第四章:追落夜想曲
窓から差し込む陽光で朝を迎えた事を知るレイは暫し考え込んで、やがて首を傾げた。
不思議なものだと思ったのだ。いつもは自分が先に起きて窓から差す陽光を浴びながら神々しく聳え立つ偉大な女神に祈りを捧げていた筈なのだ。
その後、フレアを呼んで教会の掃除や食事の準備を済ませる。そして、食事の準備を終えて一緒に食べる。それが一日の始まりだった。
フレアは今や権力を持つ聖職者であり、彼女よりも先に起きる事が自分の役目だった。何故なら自分は聖職者に仕える存在だからだ。
彼女は神の代行者。彼女が代行者として其処に在るからこの教会は神が与える恵みを受け取る事が出来る。そう、教えられた。
しかし、今日、レイはその教えを破ってしまった。それも全く意図しない理由で、だ。あの夜の事は今でもはっきり覚えている。
神に仕える者は欲を抱いてはならない。あらゆる欲望は神を搾取し人格を喪う禁忌とされている。凡庸な欲望を抱かないからこそ、神の使者に相応しい、と。
――本当に?
レイは疑問だった。あの夜、黒を纏う彼に出会った。表立って受け入れる事はせず彼の誘いを理性を以って拒否したが本当はそのまま彼の指す戯れを実行してもいいと思ったのだ。
説かれる信仰がレイの心に馴染むことはなく、心の奥底ではまた会いたいと願っている。もっと踏み込むなら――と、思い立ったところでレイの思考は停止した。扉を叩く音がしたからだ。ここに来る人と言えばふたりしかいない。
そして、その声は今やレイにとって聞きたくない後ろめたい人のものだということも分かっている。レイはどうにかしてその後ろめたさを隠し、部屋へ招き入れた。
「すまなかったな、ちょっとレイと話がしたくて来たんだ」
「気にしないで、レイザ」
レイザに対して後ろめたい思いを抱くのは単に身勝手な理由からだった。彼を妬ましいと思ったからなのだ。フレアはレイザの前では単なる母ではなく弱さも強さも内包する人間でいられる。自分の前にいるフレアはどこまでいっても母親なのに。
悲しいことにフレアの弱さを受け止められるだけの力がレイにはない。血は繋がっていなくともフレアを愛する気持ちは誰よりも強いと思っていたのにフレアは自分の前で母親という看板を下ろすことができないという現実を知った。そのようなこと、知りたくはなかったのに。
母親は、いつまでたっても母親なのだ。娘は、いつまでたっても娘のままだ。
「フレアは先に食事を済ませたそうだ。外にいる人と話したいからと。だから俺が中にいることになった」
「そうなの……フレア、最近になってからよく外に出るようになったわ。今まであまり外に出る事はしなかったから」
聖職者の職務はどのようなものなのか、実際のところレイは多くを知らなかった。神の代行者として教えを説くという抽象的な役割しか知らないのだ。ただ、フレアは自分の身体を酷使している印象がいつもあった。いつか、彼女は消えてしまうのではないかと幼心に不安はあった。
最近、その不安は色濃くレイの心に重石となって襲い掛かっていた。すると、レイザも肩を落としながら口を開いた。
「レイ、俺はフレアが心配でならない。何か出来る事はないかと言ってはみたが曖昧に笑って答えなかった。案外頑固な性格なのか、笑って返されて正直取り付く島もない」
落胆するレイザにレイはまたしても後ろめたさを覚えた。レイザはただ優しいだけなのだ。ただ、フレアを心配しているだけなのだ。それでも心に渦巻く暗い気持ちは変わらず存在している。
彼がやってきてからそれほど経っていない。少なくとも自分とフレアが過ごした時間よりもレイザとフレアが共有した時間は少ないはずだ。それなのにどうしてフレアの事を知ったように言えるのか。自分の方がフレアを見ているのに。
負けた。悔しい気持ちがレイの心に重石となって拗れていく。ただ、彼女の理性はレイが思っている以上に機能を果たしていたようで、あることを思い起こしてもう一歩踏み込んだ。
「レイザ、どうして聖職者って言わないの?」
彼が此処に来てからそれでも大分経つ。それなのに彼は《聖職者》という言葉を決して使わない。その使わないというレイザの意思は誰にも壊せないほど堅いものではないかとレイは思ったのだ。
思えば彼には此処に馴染もうという気配が一切も感じられない。跪いて祈る姿を見た事もなければ聖職者と会話するところも見た事がない。祭壇の前に跪いて祈りを捧げる事が日常であったレイはそれが当たり前だと思った。自分も、何の疑いもなく祈ってきたのだ。
祈る行為にどのような意味があるのか、レイには全く分からない。フレア曰く女神様はいつも見守っているから祈ることで感謝の念を示せば女神様は必ず救って下さると聞かされてきた。実際フレアの言葉は半分以上本当だったのだろう。
自分は本来、荒廃した場所で生き長らえながらもいつか潰されて終わる人生だと思ってきた。人に守られ母と呼ぶ人生など遠く憧れたお伽噺だと斬り捨ててきたのだ。それを奇跡というならば自分は女神を信じる意義がある。
だが、レイザは女神を信じていない。それどころか女神に背を向けている。彼が持つ力も女神が授けてくれた恵みではないかとレイは思っているのだが、違うのだろうか。
「……レイ、俺にとって祈りや説教は何の救いにもならなかった。俺を救ってはくれなかった。だけど、フレア達を否定したりはしない。言うつもりもない。でも、俺は今後もその言葉を使うつもりはない。況して信仰することもしない。その言葉は俺にとって」
そこでレイザは言葉を切った。信仰心を持っているレイに聞かせる内容ではない事に気付き我に返ったのだ。
「レイ、すまない。言い過ぎた。気に障ったなら謝る。本当にすまなかった」
レイザがどのような思いで吐き出しているかレイには分かりかねる部分があった。それでも彼はとても悲しそうだった。それだけは彼の表情や声からも感じ取る事が出来た。聞いてはいけないことを聞いてしまったのだろうかとレイは罪悪感に襲われる。
最近、いつもこんな風に悩んでいる。何かを発するのに考えるようになった。そして考えた末に言葉を発することを諦める。表面から見れば顔を歪めたように見えるレイをレイザは複雑な面持ちで眺め、彼女に一言伝えるに留めた。
「レイも疲れている。フレアの言う通りゆっくりした方がいい。俺はフレアのところに行って何か出来ないか聞いてくる。嫌いだからと言ってフレアに任せきりにしていい理由はないから。レイも遠慮なく言ってくれ」
少し触れるくらいなら問題ないだろうとレイザはベッドで起き上がるレイの額に自身の手を当てる。どうやら熱はないようだ。熱が出たらいけないからとレイをそっと寝かせた。
「……ありがとう、レイザ。何の力にもなれなくてごめんね」
これが、レイの顔が歪む気持ちの根源なのだろうか。何が彼女を追い詰めたのかレイザには分からなかった。どうしてそんな言葉を吐くのかレイザには思い当たる節もなく、ただただ何も出来ないという事実だけを突き付けられた気がした。静かな絶望が広がっていく。
――自分の手は、人を傷つけることしかできない。
「そんなに自分を追い詰めないでくれ」
有り触れた言葉すら呪いに変わってしまうのに、それでも。励ましの言葉など何も解決しないのに、それでも。それでも、救いになる希望になりたかった。ただ、大事な人にとっての希望になりたかった。
レイザはどうすることもできないまま、ただレイの身を案じながら外へ向かっていく。女神が存在しているなら、どうして彼女たちは一向に報われないのか。何が、間違っているのか。だから神と呼べる存在は忌々しいのだ。信じたところで何も価値がないのだから。
――いつだって、救われるのは表舞台の華やかな主演だけだ。
「……レイザ?」
もうそこに彼はいない。でも、いつもの快活で頼れるしなやかな兄とは遠くかけ離れている。深い悲しみの根底には激しい怒りのような光もあった。だから彼は女神に祈ったりしないのだろう。彼が生きている上で神を呪う場面に遭遇したのかも知れない。
《自分にとって祈りや説教は何の救いにもならなかった》
彼は『ならない』と言わずに『ならなかった』と過去で示した。その過去を話したときのレイザの表情は悲しみと怒りで極端な明暗を纏っていた。そう、極端な明暗は夜によく似ている。
「……ゼーウェル」
夜に現れ、夜を身に纏う《彼》によく似ている。月明かりだけが唯一の光であとの色は夜に呑まれている。光を纏わぬ《彼》は夜の人だ。レイザの怒りはまるで月明かりのように色を喪わずにずっと湛えている。夜の中でも《彼》のことは忘れない。
《彼》は、どれほどの怒りを湛えて立っているのだろう。もっと彼のことが知りたくて、自分が抱く感情は止まらなかった。あれほど色のない夜を恐れた日々は最早遠く、今や夜が来るのを密かに待っている。
《彼》は、月明かりに照らされ、月ばかりを仰いで気ままに話し続ける。ただ、彼のことは分からない。一定の調子で話すから彼の話は自分の耳に残らない。だから《彼》は『夜』によく似ているのだ。夜が来ればある人は暗闇を怖がるようになるけれど、朝が来れば夜の怖さなどなかったかのように日常を送る。
だから、夜なのだ。夜にしか現れない摩訶不思議な人なのだ。何も分からない。それどころか《彼》が人間なのかも怪しいと思っていた。それでも、もっと近付きたいと思っている。会いたい。声が聞きたい。少なくとも日が高い朝のうちは彼は現れない。
あの人に、朝は似合わない。
「……レイ、どうも顔色が悪いぞ。俺は近くにいるから安心して休んでくれ。時々見回りにくるから」
そう言い残してレイザは祭壇の方へ行く。いつもはレイが担当している掃除を一手に担っているのだろう。そのレイザの頼もしい声を耳に残してレイは机に丁寧に並べられた食事にありついた。もうすっかり冷えたものだが、それでも、いや、いつも以上に美味しいと感じた。
あの人は身なりが綺麗だ。自分では想像もできないほど豪華な食事が当たり前なのだろうか。白いテーブルクロスに野苺が施された白いお皿に乗せられたパンと『お肉』と。だが、レイには豪華な食事など想像できなかった。この教会に飾られてあるテーブルにパンとグラスが並んでいて、それが豪華な食事だと思っている。
誰もが、切れ端を食べていると思っているのだ。だから、レイザが来てから変わった食事は少し違和感があった。昔読んだ童話では、よく海という青く広い水の溜まり場に魚がいるらしい。そのことを本を読めば知る事も出来るが、レイは今食べている白いものが美味しい事がよくわからない。いつも食べている切れ端の野菜のスープの方が美味しいと思ってしまう。
そうだ、フレアは『食べ物は中心から海や山を伝ってここに来ている』ことをよく話してくれる。中心ということは海も山もあるのだろう。フレアの話はよく耳に残り、今食べているものからもほのかに海の香りがした。
自分は中心のことを全く知らない。自分で行った事も見た事もない。それなのに海というものを懐かしいと感じ、ここに住む人々が知らない海が青い事も知っている。理由はよく分からない。それに自分は物心ついた時からここにいて、庭に咲く花を何となく慈しんでいたのだ。最初は星のように眩い人に手を引かれるがまま。あの時、フレアは自分の存在に対して困ったような表情をしていた。
隅の方でじっと人の顔を窺うような表情をして、誰とも話さず、フレアが声を掛けても払い除けていた。フレアの言葉の意味など興味なかった。必要もないと思っていた。フレアは、憐れな子を抱いた自分を誉れに思ったに違いない。レイザの言う通り、自分も神の存在など信じていなかったのだ。その希薄な心に信仰心が宿ったのは金に輝く少女だった。
ただでさえ自身の信仰心も持たずに居心地が悪かったのに、彼女が来たせいで余計に居心地の悪さは増していく一方だった。
金の少女はきっと誰からも愛されているのだろう。目の前にいる彼女の瞳はまるで空のように澄んでいて曇りなく晴れ渡っていた。自分の瞳は淀み、光もとうの昔に喪って今やさぞ汚れているだろう。憎らしいほど羨ましく、彼女の名前もすぐに覚えてしまった。
『レイ……? 君、もしかして、レイちゃん?』
空のように澄んだ瞳と同じように、彼女の声は人々を惹き付ける。生まれながらに彼女は愛され、羽ばたける存在だった。淀みなど知るはずもない。自身との落差にレイの表情は険しくなっていく。歯を食い縛って耐えるのが精一杯だった。
淀んだ水にも縁がない彼女の中に悪意というものなど存在しないのだろう。悲しいほど無邪気に隔てた壁を飛び越えてくる。
『君のことはフレアからよく聞いているわ。私、イリアっていうの。君のことどうしても気になってしまって、思い立って声をかけようと思ったの。ねえ、一緒に』
流れるように話しかける彼女の声が、空のように晴れ渡った瞳が、纏う髪が金に輝いているのが、何もかも憎らしい。
『あなたの名前なんて知りたくないわ。忌々しいのよ、一人にしてくれないかな』
睨み付けるように刃を突き出して、レイは呆然とするイリアを置いて立ち去った。一方のイリアがどのような顔をしているのかはよく分からない。ただ、彼女の息を呑むような様子だけが伝わって罪悪感に襲われた。
――立ち去ったのは彼女を傷つけたことによる罪悪感だけではなく何か恐ろしい思いがあったからなのだ。あの瞳からほろほろと雫を流して泣く彼女を想像して満たされたような気がした。目の前の彼女に忌々しいと吐いたのはその下劣な欲望を抱いた自身に対する嫌悪感からでもあった。
ただ、あれだけはっきり拒絶したのだから流石に声をかけたりしないだろう。罪悪感と同時に強烈な寂しさにも襲われた。身勝手な理由で払い除けたのに。
『レイ、ごめんなさい!』
翌朝も彼女は現れた。引き止められて振り返ると彼女が頭を下げて謝って来たのだ。いったい何があったのか、色々聞きたい事はあったが唐突過ぎて何も言えなかった。
『フレアから勝手にレイのこと聞いちゃって! どうしても話しかけたかったけどきっかけがなくて……本当は君からちゃんと聞かないといけないよねって。怒って当然だと思う。ごめんね』
空のように澄んだ瞳が、今は激しい痛みで引き攣っている。輝く彼女が傷みに苦しめばいいのにと呪ったはずなのに、傷を負って悲しんでいる様を見るだけで胸が引き裂かれそうだった。陶器のようになだらかな肌と太陽のように煌く金、空を羽ばたく白鳥のように羽根を纏う彼女はとても美しかった。
レイは花の名前など知らない。口に含んでも空腹は満たされない。役に立たない物質だと罵った花をレイは愛しいと初めて知った。彼女は、ただそこにいるだけでいい。ただ、微笑んでいてくれたらいい。ただ――健やかであればいい。
『ごめんなさい、私、イリアに酷いことを』
許されたい、けれど許されたくない。矛盾した思いを搔き混ぜながら懺悔を零す。けれども許されたいのだ。ほんの一瞬だけでも許されたら救われる。救いを求め懇願するように見上げたレイの瞳に映ったのは『受け入れてくれて嬉しい』と笑うイリアの姿だった。
春の訪れと共に咲く幾多の花のように微笑み、薄暗い空間に灯火を与える美しい微笑みはまるで女神のようにたおやかで、愛されることを喜ぶ無邪気な少女のように可憐だった。ただ、健やかであればいい。レイは幼くして喪った心を取り戻したと思った。
その春は、長くは続かなかった。日にちが経てば花は散り、深緑が目立つようになった。花は一瞬だけの儚い色、だからこそ求めてやまないのだと。
『イリアは渡しません! たとえ、あなたの頼みでも。ハイブライトに行けばイリアは帰って来れない。知っているでしょう』
いつものように祭壇で務めを果たすフレアの元へ行こうとしたレイは扉を隔てても響くほどのフレアの怒りに驚き、歩を止めた。足が、鉛のように重くて動かない。さっきまで確かにこの足は床を歩いていたはずなのに。昨日までは地面を蹴っていたはずなのに。
『フレア殿、あなたに何ができましょうか。あなたがここに現界しているだけでも奇跡なのですよ。どれほど不条理だろうと頂が絶対なのです。逆らえばあなたは永遠に苦しむのですよ。分別をわきまえなさい、フレア殿』
『そんなこと、今更どうでもいいわ。私は『魔王』としてここにいる。風に攫われて炎に焼かれて、人間としては既に死んだも同然よ。罪を恐れぬ私があなた如きを恐れるとでも思って? あの者達と同じようにあなたを寸刻みにしてそのまま焼いてやるわ』
『フレア殿!』
彼女の微笑みを仰いでから、自分は神を信じ、祈りを歌い、幸せな物語を読む術を身に付けた。花の名前も色の意味も知った。祈り願う事は愛だと知った。誰かを喜ばせる事が自身の幸せだと。許しを求め続ける事が、瞳と向き合う事が、何よりもたいせつだと言った。
その意味を教えてくれたのは、フレアだ。フレアはいつでも微笑んでいた。言葉を知らず薄汚れた自分にさえ。それなのに、それなのに、フレアは激しい怒りを吐き出している。フレアが、深手を負っている。助けなければいけないのに怒りを示すフレアを恐れている。
何を言っているのだろう。フレアは自分を『魔王』だと言った。物語では魔王は悪だ。悪を倒せば世界は平和になる。魔王は、悪だ。フレアは勇者を応援する側だ。それなのにフレアは自ら『魔王』だと言っている。あとの言葉はよく意味が通じない。ただ、魔王という言葉だけが耳によく残る。
『フレア、もういいのよ』
『……イリア!』
怒りが充満する場所でも高く澄んだイリアの声は女神のようにたおやかで、何度枯れても咲き誇る花のようにしなやかで強い。青空に並べる星が静かにまたたくような輝きを放っているのだろう。レイの心が穏やかさを取り戻していく。
『フレア、私は行くわ。ジェイソン様、リデル様、私の全てが中枢で知れるのでしょう。そんな機会、もう二度と訪れない。私、行きます。私をお連れ下さい』
『イリア、いけない……やめて』
『いいえ、私は行きます。フレア、これ以上苦しむことはないのよ。彼等はただ、私を迎えに来ただけ。行きましょう、おふたりとも』
無邪気に微笑む彼女も美しいと思った。だが、進んで道なき道を選び取り、戦うことを決意した彼女がどのような芸術よりも美しいと思った。その決意は同時に永遠の別れでもあった。
『いや、イリア! イリア……いっちゃやだ! 行かないで、イリア!』
『大丈夫よ、フレア、レイ。私は生き抜いてみせるわ』
振り向かずに答えたイリアは迎えに来た者達を引き連れるように歩く。そうだ、イリアは帰ってくる。フレアの怒りも恐れずに歩を進めたのだ。歯を食い縛り拳に力を込めながらレイは衝動を堪えた。だが、崩れ落ちるフレアは顔一つ上げず微動だにしなかった。
春は、終わる。葉は緑に染まり、やがて深緑へ移り変わる。枯れる前に燃え上がり跡形もなく崩れていく。ただ、虚しかった。
イリアの言葉は嘘だ。彼女は二度と帰って来ない。何故だかそう思った。女神はやがて侵食されて腐っていく。その運命をも受け入れて生きるイリアを讃えながら、力のない己の身を呪った。こんな不条理を受け入れさせようとする世界を憎んだ。
『……イリア』
フレアが零した彼女の名前は薄暗く、恐ろしいもののように聞こえた。
――それから数年。喪失を知って嘆いても時間は進み、自分はそれなりに大人になった。そして、時間の経過の過程でイリアの死を知った。ハイブライトに集められた若き勇士が乱を起こしたと聞いた。イリアはかろうじて動乱を逃れたというが、レイザが来る数日前に胸を撃たれて亡くなったという。
彼女は王宮に行ったらしい。王宮で厳かに葬られた彼女は最後までフレアの元に戻っては来なかった。あの時の言い知れぬ不安は何年か先に訪れる現実に過ぎなかったのだ。
もう二度と彼女は帰って来ない。それは変えようのない事実だった。でも、フレアには僅かな希望が残されていたようで必死に祈っていた。毎日はおろか毎時間、極端に至れば毎秒でもフレアはレイザの生存を祈っていた。イリアを守れなかった罪の贖いがレイザを守ること。贖いは希望でもあった。
――では、自分の希望は何だというのか。こちらを気遣ってくれたレイザだと思おうとした。しかし、イリアがあまりにも鮮やかでずっと自身の前にいたのだろう兄は朧気にしか捉えていなかった。そう、レイザが希望になることはない。フレアが「レイザの生存」を知ったことによって希望を手に入れたと同時に自分は残酷な真実を突き付けられた。
自分には、芯となる希望がない。では、何を支えに生きて行けと言うのだろう。フレアのように祈ってもレイザのように己の肉体を酷使してもこの両手では何も実らない。もしや、存在意義が過ちだったのか。
『フレア、もういい』
フレアを抱きしめるレイザのような両腕も持たない自分がとても呪わしい。敢然と立ち向かうために背を向けるイリアを追いかける足もない己の非力が憎らしい。
自分の生命が過ちだと言うなら、今すぐにでも。不毛な思考が連続する中、フレアがまるで連鎖を止めるように軽やかな音を響かせる。
「あら、レイ。目が覚めたの?」
部屋に入ってきたのはフレアだった。今までフレアの声に気づかなかったことにレイは驚いて顔を上げる。そんなレイの様子を見たフレアは苦笑交じりに答えた。
「レイ、今日は元気がなさそうね。何度も扉を叩いたけれど反応がなかったから勝手に入ってしまったの。大丈夫かしら。もし食べることができそうなら台所に来たほうが陽が当たるし元気が出ると思うわ」
「……ありがとう、フレア。ううん、こんな時間まで寝ることなんてなかったから驚いていたの。何だかすっきりしたから食べに行くわ」
「じゃあいらっしゃい。今日は大都市から特別なものが入ってきたから」
「ええ」
特別なものの意味がよくわからず喜んでいいのかレイには分からなかった。ただ、好奇心は確かに存在していてフレアの後ろをついていく。いつもと変わらない風景にすっかり陽が昇っている。
「今日は思い切ってレイザに畑仕事を任せたの。男手が足りないと言っていたから助かったって喜んでくれたわ。昔からレイザは畑仕事が得意だったから懐かしくなったの」
「そうなんだ……フレアは覚えているんだね。私、レイザのことあんまり覚えていなくて……でも、レイザの面影だけは覚えていて、寂しい時に一緒にいてくれたような気がしたということは何となく」
欠落した記憶がもうないことが悲しかった。こうして人から聞いてもレイザの面影が朧気でよく覚えていない。だから、レイザがどうして優しいのか分からないのだ。彼は、自分のことを≪妹≫として見ているからだろうが、妹とはいったい何だろう。
戸惑いの声を上げたレイにフレアは淡々と諭した。
「レイ、レイザがレイを大切にするのは、妹だからじゃないのよ」
「……?」
「意味なんていらないのよ、レイザにとってレイはそういう存在なのよ」
「……そうだといいけど、レイザの役に立ちたいわ」
「……レイ」
台所の扉の前に立ってフレアはレイに微笑んだ。
「ただ、笑っていてくれるなら、それでいいのよ」
台所に入って、特別なものの正体はすぐに判明した。そう、潮の香りがするからだ。そこでレイは疑問符をいくつも浮かべた。
なぜ、香りの正体が「潮」だと分かるのだろう。自分は物心ついた時から深緑に囲まれた教会で祈り、巡礼者を迎えていたのだ。潮の香りがするということは海のものだと自分は分かったのだ。なぜなのか。どうしてなのか。
その理由が、レイには、わからなかった。
「もしかして、今日は魚なの?」
調理に入ったフレアにレイが声をかけるとフレアはやや驚いたように、それこそ“衝撃的な事実を知った”ような表情で返答した。
「そうよ。食べ物は広いところから運んでくるから。でも魚が来るなんて珍しくて……私はたまたま捌けたけど、ほかの人は苦労していたみたいよ。ただ、これは焼いて食べないといけないから待っててね」
それで何だか騒がしかったのか、とレイは納得し頷いた。赤みのついた美味しい食べ物――あとでそれが動物の肉だと知った時には悼みを覚えたが自然の不思議を同時に感じた瞬間でもあった。
地図で見たが海といえばここからずっと“南を歩けば大きな街に辿り着く”ことをフレアに教えてもらった気がする。その大都市の名はアエタイト。この国の土台に装飾と生命を置き、最初に発展した都市だから中心地となったようだ。
人間同士が力を合わせて発展させた大都市。そこは今や絶対的な権力として君臨し、人は成長したら大都市に行くようだ。そう、フレアが言った気がする。
――フレアは、何でも教えてくれた。そのことを感謝している。それなのになぜ、こんなにも胸が焼け付くような痛みを発しているのだろう。どうしても拭えない疑問符がレイの脳内に残っている。残ったまま消えない。
「フレア」
「どうしたの?」
「フレアは何でも知っているのね。ふと、そんなことを思って」
「あら、ただの年の功よ」
柔らかく微笑むフレアの表情はどこか強張ったままで、最近いつもそうだとレイは悩んだ。ただ、いくら声をかけてもレイにはできることがない。
大都市は他の都市に分け与えられるだけの恵みと力がある一方で、この深緑はただ受け取るだけで精一杯の地なのだと。この深緑は自分によく似ている。与えられるだけ、守られるだけの存在。これが定めというなら受け入れるしかないのだろう。
諦観にも似た静かな絶望が広がっていく。
「レイ、待たせてごめんね。できたわよ」
フレアが机に置いたのは魚を焼いた後細かく切って緑と混ぜた食材とパンだった。あとはいつもの生命の切れ端で作ったスープだ。でも、随分と豪華な食事だとレイは思った。今までスープとパンがあれば十分だったのにここまで豪華だと戸惑いが多くなる。
並べられたパンはきつね色に焦げていて、しっとりとした柔らかさと、ほんのりとした温かさがあった。パンを両手で抱えて頬張るとやはり甘さが口の中で広がっていく。稀にパンを出してくれた時があったがその時も甘みが広がっていて何個でも食べられると思った。
確か、それが夜に浮かぶ三日月によく似ていた記憶があった。
「フレア、すごくおいしい」
「よかった。これはひとつしかないからレイにあげるわ」
「ほんと? うれしい。ありがとう」
「いいのよ。そうだ、この後畑仕事があるんだけど私ひとりじゃ広すぎるからレイにも手伝ってほしいと思って声をかけたんだけど、大丈夫?」
寝起きがいつもより遅かったことでフレアが心配していたのだろう。細かい部分まで気を配れるフレアに有難い気持ちが湧く一方、そのきめの細やかさがかえって困ってしまう。レイは頷いて笑ってみせた。
だが、うまく笑えているか不安で堪らなかった。この焦燥感はいったいどこから来ているのだろうか。
「レイ、外で待ってるわ」
「うん。すぐ行くね」
フレアが去った後、台所の下を見ると土がついた野菜が篭の中に入っていた。教会の裏手や住人たちが積極的に畑を耕し、野菜を作っている。少人数だけなら教会の敷地を使えばいいが皆で力を合わせてこの暮らしを維持するには全員で畑を耕すという作業が日中にあった。
ここに住む人々と共に助け合って生きていくという精神から、畑仕事は全員の義務になっていた。困ったときはすぐに民に食材を与えられるように、料理を施せるように。そのためには多数の資源がいる。
いつしか外部とのやり取りはレイザの務めになっており、レイの仕事はフレア達とともに畑で実った野菜の収穫となっていた。フレア達は既に篭一杯の野菜を収穫しているがまだまだ人の手が足りないとばかりに慌ただしい。
「さあ、やるわよ」
腕をまくり、レイは畑の中へ飛び込んでいった。
深緑に神の恩恵は届かない。かつて、物語でよく見た一文がレイの脳内を掠めた。だが、今いる教会の窓からも、そして畑の真上からも、柔らかく温かい光が降りてくる。決して眩しくはない優しい陽だまり。
これが女神の力だというなら納得だ。フレアが信仰する理由は最もだ。もう今はどこにもいない彼女も柔らかく暖かな光を纏って歩いていたのだから。
自然の光や色はどうにもよろしくないと感じながら足を踏み入れた場所は、ただ目を焼くような派手さを塗りたくっているだけだと顔を歪める。これが信仰の成れの果てと思えば納得なのだ、と相反する色を纏う男は目を細める。
飽きもせず布一つだけ巻き付けた女を女神に模した絵画ばかりを白亜の壁に飾り、未だにそれが至上だと謳う殉教者にいっそ憐れみを抱かずにはいられなかった。もちろん似たような構図を不規則に並べている。最も彼らにとっては規則性を持って並べているという意図だけはしっかり感じ取れた。
その規則性の不気味さは堕ちるところまで堕ちたと示すべきなのだろうか。如何に理想に生き、理想に囚われているのかがよくわかる。この身を焦がす衝動は“怒り”だ。衝動を自覚した男の表情は険しさを増していく一方だった。
優し気な微笑みと眼差しを大衆に向け、大衆を両腕で包み込んでいる。この城を作った人間はそういう幻想をこよなく愛し、妄執に囚われた。哀れな幻想を継承した無数の者も同じような幻想を理想として愛した。
では仮に、この幻想の象徴に向かって弾丸を放てば殉教者はどのような反応を返してくれるだろうかと考え、口角を吊り上げた。無論、今すぐ試してみてもよかったが、今はそのような気分ではなかった。
この幻想を横切る度に湧き上がる激しい熱は何故か穏やかで、どこか満ち足りている。理由はわからない。一つ思い当たる出来事ならあったのだ。
「――レイ」
そう、レイに会ったのだ。レイ・ハーバード。フレアに連れ子がいたということは先刻侵入した屋敷の中で奪った記録物で得た情報だ。どうせこの記録物の保有者は紅の中心で折り重なって動かない。情報は役立てるためにある。
もう、あの屋敷は荒れ果てていくだけだ。大都市の状況を考え、またしても口角が吊り上がるが、目的地である東の地を思い起こせば不愉快さが蘇る。あの東の地アシ―エルにはフレアがいる。
あの屋敷にいる者達はフレアに対して強気に攻められる。対してフレアはあの者達に逆らえない。一般的な見方をすればフレアは鎖に繋がれた慰み用の雌犬だ。息がかかった商人も倒れ、別の者にアシ―エルへの取引を持ち掛ければあっさりと応じる人間の浅ましさ。
まるで救いを得たように喜ぶ様を見た彼は笑いを堪えきれなくなった。権力者などこの程度だ。この権力者は力によって躍らされ、その力の中心に立つ人間が自分であることなど気付かない。自分が表向きの力を利用して手招きしていることもきっと知らないままだ。
『抹殺者レイザ・ハーヴィスト』の呼び名を創り出したのは自分だ。自分が消したい者の名前を羅列すれば剣を奮ってくれる抹殺者。彼は『平民に落とされた末弟』だった。
同じ痛みを知る者同士、憎悪を奮い、この国の死神として点睛しようというのが自分の考えだった。物語のような響きを持ちながら曖昧な輪郭を明確にするために末弟には剣を奮ってもらうための準備を整え、実際に実行してみせた。あの時の混乱はいつまでも笑い話として語れる。
だが、ある時から末弟の姿が見えない事に気が付いた。同時に『抹殺者』の名前も忘却の彼方へ消し去られた。だが、平民以下となった末弟に逃げるだけの力はないはずだ。
そして知る。あの末弟はどこまでいっても『自分とは相容れない』のだと。剣を奮いながら喪わぬ光を湛えた瞳。悪を背負いながら秩序を良しとした襤褸切れ。その瞳の中にあるのはいつまでも『忘れられない幸せ』なのだ。
それでも、一矢報いた。あの末弟は腕に傷をつけることすら恐れた程の臆病者。それなのに、今の末弟は人を殺めることを良しとした抹殺者。彼の目に無垢な光はなく、憎悪が渦巻いている。何の躊躇いもなく命を貪り合う子供達。
「母よ、見ていますか」
己が生命を与えた二人の変わり果てた姿を。己が慈しんだ二人の無残な生き様を。己はどのように受け止めているのだろう。血を分けたふたりのうちどちらかは近い未来、罪の焔に焼かれて爛れて朽ちていく。
「愛など幻に過ぎない」
愛など欲望の延長線上にある異物。第一、母はふたりの男のどこに違いを見出したのかが分からない。確かにアルディは理想に溺れているが万人を幸福にできずとも統治者としての使命は十分に果たしている。シリウスは誠実で良き理解者だったかもしれないが国の礎を崩した裏切り者である。
総体か個体かの違いはあれど、どちらも己の身勝手な欲望を肯定し貪る獣。愛を欲し、背負った運命を呪いながら自由を夢見た者は大衆の手によって呆気なく手折られ敗者に墜ちた。それは彼も例外ではない。
敗者に明日は訪れない。
「……何も、望んでいなかった」
握りしめた掌に爪が食い込む。
「何も、望んでいなかった。幸せならばそれでよかったのに」
そう、彼は早々に諦めなければならなかった。生まれた時から統治者の子として生を全うし、規律を振りかざす運命を担わされた。それでも諦め切れない彼は愛を求め、不器用な形ではあったが血を分けた者を愛することにした。
その努力はかけがえのない価値があり、何よりも尊い。見た目を飾る女神よりも美しい。彼こそが自分の真実だった。何人に手折られても尚、人を愛し憎しみに溺れない。だから手折る存在全てが許すに値しない。最早無価値にも等しい。
「そうだ、私はセイシェルだけを頼りに生きてきた。これからもそのように生きていくつもりだ」
決意を吐き出してみたが心に巣食う感情は消えない。どうしてこの感情は消えないのか。どこで間違っているのか。
彼女だ、と彼は眉間に皺を寄せた。ただの世間知らずの娘だ。あの娘には警戒心などどこにも見当たらない。ハイブライトという単語も知らない。少しだけの逢引に何故このような激しい感情を抱いてしまうのか。
胸が痛い。引き裂かれるような痛みと悲しみで揺らいでいく。彼女ときたら躊躇いもなく自身の名前を呼んだ。フレアでさえ呪詛として刻まれた自身の名をまるで言葉を覚えた幼子のような無邪気さで繰り返す。
彼女はなぜフレアに庇護されているのかもきっと知らないのだ。知らないことは悲しいことだ。あのフレアに庇護されなければ生きることすらままならない哀しき娘。彼女と会うまでこの激情が渦巻く事などなかったのに。
「そうだ、私は放棄できない」
あの娘が何だと言うのだ。あの娘もいずれ障壁になるのだ。近い将来彼女を消さなければならないのに、思い出す度に激しい痛みが渦巻いて消えない。あの夜、連れ去ってしまえば消さなくても済んだのだ、と希望的観測を何度も浮かび可能性を潰した。
子供というのは不思議なもので一度この腕に抱けばとても心地よかった。手放したくない。離れたくない。
彼女の寝室まで連れて行き、ベッドに横たわらせたあの夜、自分は満たされた気がした。彼女の手はとても小さい。少し力を込めたら軋んで折れてしまう。痛みを与えないように努めるうちに喪うことを酷く恐れた自分がいた。
夜は冷えるが規則正しい寝息を立てる彼女が生きている事実に安堵した。もう、彼女と会うことはないだろう。それなのに。
「レイ、また来るから待っていてくれ」
愛を説く女を護る障壁は少しでも破壊しなければならない。そうでなければ積年の恨みが果たされない。目を閉じて背を向ける彼の手が僅かに震えていることに終ぞ気付く素振りはなかった。
****
礼拝堂の清掃を終えて外に出てみれば澄み切った青空とゆっくり流れる白い雲が集落を照らしていた。いつもは花弁のように散る雲が一つの樹木を形成している。
太陽が放つ光が少しだけ柔らかい。この程よい温もりがレイは好きだった。これほど温かい光を浴びた食物はさぞ彩り溢れて美味しいに違いない。鮮やかで淡い色が大地に咲いているだけで既に夕食が楽しみで仕方ない。
聖職者の衣服を纏いながら食物を採取するフレアの姿を見つけて、傍らにある籠の中に野菜を入れていく。フレアはとても楽しそうだったから安心した。
「レイ、今日はいつもより豪華な夕食になりそうね。行商が運んでくれる魚なんかもあるし、きっとレイザも喜んでくれるわ」
「あとはフレアの手料理があるから私も楽しみ!」
「まあ、嬉しいことを言うのね。今日は一段と頑張り甲斐があるわね」
土の中で育った穀物を積むフレアの穏やかな微笑みに励まされながらレイは再び新緑を積む作業に戻った。
フレアの作る料理は皆を元気にさせてくれる。夕食に並べられるであろう彩り溢れる食事にレイは心を躍らせる。根をつけて空へ向かって伸びていく健気な姿は前を向く勇気を与えてくれる。
食物に感謝の祈りを唱えながら抜いていく。
――本当のところ、口だけで祈りを吐いても今自分がやっている行為は命を奪うことだと知っている。生きる事は楽しい事ばかりではない。幼い頃から文明の基礎を食み、剣を抜いて戦う使命を背負っていた。
それが正義だと先制するつもりはないが、過ちだと断罪される謂われもないと敢えて意に介さず突き進んだ。
お互い、生きなければならない。生きたいから戦わなければならない。自らを守ろうと進んで修羅に身を委ねた彼女が今も美しい。
――人生とは、戦いであり、不正への格闘である。
進んで命を差し出す高名な女神が放った鉄壁の意志だけで今なお生きている。ただ、他者を思う人格者にはなれない。そこに『苦しむ者がいれば自己投影して救済する』のが自身の心の慰めになっているだけである。
ふと籠を見れば溢れんばかりの緑と土で彩られている。これだけあれば十分だとフレアは笑みを浮かべて荷車に食物を籠に乗せる。重労働ではあるがそんなものは大した負担ではなかった。
「レイ、そろそろ夕食の準備に入るから手伝ってくれる?」
振り返ったレイが元気よく頷くのを見て微笑んだ。レイの笑顔がとても眩しい。この笑顔が見たくて聖女の皮を被っている。ヴェールの下に隠れている欲望の屍をレイにはどうしても知ってほしくなかった。
「もちろんよ。今からとても楽しみだわ。だってフレアの料理なんですもの」
「あら、期待されているようね。頑張り甲斐があるわ!」
レイの無垢な眼差しにフレアは思わず勢い余って返答する。こうしてフレアは少しずつ食物を運び出し、レイもフレアの後について食物を手に抱える。
今はまだフレアの言う通りにしか食事を作ることができない。フレアの言う通りに作っているので美味しいのは間違いないけれど、いつか誰の指示もなく自分で考えて食事が作り出せたなら。
彼に食べてほしいなどとレイは願望を心に抱く。生憎今はフレアが味を確かめないと味付けが絶妙にならない。
レイはフレアに「その味はどうやって出すの?」と聞いてみたかった。母に抱かれるような安心感と親しみやすい味はいったいどのようにしたら出せるのだろうと疑問に思う。
今でも聞けばいいはずなのだが、理由のない不安で躊躇して聞けずにいる。理由は分からない。強いて言えば胸に渦巻く感情が言葉を生み出さないからなのだろうと片づけた。
この親しみやすい味はどうやって出したのか。どのようにして料理を覚えたのか。とにかく色々聞いてみたかったのだ。
フレアは人々に愛されて、人々を愛している。そんな彼女だから聞いてみたいと思うのだろうか。
この異変は、悲しいことに夜の下で彼に会ってから繰り返されている。いつもならそこまで不安にならない要素が全て不安に映る。花火のように瞬いては消えて瞬く目まぐるしい感情にレイの体はついていけなかった。
身を切られそうなほどの不安は恐らく痛みに近い。夜に出会った彼のことが心配で堪らなかった。さみしそうに空を見上げて闇を纏っている姿を見るのはどうにも耐え難い。
どうにかして朝焼けを仰いでほしいと願わずにはいられなかった。宵に沈んでいる姿を見たくないと心が叫んでいる。これが身勝手な愛情だと遠い昔から知っているのに。
「レイ、どうしたの?」
フレアの声にレイは我に返って見上げる。フレアは困惑したように問いかけたのだ。
「泣いているけれど」
「……多分、疲れちゃったのよ」
「そうね。休んだらいいわ」
フレアは端的に伝えてレイに部屋へ行くように告げる。フレアのことだからきっと何かを察したのだろうと思い、表情が強張る。いったい、いつから笑顔を浮かべる事がこれほどの疲労に繋がったのだろう。
フレアはいつだって優しい母なのに、とレイは首を振って答える。
「でも今はまだ作業が残っているもの。手伝うわ」
何故かはよくわからない。それでもここでフレアの言葉に甘えるのは宜しくないと本能的に考えたのだ。ほとんど咄嗟の判断だったように思う。
「レイ、無理はいけない。レイザも慣れてきた頃だし、たまには休んでほしい」
それはどこかレイを窘めるような言い方だった。レイの無謀さか、それとも意地を張った振舞いか、それとも愛情か。どれもあるのだろう。
「でもそうね。一日中外にいるからまずは飲み物でも飲んで休みましょうか。丁度レイザが朝に水汲みしてくれたから」
フレアの新しい提案にレイは黙って頷いた。本当のところ複雑な感情がない交ぜになって体が思うようについていかなかったのだ。しかし、一人だけ休むのも納得できないのでこの提案は助かる。
こうして食物を台所へ運ぶことにしたふたりは先ほどよりは勢いを取り戻して歩いていた。その途中に土塗れのレイザを見つけ、合流する。
「レイザ、お疲れ様!」
フレアの表情が花綻ぶように煌めいて、レイザも安堵するように笑みを返す。彼は彼で大都市からやってくる商人からの食物の残りを運んでいた。土塗れなのはそのせいだとレイも納得する。
「フレアもレイも大変だな。そんなに量が多いならもっと早く運び終えてそっちを手伝ったほうがよかったな」
「あら、レイザ、気にしなくていいのよ。最近外向きの事は殆どレイザに任せているからたまには私も頑張らないと」
「それはまあ、俺が引き受けたほうがいいと思っているから構わないが、あまり気を張らないでくれよ」
ふたりの会話を前にレイは完全に蚊帳の外で、黙って聞いていた。母のように穏やかな眼差しで話すフレアと『今のフレア』とではあまりに違いすぎて内心困惑しているのだ。
『今のフレア』はまるでたくさんの花に囲まれて眩しく笑う少女のように煌めいていて、まるで花束をもらって喜ぶ女性のように生き生きしているのだ。その様子を見つめるレイザも穏やかに微笑んでいる。
このふたりの空気はまるで将来を誓い合った恋人のように微笑ましく煌めいている。レイの心中にあるのはいつものフレアの印象と結びつかない困惑と疑問だった。
休息を終えて協会から外に出てみればまだ澄んだ青空と白く逞しい雲がゆっくりと流れていく。いつもは眩しい太陽もほんの少し柔らかな光に変わっていて、まるで小さな天使になったような身軽さで作業を再開できた。
残りは穀物の採集である。雲が太陽を隠してくれているおかげで地に根をつけた食物はさぞ美味しく実っているだろう。レイザは既に慣れた手つきで穀物を引き抜いている。既に夕食が楽しみだ。
フレアとレイはレイザが採集してくれた食物を順番に他の聖職者に引き渡す役目を負っていた。レイザが率先して食物を刈り取る役割を引き受けてくれるのでごく自然に引き渡し役になってしまった、というべきなのだろう。
地に根をつけて逞しく生きていく。風に打たれ、雨に暴かれ、踏みにじられても咲き誇る彩色たちは時に脅威で時に益を齎す。前を向くことばかり説く人間の世では神聖視されている緑も獣を呼び込む観点からすれば災厄になり得る。
感謝という膜に欲望を押し込め刈り取る行為は搾取にほかならない。お互い、生きていかなければならないのだ。種を後世に残すためにも戦う道は避けられない。
それでも時には自我よりも命を差し出す自然の雄大さに神を見出さずにはいられない。女神を人々が信仰する理由も大体≪そのような感じ≫なのだろう。
聖職者たちに全て渡し切ったところでフレアが笑顔を見せる。ああ、いつものフレアだと安堵する。
「さて、他の人たちにも手伝ってもらっているから、私たちは野菜を切ったり下ごしらえをしていくわよ。レイザ、火を起こすの得意でしょ」
「ま、まあ、小さい頃はやっていたけど」
「じゃあお願い。私とレイは野菜を切るわ。特にレイは野菜を凄く綺麗に切ってくれるから見栄えのいい料理になるのよ。私、密かに楽しみにしながら盛り付けているのよ」
「フレア、そ、そんな大げさな……」
「レイ、そういう誉め言葉は有難く受け取っておいたほうがいい」
「レイザ……」
フレアとレイザに宥められ誉められ、レイは嬉しいような困惑したような表情で頷いた。これが幸せだというのなら、どうして≪彼≫は夜に相応しいのか分からないからだ。
どうしても闇の中で生きて夜に溶けて消えてしまう存在。それが≪彼≫という在り方なら非常に悲しいことだとレイは胸を痛めたからだ。空を仰ぎ月を拝む背はとても悲しそうだった。
諦める事ができない。あの瞳が少しでも朝焼けが拝める澄んだ空を映して笑っていてほしいと願ってしまう。身勝手な愛情なのにそれでも思いは加速する。
「レイ、どうしたの? 何か悩みでもあるの?」
通路を移動しながらフレアが問いかける。レイザは既に火を起こしに行ったようで、歩く速さがふたりと違ったことをフレアが気に掛ったのかもしれない。
「最近、物騒な事が多いなと思って不安になっていただけよ。フレアのいう通り、少しつかれたのかもしれないね」
「そうね……でもレイが気にすることではないのよ。作業はゆっくりでもいいから休みましょう。つかれたまま野菜を切っても美味しいものは作れないわ」
「ありがとう、フレア」
たくさんの人に恵む料理に必要なのは実のところ癒しと余裕なのだとフレアは長年の経験で身に染みて実感している。ただ、待つ人がいる以上ゆっくりしていられないのもまた事実なのだと本能に刻み付けられている。
それはある種、生命に刻まれた呪詛なのだと最近は実感している。緩く頑丈な縄が恵み給えと産声を上げる。
「レイ、ゆっくりでいいからそこにある野菜を切ってくれると嬉しいわ。緑と赤はより分けておいてね」
「うん、任せてフレア」
そう頷いてレイは去っていくフレアの後ろ姿を見送った。
出会って二回。たったそれだけの記憶が濁流のように押し迫ってきては去っていく。その繰り返しでレイは正直疲弊していた。肉体的な疲労よりも生々しい負の感情は体を休める程度で取れるものではない。
ずっと、胸が張り裂けるような痛みを訴えている。そう、かの人が空を見上げることが許されないのは自らが犯した罪の所為ではないのかと悩んでいる。
フレアもレイザも何も言わないが、漠然とした不安や恐怖がこの空間に蔓延している事実はレイも十分に感じ取っている。もっと言うならばその原因も自分が招いた種ではないかと考えている。
だから、だから願ってしまうのだろうか。しかし理由は分からない。単純に夜が似合う≪彼≫の神秘に惹きつけられているのかもしれないし、或いは強固に絡み合った糸で引き寄せられたのかもしれない。どちらでもないがどちらもある。
惑う心に身体は正直に反応する。植物と人間の違いは自我の強さにあるのだろう。傍に置かれた彩色を見ながらレイは少しだけ悲しそうな表情で野菜を切り始めた。
その頃、レイザと言えば火起こしを淡々と行っていた。摩擦で火を起こすという原始的なものだが、自らの手で火を起こす過程はまるで自分が魔法使いになったのではないかと錯覚する。
レイザにも子供の時はあって、その頃物語で登場する魔法使いによく目がいったものだと回想する。ただ、此処にも生まれの差と言うものは存在していて使い古した物語しか読むことを許されなかった事実が鈍く傷んだ。
「レイザ殿、少しよろしいですか?」
そう尋ねてきたのは妙齢の聖職者だ。聖職者の衣装はどれも同じでなかなか印象に残らないがこの聖職者だけは妙に印象に残った。
レイザの沈黙を肯定的に捉えた聖職者は隣に座り込んで小さな火種を見つめていた。その者の瞳にはどこか優しさを想起させる何かがあったのだ。この瞳は苦手だとレイザは密かに毒づいたが最も、その苦手意識も織り込み済みだろう。
「最近の事なのですがね、美味しい食事と綺麗な彩色がたくさん届けられるのですけれど、何か因縁じみたものを感じて仕方ありませんの、レイザ殿はどう思いますか」
――だから、この瞳は苦手なのだ。レイザにとっての因縁はまさに優しさを孕んだ瞳の光なのだから。
「どうしてそう思うのですか」
火種を消さないよう気を配るレイザに聖職者は困惑したように微笑んだ。
「ええ、それはあれらが贈り物のような気がしてならないからですわね。贈り物って心を込めて贈ることばかりではない。別れを告げる時の――いわゆる餞別というものにも贈り物は使うのですけれど、これらは餞別の品に見えてなりませんの」
小首を傾げながら告げる聖職者にレイザは更に心の中で毒づいた。既に大都市は脅威に晒されている。俗から離れたレイザでさえその脅威は無視できなかった。
『災厄者と呼ばれる黒衣の者が人々を呪い殺している』という噂だ。実際爛れた死体は点々とではあるが見かける頻度も多かった。餓死や略奪で曝された者はあれど焼かれ爛れた死体は全く見たことがない。
かれこれ最近の話だとレイザは思う。今はどうか分からないがいつしかその黒衣の者を『災厄者≪さいやくしゃ≫』あるいは『黒い男≪アザトース≫』と呼んで恐れた者もいただろうか。実のところ、自分は一度だけその男に会ったことがある。
黒い衣に包まれた長身の男だった。転がる障害物を眺める視線は喜びにも憐れみにも似た感情が交錯する。遠目からの雑感ではあるが正反対な感情をうまく内包させ成立させる素養が黒衣の者にはあった。なるほど、アザトース等と呼称される理屈は分かる。
それほど物語に触れていないレイザでもアザトースという言葉くらいは聞いたことがあった。正式名称は知らないが『魔王、或いは災い』という形でよく使われる。外なる神というらしい。なんとも利便性に満ちた造語だろうと感心する。
「レイザ殿、運命というのは不思議ですね。私はこの先この世界は大きな悲しみと怒りに晒されながら少しずつこの鬱蒼とした森を突き破って進まなければならないと感じていますのよ。年寄りの勘、というものでしょうか」
「……ひとつの意見でしょうね」
そう言ってレイザは少しずつ湧き上がる緋色を眺めていた。聖職者も緋色を合図にしたのか仕込みを終えた鍋を持ってくる。煤に塗れた使い古しの鍋だ。道具を買いそろえるだけの力が東の地にあるとは思えない。
レイザは煤塗れの鍋を見つめながら、ふとレイの表情を思い起こしていた。畑仕事をして土塗れになるレイの姿を労うのも一種の楽しみではあったがどこかで違う願望が焼き付いて離れない。可愛い洋服でも着て笑ってくれないだろうか、等という戯言を幾度も反芻していた。
やがて聖職者が離れ、レイザはまた一人に戻った。しばらくは火が消えないようじっと見守るのがレイザの仕事であった。
「レイザ、お邪魔するわね」
「フレア」
入れ替わりに来訪したのはフレアだった。材料を持ち込んでやってくるフレアにレイザは口を開こうか悩んでいた。あまりフレアに伝えたくない内容でもあったが、本能でフレアが何かを知っていることも察していた。
まあ、それはフレアが横に座ったことで悩みは徒労に終わったのだが。
「最近はね、食材が豪華になって喜びばかり受け取っているわ。これだけ恵まれていると少し恐ろしいわね」
「フレアでも怖いものがあるのか」
「ええ、たくさんあるのよ、レイザ。これでも内面は薄汚いから」
「大変なんだな、取り纏めも」
「そうね、たまに――無邪気なものを見ると得体の知れない感情に支配されそうになるわね」
それは、レイの事を指すのだろうとレイザは理解した。静かに佇み言葉を発しない彼女の軸は頑強な樹木のように太くしなやかだ。どれだけの雨風に曝されてもまた芽吹いてくれるだろうという希望が彼女にはあった。
もし、女神というものが存在するならばそれはレイの事なのだろうとレイザは実感する。同時に先の聖職者がいった「突き破って進まなければならない」という一文が心に焼き付いている。
そう、言われずとも分かるのだ。もうすぐこの幸せは終わり、いつか分かれなければならない日がやってくる。
「……最近、食べ物に恵まれているわね。どうしてなのだろうと不思議に思っている。レイザもそう思わない?」
「……ああ、そうだな」
大都市から遠征する商人の高慢な態度を思い起こし、レイザは内心暴力的な怒りを湛えたがフレアの疑問に対して同意する要素は多々あった。
フレアには打ち明けられない暴挙をレイザは既に犯しているわけだが、食材が豊富にやってくる理由はそれだけではないと思っている。実際作為的な何かが働いているというフレアの予想は正解なのだろう。
ただ、フレアの様子から『得体の知れない作為的な何か』を探る風には見えなかった。寧ろフレアの中で粗方正解があって確認作業の為に話しかけたという印象をレイザは抱いた。
こういう時はあやふやでも得た情報を伝えるのが誠意だとレイザは考えた。
「アエタイトにいる人間が次々と倒れる事件はあった。流行り病とかそんな噂も流れたな。正解は分からないが、周りが『黒い男が災いをもたらした』等という噂も流れていて大都市は結構混乱していたと思う」
「黒い男?」
「まあ、大都市にいる住民はそういう創作的なものが好きなのはフレアも知っているだろう。例えば『千の貌を持つ神』とか」
フレアは困ったように笑って頷いた。そうだ、ハイブライトという国の在り方自体が虚構に満ちている。ある種その虚構は発展の為に必要だったとも今では理解する。
「そんな怖い噂が流れているのね。レイザ、その話はこれっきりにしましょう」
「そうだな」
内心フレアの対応に僅かな不満を覚えたがこういう虚構はフレアも聞きたくなかったのだろうと納得し、レイザは鍋を温める火が消えないよう細心の注意を払った。
「それよりも、これだけ食材があると豪華すぎてどうしたらいいのかわからないわね。慣れることって案外よくないのかもしれない」
「いいじゃないか、こういうご褒美も必要だろう」
「それもそうね。あと少しだけど手伝ってね」
フレアの不安を上手く拭えたかレイザには分からない。ただ、幾分か柔らかくなっているフレアの表情を見て最善の対応はできたとレイザは安堵した。
そうしてできた食事は聖職者たちも訪れた信仰者たちも満足に頬張っている。無論、その場から離れたレイザもレイも美味しいと言い合いながら頬張っている。美味しいものは美味しい。これだけでいいのにこれだけでは済まされなくなっていく事実が悲しいと思っている。
心のままに生きて往けたらいいのに。レイザは最近強く思うようになった。正しさでも過ちでもなくただ純粋に思うように生きて往けたらと願わずにはいられなかった。その願いが彼が言葉少なになっていく遠因でもあった。
昔は、正しさと過ちを判定したまま、突き進んでいた。その結果が血塗れの襤褸切れと血に染まった刃であるなら当然の報いともいえる。ただ、同時に妙齢の聖職者が残した『深緑を突き破って進まなければならない』という言葉も現実を帯びてきているのではないかとも考える。
剣を握れば人は傷つく。だが、誰も傷つけないという信念で生きていけるほど完璧ではない。ただ、噂の災厄者が思うほど醜い世界でもないとレイザはつらつらと考えている。
愛や幸福を説くにはまだ未熟だが、不信や信念を貫けないほど不安定でもない。何故なら目の前にある食事は美味しいのだから。心のままに生きてゆけばいつか羽ばたいていけると信じている。
生きる事はクライことだ。だが、生きていくうえで得るものは全て温もりに満たされている。そういう意味ではフレアほど悲観的ではなかった。
「レイザもレイも手伝ってくれてありがとう。今回は珍しく豊作だったわ。さっきも豊作だってみんな言ってたの」
「あんまり野菜とか育たなかったのにどうして今回は育ったのかしら。まさかご褒美なのかしら」
「きっとレイの頑張りを見てくれていたのね」
談笑しながら思い思いの感想を綴っていると先ほどの妙齢の聖職者がフレアを呼ぶ。もちろんフレアは笑みを止めて振り返った。
「フレア殿、少しお話が御座います」
「わかりました。直ちにそちらに参ります。よろしいでしょうか」
「ええ、至急お越しください」
「わかりました」
先ほどとは打って変わって冷たい響きを孕んだフレアの返答にレイは内心驚き、端の方で成り行きを見守っているレイザに視線を向ける。
「……レイザ」
声にならないほどのか細い声でもレイザには届いたのか、彼はさっと動いてレイの元へ駆け付ける。よく見ているとレイは内心安堵する。この安心感はどうも他の存在に向ける感情とは違う。
「どうした?」
「フレアが呼ばれていったのよ」
「そうか」
素っ気なく応じたレイザは、しかしレイを庇うようにふたりで歩き出す。いつの間にか大衆の姿も疎らで忙しなく動く聖職者達だけが残されている。
「お疲れさん」
ふたりに声を掛けたのは聖職者――ではなく畑仕事に従事している職人であった。声を掛けられて、少なくともレイザは悪い気はしなかった。理由はもう分かっている。
「お疲れ様です。そういえば先ほどから慌ただしいですね」
「あんた、結構火起こし得意なんだな。まあ、上流階級の人々は火を起こす術でも持っているんだろうがこちらはそういうわけにはいかんのでね。ところで何で慌ただしいかって知りたいのか」
「ええ」
「そりゃ、ここだけの話、ここは教会ではなくて牢獄だからねえ。そもそもあんたらはアシーエルって名付けられた理由とか知らないのかね」
レイザは呆然とし、レイは――目を伏せる。職人はどこまでも職人気質なのだ。僅かな人の機敏でも察する。
「そこの嬢ちゃんは席を外しな。おい」
職人に呼ばれた少年は頷き、レイに「こっちで遊ぼう」と声を掛ける。
「さて、若造。ここからは男の話だ。よぉく聞いておけ」
粗野な口振りとは裏腹に職人の男の顔は険しかった。まるでこの場が忌まわしいと言わんばかりに殺気立った声でレイザに忠告していた。
****
誰も通りかからない通路の端でくたびれた服の男と新緑の衣装を纏う男が並んでいる。
「ここはな、別名『禁断の地』と言われて、罪人や――まあ多くは没落貴族と政略の為に利用された人間が最後に集まる場所さ。だからアシーエルと名付けられた。専ら連中は『東の地』とも言っているがね」
「……アシーエルってどういう意味なんだ」
「そりゃ決まってるだろ。黒い石とか奈落とかその辺だろ。まあ、おれはそんな単語どうでもよくて、ここはとにかく連中が切り捨てた汚物の溜まり場ってわけ。レイ、だっけな。あの娘も当然連中にとっては都合の悪い存在だ」
「レイ、が?」
「みんなあの聖職者、そうそう確かフレアって名前だよな。あの女の事は信用していない。振舞いは立派だがいちばん信用できない理由としてあの嬢ちゃんを可愛がっていることだ。わざわざ特別に部屋を与えていることもあの女を信用できない理由に入る」
「……それは」
「若造、直感で答えてみろ。例えばお前がある家の商人の後継ぎとする。資産でもいい。生き残るにはまず同じ商人に勝たないといけないわけだが、お前は現状不利だ。技術もなければ人も足りない。それでも勝つにはどうする」
「……勝つなら、まずは内部から侵略しますかね」
「そうだな。真っ向から挑んでもお前はご破算だ。お前の選択肢なぞあってないようなものだな。そういう時にその商人が凄く大きい事をやらかした。例えば――契約違反とかな。そういうのを知ったらお前はどうする」
「……誇張し、主張するかもしれません」
「そうだ。勝てる材料を使わない手はないよな。そうしてお前の政敵を追い込んだら、その次はどうする」
「……子供を生け捕りにしますかね」
「おれもそうする。その子供が女ならよりいい。何故なら男は精々兵士や下働きとしてしか使い道はないが女には子供を産むという重要な手段がとれる。髪の毛埋めてできるなら価値はないんだが残念ながら腹から生まれる以上はな」
「……それとレイと何が関係あるのです?」
「おいおい若造察しろよ。あの嬢ちゃんはまあ教会にいるから孤児になっているが女が孤児になることは滅多にない。子孫繁栄の為に生かすか、証拠隠滅としてまとめて殺すかどっちかしか有り得ん。政敵に子孫でも作られたら統合するのに手間が掛かる。なのにあの嬢ちゃんは教会にいる」
「……それは」
「そうだ、あの女、フレアは契約違反を侵したわけだ。本来とは違うことをしたから此処に封じられている。おれはあの嬢ちゃんは元々存在してはならない娘で、あの聖職者が何か知らんが情でも湧いて保護してしまって、それで嬢ちゃんを片時も離さず見守っているんだろうよ。嬢ちゃんが外にでも出たら困る理由があるんだろうな。特に大都市なんかに行かれたら」
「……なぜ、そう思うんです?」
「え、あの嬢ちゃんが『本を読める』からだよ。お前さん、これ読めるか?」
何てことない紙きれを渡されて開いてみる。何かは書かれているがレイザにはよく分からないのだ。絵なのか染みなのかも分からない。
「あの嬢ちゃんが何か凄い本を持ってきてくれてせがれに読ませたそうだ。せがれが一生懸命練習しているがまるで分からん。せがれも首を傾げている。これが『文字』というらしい。そんなもんは少なくともお前さんにもおれたちにも必要ない。そんなもん身につける暇なぞないからな。作物を育てなきゃおれらは生きていけない」
「……それは」
「若造、あの嬢ちゃんはお前さんが思っているよりずっと賢い。気を付けて見守った方がいい。どうやらお前さんはあの嬢ちゃんの事が好きらしいからな」
「……そういうわけ」
――ほんとうに?
「長話に付き合ってくれてありがとさん。お前、あの嬢ちゃんにとって騎士だからな」
豪快に笑いながら去っていく職人の、一連の話がレイザを動けなくさせている。レイは、妹だ。何度も言い聞かせている。
兄を求めて離れ、そのうち忙しい時代のことも忘れかけていた。喪った幸せを求めて、それでも手に入らなくて、今ようやくここに馴染んでいる。
レイがもし殺されるようなことがあったら?
もし、レイが怖い目に遭ったのだとしたら?
そんなこと、あるはずがない。あっていいはずがない。もう、喪いたくない。
――ほんとうに、いもうとなのだろうか?
ふと、顔を上げて教会を見るとレイの笑っている顔が目の前にあったような気がした。そうだ、レイを待たせてしまっている。
レイザは足を速め、通路を走り出した。
****
聖職者たちが力を合わせて作った食事を大衆が美味しいと食べる姿はフレアの心を和ませる――というわけにはいかなかった。複雑な気持ちで見守るフレアの傍らにいるのは先ほど彼女を呼んだ妙齢の聖職者だ。
「フレア殿、何故このようなことをするのでしょうか。今更遅いと、私は申し上げておりますが」
「……」
「フレア殿、あの者達の視線がどういう意味で貴女に向けられているのか、薄々感づいておられるのではないでしょうか。私はそろそろ決断すべき時が来たのだと思いますよ」
「言われずとも分かっているわ」
鋭利な返答が空気を切り裂くまでには至らなかったが、フレアの表情は祭壇に立つ聖職者ではなかった。笑みを消し、灯を消し、引いては感情をも消した抑揚ついた声は機械的であった。
「フレア殿、レイという娘はあなたが思っている以上に利口ですよ。レイをこれ以上傍らに置けばいずれ」
進言が全て通ることはなく、妙齢の聖職者の頬に筋が入る。フレアが目を開き、口元だけで微笑んで手を挙げたからだ。
「黙りなさい、所詮はお前も首輪で繋がれた犬同然。私と共に地獄へ落ちるのがお似合いよ。二度とレイの事について口を挟むな。もし、仮にレイの名前を出したら」
手元にあった野菜の葉を床に落とし、何のためらいもなく靴で踏みつける。頬を抑える者に向かってフレアはやわらかく微笑んだ。
「塵一つ残さず丁重に埋葬して差し上げるわ。せめてもの餞別には丁度良くて?」
「あなたはどうしてそこまでレイにこだわるのでしょう。何もかも失って、いいえ、あの娘の為に」
「お前には一生分からないわ。下がりなさい」
その、フレアの口調には怒りと――悲しみが内包している。聖職者もこれ以上の進言は不要と察し、背を向けて元の任務へ戻る。
大衆たちが談笑に励む中、自分は心ひとつ動かすことなく見守っている。あの聖職者に指摘されずとも大衆は自分の正体も薄々察していることくらいは知っている。
本来有り得るはずのない『幼い女の孤児』を引き連れて歩く聖職者などどこにもいない。子を成せるという一点だけで女というのは価値があるのだ。それ故にしばしば女児は脅威の証とされることもあった。
レイの処遇は――そう、あの利口さとあの努力家は知る者にとっては脅威に映る。だから――だから。
今更遅い。そんなことは知っている。どれだけ足掻いても行き着く先は地獄だ。あの娘を背にして聖職者として、母として振舞って、許されることは永遠にない。
それでもあの娘を背にして振舞う意義はある。いつか近い日にあの子が刃を以て振り下ろすなら。その刃を奮って気が晴れるのなら。
「レイ、笑っていてほしい」
あの子がふと見せる笑顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
使命に生き、礎の一柱として朽ちるはずの者に訪れた僅かな光。鬱蒼と茂る深緑を羽ばたく線のように逞しく人々を照らす。その名を≪かの人≫は『希望』と呼ぶ。
理想の為に多数の資源を積み重ねて創られた世界を貫く閃光。或いは夜明けの前触れ。礎として生きていたことに何の疑問も抱いていない。その定めに後悔もない。
ただ、それでも、だ。
「……そろそろ夜ね」
いつまで聖職者の皮を被っていられるだろうか。フレアにとっての憂いはそれだけだった。せめてあの子の理想でありたい。
あの子の泣いている顔だけは見たくない。この姿も見てほしくない。見られたくない。それは望まないことだ。
フレアが顔を上げると、宵闇は深く濃くなっている。レイザとレイの元へ急ごうと決心した彼女の足取りはまるで白鳥のように優雅で忙しかった。
****
職人との話を終えていつもの部屋に戻ってきたレイザは子供たちと一緒に賑やかに食事をとるレイの姿を見つけて安心した。
「リィ姉ちゃん、これって何の食べ物? すっごい美味しいけど」
「ええっと、それはね、今日畑で採った野菜を切って温めたんだけど、新しくチーズやミルクが届いたからちょっと量を増やしてみたの」
「麦とかをすり潰したやつも今日いっぱい届いていたよな! こんなの初めて!」
大きく長いパンや窯でカリカリに焼いた丸いビスケットとスープを元気よく頬張る子供たちを見て、レイザも輪の中に加わる。
「なあ、美味しいか? 俺も頑張って採集したから少し味見したいけどいいか?」
「お、リィ姉ちゃんの騎士?」
「そ、そんなんじゃ」
「そんな感じだな。レイが悪いやつにさらわれたら俺が助けに行くんだ。かっこいいだろ?」
「れ、レイザ!」
すっと立ち上がってレイを抱えるレイザに子供たちは口笛を吹く。
「リィ姉ちゃんの騎士様かっこいい!」
内心、レイザは子供たちのレイの呼び方が若干訛っていることが気になった。どうしても『レイ』ではなく『リィ』と訛った形になるのは職人も言っていたが文字を理解しない性質故に、と納得している。
もちろん自分もハイブライトでそれなりに上層階流というものに触れたから彼女の名前をきちんと発音できるだけでそれは後から獲得したものだ。ほとんどの者に文字は必要ない。
畑を耕し、食物を育てて、近隣の女と結ばれて、子を産んで、屋敷とも言えないこの小さな部屋でこうやって密集して大勢と食事して、協力し、淘汰され、踏み躙り、生き残る。そこに正しさはない。
文字の垣根を取っ払ったからこそ異なる思想が結びついて生きていけるのだということを東の地に来てようやく納得し、心に落ちていく。もちろんその中で脱落する魂はあれど大勢が協力しなければ世界は作れない。
文字も女神も偶像も、彼らには必要ない。画一性を目指し、統率を目指し、統一を目指すからこそ異なる思想を異端と呼び、異なる思想を信じる者を異端児と呼び、排斥と殺戮と排除を主張する。
虚構の世界ではそういう統一性が必要だった。もちろん大きな世界を維持するには必要だが、大衆が恐れる『外なる神』は一部の者が強者になりすぎた結果、生まれてしまったのだろう。
「リィ姉ちゃんの騎士様めっちゃかっこいいね! 俺たちもリィ姉ちゃんを守る!」
「じゃあ、レイだけじゃなくて君のパパとママも守れるように明日から毎日畑で野菜の水やりと虫採集だな!」
「えぇー、そんなあ!」
「野菜の葉っぱは虫が大好きなんだ。放っておくと野菜が食われすぎてうまく育たない。たまにそういうのを追っ払う危険な虫に助けられているが人の手も、何なら動物の手も借りたいくらいだ」
「じゃあ騎士様と競争で誰がいちばん畑の葉っぱの虫をやっつけられるか勝負だな!」
「負けられない戦いがここにあるって感じか!」
「騎士様と勝負して、勝ったらリィ姉ちゃんにキスを貰うぞ!」
「それは聞き捨てならないな! レイの隣は俺の専売特権なんだよ」
「みんなで騎士様を打ち負かすぞー!」
「リィ姉ちゃんのキスを貰うぞー!」
レイザの豪快な笑みに子供たちが一斉に湧き上がり片手を天に向かって勢いよく突き出した。レイと幼い姉妹たちは顔を見合わせて困ったように微笑んだ。
野菜の恵みは美味しいだけではない。どこか沈んだはずの空気を吹き飛ばし、重苦しい深緑を突き破るほどの笑い声が狭い部屋でいつまでも響いていた。
****
賑やかな時間はあっという間に終わった。頂が藍色で沈む頃には静寂だけが周囲を彩っており、未だに慣れない後ろめたさはこれから禁忌を侵す背徳によく似ている。
子供たちに囲まれながらレイザは眠っている。いつもは頼もしいと感じる兄の背が今は儚く感じる。恐らく柔らかい顔立ちと風に身を委ねる髪がそう感じさせるのだろうか。
乱雑に散らばっている黒を丁寧に耳に掛けて一纏めにしておく。窓の向こうには黒い影と僅かな深緑と、淡い月の光だけだった。
まだ怖い、大丈夫、まだ怖い、大丈夫、まだ怖い。それでも最近は晴れ渡る空ばかりを拝んでいるので月に習うように瞬いている星々が勇気をくれる。
こんな日は初めて出会った彼の顔が鮮明に蘇る。視界に彼の面影が刻まれて離れてくれない。彼の面影が忘れられない。
祈りも空しく彼女は立ち上がり、軽やかな足取りで通路を駆け抜け聖堂を越えて扉を開いて外に飛び出した。
誰かの声なのかはよく思い出せないが、夜になると怖いものが多くなるから出歩いてはいけないという注意を思い出す。ただ、彼がここにいるという希望の前には闇は無力であった。
今までどこか身重だった自分の体がこれほど軽やかで、まるで空を飛べるのではないかと思えるほど澄み切った心で走っていることにレイは感激している。
いつでも、彼の傍まで飛んでいけたらいいのに。
子供じみた空想だと彼は笑うだろう。もちろん自分も他愛ない空想だと笑うかもしれない。しかし、今の自分の気持ちはそのような勇敢な空想で心が満たされている。
怖い事など何もない。もし、あるとするならば、彼を連れて空を飛べない事なのだろう。
これがもし、朝焼けを目前で拝めるならば、彼を連れて堂々と歩いて行けるのにと夜に拗ねた怒りを覚えた。それでもその小さな怒りは大きな希望を前にしたらすぐ消えてしまう。
「ミスター・ゼーウェル、やっぱりそこにいたのね」
闇と同じ色をしていても見失ったりしない。寧ろ宵闇が深いからこそ、彼の漆黒はより一層映えるのだと思う。
「ミス・レイ。夜に出歩くのは相応しくないと言ったつもりだが?」
「まあ、心配してくれているのね! ミスター・ゼーウェルの口からそのような労いが聞けるなんて私、嬉しいわ!」
「喜ぶことは言っていないと思うが、ああ、君は聞かないか」
太陽のように眩しい笑顔で話しかけるレイに≪かの人≫はいよいよ嘆息したが、目の前の彼女の瞳が太陽と花と空を映すように煌めいているので、自身の憂いもどうでもいいと考えた。
事実、内心では彼女の来訪を喜んでいるのだ。彼女に会えて幸せだという気持ちはどうにも隠し切れずにいた。
城内にいる女に比べたら華やかではない。忌々しい者共が選んだ上辺だけの服は自己満足でしかない浅はかな祈りを刻んで意味を虚飾している。
あの聖職者もどきに唆されているこの子を救いたい気持ちと、この子が笑っている幸福を奪いたくない気持ちで言葉を発する事も叶わない。もちろんそんな自身の心情を彼女が知る由もなくとにかく無邪気に話しかけて笑ってばかりいる。
もっと強くあってほしい。これほど切実に願ってしまう理由がわからない。知りたくない。知られたくない。
劣情と欲求と愛情が入り乱れる。
それなのにこの娘は劣情などと言う単語も露知らず無邪気に笑ってばかりいる。そんな無邪気な瞳で見つめられても、この手はその瞳から光を奪うために存在しているのに。
「ねえ、ミスター・ゼーウェル、聞いてほしい事があるの」
ゆっくりと視線を向けると彼女は光を湛えた瞳のまま伏し目がちに話し始めた。
「最近嬉しい事がいっぱい起こっているわ。前まで余りものを何とか食べられる形にしていたけれど、最近はとても豪華な食事ばかりを頂いているの。やっと男手も揃って料理も随分楽になって、毎日楽しくて仕方ないわ。野菜も果物も実っててとても綺麗だし、幸せなのだけど」
「幸せなのだけど?」
「なんだか、怖い」
困惑するような瞳で心情を曝す娘はまるで恐る恐る身を委ねようとする≪何か≫を思い浮かべて見えないところで嘆息した。
「ほう、君にも怖いと思う事があるのか。前よりもよくなったというのは喜ばしいと感じるはずなのに」
「だって、私には身に余る幸せよ。怖いわ。ある日全てが亡くなってしまうことが怖くて震えてしまう」
今がとても幸せだと信じて疑わない。目の前にいる自分が、近い未来、彼女ごとこの砂城を破壊するのに、彼女ときたら一点の迷いもなく強い瞳を向けている。
まるで、今が永遠に続くと信じて疑わない無邪気な子。
もし、この胸に渦巻く願望を形に出来るなら、彼女を縛る麻布の服を引き裂いて、春色の服を着せて、ここから連れ去ってしまいたい。
永遠に自分の手元に置いて、大切にしたら、いつまでも彼女は此処にいてくれる。
「……レイ」
「ミスター・ゼーウェル、どうしたの?」
僅かな機敏に気付くこの娘に向ける感情を持て余している。目を逸らしたいのか、見たくないのか、知りたくないのか。多分答えはどれもあるのだろう。
「もしもの話をしようか。例えば命の危機についてとか」
「まあ、物騒だわ」
顔をしかめるレイに対して僅かな憐れみを抱いた。哀れな娘。目前に立つ己がどのような悪もためらうことなく実行しているのに迷いもなく隣にいるなど無知にもほどがある。
無知は罪だ。その言葉がこれほど身を以て体感してしまうとは思わなかった。無知によって引き起こされる悲劇からどうしても彼女だけは、彼女だけは。
「君にとって大切な者達が危険に晒されたとする。或いは誰かが明確な殺意を以て詰め寄るかもしれない。その時に君はどのような選択をするのだろうか。君は勇敢な子だ。親しい者たちは君を庇って『逃げろ』とでも言うかもしれないな」
「なかなか物騒な話をするのね。どうしちゃったの? そんな答え、ひとつしかないじゃない」
躊躇いも迷いも一切存在しない。深緑を射抜くような眼差し。空に向かって咲く大輪の花のようにひたむきな彼女の回答は。
「私は戦ってみせる。私を思ってくれる人の代わりになれるなんて幸せよ。それ以上は望まない」
力のないその身でどう戦うというのか理解できない。それとも、彼女は今を信じているというのか。それならば嘆かわしい事だ。あの聖職者も傍にいる末弟もどれほど身勝手で利己的なのか、彼女は知らないというのだろうか。
「レイ、君には伝えたい事がある」
どうか、そのような決断をしないでほしい。命を散らさないでほしいのだ。
「君は、一人でも生きていける。君はその辺にいる貴族たちよりもずっと強い。私はそう確信している。もっと、自信を持ってくれ」
あと少し、時間が残っている。その間に彼女がどこか遠くの場所に行って生き残ってくれたらいいと切実に願ってしまう。
長話をしていたら夜明けまでもう少し。顔を上げると鐘が鳴るような軽やかな声が呼びかけた。
「うれしいことをずっと言ってくれるのね、ゼーウェル」
この眩しい笑顔が、この眩い瞳が、至近距離で触れる体温が、手放したくないと叫んでいる。
「長話に付き合わせて悪かったな。ひとりでは危ない。そろそろ戻った方がいい」
「そうね……あれ、何だか……眠くなってしまったわ」
微睡んだ彼女の笑みから目を背け、重心を失った身体を抱き止める。こうして、外に連れ出すのも二度目だろうか。
夢であって夢ではない。幻にも近い現実。永遠とはきっとこのことを指すのだろう。名前を呼ぶ心が何度も叫んでいる。
どうしてこうもこの体温はこの肌に馴染むのだろうと志向する。昔はこの体温を苦手としていたのに一度覚えたら離れがたくなってしまう。
「おやすみ、レイ」
知らせたくない、悟られたくない、見せたくない、見られたくない。
安らかに眠る彼女から目を伏せてその場から立ち去った。このまま連れ去ってしまえばよかったと嘆いた。
それでも、己は彼女の幸せを簡単に否定したくなかったのだ。
****
仄かな光に包まれて目を開く。それがすっかり日常生活として定着していたからこそ体に感じる違和感。
目蓋の上にのしかかる重みに耐え兼ねて体を起こした。
「あれ、ここは?」
鉛のように重い身体をゆっくりと起こして辺りを眺めると本棚に囲まれていたことを把握した。フレアの声や想いを感じ取れる場所で眠っていた彼女からすれば落ち着かないのは当然だ。
しかし、彼女の胸を騒がせているのは全く別の理由からだった。
宵闇と同化し、夜に愛され生きるあの人の声が少し震えていたことも、そういえば最後に優しく宥めてくれていたような気もする。どれも鮮明なはずなのに朧気で見えない。
あの人の声が寂しそうで、悲しそうで、居ても立っても居られなかった。
「ゼーウェル」
湧き上がる衝動に突き動かされるように本棚へ向かい、とある本を手に取る。そういえば自分は与えられるばかりで何もしようとしなかった。
自分が今いるこの小さな村の事さえ実は何も知らない。フレアのことだって、人に教えを説き、女神を信じる聖職者である。それだけしか知らない。
自分は何も知らずに生きてきた。そして何も知らなくてもいいと思ったのだ。半ば自殺に近い生き方でここまで生きてしまった。
自暴自棄にどんな目に遭って倒れてもそれは生命の在るべき姿だと思っていたのだ。
しかし、それは過ちだと気付いたのだ。自分は今、生きていたい。もっと生きていたい。死にたくない。愛したい、愛されたい、救いたい、救われたい、与えたい。
生命が呼吸している。何も知らないで傍観者でいるなんてさみしいと感じてしまったのだ。もっと生きていたい。まだ諦めない。
今まで何となく遠ざかっていた書庫から徐に手を伸ばしたのは、青い表紙に金文字の書籍。タイトルは、かすれているのか削れているのか読めない。
≪ハイブライト家を支える名家はふたつ。一つ目は創造を生業とする『トールス』と呼ばれし雷神の申し子。もう一つは流れを生む『キース』と呼ばれし一族。二つの一族によって我が国は永遠を約束されたし≫
黒く太い字で書かれた誓約を眺め見て次の頁を捲ると何かで塗られた痕、破られた痕跡など様々な形で『本という体裁を保てぬようにした』人の手があった。
≪いくつもいくつも誇れるものを産み出してきたのに結局は流れを生む者だけが勝者として広まっていく。なぜ我々は満たされぬのか≫
≪私は目の前に現れた者を女神だと信じた。そして彼女を愛せば私は強くなれると確信した。それなのに女神は影ばかりを追いかける≫
≪我々が創造し流れを創れば我々が勝利する。敗者よ、再び刃を奮い勝者となれ。我々は敗者にあらず!≫
ただ記した文字の羅列を追いかけていたのに、いつの間にか誰とも分からない声に囚われていく。声をかき消せるはずなのにこの手は勝手に頁を開いていく。
≪災いが生まれた。何時の世も災いは腹に巣食い、誕生する。殻を破れば災いは光に転じる。去れども災いは幾多の道を通じ独りでに生まれる。創造者も演者も等しく光を消し去る災いに他ならない≫
≪――口惜しい。私はただ生命を枯らした。私は祈りによって人を救う資格もない。私は生ける屍になってしまった≫
「……フレア!」
レイは突然我に返って本を投げ出し、書庫から飛び出した。
通路を走り、部屋を通り抜けて、礼拝堂へ来たレイはフレアが呆然と立ち尽くしている後ろ姿を見て震えた。
「……フレア」
恐る恐る呼ぶとフレアは精彩を欠いた表情でぎこちなく口を吊り上げるのみだった。まるで呪詛を聞いて怯えるようなフレアの表情にレイは胸を痛め、悲しそうにうつ向いた。
沈黙が礼拝堂を重たい場所へ追いやっていく寸前でフレアは崩れ落ち、嗚咽を漏らしながら魘されている。
「……修道士が、村の者が……」
そこへ勢いよく扉を開けてやってきたのはレイザだった。彼もどうやら異変に遭遇したようで血の気を引いた顔で帰ってきたようだった。
「森で薬物採集していた人達が数名倒れたらしい。俺と他の人で救助に当たったが、村人の方は大丈夫だった。しかし、修道士は」
そこまで言ってレイザは険しい表情で口を閉ざした。その様子から修道士の顛末を察したレイは目を伏せ、フレアは力なく項垂れた。
「レイザ殿、もう少し手を貸してほしい」
余韻に浸る暇もなく他の職人から援助を要請されたレイザが応じようとするとフレアが弾かれたように立ち上がり、レイザを押しのけて前に出る。
「私が行きます……私ならその心得はありますから」
「フレア……しかし」
「レイザはレイと一緒にいてほしい」
「何があっても、何があっても此処にいるのよ!」
納得いかないと言わんばかりに要請に応じる姿勢でいるレイザにフレアは声を張り上げて制止した。後にも先にもフレアの叫び声を聞いたのは今だけだとレイザは怯み、フレアはその隙に職人とともに向かう。
どこか焦点が定まらない足取りで行くフレアにレイザは呆然と彼女の背を見守っていた。その一部始終を見守っていたレイは怯えながらレイザに縋る。
夜になれば月光を浴びて佇む彼の姿をどうして今こんなに鮮明に浮かび上がるのか分からない。何の関係もないはずなのに、そう言い聞かせたいのに、どうして彼の瞳と姿ばかり鮮やかで離れてくれないのか。
「レイ、大丈夫か?」
恐ろしさと悲しみと苦しみが濁流のように流れてきて胸を切り裂くような痛みを訴えてレイザに縋る事しかできない。一方のレイザもどうすればいいか分からずただ彼女を受け止めるしかできなかった。
ああ、フレアの気持ちが今になってよく分かる――と、レイはこの期に及んで学ばされる。レイザにしがみつく彼女を浅ましく見つめていたはずなのに、自身を否定していると敵意さえ抱いたものだ。
それが、そうはいかない。
≪彼≫と出会って、強く惹かれ、思い知らされ、今や誰かの手に縋らなければ立っていることもままならない。こんな弱い感情、いっそ捨ててしまえばいいのに。
「レイ、いったいどうしたんだ。とにかく、とにかく大丈夫だから」
普段、全くと言っていいほど感情を見せず、増して涙一つ見せたことのない彼女が自分に縋っていてくれる。
どこか機械的で自分の傍にいた彼女に初めて心を許してもらえた喜びと、どうにかして元気づけたい思いが交じり合ってレイザは自身の心情を持て余しながら緩く抱きしめた。
「わかっていたはずなのに」
いたいけな少女を送り届けた後、彼はいつものようにすぐ自身の場所には戻ろうとしなかった。
どうしても彼女を、レイを失いたくないと思ってしまった。力もない、大した人脈もない、与えられた両腕を享受する小娘にこうも目が離せない現実を受け止め兼ねていたのだ。
どうすればレイをこの世界から遠ざけて幸せな場所に導けるのか。気付けばそのことばかりを考えていた。
そして、今、彼は足下に広がる紅を見下ろして苦しみに顔を歪める。
いつもなら狙った生命は迷わず奪って大地に埋葬していた。だが、己が手によって地に落ちた存在は権力に縛られていない善良な者達ばかりなのだ。
接し方に差はあれど聖職者擬きの振舞いや施しを純粋に恵みとして受け取り、感謝の意を示していた。その善良な者達を障壁として破壊してしまった。
人の命など礎の糧でしかない。そう信じて生きてきたのに、早く気付いてくれと願ってやまない。
「何を、何を迷っているんだ。あのような小娘相手に」
首を振って彼は何度も悲嘆を繰り返す。
レイ、どうして、よりにもよってそのような場所にいるんだ。どうしてよりにもよって相対する人間に救われてしまったのだろうか。何も知らないままでいる事があの聖職者にとって都合がいい事をどうして知らないのか。
レイ、どうしてそんなにもまっすぐな瞳で私を見つめてくるのか。もし、この手が汚れた様を見てしまったらと考え、背筋が凍る。
確かに立っているはずなのに地面を踏みしめる感覚が消えてしまった。
もしくは今まで何の自覚もなくただ闇雲に歩いているだけなのかもしれないとも思った。不安で仕方ない。
幸せになる為にはこれが正しいのではないか。今ある基盤を否定して新たに創造することが正義ではないのか。己を主張することが希望ではないのか。腐敗した万物を切断することが最善ではないのか。
どれも完全でないというならいったい何が足りないというのか。定まらない意識のままいつもの居城へ戻る。
魂の片割れの為に仕立てられた部屋はあらゆる美しさを取り入れたはずなのにどうして片割れは近づかないのか。
その理由が分かっていると思っていた。自信があった。しかし、実は分かった振りをしているだけだったのだろうかと思案し否定する。いや、そのようなことは決してないと。自分は知っているはずだと。
堂々巡りをあと何度繰り返せば輪廻から抜け出せるのか。この目に焼き付いた深緑を打ち破る方法を未だ手に入れていない。
「これが幸せにつながるのではないか。そうではないのか? ならば何が違っている? 教えてくれないか。お前ならその答えを知っているのではないか」
空のように澄んだ瞳を破壊した時、確かに片割れは叫んだ。幾度ものたうち回って激情を吐き出していた。
『ゼーウェル! 私も彼女の元へ連れて行ってくれないか!』
王家の繁栄の為に存在する右の女。ある時は空を模してある時は女神という冠を授かってある時は虚飾とともに微笑む。
すべてが繫栄と欲望と栄光と地位と名誉と知識の為に虚飾を身に着けて微笑むことを強いられた虚構の世界。
虚構とも知らずに、毒酒とも知らずに飲み干す右の女と呼ばれた者共の浅ましさを悲嘆する。それが当然だと信じて疑わない者共の無知に憐れみを抱く。
「私にとっていつまでも女神はあなただけなのだ。あなただけなのに、ラサーニャ。それなのにどうして離れてくれない」
レイ・ハーバード。名前だけは知っていた。そもそも元々は名前などなかった子供なのだ。安全を享受することも許されず諸刃の剣のように刺々しい瞳で僅かな力を吸い取って生きてきた。
僅かな力を吸い取る為に己の内部を明かすことは合理的だ。手段も選ぶ暇なく愛されるように振舞って生きて、そして拾われた。その、拾われた先が己が不幸になった元凶などと知る由もなく。救いの手が災いだと知らないでいる。
「フレア・ハーバード。お前が聖職者など、笑わせてくれる。罪滅ぼしの為にレイを利用するのか」
居城の至る所に生まれる前の赤子を授かる清らかな女の絵画が飾られている。或いは恵みを与えて微笑む天使の絵画と彫刻も飾られている。
子供が女の胎内に宿る時、人々はその子を神の祝福と呼び、聖職者は受胎告知をする。受胎告知を告げる天使の最たる位置にある存在が聖職者なのだ。
この、フレア・ハーバードときたら、なんとどこまでも己の正義のためだけに祈り、人々に恵みを与えている。自我に溺れ自我を高めようとする浅ましさ。
思考を振り払ってふと彼は机にあるグラスに気付いた。水分を丁寧にふき取って傍らに置いてくれている。
尋ねる者を亡くしてからは誰も来なくなった。危険を侵せば喪う可能性も上がる。生命の義務であり権利でもあるから致し方ないことなのだと受け入れていた。
それに、中心部にいつでも人がいて、こうして話ができるのだから何も問題はない。むしろ幸福ではないかと胸を張って生きてきた。そう、今までも生きてきて、これからも。それなのにどうして。
「こんなものを飲み干しても今更祈りなどできるものか」
未だに祈りが届くと期待しているのかと彼は笑いながら赤い水を飲み干した。
≪本当なら彼女と隣で飲み干していただろうか。もしも順当にいけば彼に祝福されて赤い聖液を酌み交わす未来もあっただろうか。このまま流れていけばあの子からこの聖杯を渡されて共に繋がっていただろうか。どれもこれも喪った夢だ。或いは存在しない幻だ≫
偶像を追いかけていたのはわずか数分。気付けばグラスの中は空っぽになっていた。グラスを置いて立ち上がり、彼はベッドに向かった。思い出すのは凛々しくも脆いあの人ばかりだ。
「どうせまた来てくれるさ。あの人は律儀だからな……ラサーニャ、様」
凛々しく咲き誇る右の女にして悲しみを心に湛えている。未だに己と向き合う事を諦めないあの母の進む道の先にある選択はあまり多くない。
墜落しか有り得ないと誰もが予想しているのにどうして危険を冒そうとするのか理解できない。
様々な形で呪詛を吐いたところで結局浅はかなのはどちらだろう。己の身を曝し、食物連鎖の一部として起こった事象に過ぎないことを嘆いている。
中心部にいる者達は全て誕生の為の糧に過ぎない。確かに弱かった。それ故に敗者になった。しかし、いつまでも弱いままではいられない。
「そうだろう……リィ」
意識が闇の底に沈んでいく間、彼は束の間の輝かしい青春を思い出していた。
意識を取り戻したレイは寝台の上に横たわっていたことに気付き、恐らくレイザが運んでくれたのだと察した。
「……私は、いったい」
少し体を動かすと激しい痛みが前進を駆け抜ける。頭が割れそうなほど痛む。あまりにも激しい痛みですぐに意識が水面に沈みそうになった。
「眠っている時でさえ、此処にいるのね……ゼーウェル」
自身の胸に手を当てて抑えて呟いた。
あの人は夜に溶けて散りそうなほど曖昧な輪郭で、生命の煌めきがまるで感じられない。陽炎のように現れては言葉少なに語るあの人に心が囚われてしまった。
初めて出会った時の幸せな気持ちは何だったのだろうか。今となってはよくわからない。
「いつまでも考えてばかりじゃだめよ。しっかりするのよ」
気怠い身体を起こしたレイはひとまず外に出ようと気を奮い立たせた。この建物から流れる厳かな空気をずっと心地よいと思っていたのに今は違う。今はただひたすら朝焼けを求めていた。
外に出ると空が明るさを取り戻しそうな光が射し始めている。
レイザの眼差しだけで安心できたのだから外に出たら背負っている荷物を下ろせるのではないかと期待していた。レイザに抱く想いの根源も知らずにただ彼の眼差しを朝焼けのようだと眩しく受け止めていた。
あらゆる万物から逃れるように扉を開けばやはり快晴だった。
「フレアは大丈夫かな」
フレアが聖職者に呼ばれてからまだ会話を交わしていない。いつもなら花壇で草刈りをするフレアの姿がまだ見当たらない。ただ、日常の怠惰による思い込みなのでフレアにも一人になりたいときはあるだろうと納得した。
そんな無意識な配慮とともに花壇を歩き回っていた。相変わらず白い花から日のように温かく大きな花まで色鮮やかな花が咲いていた。
ふと、レイが視線を向けた先には小さな鳥が陸に降り立って、嘴に何かを咥えているのを見つける。
それはいつも野菜を維持するために障害として採集に苦戦する虫の類で幾つもの鳥が密集して、やがて虫を咥えて咀嚼する。
もう少し歩くと今度は少し大きな鳥が飛来して大地に降り、逃げようと走る小動物をかぎ爪で捉えて傷つけていた。いくつもの大きな鳥が飛来し小動物を嘴でつついていた。
のたうち回る小動物の円らな瞳が遠くにいるレイを見上げる。その円らな瞳は濁った紅だった。ただ、視線がかち合ったのは一瞬だけで濁った紅が見開いたまま力尽きた。
「……そ、そんな」
動物がこうしてやってくるのは深緑に囲まれている以上珍しくないが、最後にかち合った紅がレイを捉える事実が彼女にはとても恐ろしく思えた。
死を予期し、自身の置かれた境遇に諦観しながらも憎悪を湛えたように思える紅濁は、そうだ、この瞳は。
事実を否定しようと首を振れば今度は夜に現れるかの人の瞳が焼き付いて離れない。かの人の瞳は夜のように暗く、まさしくあの小動物と同じように紅を湛えていた。
かの人の声に抑揚はなく、ただ宵闇を告げるような機械的な声色が脳裏に刻まれて離れない。
そうだ、かの人に抱いた感情は恐怖だったのだ。恐怖のあまり惹きつけられてしまったのだ。恐ろしいあまりに恋情を抱いてしまった。でも、どうしたらいいのか分からない。
もうあの小動物は跡形もなく消え失せて大きな鳥の栄養分になってしまったのに。
かの人が成し遂げる偉業は紛れもなく憎悪と怒りによるもので、今ここにある幸福もきっと恐らく憎悪の結晶で成り立っている。
逃げるように礼拝堂へ駆け込んだレイは崩れ落ち、嗚咽を漏らしてしまった。知らない方が幸せだった。知らなければ幸せなままだった。ただ悲しくて泣くこともできない。
彼が何故此処に来たのか。彼はこの世界を憎悪しているのだ。その事実を知っても尚、あの夜宣誓した決意が揺らぐことはなかった。
あの時だって揺らぐことはなかったのだ。例え、この身が滅びようともこの心は決して滅びはしない。何度でも蘇って羽搏いてみせよう。
「そうよ、私は負けたくない、負けられない。ただ祈るだけでいるなんてしたくない……!」
助けてほしいなどとか弱い少女のように振舞ってしまったとレイは己を叱りつけた。彼が見せた優しさの全てが偽りとは思わない。ただ人を傷つけるのは心の中にある憎悪が呪詛を謳うからだ。
もし、彼と戦うことになって、この命が消えるなら。それでも構わない。この想いの正体が恐怖心だったとしても、違うものだとしても。
「ゼーウェル――……」
口だけで紡いだ言葉は永遠だと信じて疑わない戯言の類だ。その戯言でできる事は何もない。それでも。
時間が少し経過して礼拝堂へやってきたレイザを見つけたレイは重心を崩し、やがて倒れ込んだ。
「レイ?」
声の主は朝焼けを告げる人のものだったと記憶する。
レイの姿がなくて何となく探していたら礼拝堂で立ち尽くしているのを発見した。いつものレイは控えめながらも凛としていて彼女の姿を見るだけで安堵するが今は違う。
清濁を織り交ぜた瞳が天を仰ぎ呆然とする様は生気を失った銅像のようで不気味に感じた。ただ、困惑しながらもやるべきことは本能が理解しているのかレイを抱き上げて寝室へ運ぶことにした。
昔にもこういうことがあったと感慨深く思うが、今はただ抱き上げるレイを単純に愛おしく思った。
畑で駆け回る無邪気な彼女も女なのだと思うと本能的にずっとこうしていたいと思ったのだが、それ以上の願望は湧き上がらない。
ならば今はもう傍らにいない少女に抱いた願望は浅ましい獣の本能ではないかと自身を叱りつけた。最初に歩み寄ったのは彼女の方だったのに。
だが、どのような女の誘惑も拒絶できるだけの自信がレイザにはあった。そう、フレアを抱きしめた時でさえ根底にあったのは親愛の類だ。守りたいとは思うがそれ以上の願望がなかった。
しかし、あの少女に抱いた感情は親愛などと言う甘いものではなく、ただ愛されたいという欲望の方が上回っていたのだ。
予想もしない形でレイザは彼女に抱いた想いの名前を知ってしまった。同時に自ら敗北の道を歩むことにした兄に対する思いもただの兄弟愛ではないと知ってしまった。
許されるなら、否、許されなくとも共に生きていきたかったのに。互いの幸福を分かち合いたいのに。
寝室へ辿り着き、レイを寝かせるとレイザはフレアの元へ行くことにした。フレアが傷病人の世話をしているというのは聖職者や職人から聞いて把握している。
初めてフレアと会った時から胸騒ぎがしていた。胸中にあった不安から目を背け砂城の幸せを味わっていたに過ぎない。その砂場はもうすぐ崩壊する。
そうだ、フレアは何か隠している。そもそもフレアは一介の聖職者のはずだ。レイザは慣習など一切興味を示さなかったがフレアが何故傷病人を看病するのか知りたかったのだ。
ここに来て『アシーエルにいるフレアを尋ねる』旨を告げた秩序者の事も気になった。秩序者は何故命を以て自身を此処に逃がしたのか。
ああ、恐らく逆なのだ。秩序者が自身の保護を命じたのではなく、秩序者に対して『彼』が自身の保護を依頼したのだ。大都市から東の地へ行くのは容易ではないが『彼』ならば幾らでも理由を作り出せるのだ。
ああ、そもそもここは本当に祈りを捧げる教会なのだろうか。
幾つもの疑念を抱いたまま立ち止まるとフレアが反対方向へ歩いていくのを見た。
「フレア」
「……レイザ……どうして」
「フレアが心配できたんだ」
フレアの険しい表情を慮るようにレイザは本心を明かした。
「……ごめんなさい。皆、熱を出したまま呻いているわ。一向に治らなくてどうすればいいのか分からないわ」
「フレア、何か危険な事でも起こっているんじゃないか? もしそうなら俺も。それに大都市でも似たようなことはあった」
「……何ですって」
大都市の名を出した瞬間、フレアの険しい表情が更に深くなる。驚愕よりも憤りに近い声で発した言葉にレイザはフレアが何か隠していることを把握した。
そして、その事実を知った自身の心にある感情はフレアに拒絶された悲しみだった。
「フレア、俺はいつまでも子供じゃないんだ」
朧げな記憶でも、レイザにとってフレアは家族だ。力になりたいと思うのはいけないのだろうか。それでもフレアは健気に笑ってみせる。
ああ、あの時見せてくれた弱さはどこへ行ったのか。壁に隔たれて超える事もままならない。その笑みが拒絶を示しているとはまさか思わないだろう。
だが、拒絶されたのだ。レイザは今すぐにでも泣き叫びたかった。ただ、今、何が起こっているか教えてほしいだけなのに。
誰も教えてくれない。こうして微笑むだけだ。立ち尽くすレイザの心情などフレアが知るはずもない。そのことが更に悲しかった。
「……ごめんね、レイザ。私はどうしてもレイザとレイを守りたいの」
呪いのような決意を繰り返し、フレアは目を伏せて反対側へ進んでいく。