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第五章:もう独りの継承者

 祈りの声がか細く礼拝堂の中に響き渡っている。救いと絶望が入り混じる厳かな空間で口々に賛歌を謳い生を乞う大衆の群れ。そこに現れた群青の聖職者によって空気は一変する。

「フレア様……!」

 傷病人がいると聞いて職人たちを連れてやってきたのは聖職者だった。

「もう大丈夫です。じっとしていて」

 天使のような可憐な声で傷病人に薬湯を飲ませると痛みに呻く声が収まった。安らかな表情を目前にしてしばし彼女は目を閉じる。傷病人が発生するたびに呻きと静寂は交互に繰り返された。

 一定時間経ったところでフレアは傍らにいる聖職者に視線を向ける。先ほどの群青の聖職者と今の彼女の表情は似て非なるものだったと記憶する。

「フレア様、大都市にいる秩序者から便りを頂きましたが、大都市の者達も次々に病に伏せては呻くようになったそうです。その後は殆どの者が助からない、とか」

「……外なる神≪アザトース≫の仕業って噂されているのかしら」

「そのようです。最も呼び名は様々ありまして黒魔術師や黒衣の男、災厄者などなど……ただ、大都市では専ら魔王の仕業と呼ばれているそうですが」

「……魔王……」

 フレアの表情に陰りが見えたところで聖職者は一旦沈黙を選んだ。最もそのような虚飾がハロルドに通用するはずもなく、その者にとってハロルドは脅威に映ったから排除したのだろう。

 ただ、その≪魔王と呼ばれた者≫が息絶えたハロルドを横たわらせていることにフレアは複雑な心境を抱いている。

 人が織り成す煉獄によって焼かれ、人が織り成す煉獄を再現しようとする魔王が、ハロルドを横たわらせるなど敬意を表する以外の意図が見当たらない。

 同時にそれはハロルドを守り切れなかった無念を再び呼び起こすに過ぎずフレアは己の無力さに絶望した。

 あの秩序者が保護した者なのだ。表面的には『巨悪に立ち向かった勇士』真相は『悪を知り善を成す』存在なのだ。

 もちろんこの世に悪など存在しない。逆に善も存在せず、善悪は時代を動かす人の群れが決めるのだ。

 その時代の善悪とは使命と信念なのだが、ハロルドは相反するはずの属性をうまい具合に纏められる力があるのだ。

 それに彼は『過去に起きた惨劇の元凶を暴き出し、悪だけを取り除く』という偉業を成し遂げた。勇士が勇士として語り継がれるのはハロルドの功績であった。

 人が織り成す煉獄によって貶められ、人の群れで煉獄を形成する魔王もその辺りはよく理解しているのだろう。ハロルドを排斥したのはやむを得ずといったところだろうか。

「そのまま、傷病人のことをお願いするわ」

 風が静かに吹いている。窓を叩いて自身を訪ねるように。

「御意、フィリア様」

「その名は……」

「フィリア様、どのみち地獄への階段を上っている身です。群青の聖職者として振舞うより鮮やかに散りたいと願うのは私の我儘でしょうか」

「……傲慢だわ」

 振り返ることなく咎めたフレアの声は僅かに震えていた。

「私は、フレア・ハーバード。聖職者として生きて、これからも祈りを捧げていく身よ」

 淡々と吐いた決意こそが悲劇の根源だと知る由もない。

 相対する聖職者は無言で踵を返し、再び傷病人の手当てに従事することにした。

 既に焼失した名をまだ慈しむ従僕たちにフレアは単純な尊敬の念を抱き、ふと己の視界に入った両手を見つめて彼女は薄い絶望を咀嚼していた。

 恒常的な絶望の毒酒には慣れたと思い込んでいたが、その実両手に握りしめている己の心が殺されそうな危機を感じていた。

 この手で抱けるはずのささやかな幸せは自らの手で壊してしまった。一時的な正義の為に打ち砕いた。

 彼の人が報復を謳うのは当然の権利。かの人が復讐を謡うのは当然の報い。彼の人が仇討を詠うのは当然の義務。かの人が再挑戦を謡うのは当然の真実。

 事実この王国も口にこそ出さないがかの人の報復をある種容認しているのだろう。もしかすれば諦観しているのだろうか。この手で奪った幸福を取り戻さんと憎悪を以て焼き尽くすのは道理として共感できる。

 ただし、そこにあるのは光も明かりも見えぬ煉獄だ。

 こうして自身が聖職者として僅かな灯を守っているのも卑しい人間の性だ。この仮面を良しとし光を守らんとする己の卑しい心がどうして聖職者になれようか。

 自らの本質を変える事はできない。仮面を被ろうが破壊しようが身に付いた本質を変えることはできない。祈りを熱心に捧げてもその中身は自身の欲望で満ち溢れている。

 散々己が目でまざまざと見せつけられた事実を目の当たりにして静かな絶望を掌で転がす。祈りを熱心に捧げようが結局人はわが身が可愛いのだ。

 レイザが絶句し、立ち尽くす姿を見て自分はどう思ったのか。力になりたいと言ったレイザの瞳は確かに真摯に言っているのだろう。その言葉の力強さは彼が大人になった証だ。

 レイザの成長に置いて行かれたのは自分の方だった。それでもレイザは愛らしい女神の子。どうしてもレイザに頼るという選択肢を選び取ることはできないでいる。レイザ達を守りたいというのは本心であって真実ではない。

 二重の意味が捻じ込まれている言動をとっているのも自分がいちばんよく分かっている。その二重の言葉の意味を重んじるばかりに報復の火種を撒き散らした事実もとうに理解している。

『フィリア・アインシャ・トールス』

 これこそが彼女に与えられた名前だった。最も名前に意味はなく、栄光の礎として与えられた称号のようなものだ。元々は小さいながらも王家の礎を守るべく理想に燃えた一族だがアインシャの力で這い上がることは不可能であり、理想もアインシャのままではただの偶像崇拝に過ぎない。

 生まれた時から雷神の従僕として仕える事を約束されてしまった小さな一族はトールスの掲げる焔として飛散する宿命にあった。そういう生まれであり土壌なのは理解している。

 だが、女神に謁見する機会を得てしまったのが一族の破滅であり栄光を夢見るきっかけでもあった。欲深くなってしまったのだ。

 歯車としての人生を享受しておけばささやかな幸福はあっただろう。しかし、女神をこの身にかけて守りたいと思うあまりに彼女の心に近づき触れていく。唯一無二の存在として女神に認められた時、どれほど喜びに満ち溢れたかもわからない。

 何があっても、この手が血に染まっても守ってみせる。

『何とかするわ。だから泣かないで』

 女神の苦悩に触れた時、衝動のままに抱擁する。純粋な親愛だけではない。仄暗い欲望も中心部に宿っていた。曲線を味わい熱を啜りながら堕ちる夢想など知ったら彼女はどう反応するか。

 まあ恐らくその結末は火を見るよりも明らかなので仮面を被る決意を固める。今となっては浅はかで中身の伴わない空虚な決断。手の込んだ自殺行為。

 己が身の破滅であればまだよかったものをたった一人の決意がアインシャと言う名を消してしまう結末へと舵を切ってしまったのだ。

『それでも生きなさい。フィリア、君は誇り高い人だ。君の名は今日からフレア・ハーバードだ。誇り高い聖職者。いいね、君はまだ必要とされている。決して負けてはならない』

 理解を示してくれた秩序者を初めて神だと信仰したものだ。それまで大都市の第一線を走る秩序者の寝首を掻かんと牙を研いでいた己が身の卑しさに嫌悪する。

 こうして聖職者フレアとして人を救い、与え続ける人生が始まった。群青の衣を身に纏い恭しい宣誓を捧げる慎ましやかな偶像。

 これこそが『フレア・ハーバード』であり、小さな教会の礎を築く基盤となった。けれども自身の決意がどれほど悲壮なものだろうとハロルドが罪だと断ずる事象を侵した事実は消えない。

 あの使命に燃える姿と真摯な瞳を妬ましく思い、自身の哀れさを演出して奈落へ引きずり落しただけなのだろう。その浅ましい演出を慈しんだハロルドの誇り高さを未だに妬んでいる。

 ハロルドという若き勇士を喪った悼みは確かにあったが歪な悲しみもあったように思う。何故自身を慈しんだのかという問いかけに答えられる彼はもういない。

 レイザのあの姿も果たして理解できたのだろうか。正しくともいかないが凡そな正確性を以て理解しようとしたのか。否、そこには常に自身の正義がある。レイザから情報の半分も受け取っていたか。自問を繰り返すも自答がないことがもう自分中心である何よりの証明。

 影に生きるための宿命を享受しながら焔として飛散することを決意し雷神の如く奔り抜けて一瞬の喜びの為に鮮やかに燃える。真名にはその宿命を彫り込まれたがゆえに憎悪し、仮名に彫り込んだ夢を愛していた。

 たとえ偽りだろうと構わない。正しいと信じていいのならばどのような過去も罪も否定してみせよう。

 かの者が正しさを信じ正していくならば自身は否定を掲げて立たなければならない。正しさなどどこにもないのだ。そう、負けてはならない。

「思い知らせてやるわ。そう単純にはいかないのよ、ゼーウェル」

 口角を吊り上げて微笑む姿は群青の聖職者からは程遠く背徳を吐き捨てて礼拝堂へ戻る。その時の彼女の横顔はまさに『悪魔』に相応しい儚さと恐ろしさが入り混じっていた。



 レイの様子がおかしい。どこが、と言われたら明確には回答できなかったがおかしいという違和だけがいつまでも頭に残って消えないのだ。その違和はレイを寝かしつけた後からだった。

 元々外に出る事が好きであろう彼女が目を覚まして外に出たことは特段気にするものではなかった。彼女に異変があったと気付いたのは外から戻ってきた頃からだった。

「レイ、気分は落ち着いたか?」

 有り触れた問いかけをしてみた。レイは至って普通に「つかれていたから眠っていただけよ」と微笑んだ。何も変わらない会話が繰り返される。しかし、レイの顔色や声に少女らしい覇気が全くない。生彩と言ってもいいのだろう。元より外は好きだが活気がある性格ではなかった。

 大人しい女の子。しかし、それらを加味しても今の彼女からは生気が抜けている。寸でのところで踏み止まったという有様に見えた。

 内部に致命的な傷を受けて満身創痍の彼女だが何らかの感情だけで命を繋ぎ止めていた。彼女を元気付けたかったがどうすればいいのかもわからないまま時間だけが過ぎていく。途方に暮れたレイザは迷った末にいつも通り台所の片づけをする事にした。

 フレアは大量に料理を作っており、切れ端の野菜と新しく入ってきた肉と魚を果物やワイン、黒コショウで味付けをしており、どれもこれも美味しかった。だから今日も同じように美味しいものを一緒に食べればレイはまた笑ってくれるだろう。

 フレアもきっとまた笑ってくれる。レイザは確信のない自信で日常生活に臨んでいた。

「レイザ、もしかして晩餐会かしら?」

 レイが食事の匂いにつられてやってきたようだ。しかし、職人の話を聞いてレイザはレイの繰り出す単語にある真実を見出してしまった。晩餐会などという単語を知っているのは彼女の身分の高さを物語っている。そして、その単語は。

「水でも飲むか?」

「ううん、いつもはねワインかミードを飲んでいるの。今日はミードがいいわ」

「……大都市では薬のようなものだと聞いたが、どこか体の調子でも悪いのか?」

「ああ、大都市では水薬のようなものだという認識なのね。蜂蜜を混ぜるのだけど甘くておいしいの。でもフレアは赤ワインの方が好きって言うわね。私はロゼしか飲めないのだけど」

 彼女の繰り出す単語は自分の舌に馴染まなかった味で、高貴なものだとされている品ばかりだ。生涯飲み下すはずのない高貴な単語を体に馴染ませているレイの生まれは凡そ察した。それでもフレアを問い質す気にはなれなかった。

「今は、甘いものを飲みたいのか?」

「本当はね、赤ワインの気分よ」

 水などとても飲めるような品ではない。何故なら長年王宮に納めるべく水に手を加え、果物を漬けて発酵させ、果実を絞って出来上がった品を感慨深く眺めていた。もちろん王宮に納める品を口にすることは許されない。

 生み出す苦しみを知らぬまま紫雨を享受する王宮を恨み、腹に怒りを湛えて生きてきたのだ。あの職人がフレアを嫌悪するのは『フレア』ではなく『統率者』だからだ。あの職人はレイであれフレアであれ『統率者』に対して怒りを剥き出しにするに決まっている。

 レイザもまた職人側の人間なのだ。そして、職人やレイザが享受するのは価値のない果物を搾り取った甘い液体だ。それでも水は生きていくのに必要なのだ。王宮にとって無価値だとしても。

「そういえば、ワインは愛の語らいによく使われると聞いたが」

「ええ、誓いの場ではワインを注いで飲むのよ。私はまだそのような儀式を上げたことはないのだけど」

 これが、意識の剥離というものだ。

 レイザが東の地へやってきて気付いたことはいくつかあった。流通が途絶えた土地だから人々が身を寄せ合って知恵を総結集させて生き延びている。水をどうにかして飲めるようにしたり切れ端の野菜をスープにして味付けしたりする。

 それは大都市では失われた技術であり生命力でもあった。多少手を抜いても流通が途絶えない大都市は専ら麦を発酵させるか葡萄を発酵させるか、である。その麦も葡萄も大半はこういった名も無き集落に依存している。

 愛の誓いなどする暇もない。田畑を守るために身を寄せ合って家族のように過ごす。王宮にやってきて初めて華美な服を身に纏って言葉を交わすことが愛を誓い合う行為なのだと知ったのだ。

 それでも愛を誓い合う男女がワインを飲み交わすという知識は信仰心のないレイザでも普遍的な価値観として身についている。ただ、レイのように儀式として扱うことはない。もっと尊い眩しい鮮やかな旅立ちの始まりだと思っている。

 身を寄せ合って己が身を守る日々だからこそ愛の語らいは神々しいと思うのだろうか。

 そうだ、尊く眩い光を身に纏った初老の紳士が花の香りを添えた緋色の液体を振舞ってくれたことを思い出す。無論、その眩い光は大地に落ちたのだが、今でも花の香りが忘れられないでいる。

 グラスに注いだ色のない甘い液体を静かに飲むレイも自身の心の中にある眩い光を思い起こしているのだろうか。

 静寂に広がる眩い光を思うたびに胸が張り裂けそうになる。レイザの表情は厳かな悲しみを纏っていた。

 最も、レイはそのようなレイザの様子を知る由もなく薄い金色の液体を体内に流し込んだ。曇ったグラスの中で金色はすぐに溶けて跡形もなく消える。甘くて品のない液体は、それでも彼女の生命に力を施してくれたようだ。

「ねえ、レイザ」

 幾分か活気の戻った声でレイは口を開く。その間、レイザはずっと黙っていた。それが彼女の話の先を促すだろうと察したからである。

「どうすることもできないって本当にあるのね。どんなに望んでも、何もできない事があるなんて知らなかったの」

「……レイ?」

「今までできないことなんて何もないって心のどこかで思っていたの。信じていれば、祈れば救われる。与えられると本気で思っていたの。何の確証もないのに。だから、レイザが礼拝堂に来ない理由が理解できなかったの」

「レイ……」

「でも、祈るだけじゃ何も変わらないね。ただ受け止めるだけじゃ何もできないわ。力がない、なんて言い訳だわ」

 大人としての自覚と責任感がレイの言葉にはしっかり備わっていた。彼女が持つ無邪気さはどこに行ったのだろう。

 凛として瞬いている。レイザはそんな彼女を目前にして言い知れない寂しさを覚えた。

 そうだ、いつか瞬く日がやってくるのだ。

 それが生命であり『ライブ』なのだ。これが『クライ』今なのか。目を細めてしまうほどの愛らしさはすぐ地に落ちて枯れてしまう。

 慈しんだ偶像は踏みにじられる。もうそんな事実は嫌と言うほど思い知らされた。澄んだ空をもう何年も見た記憶がない。視界を覆うのは深緑ばかりだ。

「レイ、俺を見ろ」

 引き留めるように言い放ったレイザの鋭さにレイは僅かに驚いたようできょとんとしている。

「どうしたの?」

 何も変化がない。表面的には。

 それでも、確かな変化がこの凛とした光と言うならば。

「レイザ、話を聞いてくれてありがとう。おかげで調子が戻ったわ。もうすぐフレアが戻ってくると思うし、私、礼拝堂の掃除をしてくるわね」

 相変わらず表面上は少女のままだ。誰も疑わない。ただ、今まで活気づいたように見えて少し仄暗い彼女の真の明瞭さを目の当たりにしてレイザは得も言われぬ感情に悩まされてしまったのだった。



 レイザと分かれて礼拝堂へやってきたレイは疲れ切った顔で戻ってくるフレアと対面することになった。今まで、フレアの表情を正面から見たことはなかったように思う。

 ああ、自分の目は曇っていたのだとレイは己の愚かしさを知り、フレアを都合のいい偶像に見立てて崇拝していただけなのだ。

 そうだ、フレアに信仰心などない。疲れ切った表情がその事実を物語っている。ただ、何らかの罪悪感から信仰心を持つ羽目になったのだろうと予想した。

 それでもレイはフレアを憎むことができない。憐憫が、恐怖が、苦悩が、悲劇が、全力で渦巻いて逃げられない。

 本の中にある記述こそがこの教会の真の姿なのだろう。敗者ではないと宣誓するためだけに巧妙に罪を擦り付ける。生まれる命が祝福されるべきなどという文字は偽りだ。

 或いは偽りよりもはるかに空想じみている。力なき存在をこの者達は消し去った。それでも、自分はフレアを憎めない。

≪全力で憎めたら、まっすぐと走れたのに≫

「フレア、どうだった?」

「ええ、心配してくれてありがとう。村の人たちは何とかなったわ。でも皆が腕利きで私は何もできなかった」

「そうかな。フレアは温かいから安心できるもの」

 身勝手な癖に非道に徹せない。傲慢なのに感情的。利己的な癖に義理堅い。本の中にある文字を並べる神使いよりもずっと信じられる。

 そうだ。たとえ自分の心中にある愛と対峙しようとも。否、愛があるからこそ対峙する。

「フレア、もう休んで。いろんな人と会って疲れたはずよ。そうそう、蜂蜜と果物混ぜたら美味しかったからとても体に効くと思うわ」

「そう? そこまで言うなら……でも、レイ」

 フレアは悲しそうにつぶやいた。負傷者の状態はあまりよくないのだろう。そうだ、彼女は罪と向き合い過ぎている。逃げたら楽になるのに。

 それでもフレアは逃げない。それこそがフレアの誠実さを表現しているのだろう。だから、心中に芽生えた感情を勇気に変えてくれるのだ。

「レイ、たまには私に甘えてくれたらいいのよ。私、レイがいるだけで強くなれるの。でもレイの誇れるような母親には、なれないね」

「フレア、やっぱりつかれているのよ」

 彼女は自分に生きる勇気を与えてくれた。ならば最高の終わりを望むのは当然だろう。

 彼は逃げろと言った。しかし、フレアを見捨てて逃げたくない。母が犯した罪を娘が贖うのは義務であり、責務だ。他者が否定しても流れる血がそう叫ぶ。

 どうせいずれ朽ちる命なら、フレアの罪を贖うために使いたい。喪うものはない。

 背を向けるフレアの姿をレイはこの目に焼き付けようとずっと見送った。最後に勇気を振り絞る為に。

「どうか私に力を」

 初めて、自らの意志で女神に祈った。


 

 夜が来て、レイは自然に目を覚ました。今日も恐らく人気のない場所で彼は天を仰いでいるのだろう。

 夜を駆けていく罪悪感も背徳感もなくなっていた。最初はフレアの顔色ばかり窺っていたがそれはフレアに寄りかかっていたのだ。まだフレアの手が必要なのは理解している。

 それでもこの地を蹴って生き延びなければならない。フレアは自分よりも先にいなくなってしまうのだから。いつもは振り返っていた教会を今日は視界の端に映すことをしなかった。

 夜が悪い事ばかりではないと知ったからだろう。知ることがこれほど力強いと彼女は知らなかった。だから今は最高の気分だと心から思った。

 色彩が眠る野原を歩き、樹木の茂みを潜ればやはり彼は立っていた。出会った時と同じように僅かな光を並べるだけの空を仰ぎながら。

「ゼーウェル」

 すっかり口に馴染んだ名前を歌うように口ずさめば彼は緩やかな動作で振り返った。相変わらず夜のように暗く溶けてしまう彼の表情を捉えるのは難しい。それでも以前は曇っていたはずの視界が鮮明になっている。

 彼の左の瞳が血のように赤く焼けている。絶えず流動的で全身を駆け巡る赤だけは彼を正確に認識している。

 この紅が彼の力の源ならば人々が彼を恐れるのは仕方ないように思えた。人々はそして当たり前のように彼を悪と位置付ける。

 しかし、大衆の否定は彼の力を補正する源だ。無限に湧き上がる力が彼を悪に祭り上げるなら。

 彼は望まぬまま敗者として死を与えられた。あの本はその記録の一部だろう。彼が自分を連れて行ったのは敗者を知らないからだ。

 勝者ばかりを仰いでいたからだ。無知は罪という当たり前のことわざを追求したことはなかったが、これからも追及などしないだろう。

 これからも自分は逃亡などという選択をする気はない。理由はどうあれ敗者として憎しみを振りまく彼を止めたいのだ。

 否定が力の源と言うならば自分は全力で肯定してみせる。

「ねえ、ゼーウェル。いつも月を見ているけれどやっぱり好きなのかしら」

「……そんなことはない」

「でも、月を見上げているあなたってなかなか様になるわよ、ゼーウェル」

「心にもない事を」

「あのね、私、思ってもない事を言うのは苦手なの。それほど言葉に対する美意識なんてないわ」

「ならばもっと心を込めたらどうだ」

「その言葉、そっくりお返しするわ。ゼーウェル」

 いつもは隣に並んでいるだけの二人だった。お互いの顔を見る事もなくただ思考の欠片を花びらに変えて吐き出すような会話を繰り返していた。

 彼にとって自分は何でもない存在なのかもしれない。その可能性は限りなく百に近い。隣に並んで越えた夜を何度繰り返しても先に進むことができない。

 それでもここで空を仰ぐ彼を見ればまだ望みはあるのだとレイは信じている。小数点以下。それでもゼロではないというのならば信じてみよう。

 諦めたくない。明かりも差さぬ煉獄にあるその背は幻影に近く遠くへ墜ちていこうとする。ならば頂を目指してふたりで挑もう。

「私ね、もうすぐここからいなくなると思うわ」

 何でもないように言うレイの言葉にゼーウェルは身を強張らせる。緩慢に振り返った彼は僅かに驚いた顔をしてレイを見つめた。

「やっと、私にもできる事が見つかったのよ。ねえ、聞いてくれる? 子供の戯言だと思って聞いてくれるだけでいいのよ」

 意外にも彼は振り返って話を聞いている。ただの前置きで心を慰めようとしたのにどうにもうまくいかない。もう囚われてほしくないと言っているだけなのに。

 そんな表情をしないでほしい。幾ら叫んでも敗者である以上許されない者になってしまった。それでも捨てきれないこの想いをどうやって伝えよう。

 重なる手段も交わる術もない。理想で腹を満たせない。生きていく以上仕方ないとわかっている。それでも。


「愛しているわ、ゼーウェル」


 夢だけを見て、理想だけを追いかける愚かで愛しい日々を、叶うならもう一度掴みたいのに。

 今更振り返っても二度と戻らない。


 それが『クライ』で、これが『ライブ』なら、先にある希望の為に生きてみせよう。そうだ、この言葉は餞別だ。餞だ。

 そうだ、花向けは『ワーム』なのだ。まだここに花が咲くのなら絶対に生きていける。

 枯れた野に根を張る生命の輝きの前には善悪二元論など無価値に等しい。そうだ、まだまだ諦められない。

 光も届かぬ煉獄へ、挑んでみせよう。いたいけな瞳には清濁が満ちていて夜を仰いで祈っている。

「美しいな、君は」

 呆然としたまま彼は言葉を漏らした。拾われなければ生きていけなかったはずの、煤と埃と泥に塗れた子の姿は夜になってもまだ鮮明なままだ。

 彼女の無邪気さから迸るその輝きが憎らしくて堕落させたいと思った。卑しい劣情が正義の膜に押し込めてそう叫ぶ。

 それなのに彼女は一向に堕落する気配がない。この深緑に青空があると信じて疑わない。

 わたしの根底にある源も、派生した目的も、知っているはずだろう?

 それでも、なお、目前に迫る彼女は美しいままでいる。

 この小さな手が偉大な勇気を振り絞って花を贈ってくれたのだ。自分もこの心の中にある花を渡したい。そう、焼けて爛れて枯れたこの煉獄に未だ咲き続けている花を。


「レイ、愛している」


 たとえ世界に許されなくとも、烙印を刻まれて堕落していこうとも、たとえ世界が魔王として断罪しようとも。

 神よ、私を憐れみ給え。私は今この瞬間、そう、今この瞬間だけでも生きていたいのだ。世界が私を許さなくとも。

 虚飾と虚構に彩られ磔にされたこの名を背負って私は焼かれていく。無限の焔を世界に放って焼き尽くしていく。

 たとえ彼女が私を求めても、この刃を振り下ろさねばならない。その胸に刃を突き立てて停止を是として突き進んでいく。

 たとえ私が彼女を求めても、いずれ揺れる煉獄が彼女を礎にせよと迫るだろう。

 無数の煉獄が、無慈悲な監獄が、彼女を貪るくらいなら、いっそ私が彼女の胸に刃を突き立てて永遠にしてしまおう。


 気が付けば濃紺の色合いが薄まって陽光が仄かに射している。きっと、彼女が白と水を混ぜて幻影を見せてくれたのだろう。

 彼女の言う通り、今でも夜が落ち着くことに変わりはない。しかし、彼女の隣で並べば夜明けを見るのもいいだろう。

「ゼーウェル」

 彼女の声が忘れられない。

「……気をつけてな」

 彩花芽吹く道を歩く彼女の背を見送り続けた。焼かれるような熱量が心を食い千切って何度も叫んでいる。

 あと何度、もしもを並べたら叶うだろう。あと何度もしもを並べたら掴めるのだろう。目指す頂は遥か遠い。

 ずっと黒く塗りつぶされたはずの深緑に目を向ければまだ仄かな月光が自らを照らしている。

 この月光を浴びるだけの勇気がまだ自分には宿っていなかった。


 いつも、ゼーウェルに送ってもらっていた。そのことに慣れて感謝が足りなかった。恐ろしいはずの夜はどうしてこうも清々しいのだろう。

 どこからか響く鳥の声や風の音に怯えて背筋が凍ることもあったが案外容易く教会に辿り着いた。藍色に染まっている風景も野に咲く花まで染まることはなかった。

 濃紺の度合いが深くなるだけで花の色彩は今でもここにある。だから大丈夫だ。まだ頂を手にできる術がある。

 短いようで長い、永遠の時を過ごした気がした。仄かに照らす月光の下で深緑に覆われながら何度も越えられない夜を共に明かした。本当はもっと向き合いたかったのに、理解し合いたかったのに。

 この心にある苦しみが愛だというなら、その愛を花に変えて寂れた道に添えよう。

 愛しているから『クライ』と思う。次につながる『ワーム』を以て旅立ちを見送って羽搏いていきたい。

 たとえこの身が凶弾に撃ち抜かれようとも何度でも空を目指して羽ばたける。

 勇気を願い、祈れば幸せはもうそこにある。そう、この胸に。そんな思いで中に入った礼拝堂は神聖で厳かで心地よかった。神はこういう時に宿るのだろう。

 まだフレアは起きていない。夜明けまでもう少し時間がかかる。足音も立てずに通路を歩き、自室に戻ってすぐ寝床に身を沈めた。

 隣にゼーウェルがいればいいのに。一度だけでも構わない。抱き合って転がり合ってできるだけ隙間がないように身を寄せて――……どれもこれも幻だ。

 きっと彼は夜に溶けてしまいそうな人だから少しつめたいかもしれない。それでもつめたさを分け合えば満たされるだろう。

 ありもしない空想を並べ、有り得ない妄想を回し、実現しない夢を欲する自身の欲深さにレイは苦い笑いを宵に零した。

 それでもいい。窓から射す明かりが心地よいのだから。本当は隣にゼーウェルがいて窓から射す明かりを一緒に分け合えば強く在れる。

 こんなにも満たされて心地よい夜はあっただろうか。無価値だと思った花がこんなにも美しいと思った日はあっただろうか。もしあるとするならば彼からたくさんの花束をもらったからだ。

 もう逃げない。彼のやさしさに報いるためにも立ち向かわなければならない。何もできないまま指を吸って生きていたくない。今、自分はここに生きている。

 彼と会うまで、人生に興味もなく、大好きという言葉を無条件で差し出していた。外観でしか人を見る事が出来なかった。

 ああ、今、死にたくない。まだ生きていたい。そうだ、彼と戦うまで死にたくない。

 諦めるな、祈り続けよう。祈りは持っているものを形にするためにある。

「ゼーウェル、私は負けたくない。諦めたくないの」

 人々が紡ぐ虚構に怯えて負けたくない。等身大の彼の刃を仰ぐまで足掻き続けるのだ。その上で得た結果はどんなものでも受け止める。

 今でも愛し、これからも永遠に愛し続ける彼の刃に倒れるならば本望だ。もっと欲を言うなら彼の心を満たす『ワーム』であればいいのに。

 自分の命などと言う役に立たない何かよりも。どこまでいっても越えられない夜をふたりで越えてみたい。

 しかし、確かに彼はもうここにいる。今、最高の幸せだ。だからこそ自分は。

 目を閉じれば彼が口元を緩めて花畑で駆ける姿を追いかけていた。


 教会では朝焼けを拝むために先導者が一番先に起きて宣誓を告げるのが決まりだった。群青の聖職者はいつも先導者として朝焼けを迎え入れ、今日の健やかを願い、実りを祈る。

 最初は馴染まなかった習慣も長く続ければ身体に染み込む。フレアは手慣れた様子で目を閉じ、手を組んで祈った。その時間は数分にして永遠。胸の内にある願いだけが屍を積み上げるフレアの本物だった。

 あとはふたりが目を覚まして食事を囲むのを待つばかりだ。今日は何故かいつも以上に動いて籠の中にある野菜と赤身を取り出して裁いて火にかけてお皿に盛りつける。

 申し訳程度の建物に不似合いな白い食器は白亜の空間で不要だと断じられた物たちだった。無論その不要を叫んだ中には自分もいる。

 食事を作り終えて扉を開けて少し外に出るとレイが――背筋を伸ばし、真っ直ぐとこちらに向かって歩いてくるのが見えた。

 目を、疑ったのだ。レイは、まだ十分に日が昇っていない朝焼けに起きる事はない。レイの気が向いただけなのかもしれないが、フレアは何故か胸騒ぎがした。

 否定してきたはずの可能性が波を以て此処に迫っている。大きな決断を下さなければならないのだ、と。

 いつまでもこのささやかで平穏な日常が続けばいいと願い、長きにわたって叶ってきた。いつまでも共にいられたらいいのに。幾銭の夜を越えて永遠に共にいられたら。

 信じていたはずの幸せはもう終わる。真っ直ぐと歩くあの子の表情が終わりを示している。そしてもう一人、別の方向からやってくる。

「フレア?」

「……レイザ?」

「そんなに不思議なのか? もうそろそろ起きたほうがいいと思ったから来たんだ」

「そうよね。もうそんな時間だったのね。今ご飯できたの。食べて」

 慌てて平常心を装って声を掛けるとレイザは頷いて席に座る。最近は毅然と振舞えないことをフレアは気にしている。

「そういえば、レイが昨日辺り泣いていたが。何も聞かない方がいいと思っていたがフレア、何か知っているか?」

 レイが、泣いていた?

 不思議な事もあったものだと思い返すと同時にフレアは背筋が凍るような感覚を覚えた。

「珍しいよな、レイが感情を露にするのも」

 嬉しいような、切ないような、と、レイザは彼女の成長を複雑な心境で呟いていたがフレアには別の理由があるような気がしてならないのだ。それこそ以前妙齢の聖職者がいった『レイは利口だから』という文言が頭から離れない。

 レイザに聴けばいいのだが、彼の中にある面影を感じ取って声も発することができない。フレアの心情を察知はできないが機敏を感じ取れるレイザは何となく妙案を出した。

「俺が夜、レイの様子でも見ておくか。最近不穏なことがあったようだから不安になっているかもしれない」

「レイザ……」

 彼は知らないのだ。そして、知らないでいてほしいのだ。事件を起こした存在がどれほどの力を持っているのか。どれほどの憎悪と呪いを叫んでいるのか。

 フレアは尚も止めようとするがレイザは笑みを浮かべてフレアを見下ろした。

「これ以上、フレアの制止を聞くわけにはいかないな。例え、フレアの願いであってもだよ」

 なだめるように告げたレイザにフレアは血の気が引いていくのを感じた。ああ、この先にある結末は既視感がある。

「行かないで……ソフィア」

 美しい女神が背を向けて去るようにレイザは通り抜けていく。女神の残滓が消えたら、この心に点した希望が潰えてしまう。

 フレアの怯えを拭えぬまま食卓を囲む時刻がやってきた。


 朝食を終えて畑仕事へ繰り出そうとするレイザよりも先にレイが礼拝堂の床の砂埃を掃いていた。何も感じなかったこの清潔さや清涼さは名もない人々の努力の結晶で成り立っている。

 それに、箒を持つ彼女の背筋は今まで見た彼女の姿の中でいちばん凛としていたように振り返る。僅かな驚愕を纏ったままレイザはレイに声を掛ける。

「フレア、もう起きていたのね。相変わらず早いわ。たまにはフレアが休めるように準備しようと思ったのだけど」

「俺もフレアが休めるように準備しようと思ったがもう朝食の準備を整いきっていた。取り付く島もない」

「フレアはそういうひとなのよ」

 困ったように微笑んだレイの面影を上手く処理できない。子供らしい愛くるしさが花綻び羽ばたこうとしている。

 レイはそれ以上何も言わず、レイザが何か言うのを待っていた。

「レイ、最近無理をしていないか? もし何かあったら言ってくれ」

「ええ、ありがとう。嬉しい! でも、今のところ大丈夫よ。こう見えてひとりでたまにはきちんとしないとすぐ甘えてしまうから」

 レイザの厚意を受け止めた上で彼女は箒を立てかけて祭壇の上に置いていた布を取りに行った。

 一瞬だけ見せたあの繊細な姿をひた隠しにしてフレアもレイも日常生活を送る為のレールを敷いている。

 自分は何も知らないままレールをただ走っていただけなのだ。己の弱さを盾にして生きてきた。

 それでもあの時得た力は決して無駄ではないと断言できる。結果的に人の命を奪ったとしても刃を奮えるだけの力と精神力は此処にある。

 あの子がそれでも信じ、傷つけたくないというならば、この刃を以て傷つける責務を引き受けよう。一方的な施しで上等だ。

 この刃にかけて、あの子を守ることができるなら。

 唐突に大都市の光景がよぎった。姿なき無数の黒が蠢いて人々を恐怖させ死を与えているという伝承を実行した光景を。

 あの黒は命を吸い上げて闊歩している。そして、伝承に免罪符を見出していた頃の己を重ね合わせる。

 そうだ、どのような理由があれど命に身分や階級などない。だからこそ命を奪う行為に正義などないことを知っている。

 もし、あの黒が目前に現れ、この地にいる人々を傷つけようとするならば自分は対立しよう。例え己の今までの行いが悪だと断罪されても。


 レイが去った後の礼拝堂は陽光を浴びて朝を感じる事が出来た。まだ眩しく感じる陽光をいつか尊いものだと言える日が来ることを願っている。

 今日の空は雲一つない青と太陽でいちばん輝いていた。

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