者がいた。あの青い空を望みながらそのようにあれと請われ、人々の望みを懸命に叶える人の姿が蘇る。思い起こすまでもなく脳裏に刻まれている。そういえば傍らに無邪気な幼子もいた事を思い出した。その子を思い出した瞬間に閃光が奔る。

 憎い。何もかもが憎い。今すぐこの手で汚してしまいたい。壊してしまいたい。傍らにいた幼子を思い出した瞬間に抱いた感情の理由はもう分からなくなってしまった。


 月明かりがひときわ眩しい夜のことだった。大木に身を委ねて時間が経ったのだろう。少し身を起こし、道に視界を向ける。

 人影が見えた。その影の正体は年端もいかない少女であった。何故ここに?

 理由を問いたかったのかもしれない。或いは、ただ彼女の声を聞きたかったのかもしれない。もしも、彼女が。

 しかし彼女は顔を歪めて一心不乱に歩いている。目的地も定かではなく、そもそも衝動的に飛び出したと思われるような格好をしていた。

 いても立ってもいられず、彼女を引き止めるように声を掛けた。

 ただ、声を掛けただけでなく、日に当たって焼けている手首を強く掴んだ。その手首は思った以上にか細く、少し力を入れただけで手折れそうな脆さだった。もう少し力を加えて、手折ってしまおうか等と考えてしまう。そうしたら彼女はこのような危険を侵さずに済むだろうか。

 腕を引かれた彼女は一瞬だけこちらを見て、僅かに目を見開いたが、すぐに口元に笑みを浮かべ、身体を撓るように甘えてきた。拙い声色が色を露わにする様に今度は自身の身体が強ばるのを感じた。

 土仕事をしてきたであろう傷だらけの手と、年頃にしては些か幼い肢体を目の当たりにして視界が真っ赤に染まった。

 色も着いていない麻布を懸命にドレスに見立て、腰には麻袋を吊り下げていた。それなのに扇情的な様を曝している。

 それなのに清廉ささえ醸し出す彼女の姿に激しい怒りを新たに覚えた。



 そのような生き方をさせたかったわけではない。

 そのように振る舞う必要などなかったはずなのに。

 そのような生き方をさせてしまった事実が、堪らなく悔しかった。



 そして私は、そのような振る舞いを躊躇いなく行う彼女に端ない欲を抱いたのだと知った。激しい怒りの後には強烈な嫌悪が沸き上がる。色から程遠い格好をしていながら、光を湛えた目がこちらを見上げる。

 このような衝動など今すぐ無かった事にしてしまおう。彼女は色を覚える存在ではない。

 そして、私は彼女をこのようにさせた世界の滅びを心底願った。ただ、それだけを願った。



 あれだけ危険だと言い聞かせ、彼女をどうにかする素振りさえ見せたのに、彼女ときたら飽きもせず私の元に来た。もうすっかり夜にも慣れたようで出歩く事に一切の迷いも見せなかった。元々大胆な行いをする彼女の豪胆さには肝が冷えるものだと溜息をついた。

 そんな彼女が私に振ってくる話の内容はどれもこれも他愛のないもので、最初のあれは何だったのかと首を傾げるほどには他愛ない話題ばかりだった。


 今日は野菜が実った。

 今日は庭に花が咲いた。

 今日は花を摘んで花瓶に入れた。

 今日は新しい種を撒いた。

 今日は美味しいものがたくさん食べられた。


 花の名前は、と聞けば首を傾げ、花の色は、と聞けば雲のように白かったと答え、青い花はないのかと聞けば困ったように笑った。

 野菜の味を聞けば美味しかったが少し苦かったと答え、人が常にいることで食事が楽しくなったと答えた。

 花を摘んだ理由を聞けば、部屋が殺風景だったから飾りたいと答えた。

 新しい種は仕入れた中にあり、土に撒いて水をあげればまた実ると教わったらしい。その種を撒いたこともあっさり教えてくれた。


 どれもこれも在り来りで、ささやかな幸福だった。たったそれだけの事で喜ぶ彼女の健気さに腹が沸き立つのを覚えた。

 ああ、土まみれで埃を被ったまま夜を歩くなど、無謀にも程がある。

 もういっその事、沸き立つ何かに身を任せて実行してしまおうか。

 そうだ、いっそひと思いに彼女に抱いた欲を、此処で晴らしてしまおう。

 きみなら、受け止めてくれるだろう?


 そっと、彼女の髪に触れ、耳に掛けた。おかげで彼女の瞳がよく見える。落ち着いた色が月明かりを閉じ込めるような輝きに目を細めた。

 そのまま、膨らみを持った頬に触れると、流石に驚いたのか身を捩る。

 だが一歩踏み込めば彼女はいとも簡単に、本当に容易く捉えられた。

 闇に浮かぶ月明かりを眩しいと思ったが、揺れる瞳はいっそう眩しくて、宝石のように綺麗だった。ずっと見ていたかった。

 少しだけ震える口に指を伸ばすと柔らかく暖かった。こんなにも暖かな体温を持つはずの彼女は一瞬だけ項垂れたように見えた。その瞳が影に覆われる事を恐れたこの両手を伸ばして頬を包むと、彼女はゆっくりと身を寄せた。年端もいかない短い腕ではこの背に縋ることも適わないのか、胸元に手を当てて自ら頬を寄せてくれた。

 ああ、何故か知らないが、何故か手離したくない。

 もう、このままこの子を暗闇へ連れ去ってしまおうか?

 それともこのままこの麻布を破り捨てて春色の衣でも着せてしまおうか?

 細い左手の指を噛んでしまおうか。声を発する喉元に喰らいついてしまおうか。沸き上がる欲望のまま、緩慢に彼女の喉元に噛み付いた。

 彼女は耐えるように目を閉じ、縋る。啜るような音を立てて薄い皮膚に歯を立てた。首筋にも、胸元にも、腕にも。

 そして何も嵌めていない左手の指を甘く噛む。痛みにうめく声を聞いて顔を上げると、彼女の青白い肌には薄らと赤い痕が刻まれていた。

 欲望をひとつ叶える度に更なる望みが増え、望みを叶えるために求めるものが増えていく。際限なく増えるこの衝動の名を、どうしても知りたくないと思った。


 ただ、彼女とひとつになる永遠だけを、心の底から求め、欲した。


 春色のきみよ。童心のきみ。

 きみは、他の誰にも渡さない。

 この両腕で、きみを此処に繋ぎ止めておこう。

 例え世界が、きみを求めたとしても。

 きみが、世界の望みを叶えたいと願っていても。

 この愚かな世界が、きみを煉獄に突き落とすなら、いっそ私がきみの胸に銀色の刃を立てて永遠にしてしまおう。


 闇に浮かぶ月よ。私の往く道は好きなだけ照らすがいい。

 だが、夜に現れる月よ。

その明かりで彼女を暴くことは断じて許さない。もしもこのまま彼女の美しさを照らすというならば、彼女の持つ美しさをこの手で破壊して、二度と照らさぬようにしてしまおう。

 彼女だけは、この暗闇からも、淡い月明かりからも隠してしまいたいと願ってしまったのだから。


 神よ、私を憐れみたまえ。

 私は、今この時だけでも、彼女だけは。

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