表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/9

第三章:誇り高き純愛

 今やハイブライト全域が突如訪れる『死の旋律』に震え上がり、抗う術もなく逃れようと思惑を張り巡らせている。

 城内では歩く権力者達がすれ違う人々に張り付いた笑顔で敬礼している。そうだ、この者達は誰が『死の旋律』を奏でているのか分からないのだ。例えすれ違った相手が己だろうと対応は同じだった。

 根付いた恐怖が更に人の目を曇らせる。一連の人間たちの対応が揃いも揃って同じである事をゼーウェルは顔色一つ変えずに笑っている。その彼の目的地は残された希望を閉じ込めようとした薄暗い場所。それはセイシェルの自室だった。

 彼等が信仰した女神は華美を好まなかった。あくまでも自然を好み、そこに少しだけ鮮やかな色を置く事を望んだ。

 彼等からすれば地味である樹木があればこそ深緑は真価を発揮する。だが彼等の信仰心は華やかな絵画と白亜と黄金が絶対であると証明した。華やかな色があればこそ深緑が色が持つ無限の力を発揮してくれると謳ったのだ。

 そういう彼等に囲まれた空間からしてもセイシェルの部屋の周辺と王城の中心は別世界のようだった。彼等からすれば地味で価値のない色。そんな地味な色の中でしか生きられない憐れな存在。

 そう、誰も彼もがまるで『自分たちの存在そのものが後ろめたい』と言っているような気がしてならなかった。その証拠に彼の自室は中心から遥か遠い場所にある。彼等の高慢さと強引な正義感には堪え切れない怒りを覚えた。

 そういえば彼が望む絵画と彼等が望む絵画が違っている事実も恐らく周囲の有象無象は知らない。己から見れば彼等の願望の方が異質だった。人それぞれ違いはあってもいいはずなのに、彼等ときたら揃いも揃って同じような内容を口にする。

 寸分でも狂えば彼等は正そうと正義を振り翳し、異質を叩き直そうとする。その様を滑稽だと笑われている事も知らないだろう。だが、行き過ぎた彼等の行動はいよいよ我慢ならない地点にまで達し、ゼーウェルは一種の見せしめとして組織の一部に滅びを与えた。

 ――楽に滅びを享受できると思うな。目的地へと赴く彼の口に冷たい笑みが浮かぶ。悲しみ、怒りさえも思うがまま。苦しみ、絶望さえも己の手の中に。例え悲しみの声が響いても何れ無力だと苦しみながら果てていく。

 歩く音はつい軽やかになる。そう、己の手の中で新たに用意したのは寸劇の一つに過ぎない。この寸劇を見た彼女はどんな反応を示してくれるだろう。歩は早まるばかりで目的地へは己が実感する時間よりも早かった。

 やや乱暴に扉を開けると眠りに就こうとしていた彼女――ラサーニャが僅かに目を見開いた。驚きの声をあげるかと思ったゼーウェルは彼女の反応がやや薄い事に失望してしまった。ただ、その失望感など取るに足らないもので彼は邪魔が入らないよう扉を締めた。

 まあ、扉を開ける者があれば直ぐに血を流す結果になりそうではあるが、と意地汚く嘲笑っているのだが。一方、高慢そのものである彼の振る舞いに憂いを示したのは彼女であった。

「……ゼーウェル、もう、夜よ」

「相変わらず、母らしく真面目ですね。ラサーニャ……夜だから楽しい事もあるのですけれど」

「私には、わからないわ」

 何を示唆しているのか母には分かるのだろう。返答に僅かな途切れがあったのをゼーウェルは見逃さない。彼女が本当に『楽しい夜』を知らなければ息子であるアイシアが生まれる事はないのだ。つまりこれはただの演出に過ぎないのだ。

「そうですか、私と夜を楽しんでくれるのを密かに待っていたのですけど、些か残念です」

「……ゼーウェル、冗談は止して」

「私が冗談を言った事ありましたか? 残念ですが私はいつでも本気ですよ。別に今この場で強引に『楽しい夜』を催してもいいのですけど、どうせなら貴女が懇願してくれる方がもっと楽しいだろうと思い、今は大事にとってあります」

 彼女の演出が過剰になってきたところでゼーウェルは杭を挿した。軽く鉄の破片を指すだけでも良かったのだがそれでは彼女の演出が過剰を極める一方なのはゼーウェルが一番知っているところでもある。

「……貴方は赦してくれないのね。分かっていたけど、改めて目の当たりにすると胸にくるものがあるわ……」

 間が差したように呟いた彼女の声にゼーウェルが喉を鳴らして笑いながら、彼女の痛感した事実を突き付けていく。

「おや、簡単に赦されると思いましたか。実に軽率だ……簡単に赦す事などできないのですけど……でも、そうですね」

 ラサーニャは窓を少しだけ開けて、布を開いて眠るのが日課であった。そのせいか夜が深くなっていく事が目視でも理解できる。まだ今は彼女と共に過ごす夜に相応しくない。事実、目の前にいる彼女は伏し目がちではあるがまだ己の足で立っている。

 その凛とした姿が崩れ落ちるまではまだ要努力、と言ったところだろう。彼は彼女から遠のき、丁寧に四つ折りにした紙切れを足元に落とす。花びらを落とすような動作で紙切れを落下させた彼からラサーニャは目が離せないでいた。

「楽しみは大事に取っておくものです。今はこれだけ目を通してくれたら私は十分に満たされますので。必ず目を通しておいて下さいね。別に目を通さなくてもいいのですけど。貴女が苦しむだけですから」

「……そんな事、しないわ。ゼーウェルから与えられたものだから……ちゃんと目を通しておくわね」

 こういうところは誠実なのだろうとゼーウェルは内心忌々しく思いながらも「おやすみなさいませ」と(うやうや)しい声を残して彼女の元から立ち去ろうとした。

「……待って、ゼーウェル」

 ラサーニャは背を向けたゼーウェルを呼び止める。最も、彼の反応にはあまり期待していなかったが、意外にも彼はこちらに向き直り再び歩み寄る。予想に反する彼の行動に驚いたのはラサーニャの方だった。

「どうしたのですか、ラサーニャ。一人では眠れないのですか?」

「……そうではないけれど」

「では、どうしましたか。私で力になれる事なのですか」

 ――憎悪のままに人々を(ほふ)る彼がどうして己にはこうして遠まわしな責め苦を与えるのだろうと疑問に思っていた。牢獄で武器を構えた時もその後も彼は容易く行動を起こす事が出来たはずだ。それなのに自分は今尚生きている。彼に生かされている。とても不思議でならない。

 彼女を見下ろす彼の瞳には、あらゆる物質が熔けるほどの熱が篭っているのに、未だ彼の持つ熱に焼かれずに己は物質を保って生きている。もしかすれば、まだ希望はあるのだろうか。

「もう、このような真似はしないで」

 直ぐ近くに脅威を振り撒くゼーウェルがいる。危険な存在だと十分その身で味わったはずなのに自分は彼に縋って懇願している。彼の凶行が止まらない事などもう分かりきっているのに。まだ捨てきれない情に流されている。己を愚かしいと笑いながら発した言葉は止まる事なく流れていく一方だ。

「貴方がここに来た時から何をしたいか、私は分かっているわ……貴方が何の為に障壁を排除しているかも」

 ゼーウェルは笑う事も、瞬きすらせず彼女の言葉を聞いている。動く事も彼女の弱々しい手を振り払う事もしない。ただ彼は黙って彼女の声を聞いていた。

「アシーエルに行くのでしょう? もはや貴方を阻む人間なんてここにはいない。貴方を追い詰められるだろうハロルドやイリアもここにはいないもの。もう誰も、貴方を止める事なんて出来ないわ。私達が懇願しても誰も力を貸してくれない。人々を蔑ろにしてきた因果応報だもの。ハイブライトの者達が束になっても貴方を打ち倒す事なんてできないわ」

 彼女の言葉には深い悲しみに満ちている。嘆きと罪悪感と苦悩で彼女は己を痛めつけている。しかし、ゼーウェルは知っているのだ。それでも彼女は頂点に立つ『右の女』として咲き誇る使命を放棄しないと。

 女としての性を恨みながら利用する。そうして彼女は『右の女』としての栄光を積み上げていく。それが、生まれた時から与えられた彼女の使命。誇り高く優しい彼女はその使命を悦び受け入れるだろう。こうして懇願する姿勢も一時的な情に流されているだけに過ぎない。

「ゼーウェル、もういいでしょう。私が貴方を忘れた事がいけなかった。罰するのは私だけでいいはず。ゼーウェル、もうやめて……」

 そうして彼女は使命を果たす。あらゆる手段を使って、結局は頂点を彩る右の女としての使命を果たすべく言葉を紡ぐ。己の肉体を使い惑わせる事もするだろう。それが、頂点に立つ存在の役目だ。彼女はその役目から逃げられない。ならば自分が退く事はできない。

「健気な貴女の言葉が聞けて嬉しいですが、受け入れる事はできません。そして、貴女は間違っている」

 組織を護らなければ彼女の先にあるのは『クライ』未来だけだ。本当はあらゆる欲望を抱く彼女がこの鎖に縛られた狭い世界に生まれた事が既に『クライ』事実なのだろうとゼーウェルは目を細める。だからこそ、彼女には教えなければならない。

「私の心は、私だけのものです。ハイブライトがどうなろうと私には関係ないこと。それでも私を止めたいなら」

 鎖に縛られた憐れな右の女。自分はこの女を『ラサーニャ』として見ていたのに彼女は無意識に使命を全うする。使命に生きる以外の術を教えられていないからだ。

「貴女自身の力でもう一度頼む事です、ラサーニャ。少なくとも今の貴女の言葉は、貴女の本心だとは思えない」

 彼女は知らないのだろう。もう既に彼女は『右の女』として微笑む必要がないという事に。彼女の身体を縛る鎖など、もうずっと前から存在しない現実に気付いていない。

 本当は頂点に立つ彼よりも強く動いて生けるのに行使する勇気のない悲しい女。彼女を痛めつけて、ほんの少しだけ希望を与えたいと思ってしまう。理由は未だ分からない。

 自らを投げ出すほどの想いを持ちながら鎖を意識する彼女を、どうしても自分は抱き締めたいと願ってしまう。もう、ずっと昔に壊れた関係に何を望んでいるのだろう。

「ラサーニャ、それよりも最近疲れているのではありませんか」

 今は夜だ。少し触れるくらいなら問題ないだろうと彼女の髪に触れた。朝焼けの光を浴びて透き通る銀はすっかり傷んでいる。僅かに過ごした時間の中でも彼女は溜め息をつきながら女神を模倣する容姿を作っていた光景を思い出す。

 常に己の美貌を。常に望まれる姿を。華美なドレスを着て、眩しすぎる宝石を散りばめた髪飾りをつけて、慎ましやかに歩く。その光景を時には日が過ぎても継続しなければならない彼女を心苦しく思っていた。

 どれほど望まれても自由を制限されるほど装飾すればあらゆる箇所が傷んでくるだろう。日を跨ぐほど使命を全うすれば労わる時間もないはずだ。

「どうして私だけを生かしているのかしら、ゼーウェル……皆、善良な人たちなのよ……どうして」

「貴女には分かりませんよ、ラサーニャ」

 大勢の人々が望むように演じるのが右の女の務めと謳うなら、自分はその役、使命を全力で奪ってみせよう。

 気が付けば彼女は既に意識を夜底に落としている。

 懇願する彼女の瞳から流れる涙は舞台で見る彼女とはまるで違う。顔を悲惨に歪めながら歯を食い縛って泣いている。役目を全うしながらも薄らと彼女の表情に影が宿っていくのを知っているのはきっと自分だけだ。

「苦しいですか? ラサーニャ」

 彼女を目の前にして湧きあがる感情の名を実はどう付けたらいいのかまるで分からなかった。湧きあがる衝動をゼーウェルはどうにも持て余していた。彼女が『胸に来る』といった感覚を始めは知らなかった。

 ただ、心臓が軋むほど鳴っている。これが彼女の言う『胸に来る』という現象なのだろうか。

「貴女に見て欲しいのです、ラサーニャ。私の成す偉業を……私が正しいと言う真実を、私を過ちだと決めた全ての存在を罰する過程を。貴女は私が最も『憎むべき』存在なのだから」

 彼女の見る夢は彩りに満ちているだろうか。それとも色が喪われているだろうか。どちらでも構わないとゼーウェルは彼女を更に抱き締める。

 もし、彼女が目覚めて再び謝罪を口にしたらこの手は彼女の首を絞めてしまうだろう。自ら命を投げ捨ててでも『多数を護る』彼女だからこそこのような衝動を抱くのだろうと結論付けた。

「今度こそ、お休みなさい」

 ゆっくりと白いシーツに彼女を横たわらせて、今度こそゼーウェルは背を向けた。立ち去ろうとして、彼はまた振り向いた。

「貴女に希望を与えようか……」

 平民に追いやられながらも一途な思いだけで垣根を越えた果敢な存在がいる事を。

「アシーエルには『レイザ・ハーヴィスト』がいます。何も知らない憐れな私の末弟。私と彼が会えばどうなるでしょうか……でも、関係ない話でしょうね、貴女には」

 末弟――今は抹殺者の称号を背負った憐れな人間。それが、レイザ。力を持ちながら行使せず、衣服すら汚れた布を纏わせているだけの惨めな男。

 奪う行為を実行しながら富を手にしないレイザをゼーウェルは忌々しく思った。抹殺者と呼ばれながらいつしか人々から『レイザ・ハーヴィスト』という名詞を広め、人々から名詞を呼ばれるレイザの存在も然るごとながら。

 最も腹立たしいと思ったのは『レイザ自身が不幸だと嘆き、刃を振るっているという』事実だった。何故力を持ちながら富を得る事もせず、一向にあの襤褸切れ(ぼろぎれ)の布は一新されないのか。

 彼の剣の腕は忌々しいながらも確実に人を追い詰める。不幸な存在だと嘆きながら振るう刃は鋭利で冷静だった。力がないと嘆きながら力を行使する。だからこそ、レイザは忌々しい存在なのだ。

 己の部屋へ戻りながらもゼーウェルは最大の障壁になるであろう抹殺者『レイザ』の存在をどうするべきかずっと考えていた。

 ――嵐の後の静けさを取り戻した自室で、ラサーニャは悲しげに呻いた。いっそこの首を力強く絞めてくれたらいいものを、ずっと真綿で絞められている。呼吸することは苦しいのに僅かな酸素は供給されたまま。

「……私は、貴方の傍にいたかった、ゼーウェル」

 本当は忘れてなどいなかった。ただ封じていただけだった。だが、家族を捨てる事もできない。兄の素顔を知る自分が彼を捨ててしまったら、もう兄は誰にも止められない。

 己の無力さを呪い、己が置かれた現実に憎悪した。たった一人でこの箱庭に蠢く思惑をどう退けるというのか。己の言葉などすぐに消されてしまうのに。多数が掲げる正義を前にして出来る事は何も無いに等しい。

 今だって、ゼーウェルの凶行を止める手立てが見つからない。どうして自分はこの箱庭に生まれてしまったのだろう。目に映る華美を美しいと定義する仮初めの箱庭に、何故。

 心から愛した存在と寄り添い、命さえも惜しまない存在を育て、晴れ渡る空に羽ばたく日をずっと待ち望んでいたのに。もう、そんな夢は二度と叶わない。

「それでも、私は」

 白い布を握り締めながら彼女は歯を食い縛る。この国を支える使命が自分にはあるのだ。激しい痛みを引きずったまま夜の底へ沈んでいく。夜が明ければまた自分は右の女として立つ使命を背負う。

 目の前に映る煌くドレスを心中で罵倒する一日が、また始まるのだ。


****


 朝が訪れていつものように王間へ行くと兵達がこぞってラサーニャの前まで来たのが見えた。彼等の青ざめた様子から理由は凡そ察した。兄もただ指をくわえるだけではなく戦力を投資して追跡しているものの追いつかないのだろう。

 内心、別の感情が湧きあがったことをラサーニャは敢えて知らない振りをした。

「ロンカまで……」

 王城から真っ直ぐ南下すれば大都市に辿り付く。南西ロンカはやや西に位置して専ら技術を大都市と王城に提供しているが、謂わば制御できない者達によって否定された文明が根にあった。古代の技術や文明を護り抜いたのが南西ロンカの在り方だった。

 その古さえも奪い取ろうと躍動する辺りが黒幕らしい用意周到さであった。古きを知りて新しきを知る。古代の成り方から新たな可能性に目をつけたのは王城でも特に目を掛けられている『トールス家』だった。

 南西ロンカでの技術に触れたトールスの統治者が『装飾食』をアエタイトで民に提供した事から食に精通する者としてトールスは王城でも絶対的な権限を持っていた。

 そう、南西ロンカを警護する者達も元はと言えばトールスに仕える存在ばかりだ。

「いつまでためらっているのですか」

 警護兵の一人が声を上げる。動かないラサーニャや兄に痺れを切らしたのだろう。しかし、ラサーニャはトールス家のことをあまり快く思っていない。それは、兄も同じだった。古きを知りて新しきを知る事が大切なのは分かっている。それは頂点に立つ上で必要不可欠だった。

 だが、何事も順序というものがある。幾ら冷酷と言われた兄でさえもトールスの強欲さには理解に窮する部分があったのだ。無論、彼は統治者としてトールスに対する評価を決して言葉にはしなかったのだが、できることなら退けたかったという思惑はあった。

 そして、ラサーニャは暗躍する彼の根源が何であるかをある程度は予想していた。そしてその予想は当たっていると確信した。兄の苦悩の正体も恐らくはそういうことなのだろう。兄は『彼の人』を少なからず気に入っていたからだ。そして自分は彼を心から信頼した。

 無論、警護兵に罪はない。彼はただ仲間思いから声をあげただけだ。そうでなければ自分に詰め寄る事はしない。

「……それならば、公開しましょうか」

 王城と家が隠している醜悪さを。もちろんラサーニャは彼の良心と現実を視る力を知っての問い掛けだった。そして予想通り彼は押し黙った。

「彼を止める事はできないでしょう。あなただってわかっているはずよ。そもそも事の始まりは私達が容易に見下し、容易く排除する決断をしてしまったという点から。そうでしょう?」

 最大限、言葉を選びながら彼女は詰め寄る男に現実を見せた。全て身から出た錆なのだ。この男の置かれた場所があまりにも悪すぎたと彼女は嘆いたが今嘆いてもどうにもならない。

「ならば、どうすればいいのですか!」

 男が尚も詰め寄る姿勢を見たラサーニャが僅かに目を見開いた。現実を知りながら否定しようと――否、信じようとする彼の実直さと清らかさにある種の悲しみと嘲りが同時に湧いてくる。

「なるようにしかならないでしょう。それとも命を捨てて戦うのかしら? 貴方達にそんな姿勢があるなんて知らなかったわ。だって一人に罪を背負わせて何とも思っていないでしょう?」

 男を罵倒しながらラサーニャは自身を罵倒した。もう今はいない神の使いを東の地へ追いやったのは自分だった。追い詰められた者を突き落としたのは自分だった。

 これは、報いなのだ。これは罰なのだ。突き落とされても彼は生き続けた。彼の心は生き続け、遂に目覚めた。彼女は息が掛かるほど男に顔を近付けてやわらかく微笑んでみせた。

「お似合いじゃない、逃げて死ぬ末路が」

 なにも彼が悪いとはラサーニャも思っていなかった。それほど単純な話でもないからだ。しかし、己の中の感情を示したい欲望を抑えることもしたくなかったのだろう。まるで他人事のよう実直な彼に欲望をぶつける。

「……戦ってみたらいいじゃない。そうまで事態を重く受け止めているなら」

 悪意の限りを以って彼が昨夜渡してくれた紙切れを男の目の前で落としてみせる。男はその紙切れを拾わずとも紙切れの正体が分かったのだが、拾う素振りは見せず押し黙った。彼は誰も恐れていないという何よりの証明だと実感したのだろう。

 男は憤慨しながらもラサーニャから背を向け、足音を立てながら去っていく。その未熟ながら正義に燃える姿にラサーニャは溜め息を吐いた。何故、こういう者がトールスの中心にいないのかと。勿論中心にいない理由も分かっているのだが、どうしてもそう思ってしまった。

「つかれたわ」

 ここにいる者達も全く愚かではない。脅威だと語り、災厄者と名付けられた存在と対峙する勇気などあるはずがない。そんな真似をすれば結末など火を見るより明らかだ。

 ――だからこそ、立ち向かおうとした僅かな存在にラサーニャは敬意と羨望を抱いてしまうのだ。彼女の呟きは激しい感情が行き交う中で起きた疲労からなのだと思った。


****


「やあ、ラサーニャ」

 今日は、彼は王間にいなかった。自室で優雅に寛いでいる。なるほど、アイシアの姿が見えないと思ったら彼が統治の代行を務めているのかと納得した。

「お兄様、お招き頂きありがとうございます」

「すまないね、トールスの相手を引き受けさせてしまって」

「慣れております。お兄様が仮に出てこられたら大騒ぎになるのでそういった事からも私がした方が得策ではありませんか」

「冗談がきついね、君は」

 一部の人間のみが許された空間で交わす言葉は他愛ない話題で憐憫と侮蔑に満ち溢れている。この空間そのものがいつだって多くの人間を憐憫を以って暴き、侮蔑を吐いて曝し上げた。

 兄が飲み干すワインはまるで赤い血のようだ。いつだって彼が統治しているときは多大な犠牲が必要になっている。今日の鮮血は誰のものだろうと考えた。

「お兄様、飲みすぎですよ」

 反射的にラサーニャは彼を咎めた。鮮血を飲み干す彼を恐ろしく思ったのだろうか。湧きあがる感情が冷たい物質なのは理解したが名前はつかなかった。

「君は相変わらず手厳しいな。まあ、そんな君がいたから僕は今もこうして上に立っているのだから忠告は聞かないとね。僕一人では決して成し得なかった」

 兄の言葉は感謝にも捉えられる一方で己を断罪する宣言にも聞こえた。弱々しい声の中に己が犯した過ちを示されているようでラサーニャはいてもたってもいられなかった。

「権力を手に入れた事を後悔しているのですか」

 せめてもの反撃だったのかもしれないとラサーニャは言葉を放った後で気付いたが、兄が自身に力を(ふる)うならそれでも構わないと覚悟を決めた。自暴自棄にも近かったかもしれないが。

「それがこの家の血なら仕方ないと思わないか」

 返ってきた言葉は兄なりに定めを受け入れた穏やかな木霊だった。兄の弱々しい姿にラサーニャは心を傷めた。彼は統治者として君臨する過程で自らの心を亡くしてしまったのだ。

 睨み合いや競争は今尚続いているが、兄がまだ幼かった頃は王家も積極的に睨み合いの輪に入り、競争の為に奪いとった時代があった。兄はそれらを見て心底軽蔑し、絶対的な力を求めていた。

 最も、己は早いうちから子を生む使命を全うできるよう隔離され教育されてきたので兄の苦悩は分からない。ただ、来る人皆が何らかの思惑を抱いてひれ伏していたのは分かった。

 血こそ流れないが醜い争いに業を煮やした統治者は権力を自分のものだけにしようと舵を切った。そうだ、権力を我がものにするには血の繋がりさえ障壁になる。力を持った者達は次々と排除された。

 災厄を予告し、災いに呑まれた者達の屍は二度と転生できぬよう焼かれていった。罪人を裁き堕とす煉獄、いつしかその名を『アウト・ダ・フェ』と皆が口にするようになった。

 だが、ラサーニャは兄がこのような決意を固めた真実を知っている。兄は――アルディは力などなかった。どこまでもただの欲深い人間だった。叶わぬ恋に身を焼き、爛れた果てに人格を喪った。

 アルディは神になろうとした。しかし、そんな事はできなかった。兄は、神にはなれなかった。ただの人間だった。アルディなどと高らかに名乗る時点で彼は神にはなれない。

 昔、兄はそのような事を露ほどにも思わなかっただろう。神だと本気で思ったのだろう。では、今は?

「……ラサーニャ、私は間違っていたのかもしれないね」

 空気にかき消されそうなほど小さい声で彼は呟いた。アルディの思考など見えないはずなのに彼の思考の中にはもうどこにもいない弟シリウスと――。

 愛したはずの二人と未来を共にするはずだった。その二人を排除してまで手に入れたかったものは本当に欲しがったものなのだろうか。欲しいと願って手を伸ばし、一時的な幸せを手に入れたが結局抜け殻になった。

 本当に、それは、欲しがったものなのだろうか?

「お兄様、」

 何か言おうとしてラサーニャは何も言えなかった。アルディ一人が罪深いわけでもなかった。自分も彼の欲しがったものを差し出すために手を汚してきた。

 兄の幸せを蝕んできた。あの時、アルディの前に立ちはだかっていれば食い止める事ができたかもしれない悲劇を、自分は結局我が身可愛さに食い止める勇気が持てなかった。

 あの人が母になったのは新緑に花開く季節の事。儚くて強いあの人を地に落とした季節は花が散って葉が深緑に移り変わる頃。四季を共にする若者を苦しめた。

 それでも母たるあの人――ソフィアは愛する存在を生かして欲しいと願った。ただ、彼女の口から兄の事が出る瞬間は終ぞ訪れなかった。傍目から見れば諦めたらいいものを、と思うが諦めているならとうの昔に区切りがついているはずなのだ。

 若者の元へ訪れたのはそれから直ぐだった。若者は彼女の死をもう予感していたのか、兄を責める事も己を断罪する事もしなかった。ただ彼は『少しだけ、セイシェルとともに生きたい』と言った。

 言ってやりたい言葉は多々あったはずなのに、いざ目の前にすると何も言えなかった。いつしかセイシェルと彼を引き合わせていた。ただ、意外だったのはセイシェルが彼に何も言わなかった事だ。

 母に見捨てられた記憶が鮮明だったはずのセイシェルが、母を連れ去った張本人を罵倒することもなければ口汚く彼を侮辱する行為もせず。彼は彼でセイシェルを『一緒にいられたらいいのにね」等と彼に言っていた。

 母にとってセイシェルはアルディへの『花向け』だったのかもしれない。力のみを信じるようになってしまい、統治の宿命を是だと盲目的に信仰していたアルディに対する餞別だったのだろう。

 彼女にとって『花向け』は祈りであり、いつか希望が花開く春が来ることを願う愛だとしたら。無論彼女も若者もその事は言わなかったはずだ。言ったとしてもアルディは受け入れないだろう。

 希望とはいったい何だろうか。若者とセイシェルが通じ合った事象を希望と名付けたら良いのだろうか。

 セイシェルを連れて丘へ登る少し前の夜、若者はラサーニャを呼んだ。彼女を呼んだ若者は旅着を身に付けていた。呼ばれた彼女も若者の格好から凡その内容は察した。

『ラサーニャ、突然呼んでごめんね。君にどうしても話がしたかった』

『シリウス……』

 引き止める術も持たなければ、諭す言葉も見出せない。

『僕はね、充分に生きたと思う。愛する人の子を残せて僕は幸せだったと思うんだ。それなのに僕は欲深くて君や兄さんに――セイシェルに会いたいと願った。兄から何もかも手に入れておいてセイシェルも奪うつもりだったのかな、僕は。でも、セイシェルが僕を受け入れてくれた事が一番嬉しかった』

 ――嬉しいと思ってしまった。

 若者は顔を覆いながら懺悔した。愛する事は素晴らしいはずなのに許されないのだとしたら愛とは何と冷たく苦々しい感情だろう。ラサーニャは呆然としたまま二の句が告げなかった。

『どうか、僕の事は忘れて欲しい。いや、忘れるべきだ。シリウスなどという人間は存在しないし生まれてもいない。どうか、どうかそう思って欲しい。碌でもない人間を憐れむと思って聞いて欲しい』

 何を言ったところで若者が――シリウスが往く決意を翻さないのはラサーニャがよく知っている。忘れない、とでも呪いを吐いておけばよかったのに聞き分けのいい役を演じすぎた弊害は彼の願いに頷いたことだ。

 彼は翌朝、小高い丘で息を引き取っていたと報告を貰った。シリウスは不治の病に犯され、もう長くはなかったようだ。

 そこへセイシェルを連れていったのは半ば衝動的な提案で明確な動機はなかった。ただ、丘の上から見下ろした城が小さかったことを知っただけでもいいのではないだろうか。それで充分だと思った。

 そうだ、あの丘も新緑が煌いて美しかった。太陽の光が降り注ぐ様が神々しかった。それだけでよかったのに。

 だが、欲深さは留まる事を知らず、結局セイシェルを追い詰めた。セイシェルに望みすぎた。そして彼は敗者になってしまった。

 敗者になった彼は『ゼーウェル』と名乗って人々の命を進んで奪っていく。いくら戦力を投資しても彼は物ともせず進んでいく。

「……僕は、それでも、思うように生きた」

 アルディの呟きにラサーニャは目を見開いた。彼女が息を呑む中で彼は独り囁いた。液体を注いだ硝子を眺めながら。

「これからも、欲しがって生きていく」

 これ以降二人が言葉を交わす事は無かった。ただ、アルディの囁きに彼女は近い未来に訪れるであろう『終わり』を考えていた。

 

****


 兄と分かれて部屋から出るとアイシアが直ぐ近くでラサーニャを待っていた。アイシアの姿を見たラサーニャは安堵と憂いの表情を見せる。

 彼の『ゼーウェルを倒す』という決意は強固なものなのだろう。代行者の任務に積極的になった彼の姿勢を見てラサーニャは新たに寂しさを覚えた。

 一方の彼もラサーニャとどうしても話がしたかったのだ。もう遅いのかもしれない。それでも、彼はセイシェルを取り戻したかった。あの優しい笑顔を見たかった。

 誰かを慈しむ眼差しを自分にも向けて欲しい。それらが贅沢だと言われるなら一瞬でもセイシェルを見たかった。殺戮の限りを尽くす暴君とは別物だと言って欲しかった。

 そのためには『ゼーウェルを知ること』から始まると、激情の中で朧気ながらも答えを見出していた。その答えをゆっくり知るために母が必要だと彼は直ぐに理解し、そして今に至る。

 母にも都合があるのに一向に来ない彼女を、自身の焦りから責めてしまう。もちろん、責めるつもりはなかったのだが。

「……アイシア」

『ゼーウェル』に対する憂いを抱いているのは母も同じはずなのに、どうして自分には見せてくれないのか。

 母が『あくまでも母』らしく微笑んだことにアイシアは苛立ちを怒りに変えた。

「いつまで、いつまで待っているつもりですか!」

 アイシアに詰められ、ラサーニャの笑みが歪んだ。アイシアの本心を何となく察してしまったのだ。

 自分にとってアイシアは唯一無二で、この命を投げ出しても構わないほどの存在に、どうして、こんな悲しい顔をさせてしまうのか。

 そうさせる自分は何と罪深いのだろうと思う。生まれる前に戻って自分を消し去りたい。そうすればアイシアが悲しむ事もないだろう。そう、自分は何も出来ない。

「アイシア、ごめんなさいね。私、何もできなくて」

 気丈に耐える彼の肩にそっと触れた。もっと大切にしたかった。もっとうまく愛したかった。もっと幸せにしてやりたかった。だがこの両手は無力に過ぎる。口だけで想いを吐き出しても意味は無いのに。

「母上、私は、そんな言葉が聞きたいわけではありません……どうして、分かってくれないのですか」

 彼はすがるように母へ身を預ける。そこで彼女は彼がゼーウェルから忠告されたのだろうと思った。セイシェルを取り戻したいと、彼はもう干渉していたのか。

 アイシアはともかく『ゼーウェル』がセイシェルに固執する理由は分からないが、どれほど恐ろしい思いをしたのだろうか。普通なら恐れて諦めるはずなのに、それでも彼は諦めない。

 アイシアがセイシェルを兄として真に愛しているのだとラサーニャは身を切るような苦しみを覚えた。あろうことか、彼女は逆にアイシアに縋った。

「アイシア、もう私にはどうすればいいのかわからないの……ゼーウェルはあまりにも強すぎた。私がいけないことはわかっているけれど、あの強さは手に余る……もう誰もゼーウェルには勝てない。ねえ、どうすればよかったかしら。私だってゼーウェルを止めたいわ。でも何も分からないの」

 アイシアに弱音を吐露する己の醜さを彼女は嘆いた。女々しい、醜い、どうしてこうも力が無いのか。誰かを護る力がもっとあれば恐れずに済んだかもしれないと彼女は今になって己の『女』という性別を恨んだ。刃を揮える『男』という性別に憎悪した。

 性別がもたらす不条理を恨みながら性別を最大限利用する己の浅ましさを心から嫌悪した。性という概念に縛られなければ生きていけないこの世界をどうしようもなく憎いと思う。何も、できはしないのに。

 しかし、アイシアは彼女の弱さを責めることもしなかった。

「母上、もう苦しむことはないのだと思います」

 うまく伝わっているか、アイシアには分かりかねる。どれほど母を敬愛しても、彼女と自分は生きてきた時代も世界も違う。右の女として周囲から望まれた彼女と統治の代行者として自ら望んだ自分とは、きっと考え方も違う。

 一生理解する事も交わる事もないだろう。それでも、自分は彼女を母としてこれからも愛し慕うだろう。それは彼女が、本来ならば敵視されるべき己の存在をここまで大きくしてくれていたからだ。

 どれほど不条理を嘆いたとしても、ハイブライトこそが己の生きる舞台なのだ。舞台を破壊する者を看過する事はできない。ハイブライトの為、などではなく、己がこれからも生きていくために。

「私たちは別の人間です。だからこそ、共に生きていけるのだと思います。あなたが何を恐れているのか、きっと私にはわからないのでしょう。それでも」

 例え交わらなくとも、例え理解できなくとも。

「私はゼーウェルを止めなければならないのだと思います。どんなに強くとも、負けるとしても、立ち向かわなければ事態は変わらない」

 勝利だけが全てではない。絶対的な力だけが無限の価値を秘めているわけでもない。例えゼーウェルが正義を謳ったとしても、人の命を無差別に奪っていいはずがない。

 何かが滅んで世界が良い方向に変わるなら、もう昔に変わっているはずなのだ。それなのに誰が嘆いても一向に変わらない。ゼーウェルが憤怒しても根本は何一つ変わっていないのだ。

「母上、私に力を貸して下さい。私とともに戦って下さい、母上」

 一度に全てを変える事は不可能だ。せめて母だけでも勇気を奮ってくれるなら、とアイシアは願った。例え自分の身がゼーウェルの凶弾に撃ち抜かれたとしても、この心は何度でも蘇る。この心は決して滅びはしない。

 彼があまり多くを語る事が出来ないのはラサーニャが一番知っていた。元々そういう性格なのだろう。自分の思いをはっきり言えないようにした責任を、彼が生んでからずっと感じていた。

 しかし、それは間違いだった。彼はずっと自分を待っていたのだ。誰よりも護らなければ、時には命すらも投げ出して。ずっとそう思って彼を育ててきた。

 そして、いつか、物心ついた時に童話でよく見る白馬のように広い空を駆けて行く姿を見たいと願っていた。それは今ではないと何度も抑え付けてきた。だが、それは傲慢だった。

 もう、彼はどこまでも飛べる。ならばどこまでも駆けて行って欲しいと願いたい。彼が羽ばたく姿は何よりも美しいのだろうと彼女は思った。

「私にもできるかしら」

「もちろんです、母上」

 いつの間にか自分が彼を見上げるようになってしまった。そして、いつの間にか自分が彼に護られるようになってしまった。ある人種はそれでもいいというのかもしれない。ある人種は子どもに護られたいと思うのかもしれない。

(私は、そう思わない)

 残された自分の時間を、何ものにも捉われず自由に羽ばたきたいと願っている。そう、地に堕ちるその時が来るまでは。

(もう少しだけ、ここにいてね)

 いつか、羽ばたく日が来るまでは。


****


 あらゆる可能性を考えて、直ぐに東へ遡る行為は避けていた。まずは南下し、南西に蔓延る有象無象を消し去っておいた。ある者は呻き、ある者は熱に浮かされながら、ある者は肌を掻き毟りながら倒れていった。

 有象無象が次々と倒れていく様はまるで煉獄に落ちていく己を写しているようで酷く不愉快だったが、それも因果応報。裁きを与えるにはまず己が傷みを受け、傷めた者達に報いる為なのだ。仮に生き延びたとしても不安と恐怖で刃を翳すだろう。

 集団を連ねた者達をそう簡単に瓦解させるほどの致命傷には至らなくとも、ひとまず一矢報いたのではなかろうか。どのみち程よく力をつけたところで地に落ちるのだ。有象無象はこぞって恐怖に対抗する時には紙よりも弱いものだ。

 ゼーウェルが今いる場所は人々が連なる大都市アエタイト。南西への活路は比較的拓かれているが、遡る路は険しい一方だった。

 王城にとって重要なのは海に近いアエタイトと牛耳るのに都合が良い文明の都、南西ロンカと一部の集落だけなのだろう。

 ゼーウェルがこれから向かおうとしている場所は東に位置するアシーエル。王城からは辛うじて村として認識している集落だ。王城の者達もアシーエルは教えや信仰心に背き、鬱蒼と茂る森の中にある禁断の地とも、専ら噂でそんな事を言っていた。

 無論、有象無象の噂話はただの戯言である。有象無象はアシーエルにいる『聖職者に似た何か』を都合の悪い存在だと認識しているのは知っていた。彼等にとって最悪なのはその『聖職者に似た何か』はそこそこ人望が厚かった点である。

 もちろん、その聖職者をゼーウェルは忌々しく思っていたが彼等とは違う視点に因る事情からだった。有象無象と違って聖職者は真っ当に人を愛し、真っ当に命を大事にしてきた。それなのに聖職者は突如信仰心を破棄し、罪を犯した。

 口先だけの有象無象と同様ならばここまで感情的にはならなかったのだろう。しかし、聖職者は権力者も他の者も同様に慕い、心許せる親友もいたのだ。その、心許せる親友よりも聖職者は叶うはずのない愛欲を選んだ。一連の過程が腹立たしいのだ。

「未だ健在か、フレア・ハーバード」

 聖職者フレアに同情する部分は多々あった。彼女も好き好んで罪を犯したわけではないのだろう。彼女自身の正義の末、迷った末に未来よりも過去を信じただけなのだ。そうでなければ秩序者(ジェイソン)が許すはずが無い。それでも、彼女なら可能性理論を信じてくれると、思ったのだ。

 愛欲のためなら親友はどうでもいいのか。信じていたものを捨ててもいいのか。幸い、彼女はそれに近いものを手に入れる事が出来た。それでいいのか。自分が幸せになるなら、誰かを犠牲にしてもいいというのか。

 秩序者が許したとしても、親友が赦したとしても、他のものが彼女を信じたとしても。

「別れを告げさせてやろうではないか」

 彼女を追い詰めた苦悩に満ちた人生から。欲しがって欲しがってようやく代用品を手に入れて偲ぶ悲しき生き様から。もともと彼女に非はなかったのだ。ただ愛欲のためにと選んだ献身が都合よく調理されただけなのだ。彼女を憐れに思う。それでも、叶わぬ夢に嘆く女を演じた彼女を赦す事はできないのだ。

 有象無象と同じような思考ならばまず寄り付かないアシーエルへ敢えて自ら赴くのはあの聖職者と対峙する為、だった。目標が明確だからこそ今とても身体が軽やかなのだと、ゼーウェルは口だけで笑ってみせた。力を持つ者は減らした。あとは前進するのみだ。慣れた足取りで列車に乗ると軋む音を立てながら動き出した。

 僅か数年前、身分の撤廃を求めて争っていたはずなのにその形跡は見た感じでは残っていない。あらゆる者共が可憐だと愛でる緑の生命の力強さ。何度手折られたとしてもこの地に根を張って伸び続ける緑を素直に綺麗だと思った。多数に散らばる花は赤い。この赤い花の名前は何かは分からない。だが覚える必要も無いように思えた。

 ただ、本当に美しければ、根を張って開いてくれたらそれだけでいいのだから。どこに向けても赤ばかり視界に入るのでずっと眺める事にした。

 ほんの少し感傷に浸りながら、ふと我に返ると列車はいつの間にか止まっていたらしいことに気付く。あれほど軋む音がしたのに気付かなかったのは花のせいだと僅かに焦れた。次は馬車だ。遡るにつれて不便さが増していく。

 こればかりは仕方ないと思った。人間の目は完璧ではない。自身が見える範囲で便利であればそれでいいのだ。そういう生き物なのだ。目的の為に不便を強いられるのも必要なことだとわかっている。それでもゼーウェルの中にはえもいわれぬ衝動があった。

 多数を生かすために少数を蔑ろにするなら己もそのような手段を選んでもいいはずだ。仕方ないと赦されるはずだ。彼にとって必要なのは『僅かな希望』ただひとつだけなのだ。たったひとつ、其処にあればいい。

 同時に己の腹の底から悲痛な声が漏れてくる。声を聞いてゼーウェルは眉間を寄せた。決して怒りからくるものではなく、このような声をあげさせている事実から湧く悲しみに他ならなかった。歩む速さを緩慢にして彼は問い掛ける。

「何をそんなに悲しんでいるんだ? もうお前を追い込む者はどこにもいないんだ。とても喜ばしいと思わないか。大丈夫、何も恐れることなんてないよ。私はお前の為にここにいるんだから。私に任せて欲しい」

 多数の前に立つ彼と、唯一無二に語りかける彼には明らかな違いがあった。その差はあまりにも大きすぎて全然違う人間ではないかとどうしても思ってしまう。脳裏に描く想像が階段を転がるように揺れて分離していく。その勢いは止まる事を知らなかった。

 悲しみとも怒りとも言い切れない感情が鋭利な刃になって我が身に突き刺さる。痛みが重すぎて僅かに声を上げながら彼は夜の夢へ沈んでいく。もういっそ目覚めなくていいと意識を封じ込めた。何故このまま消えないのかと嘆いてもかの人は消さないのだろう。

 ようやく叫びが収まった。恐らく今まで悪夢に苛まされていたのだろう。親友が、信じた夢が潰えて敗者になる夢が未だ彼を縛り付けて離さない。だが、自分が信じる彼はその鎖を振り切って安らかな眠りに就いたのだ。そのままずっと穏やかな歌でも聞かせたいと思った。心から幸せだと彼は無邪気に笑った。同時に馬車も停止する。

 まだ中間地点だが彼の安らかな夢を自分もなぞっていればアシーエルまで辿り着くだろう。

 列車から馬車に変えても相変わらず赤が咲き乱れている。儚く脆いと認識された花たちはこうして姿かたちを変えて世界や人に色を伝承していく。中にはこの花達のように人を導く存在もいるのだろう。そう、勝者と呼ばれた者達が。

 彼はそこから一輪折って花を握りつぶした。造形を喪った花は一瞬で塵になった。赤い花弁は剥離し緑は薄汚れた。

「この楽園など、虚構だ。所詮滅んでしまうもの」

 光を湛えた瞳が太陽を仰ぎ、愉快に笑う様は勝者と同一である。彼は躊躇いなく力を奮って花を踏み潰した。


****


 陽は一番高い地点に昇っており昼に差し掛かっていることが傍目から見ても分かった。アイシアに励まされたラサーニャは人生で始めて兄と向き合う場に臨んだ。彼は先代から力を継承して以来、季節問わず当主として王城の中心に位置する王間の一番奥で世界の運命を計っていた。この時間は本来当主を支えるべく皆が勉学に励むか英気を養うかのどちらかに定められている。

 王間にいる彼は唯一人、玉座から一寸先の未来を見定めていた。彼女は召使から食事を届ける使命を譲り、当主の前に食事を持ってくる。力差はあれど血縁者ということで多少粗相をしてもアルディは少し刺々しく咎めるだけだろうとラサーニャなりに召使を気遣っての行いだった。それに、彼女は少し聞いてみたいことがあったのだ。

 彼の傍に残された子は愛すべき者の面影を継承しなかった。その事実を天に恨んだ頃の本心を漏らした際には同情と憤りを覚えたものだ。あれ以来一切触れなかった。どのような形であれ己の血を引いた息子に絶望を漏らす本心など聞きたくないのだ。

 数時間前、ふたりきりになった時に端的には漏らしたように思う。ゼーウェルの凶行をある種肯定していたのだが、端的な言葉だけで真意を知った気になるのは大きな過ちのように思えた。何故ならアルディそのものが奈落。真っ向から向き合えば彼が開く暗闇へ落ちてそのまま永遠に廻り続ける。逆らった存在が苦悩しながら息絶えたのが何よりの証拠ではないか。

 ふたりきりで交わした昔の会話から結論を導いた。アルディは真意を隠すのが誰より上手な人。それは頂点に立つ人間としては必要不可欠な機能の一つである。それはラサーニャとて十分に理解し、理想を貼った仮面を被って振舞う術を身に付けた。この術こそがこの世界を走りぬくには必要だと本能で受け止めていた。今も仮面の重要性は理解しているつもりだった。だから駆使してきた。

 それでも心赦した人間の前では仮面を外して過ごしていた。いつも仮面を被るのは狂気へと堕ちるような気がして身が持たなかったからだ。

 だが、アルディはいつ如何なる時でも仮面を手放さない。決して外したりしない。血を分けた兄妹にすら仮面をつけて向かい合う。自らの虚像を作り上げて対峙する。敵になるか否かを見定めている。ラサーニャはアルディを引き上げるように彼を呼んだ。

「アルディ様」

 当主たる彼の前に皆は跪く。それが向き合う者の礼儀だと人々は広める。だが、ラサーニャは決して跪かなかった。背筋を伸ばし、ただ彼を見つめる。アルディが激怒してももう構わないと彼女は思った。

「先日、それから今朝も統治を担うトールスの者達が襲撃されております。既に死者は数え切れないほど。巻き添えになった者達もいます。もはや総力を挙げてゼーウェルを倒すときではありませんか」

 アルディの翳す刃が己の身を貫こうがどうでもいいことだと思った。気にもしていなかった。ある程度の覚悟を以って進言したはずだが、彼の表情が強張っていくのを見るとやはり恐れを覚えた。

 浅い意味では通じ合っている。しかし、深いところでは決して赦さないという怒りが彼の表情にはあった。

 表面的には味方であっても自身に不利をもたらす妹。同じく表面的には兄妹であっても自身に理不尽を強いる兄。繋がりを絶つこともままならないのに分かり合えないという真実は揺るがない。言葉を交わせば交わすほど溝は広がり真実は堅固なものに進化していく。

 隙間すらない答えを知り、攻撃を仕掛けたのはアルディの方だった。

「君は、彼が何の為にこのような凶行を起こしているのか、もうわかっているのではなかろうか。一部の者を調べたのだけど何故かアシーエル行きの切符を君に託したところを見たと証言があってね。もしや、もっと個人的な事情も大きく関わっているのだろうなと僕は考えている。どうかな?」

 アルディのこの推測は殆ど外れていない。多少の誤差はあっても微々たるものだ。ほぼ確信を突いている。僅かに勢いが緩慢なのは逃げ道を用意したためだろう。以前の兄の刃はもっと素早く鋭利に貫く破壊力があったと記憶を掘り起こしていた。

 ――この世界が幻想であるならば、きっと魔術は言葉だ。では、魔術の源。即ち魔力は何を指しているのだろう。

「もちろん、彼を捨て置くなんてことはしない。だけど僕はこの件に関しては君とアイシアで指揮を執るべきだと考えたんだ。君が魔術を駆使すれば皆が救われる。僕はそう思っているよ」

 アルディは穏やかに微笑んでみせた。その笑みは厳格な当主の幻影から程遠い慈悲に満ちていた。だが、手出ししないと言ったアルディにラサーニャは納得できなかった。

「貴方が根本的に指揮を執らなければならないと私は考えています。そうでなければこの国の礎は」

「もうとうの昔に崩された礎を護る事に今更何の意味があるというのかな、ラサーニャ」

 反論しようとするラサーニャに被さるようにアルディは現実を突き付ける。この先に待ち受ける運命を彼は受け入れているというのだろうか。厳格で絶対的な当主はどこにいたのか。少なくとも目の前の人はその当主には当て嵌まらない。

 狼狽するラサーニャを見ているようで見ていない。何かに取り憑かれたようにアルディは夢を語り続ける。

「もう、苦しむことなんてないんじゃないかな。僕は僕なりにハイブライトを維持しようと努めてきた。力も奮い血も流してきた。いったい何人もの人間を犠牲にしてきたんだろうね。何人もの人間を傷つけてきたんだろうね。もう覚えていない。それでも僕は欲しいものを欲しいと願い手に入れたかった。だけどすぐに喪ってしまう。僕はその空しい事実に怒りを覚えて嘆いた。どうして手に入らないのか、なんて」

「……」

「だけど、僕の信じた世界は虚構だった。幻想(トラウマ)幻影(シゾフレニア)誇大妄想(メガロマニア)、表面だけが綺麗で美しい浅はかな世界だよ。表面だけが美しくともそれは何れ老いてしまう。老いた先には滅びがあるのみだ。その定めに逆らう事なんてできないよ。だけど、わざわざ浅い礎のために苦しむ選択をする君を僕は見たくない。それは身勝手な願いかもしれないけれど」

 ラサーニャの胸は苦しくなる一方だった。与えられたもの全てが素晴らしいと信じ生きてきた。教えられたことが全てだと賛同し成長した。視える景色が正義だと考え歩いてきた。だが理想に費やす資源(リソース)が不足していたらいずれ潰えてしまう。例え資源(リソース)を手に入れたとしてもそれを行使して招くのは己にとって最大の不幸だけだ。

 自分が信じ歩いてきた道が既に想定から外れ、資源のために投資した一時的な負債が嵩むばかりだと、どうして今になって突き付けてくるのだろう。もう既に想定できない。変調をきたし災いに転じる。想定外の変調こそが《彼》が自分に与える罰なのだとしたら。

 それなのに何故、まだ《ゼーウェル》に希望を見出そうとしているのだろう。なぜ、彼を抱き締めようと願うのだろう。この腕は《彼》が叫ぶ歌声(オーディオ)の糧になるだけなのに。彼の歌声の音量をあげていくだけなのに、自分は苦しむばかりというのに。間奏(レコード)を繰り返すばかりで先へは進めないのに。

「……それでも、わたしは」

 捨てる事などできないと呟いた。もう声も枯れてしまったのかもしれない。こんな弱い声などアルディには届かなかっただろう。

 そうだ、この国は碌でもない国だった。見えるものだけが美しいと唱え、数こそ全てと謳い続け力こそ正義と信仰し、愛は勝ち取る概念だと誇り続ける。

 血に飢え、血を流し、もはやどうしようもないほど救いようのない愚かなこの白を自分は今も想っている。どれほどの塗料(リソース)をこの白に費やしたのかも分からない。どれほどの装飾(リソース)を生み出したかも分からない。どれほどの労働(リソース)を潰したかも分からない。どれほどの希望(リソース)を踏んだのかも分からない。

 どれだけの資源(リソース)を注いで欲しがったものはいったいなんだったのだろう。本当にそれは欲しいと願ったものなのか。本当に幸せだと想ったものだったのか。

 もう分かっている。どれもこれも欲しがったものではない。手に入れたら満足し放置するだけだと、ずっと前から知っている。

「成すべき事をなさい、ラサーニャ。君は、もう自由だ。昔から君はもう自由だった」

 アルディが声をかけた時にはもう彼女は立ち上がり、涙一つ見せることもなかった。跪くこともせず、彼女はアルディを見つめ続けている。

「ええ、そうします。私は、ゼーウェルを止めます。このハイブライトの為ではなく、私のために」

 ラサーニャは踵を返し、頭部につけていた羽の髪飾りを投げ捨てた。

「もういらないわ。売るなりなんなりして頂戴」

 どれほど華美に施そうとも、強引に捻り潰そうとも、いつまでも閉じ込める事など出来ない。邪悪な女の欲望そのものをアルディは憎みながら激しく望んでいた。それこそが女神を愛し執着した理由だと知った。

 自由な意思の矛先が自分に向けばいいのにと願っていた。結局向けられる事はなく、憐れみだけを享受することになった。その経緯を恥ずべきと悔やみ向けられた者全てを憎んだ。

 望みのない祈りなど無意味と嘲ったのに、誰よりも望みのない祈りを捧げ続けたのは自分だった。

 この国は変わる。いつまでも雪に埋もれた礎ではやがて滅んでしまう。雪を割り、咲かせなければ。若く輝く歌声を届けなければ。己も父も母も、いや、この場にいる誰もが新緑を夢見ていた。

 

****


 アルディが君臨する王間から出たラサーニャは誰もいない事を手早く確認して溜め込んでいた息を吐き出した。自身にとってアルディは実の兄だ。しかし、家系図でよく見るような横に並んだ関係性ではない。

 常に兄を仰ぎ心身を捧げて支える。アルディが頂点に君臨した時からそのようにするよう心得ていたはずだ。生まれた時からその振る舞いは血に刻まれていた。アルディに対し何か物を言った事も恐らくなかった。

 ラサーニャにとって兄だと思う人はいつでもシリウスだった。兄とはどういう人なのかと聞かれたらシリウスのような人と答えるだろう。もう、アルディの真名も思い出せない。

 兄と違ってシリウスは王宮内で課される教えを放棄してよく飛び出す人だった。今は亡き当主(ちち)も呆れながら影で容認していたのは自分も知っていた。最初はシリウスを嗜める役を演じてきたが彼があまりに楽しそうなのでついに彼女も彼とどこかへ行く事を楽しみに待つようになった。

『シリウス、今日はどこへ連れて行ってくれるのかしら。お兄様に黙っているんだから対価くらい貰わないと』

『相変わらず、ラサーニャはしっかりしているね。今日は大都市まで行こうと思うんだ。ほら、大都市はハイブライトに豊かさをもたらしてくれる有り難い場所だろ? きっとここでは知る事が出来ないものがいっぱいあると思う』

『じゃあ私も連れて行ってよ。一人じゃ怖いわ』

『どうして怖がるんだ。いつか君も一人で立派に生きていくようになるんだよ。もうすぐ』

『その時はその時。今はシリウスがいるからいいじゃない』

『まったく、いつになってもこれだ。可愛いから聞いてしまう僕もいけないのかな』

 観念したように力なく両手を挙げて笑うシリウスにラサーニャは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。頂点には相応しくないのかもしれない。それでもラサーニャはシリウスを兄として心から慕っていた。家族の中であらゆる感情を寄せていたのもシリウスだろう。

『着替えてくるんだよ。くれぐれも歩けるような格好で。普段着ているドレスじゃ埃塗れになってしまうから』

『わかったわ、シリウス。待っててね』

 シリウスに念押しで忠告されたことは彼以上にラサーニャがよくよく思い知らされていた。普段身に付ける服のどれもが職人が胸を張って誇れる一級品だ。創造物の階級が昇りあがる毎に服の品質もよくなってくるのは確かだ。しかし、実用的であるかどうかはまた違う。

 そもそもここにいる職人も女神たる存在が地を這うなど想像もしていないだろう。ラサーニャも例外ではない。外へ行く時は必ず誰かが服を見立ててくれていた。与えられたあらゆる栄光に相応しい服と装飾と容姿に仕上げてくれる。本来なら光栄に思うべきなのだろう。

 しかし、ラサーニャは一連の習慣をあまり快く思っていなかった。言葉にはできないが窮屈だと感じていたものだ。だが、シリウスとどこかへ行く時は表立って許可を貰う事ができない。そうなると職人もやってこないので必然的に服も自分で決めるようになる。

 多少不便だが自分が着たいと思う服を着られる。ラサーニャの心は躍る一方だった。これほど心躍るなら不便さなど幾らでも我慢できる。否、不便だとも思っていなかった。自分で決める事がこんなにも素晴らしいことだと感動すらしたものだ。

 誰かに手を引かれなければ自分は歩けない。その代償としてあらゆる栄光が与えられるなら何も不安に思う事はないはずだ。それなのに確かな息苦しさを実感していた。一方、シリウスとどこかへ行く時は何もかも自分で決めなければならない。

 最初は戸惑った服選びも随分手馴れ、自身の思うがまま決められる喜びを一身に味わったものだ。

 手早く済ませてシリウスと共に歩けば大都市アエタイトはすぐそこで様々な人々の声が響く。城では常に同じような声ばかり聞いていただけなのに何もかも違う。

『相変わらず賑やかね。アエタイトは』

『それに楽しそうに話している。何かいい事でもあったんだろうか』

 行き交う人々の忙しない言動は何回見ても飽きない。ここは様々な思いを乗せて今日も動いている。圧倒的な眩しさの前にただ驚くばかりの自分にシリウスは優しく説いてくれる。

『ラサーニャ、こうして国は創られるんだ。皆がこうして動いてくれるから国は大きくなる。僕達は皆から少しずつ恵みを頂いている。だから感謝しながら僕等も彼等にできることを考えないといけないんだよ』

『それは、とても難しい事のように思うわ』

『そんなことはないさ。何も難しい事なんてないよ』

 人々を見つめるシリウスの瞳は太陽のように暖かく光り輝いている。活き活きと生きる未来を信じるシリウスをラサーニャは凄いと素直に思った。シリウスの話をずっと聞いていたいと思った。彼の話をもっと聞かせて欲しいと切に願った。

 いつか、自分も活き活きと生きて往けるように。あの時見上げた空はどこまでも青く澄んでいて出航とともに名も知れぬ鳥が羽根を広げて船を追いかけていた。あの時見た海は何よりも深く碧い。他者にとっては他愛ない思い出でも自分にとっては数少ない幸福と呼べる記憶。

『シリウス、最近妙な動きをしているな』

『兄さん、そんなことは』

 成長すればする程、兄はシリウスに詰め寄る場面が増えていった。それまでアルディはシリウスの行動を尊重し踏み込んでこなかったのに物心ついた時、シリウスが外に出れば詰め寄るアルディの姿ばかり見るようになった。

『他の者から聞いているぞ。ラサーニャを連れてアエタイトへ赴いているそうじゃないか。我が父を支える名家への挨拶はとても大事だからな?』

『兄さん、何か誤解している。僕はそんなつもりは』

『ではなぜ私に同行を申請するような手続きをしないのか。アエタイトが我が父の礎の中心である事はお前も知っているだろう。そこは私の管轄にある。シリウス、お前は私の後ろにいれば良いのだ。妙な真似は一切するな』

 頂点を担う父の下で頂点たる者が身に付ける教育を一身に受けてきたアルディは大都市へ赴く機会を見出せずにいた。彼への教育は日が沈むまで続くのだから外に出る時間などどこにあるのだろう。

 頂点に立つと自負するアルディにとってみればシリウスの行動は反逆といえるのだろう。シリウスは力なく項垂れ兄に懇願する。

『そうだね、僕が軽率だった……。でも兄さん、外に出る事は許してくれないかな。アエタイトはとても楽しい場所だから行けなくなったら退屈してしまう』

 シリウスはあくまでもアルディの意思を尊重し肯定する形で謝罪したが自身の願望は翻さなかった。流石に軟禁状態に置くことまではアルディも考えていなかったため渋々頷いた。

『いいだろう、シリウス。お前の楽しみを奪うのは本意ではない。ただし、ラサーニャを就けよう。お前一人ではさぞ危険だ。ラサーニャと一緒なら私も安心していられるというもの。ラサーニャ、アエタイトから帰ってきたら直ちに私に報告するように』

『……承りました、お兄様』

『僕も軽率だった。次から必ず兄さんに言ってから大都市に行くよ。だからラサーニャを巻き込む事と僕を疑うのはやめてくれ。僕を信じて、兄さん』

 シリウスの懇願にアルディは『私も言い過ぎた』と答えて謝罪した。それまで緊迫した空気が一瞬にして穏やかな流れに変わる。

 心底安堵したラサーニャは二人の手を取る。

『お兄様もシリウスもそんな悲しい言い争いはやめて。二人は一緒でしょ。そうでなかったら悲しいわ。ふたりがいなくなるなんて、私はさみしい』

『ラサーニャ……そうだね。僕はラサーニャを蔑ろにしたくない。兄さんだってラサーニャを愛しているんだもんね』

『冗談はよせ、シリウス。ラサーニャは私にとって一番の妹だ。お前ばかりが占領するのは規則違反だぞ。だが、ラサーニャはシリウスの事を慕っているようだし、私の努力不足が最近目立つな。ラサーニャに慕ってもらえる兄にならなければ』

『まあ、お兄様、そんな大げさな!』

 三人は無邪気に笑いながら晩食の時間を待っていた。夢や希望、過去から未来まで。捏造した物語から紛れもない真実まで好き勝手に語り明かした。

 今更振り返っても二度と戻らない。夢だけを見て理想だけを追いかける愚かな日々がもう一度戻って来てくれたらいいのに。あの時に戻ってもう一度やり直せたらよかったのに。叶うはずのないたらればばかりを繰り返している。あと何度たらればを繰り返せば自分は満たされるのだろうか。

『ラサーニャ、よくぞ来てくれた』

『お兄様』

『お前を是非傍にと言って下さる方ができたぞ! エルヴィ家はお前も知っているだろう』

 名前だけは知っている。その言葉は寸でのところで呑み込み頷いた。途方もない数の名家の事など把握しきれない。いつの間にか結婚や同盟で名前が変わっている事も多いのに。そうやって階級を設ける兄の姿勢がラサーニャはどうしても納得できなかった。ハイブライトの繁栄のためだと知ってはいても、だ。

『エルヴィ家は急激に成長している。先陣を切っているのが――』

『分かりました、お兄様』

『流石はラサーニャだ』

 断る理由もなければ勇気もない。シリウスのように天へ昇る事も叶わない。もとより言われるがままを受け入れる人生だったのだ。何故シリウスになれると思ったのだろう。思い上がりも甚だしいではないか。星になる事も天に咲く事もできない身分で。

 幸いなのは大切なものも喪うものもなかったことだ。礎として活躍できるだけでも光栄に思わなければならない。心が軋んでいる事実など知ってどうするのだ。

 話は淡々と進み、兄の話がきてから何日も経たないうちに婚礼が執り行われた。

『アルディ様、ラサーニャ様にはまだ』

『そんなことはない、ラサーニャは喜んでいたぞ』

 兄が自分の感情を代弁する言葉を聞くたびに全身が凍り付いていく。ここに自分の心はない。ここに自分は存在しない。生まれたその日から国が力を得るための道具でしかなかった。相手の者も兄からすればただの礎の要素でしかないのだろう。

 何もかも変わってしまった。仕方ない事なのにとても悲しかった。きちんと兄の右腕として相応しい振る舞いはできているのだろうか。

『……ラサーニャ様』

 隣にいる彼が心配そうに声をかけた。まさか本意でないことを見抜かれてしまっただろうかと内心焦りが募る。彼は端正な顔立ちに相応しい澄んだような黒い目をしている。

『どうしましたか?』

 慌てて返した言葉にラサーニャは更に追い詰められてしまった。芸が何一つない。見抜かれたら彼はどうするのだろうか。不義理な女として兄に告げるのかもしれない。しかし、彼が返した言葉は意外なものだった。

『貴女は疲れているのではありませんか? あまりにご自身を蔑ろにしているようにしか見えません……。もちろんこの婚礼は取り消せませんが、私は貴女に多くを望んでおりませんし貴女を蔑ろにするつもりもありませんからご安心下さい』

『……アス様』

『何でしょうか、ラサーニャ様。それから様付けは結構です。呼び捨てで構いませんよ』

 彼は困ったように笑いながら注訳をつける。変わった人だと思いながらラサーニャは目を見開いて頷いた。よく、分からない人だ。そう思いながらたどたどしく話していたような気がする。

 彼と暮らし始めてからも彼が風変わりな人間だという印象はますます強まっていくばかりだった。

『ジェリアス』

『名前が呼びにくいのですね。本当は《ジウェリアス》と読むんです。JではなくZから入るんです』

『ごめんなさい、こういうのはあまり習っていなくて』

『よいのですよ。そうだ、呼びにくいのであれば《ゼーウェル》でも構いません。こちらの方が仮にあなたが私のことで何か書類を書く時にも困らないでしょうから』

『どうやって書くのかしら?』

『……そうですね。まず私が書きますね』

 彼が筆を取ると切れ端に《ZERWELL》と書かれている。ラサーニャは『やっぱりあなたって変わっているわ』と返した。そう、女性に気を遣うだけでなくこうして読み書きまで丁寧に教えるなど風変わりもいいところである。

 すると彼は何て事ないように返した。

『共に暮らす以上、対等ではないのですか? あなたは女性である前に一人の人間でしょう? 私は名声に興味はありません。単にあなたが好きだからこうして共に暮らす事を決意した。何かおかしなことでも?』

『よく分からないわ。だって家を繁栄させるためのものでしょう?』

『多くの者はそう言います。しかし、私は違います。私はあなただからアルディ様に交渉したのです。あなたでなければ結婚する意味がない』

『……やっぱりあなたは変わっているわ』

『褒め言葉として受け取っておきましょう、ラサーニャ様。それから最低限読み書きくらいはできるようにしましょう。アルディ様はあなたにそういった知恵がつくと困るのでしょうが、あなたは子供を生むための道具ではないはずだ』

『本は読めるんだけど』

『だからなんだと言うのです。自分の言葉が書けなければ意味がないでしょう』

『よくわからないけれど……まあ、いいわ、あなたに従う。それでいいかしら、ゼーウェル』

『あなたが納得したなら結構です、ラサーニャ様』

 愛の言葉を囁くでもない、子供の事を語るわけでも地位や名声について熱い弁を述べるわけでもなかった。ただ、彼は自分の想いは淡々と述べるが必ずこちらに問いかけてくるやり取りをあらゆる場面で要するだけだった。

 本位ではなかった結婚だが、何となく居心地はよかった。シリウスと同じ時のように服は自分で選べて当然のように色々な場所へ自分を連れていく。

 それから数年後、彼は突然病に倒れてそのまま亡くなった。その時の事はあまり覚えていない。従者が並び、入り混じり、彼等も酷く混乱していることだけは覚えている。そして自分はハイブライト城へ戻って行った。

 ――彼の家がトールスに統合されたと聞いたのはすぐ後のことだった。ただ、その後彼のことはあまり考えなかった。そう、何も考えなかった。

 誰かがいなければ結局自分は言葉も紡げない憐れな鳥だ。今も自分は誰かの言葉がなければ生きていけないままだ。

「アイシア、ゼーウェル」

 昔から現実に戻ってきた彼女が呟いた名前は唯一自分で考えた名前たちだった。あれほど膨大な思考を解放しても時間はそれほど経っておらず、通路を緩慢に歩くラサーニャは目の前にいる人物を見て驚愕しながら後ずさる。

「……ゼーウェル!」

 彼が何か言うのを待っていたがどうせ憎悪を丸めた刺々しい言葉だろうと諦めはすぐやってきた。彼の方は何て事ないようにラサーニャの目の前にやってきた。

「些か肌寒い季節になりましたが、相変わらずあなたは自分を蔑ろにするのが好きですね。私はそのようなことを望んでいないと何度も言ったのに聞いてくれもしないのですか」

「……それは申し訳無い事をしたわね、ゼーウェル」

「その言葉はもう聞き飽きました」

 あまりにも真剣に気遣われ、彼女は当惑した。どうにも昔から彼の意図が読めない。昔から風変わりではあったが彼の意図が更に読めなくなっている。ただ、優しい事はわかっていたもののどう受け取ればいいのかわからない。

 どうして突然優しくなるのだろう。少なくとも今の彼からは根深い憎悪を感じなかった。自分が彼の本質から目を背けているだけかもしれないが今自分が感じた事が真実であって欲しいと願っている。

「どうしたのです、ラサーニャ。貴女らしくないな」

「いいえ、何も……」

 声の端々から苛立ちが伝わってくるのは実感としてあった。そして不意に彼が手を伸ばしてきたあの夜を思い出す。彼はいつでも魔性だ。そう、あなたは悪魔だ。ラサーニャはそう思った。

「昔を思い出していたのですか? それとも少しは私のことを覚えてくれていたのですか? もし後者なら私はとてもうれしいです」

「そうは見えないわ」

 反射的に否定で返したが彼は悪戯に微笑むばかりだった。

「強情ですね、あなたは」

 言葉を発する彼は、たとえ一時の気まぐれであっても今まで見た中で一番優しいような気がした。否、二番目に優しいようにも見えた。一番優しかったのは今日と同じような月夜に二人で並んだ時だ。

「冷酷に徹するには詰めが甘すぎて、自由になろうとすれば恐怖する。弱くて不安定なのに強さを誇示しようとする。あなたほど矛盾している人、見た事がない」

「わたしだって人間よ、ゼーウェル」

「ええ、誰よりもあなたは人間そのものですよ、ラサーニャ。何も出来ないのにあなたは未だ誇り高くあろうとする」

 心臓が軋むほど鳴り響いている。越えられない壁がふたりの間にはあったはずだ。それは堅固な壁だと思っていたのに少し力を加えたら越えられるような気がした。その事実が恐ろしかった。

 あの時、彼に望んだものは何だったのだろうか。今も望んでいるのだろうか。ただ、これだけは真実だった。

「愚かとでも力がないとでも笑ってくれたらいいわ。誇りなんてどうでもいい。わたしはあなたを喪いたくないだけよ、ゼーウェル」

 名もない人間を手に掛ける彼を自分はただ見たくないだけなのだ。見たくないから抵抗するだけなのだ。ただ、それだけなのだ。伝わらない事はもうわかりきっているのに。

 目を伏せながらラサーニャは足を速めた。これ以上彼が何かを言えば自分はもう正気を保つ自信がなかった。早く先に進まなければ。前に行かなければ。彼が追いかけてくる気配はなく、自室へはすんなりと辿り付いた。

 気付けば肌寒さは殆ど感じられずまたしても不意に自分の肩を見たら彼が着ていたであろう上着が被さっていた。そして、扉の向こう側に彼がいることも気付いた。

(あなたは悪魔よ)

 おかしくてたまらなかった。脅威が目の前にあるというのに、心臓の軋みは未だ健在なのに、どうしても舞い上がりそうなほど喜んでいる自分自身が。今ならどこへでも行けそうだ。

 残酷な現実を見せつけておきながら甘い言葉で縛り付ける。全く以って計算高い策士だ。今日の夜の空はどんなものだろうか。あの夜と同じく月が照らしてくれているのだろうか。

 送り届けてくれた礼でも言おうと思ったが翻弄されっぱなしはとても癪だった。だから彼女はこう言うのだ。

「おやすみ、ゼーウェル」

 負け犬の遠吠えと言われても構わなかった。そう簡単に降伏するつもりはなかった。

 ――否、もうとうの昔に降伏しているのだが、ただ認めたくないだけだったのだ。


****


 いつだって繁栄するのは太陽が届く華やかな舞台だけだ。その舞台から少しでも外れたらただ人が集まっているだけの集落になる。誰も見向きもしない密集地帯で今日も麻を迎えた。

 届くのは野菜の余り物か肉の切れ端だろう。あの華やいだ舞台の主役は食わず嫌いも好き嫌いも多かった。その残滓を喜んで食べるふたりをフレアは険しい表情で見ていた。

 たった寸分でも違っただけでこれほどの差が出るのか、と。その事実を悔しく思った。

「フレア、おかわりはないの?」

「レイ、もう食べたのね。まだあるわよ」

 そう言って渡されたカップは使い古された食器だった。主役たちが飽きて捨てたものだろうとフレアは密かに溜め息をついた。幼い少女レイは不要な食器に盛られた不要な食材を尊びながら食べている。

 彼女はもう年頃の娘だ。本当はもっと灯のついた舞台に行きたいのだろうとフレアはカップにスープを注ぎながら何度も心の中で謝罪した。もっと煌びやかな服を身に付けたレイが見たいとフレアは今はもうありもしない未来を考えた。

 大都市に向かい、欲しいものを欲しいと言って走り回る彼女を見たかった。彼女のわがままをこの耳で聞きたかった。翻弄する彼女に疲れる日々を送ってみたかった。どれもこれも叶わない夢なのに。

「フレア、最近難しい顔をすることが多くなったわね。大丈夫?」

 そして、今や、レイに、気を遣われている。フレアは居た堪れなさを隠しながら答えた。

「レイにはそう見えるのかしら。ほら、最近物騒な話をよく聞くし、催しもあったでしょ。でもレイやレイザの顔を見たら何だか安心しちゃった。それより、レイこそあまり気を遣わないでほしいな」

「じゃあ、今度新しいお洋服が欲しいわ。紫がとても好きなのよ」

「そうね。まだ大都市には行けないけど、近場まで行くのはいいかもね。最近篭りっぱなしだから」

 遠くから恐る恐る甘えてくるレイにフレアは罪悪感を募らせていった。あといくつ罪を増やせば自分は満たされるのだろう。レイを抑圧しているのは自分なのだ。ここに彼女を閉じ込めているのは、自分なのだ。

 ――初めて、この子を見かけたのはもう『十年以上』前だった。今は亡き女神に付き添いながら日常品を買いに出かけている時に彼女を見掛けた。

 生まれてたった何年かで人を刺すような視線をするこの子に目を奪われた。思わず声を掛けようとして女神の存在を思い出した。この子に手を差し伸べる勝手が許されるのだろうと踏み止まってしまった。

 フレアが来ないことに気付いた女神が駆け寄って耳打ちする。

『この子はあなたの子供なのよ、フレア』

 女神は了承の意で言っただけなのかもしれないが彼女の言葉に自分の理性の錠前(たが)が外れる音を聞いた。気付けばこの子に何かを言ったのか、それとも言わなかったのか。ただひとつ、衝動的に手を伸ばし、この子が自身を受け入れた事実だけが鮮明だった。

 元々女神は女の子を可愛らしくするのが好きで、この子の傷んだ髪をせっせと綺麗に手入れし、服を仕立てていた。今この子に与えているのは女神が仕立てた服だけだった。自分の無力さを改めて思い知る。それでも、構わなかった。

 なかなか笑顔が見えなくても構わなかった。それまで不意に湧きあがる寂しさをこの子は満たしてくれたのだから。

 女神は自分を救っただけではない。自分が生きる理由まで与えてくれた。まだ表情が険しいレイを守らなければ。守り、抜かなければ。

「……レイ」

「フレア?」

 紫色の服が欲しいと言ったレイを思い出しながらフレアは彼女を呼び止めた。決して華美でも光でもないが灯に囲まれても見失わない色を欲しがる彼女をフレアは誇らしく思った。

 反射的に呼んだだけだがレイもまた反射的に答えただけだった。それでも抑圧に苦しむレイを見たくはなかった。

「新しい服、用意しておくわね」

 とっさに繋げた言葉に脈絡はない。ただ慰めになればいいと願っただけなのだ。この子が欲しがったもの一つ与えられない自分が、せめて慰めの言葉だけでも言わなければこの子は更に苦しむに決まっている。

「ありがとう、フレア」

 レイの笑顔が生きる支えだった。フレアは何かを振り払うように首を振っていつものように村人たちの下へ行く。その背をレイは複雑な心境で見つめていた。

 教会とは神の力を閉じ込める場所。神も見向きもしないこの地を人は禁断の地と言う。ただ、神は気まぐれなのか僅かに淡い光が教会に入ってくる。淡い光を帯びて人の前に立つフレアをレイは神の使いだと思った。

 ただ、彼女の後姿はどこか危うい。彼女の口癖になっている固有名詞が出る度にいつか消えてしまうのではないかとレイは不安に怯えていた。だが穢れた小娘の祈りなど誰が受け止めてくれようか。

 (いのち)を踏みつけ、他者(ひと)を憎み、世の摂理(リソース)を呪いながら、それなのに差し出される手に寄りかからなければ生きる術さえ持たない。憐れな生命が何故神の前に現れる資格を有すると思っているのだろうか。

 有象無象(ひとびと)は驕っていると罵るだろう。姿見えぬ偶像から残酷な絶望(いま)を見せられるかもしれない。それでも、それでも、だ。

 フレアはもう外にいるだろう。祭壇には誰もいなかった。そう、自分以外は。

「女神様、あなたが本当に女神なら、私の大切な人が苦しむはずなんてないもの。フレアは、女神様を信じ尽くしてくれているのよ。フレアは、いつ、報われますか」

 神などこの世界にいるものか。レイはずっとそう思っていた。そうでなければ祈りはもう届いているはずなのに未だ届かずに祈り続ける日々ばかり送っている。

 フレアはずっと女神を愛し、信じている。例えフレアが女神を愛していても暗い表情をさせたままで見過ごす女神をレイは許せなかった。

「わたしはね、あなたとは違うもの。戦ってみせるわ。だから邪魔をしないで、女神様」

 フレアが、他の者が聞いたら何と言うだろう。それでもレイの怒りは収まらなかった。容赦なく叩き付けて外に出ていく。もうそろそろ日が暮れる頃だ。


****


 フレアとレイが台所に来ると、そこには既に商人が持って来てくれた食材とそれを手際よく処理するレイザがいた。彼はこの暮らしにすっかり馴染み、もう殆ど夕食は揃っている。

 使い古しの食材が主だったはずなのに、そこそこ絵になるような夕食になっており、傍にいたレイは目を輝かせた。

「もう待ちくたびれそうだったから先に準備したんだけど、フレアってきちんとしているんだな。おかげですぐ終わったし。ま、見よう見真似だし口に合わなくても悪く思わないでくれよ」

「ごめんなさい、レイザ、私の役目なのに」

「よしてくれよ、フレアを待つだけなんてできないし二人が休めたなら対価は十分貰ったってところかな」

 パンも肉も魚もそこそこ並んでいる。そういえば滅多にお目にかかれない飲み物だってある。名前は忘れたがただ香りがいい飲み物だったような気がする。

「たまたま会ったものだから交渉してみたらすんなり分けてくれた。ま、今度からそれなりの食材は持ってくるだろうから」

「やった! ねえ、フレアも食べようよ。私、お腹空いちゃった」

「そうね、そうするわ」

 喜ぶレイの傍らでフレアは悲痛な面持ちでレイザを見つめる。彼がどのような手段で交渉したのかある程度理解していた。そのことを咎める気はなく、ただ表立って感謝することもできなかった。

 生きるとはこういうことなのだとフレアはずっと前から諦めていた。生きる事は綺麗な夢だけを語ればいいわけではない。ただ正しくあればいいわけでもない。

 生きるはクライ。生きていくには常に隠された裏側にある悪意に晒される。明確に仕組まれた悪意だけが悪意と呼ぶのではないことも知っている。

 善意に縋るとはこういうことなのだ。彼の善意や思いが綺麗に述べられるなら、レイザはそもそも剣を握る必要などないはずだ。

 剣を握ってでも彼は生きなければならなかった。自分も同じく好きでもない祈りを捧げ嫌悪する宣誓を吐きながら生きている。

「いただきます」

 せめて隠された悪意によって手に入れたものを尊ぶことしか返せない。隠された悪意を曝すのは暴力だ。せっかく綺麗に磨いた鏡を叩き割るような真似をするのは愚かなのだ。

 それでも、フレアは隠せなかった。鏡にひびを入れて傷つけてしまったような表情を浮かべてしまった。その表情をレイザは見てしまった。だが、どうすることもできない。

 フレアを苦しめるつもりなどなかった。もっと上手い方法がいくつもあったはずだ。ただ、どこかでもう隠さなくてもいいと思ったのだ。この手はあまりに穢れすぎている。

 本当は、あのようなこと、すべきではなかったのだ。それでも、どうしても、許せなかった。これが愛なのだとしたらあまりに身勝手すぎるではないか。

 これが愛だとしたら、とても冷たすぎる。


****


 フレアとレイが幸せそうにしているだけで自分も幸せになれる。ふたりはいつもああでもないこうでもないと言いながら日常を送っていた。最初こそ何も出来ずぼんやりと眺めて一日が終わるだけだったレイザも段々とこの教会の一日の流れを把握し動けるようになった。

 日中、まずは大都市より遠征する商人から食材を受け取るのがフレアやレイにとって一日の始まりだと彼女等の話から察する事が出来た。ただ、今日は偶然にもふたりは出かけているのでその対応はレイザが請け負う事になった。

 既に商人たる彼は苛立ちを露にしながら待っており、彼は何故か憤慨しながら付き添うようにとレイザに目で合図を送る。彼は豪華な食材を披露する。それを受け取ろうとするレイザを見て彼は制止の声を上げる。

「食材を差し上げるのは条件がございますよ。見目麗しい聖職者をひとり、私の下へ連れてくる事です」

「ほう、その聖職者に奉仕をさせるのが貴殿の仕事ですか」

「大都市と比べて大した儲けもない東の地へ食材を届けるのです。相応の報酬をいただかねば」

 決まり文句を並べる前に彼の目の前に閃光が走り、気付けば彼の手から血が流れ落ちている。目の前にいるレイザが躊躇いもなく刃を振り上げた所為だった。

「俺も食材が欲しいのだが生憎貴殿に差し上げるだけの対価は持っていなくてね。そうなれば交渉は不成立。こちらは貴殿から奪うだけ、ということになりますね」

 そう言いながらレイザは口だけで笑みを浮かべて躊躇いなく刃を奮った。正確な軌跡は傷を刻み、呻く彼の腕に刃を突き立てる。

「どうしてこうもお前達は人を蔑むのが好きなんだろう。刃一つ奮えないまま」

 おかしいと言わんばかりに笑いながら腕や足に刃を奮い、夥しい血が大地に流れていく。

「まあ、俺の家族が世話になったんだ。苦しめるのは本意ではないから」

 見上げる彼の目に映るのは思い描く金色ではなく死へ誘う黒だけだった。彼の視界を覆うレイザの刃が名もない権威者の喉を躊躇いなく貫いた。

 抵抗できない彼の傍から並べられた食材を取り上げて教会へ戻る。この男の唯一の誤算はここが人気のない森であり助けを望めない場であったことだ。教会の前なら刃を奮う事もできなかっただろう。彼も表立ってこうした要求はしなかったはずだ。

 憐れむように微笑みながら帰路を往くレイザにふとフレアとレイの楽しそうな声を思い起こされる。その時、胸に鈍い痛みが奔った。また、知られたくない秘密が、できてしまった。途切れがちにレイザは良心を痛めた。

 この深緑は人に知られる事もなく生死を囲う。解き放つ事もせず命を大事に囲み愛で続ける。空から降りる雨を受け止め、最善と定義する量の恵みを命に与える。ゆえに深緑は緑を継承しながら黒に一番近い場所に立っていた。深緑に育まれて生かされ、外を眺めようと羽ばたく生命を見殺しにする。

 生命は全て深緑に生まれ、深緑に死す。華やかな舞台を羨みながら、輝ける空を仰ぎながら深緑に死す。人も有象無象も変わらない。

「まだ、生きていたのか」

 華やかな舞台しか知らない憐れな生命体へ語る口調は嘲りと賞賛と侮辱に満ちていた。深緑に踏み入れればあとは死へ誘われるだけなのにまだこの場所を晴れ舞台と信じる権威者を彼は心底憐れみ、生命体を野放しにする先の者に対する感情はいっそう激しさを増していく。

「甘いのだ、レイザ・ハーヴィスト」

 その甘さこそが彼が真に喪わぬ誇りの根源だと知り憎悪は強まっていく。喪った無念と奪われた憎悪に侵され刃を奮いながらくだらぬ概念に捉われて奪い尽くさないレイザを心から憎んだ。抹殺者と言われながら護りを得る事の出来たレイザを心底羨んだ。

 王族の血を持ちながら何も知らない平民。それなのに春を抱くことを当たり前だと信じて疑わないレイザの無知を憎み、一番の敵だと彼は執念を燃やしていた。欲望の累々たる屍を集めてできたあの聖職者もどき――フレアが未だ良心を喪わないで祈り続けるのはレイザが生きているからだ。

 抹殺者という名前を後付けながらも人々に存在を刻むレイザの何もかもが憎いと思った。

「実行するならば、人格、肉体、魂、全てを消すのが使命であり模範解答とし、完全正当だ。これは不合格、これは不正解、ならば罪。ゆえに罰がいるはずだ」

 深緑には色がない。どれほど色を落としても呑み込んで消していくだけだ。空を見上げると雨が降っている。地面を見下ろすといずれ消える暖色が入り混じっていた。声亡き慟哭とともに僅かな紅が垂れ堕ちる。

 深緑こそ至高あれと謳うこの場所で彩りある色に気付く者がどこにいるのだ。ここに使わされる人間など吐いて捨てるほどいるのだから一人消えても変わらず明日はやってくる。

 悲しくも美しい、憎らしくも愛すべきこの世界。

 路を往くかの人は声を立てて笑い続けた。刃もない存在に屈したという事実があまりに悔しい。怒りの行き場がない。どれほど晴らしてもこの憎悪は治まらない。

 それから数分後、深緑を抜けようとする住人が舌打ちをしながら見えない者への嫌悪を露にする。

「誰だよ、さっきまでここで暖をとったのは」

「どうせ大都市から来る行商人だろ。ハイブライトのお墨付きとはいえ暖をとったら痕をつけずにしろよな。何してるんだか」

「おいおいハイブライト様のお墨付きだぞ。いくら抗議しても曖昧にされて終わりだって」

「そうだよな、丁重に接しないと。本当にお上は凄いよな。下々の人間にはよく分からない規則で生きているんだよ」

 侮蔑を投げながら『薪』を回収し、散らばった『紅』を砂で消していく。先ほどまでそれが人の形をしていたなど、名もない彼等が知るはずもなかった。


****


「……レイザ」

 夕食を終えて片付けを行うレイザに声を掛けたのはフレアだった。喉に何かが詰まったような声で呼ばれ、レイザは苦しい感情を抱いた。

 例え血が繋がっていなくともフレアにとってレイザは腹を痛めて生んだ子、もしくは同じ時を共有する同胞でもあるのだろう。ない交ぜになる感情を併せながら自分を案じるフレアが自身の罪を察さずにはいられなかった。

 なかったことにしよう。隠し通そう。自分なりに覚悟を決めたのにどこか意識や決意が甘かったのだろう。

「俺は、そういう人間だよ、フレア」

 力なく笑って認めるレイザに対してフレアはただ悲しそうに呟いた。

「お願いだから、もう……今でもレイザに守られてばかりいるのに」

 あと何度クライ今を繰り返せば彼女は笑ってくれるのか。自分が彼女に与えるものは彼女にとってクライものなのか。何もできないのか。ただ、彼女が幸せならそれでよかったのに。

「フレア、もうやめてくれ」

 耐え切れずレイザはフレアを抱き締めた。もう泣かないでほしかっただけなのだ。もう苦しまないでほしかった。ただそれだけなのに。自分のこの腕がもっと美しい何かで作られていたら彼女は幸せになれただろうか。

 このような醜い罪人などに愛情を費やして彼女は命をすり減らしていく。彼女の涙はとても美しいのに受け止める腕は生きる意義を薙ぎ払うためだけにあった。

 昔は彼女がとても偉大な大人のように思った。優しく気高い絶対的な存在だと信じていた。それはただの幻想に過ぎず、傷つけるために生きる腕で支配できるほど華奢だった。少し力を加えたらこの身体は手折れてしまうだろうか。

 それでも自分には持ち得ぬ優しさは本物だった。熱するほどでもなく冷たくもない程良い体温が心地よかった。この体温を悪用した事実が許せなかっただけだ。それ以外に理由などない。

 所有物に許可なく触れて怒る子供のような感情だ。欲望そのもので力を奮って人格を傷つけた。弁解の余地もない悪だ。正義という鎖や灯で幾ら虚飾してもすぐに暴かれる悪だ。

「どうして祈るだけしかできることがないの。ねえ、レイザ」

「フレア、もういい」

「よくないわ。私、秩序者(ジェイソン)に誓ったのよ。いつか必ずレイザを幸せにするって。それなのにどうして今もレイザに剣を握らせてしまうの。私に力があればよかったの。私に力があれば自由になれた?」

 自分が兄の面影を追う為に閉鎖された中心地へ向かい、イリアは何者かに消された。恐らく彼女は誰より愛した存在を何度も喪い疲弊してしまったのだ。

 ただ、己が晴れ舞台で生きる存在であれと願った。そう願うのは本能だろう。それなのに剣を握る事で打ち砕いてきた自分は。

「もういい、フレア」

 自分が発する言葉の一つも彼女の救いにはならなかった。彼女を縛り付ける鎖になるかもしれない。彼女を永遠に苦しめる呪いになるのかもしれない。それでも。

「悲しまないで欲しい、フレア。頼むから」

 クライ今を共に往こう。いつか彩り溢れる世界へ羽ばたくために。


****


 夕食を終えると礼拝堂に赴いて正面に立つ女神に祈る行為がレイの日常であり終わりであった。この世界で信仰される女神がどのような経緯を経て女神と成すまでの歴史は分からない。

 それに、特段知らなくても満足できる人生だった。元々生きるためだけに必死だった自身の傍らに誰かがいる。それだけで幸せな人生だった。

 そう、女神は自分に対して生きてもいいと祝福してくれたのだ。だから感謝をこうして毎日伝えて安らかな眠りが訪れるのを待つ。そして自分に出来る事はフレアの助けになることと思い尽くしてきた。

 台所は粗末で薄暗いけれども毎日フレアが灯を点してくれている。今や偶像崇拝する信者のように憧れていたレイザもいるのだ。幼くして別の道を往く兄の面影をレイはずっと覚えていた。

 少々不器用な面もあったように思うが彼なりの愛情で自分の手を引く兄の嬉しそうな笑顔だけは忘れたことがなかった。レイザが覚えていなくても問題なかった。彼は元々晴れ舞台に立つ存在だと、レイは理解していたからだ。

 ただ、光陰は矢の如く過ぎ去り頑丈な木々の建物にも小さな傷が至るところに入って多少ひび割れていく。レイの記憶も同じく兄の面影は徐々にひび割れて忘却へと流れていった。しかし、僅かに兄の優しさだけはずっと残っている。

 フレアが兄の話を絶えずしていたからなのか、イリアがいなくなってから後悔ばかりを呟くようになってからか。ある時フレアは「レイザがアエタイトで生きている」と口に出したことがあった。丁度五年前だろうか。話の流れもただ兄やイリアのことを聞いただけで他意はない。

 その時フレアが返した何気ない一言も取るに足らない答えだ。だが、何気ない一言を発した時のフレアの表情だけはどうしても忘れられないでいる。

 虚しさと驚愕に震え語る彼女の顔はどこまでも無表情だった。ただ、底知れぬ憤怒が瞳の中をさまよっているように見えた。

「何か、呪いでも聞いてきたのかな」

 祈りは決して誰かの幸せのためだけにあるわけではない。誰かの不幸を願う言葉も唱える事もあるのはフレアやその他の聖職者から聞いていた。もし、不幸を願うならフレアのように無表情で唱えるのだろうと夢想する。

 そうだ、例えるなら綺麗な服を着て鏡を見るときに何かしらの悪戯か少しの衝動で鏡にひびが入ったのを知った時の表情だ。

 レイが部屋に入ろうとしたところで耳に入った。

「お願いだから、もう……」

 フレアの声だ。いつもの慈しむような声ではなく弱々しく今にも消えそうなほど儚い声。

「フレア、もういい」

「よくないわ。私、秩序者(ジェイソン)に誓ったのよ。いつか必ず『レイザ』を幸せにするって……」

『ああ、呪いは必ず私の元へ帰ってくる』

 誰のものとも思えぬ、侮蔑と憐れみに満ちた声とともに見える世界は暗転する。昔、慣れない片づけをして食器を落とした事があった。花を描いた立派な食器だった。割れた食器の直し方も分からず後ろめたさの余り必死で破片を拾って、確か丁度花を植えようと言っていたので口実に食器の破片を埋めたことがあったか。

 そう、食器の割れる音がレイの五感全てを覆った。フレアが自分に向ける愛情に偽りはなかった。疑う余地もなかった。そうでなければ生きていないはずだった。

 だが、自分の目の前にいるフレアはいつも笑みを絶やさず凛としていた。そう、自分が見るフレアはいつだって笑っている人だった。

「フレア、もういい」

 兄は、易々とフレアを抱き締める。思い返せば今日の食事も豪華ではなかったか。兄が受け取った事は知っているがいつもと違う。ああ、割れた食器が元に戻る事はないのだ、永遠に。

 力がない。幼い。たったそれだけのことがこれほど虚しい。レイザは力があるから勝ち取った。自分もフレアを抱き締めたかった。どうして分からない振りをしたのだろうか。フレアが求める存在はいつでも女神だけ。そう、女神だけだ。

 レイザのような力を持たない自分が陽の目を見る事は永遠にない。レイはあらゆる真実を悟り、かつて何気なく語ったフレアと同じように表情一つ変えずに背を向けた。

 それまで安らかだったこの教会は忌々しい存在に塗り替えられそうだった。反逆的な衝動でレイは足音を隠そうともせず走った。自分ひとりが欠けてもふたりは変わらない。それが、悔しかった。あまりに悲しいのに声も出せない。この身は感情一つ表現できないのかと忌々しさが募っていく。

「待て、おい、待つんだ」

 呼び止める声と共に彼女は急激に後退し、暫くして誰かの腕が自分を抱いている事に気付いた。声の主は呆れ半分と言ったところで笑っている。

「落ち着け、確か」

「レイよ」

「そうだったな、ミス・レイ。それともここはお嬢さん(マドモアゼル・レイ)とでも呼んで差し上げたほうがよろしいかな」

「よして下さる? 悪いけどそういう趣味はないのよ。お戯れなら他でお願いするわ、」

「ゼーウェルだ」

「そう、ミスター・ゼーウェル。あなたも大概悪趣味ね。紳士の癖に人攫いが趣味なの? それとも女の子を触るのが趣味なの?」

「その言葉、そっくり返してやるさ。ミス・レイ。君は泥遊びか年の離れた男と密会して楽しむのが趣味なのか。全く淫らな趣向をお持ちのようで。君を生んだ親はさぞ悲しむだろう」

「わたし、生憎あなたのような淫らな趣味はありませんのでお誘いなら勘弁して下さる? ミスターゼーウェル?」

 目の前の男は以前唐突に月見に誘ってきた男だった。日常を送っているうちに記憶が薄れたが夜は出歩かないという約束を破った背徳感による高揚はどこかで忘れていなかった。そしてこのようにまた唐突に触れられたので思わずこのように挑発を込めて反撃したのだが。

 ふと我に返ってその反撃が過ちだと気付いた。端正な顔が目の前にある事を知ってレイは目を見開いた。無論、相手に他意はないはずだ。何を意識しているのか自分でも全く意味が分からなかった。

「あなたって夜が似合うわね」

 心中で動揺しながらも何故か饒舌に男に話しかける自分に対して理解しかねるとレイは密かに首を傾げていた。男は悠然と笑いながら答える。その答えも本当に挑発めいていたのは言うまでもない。

「褒め言葉かな、ミス・レイ。受け取っておこう」

 ずっと一定の抑揚で話す彼に一点の揺らぎが見出せない。普通、声には感情が出てくるはずなのだ。声の調子で人の感情を知る事だって今まで経験している。人となりや状況も声による捉え方が第一になる。だが、紳士たる彼の声は夜に熔けてよく掴めない。分からないものは恐ろしい。

「君はとても分かりやすいな、ミス・レイ。ある場面では命取りになるが君の場合は利点が多いのかもしれないから分かり易いのかな」

「まるで悪いと言わんばかりの評価をどうも。ミスター・ゼーウェル、私はあなたが不気味だわ」

「いいや、寧ろとても褒めているが? ただ少々屈折しているかもしれないとは思うがな」

 聞いてみれば嫌味三昧ではないかと聞くに耐えかねたレイは思わず嫌味の根源を睨むが彼は全く怯む事なく、寧ろ挑戦的にレイとの距離を詰めていく。

「ミス・レイ、君は些か無知が過ぎるのではないかな?」

「ま、まあ、それはどういうことかしら?」

「一般的にこの状況は褒められないと思うのだが、君がさぞお望みのようだから私も応えなくてはととても緊張しているのだよ」

「私は何も望んでいないわ。ねえ、何故近付くのかしら?」

「ほう、ミス・レイ。君は私にもっと近付けと仰せか。その年で随分慣れた様子。関心すら覚える」

「わたし、よく分からないわ。ミスター・ゼーウェル?」

「いつまでもその呼び方は他人行儀過ぎるのではないかな、レイ」

 他人行儀と指摘されたところでレイは足元にある石に足をひっかけ転びそうになった。それをまるで計算するように彼が手を伸ばして彼女を軽々と受け止める。頭を打つ事はなかったが彼はそのままレイを腕に抱いたまま木の根に腰を下ろす。身を捩って彼の腕から逃れようとしても全身で覆われている為にこの状況は絶望的だった。

「よく分からないと言ったか。ではとても簡潔に説明すると君は今日で私の『天使』になるのだ。よくお分かりいただけたかな、ミス・レイ。それとも、マダム・レイと呼んだ方がいいか」

「ごめんなさいね、私、そういう嗜みがないからよくわからないのよ。それでもいいのかしら、ミスター・ゼーウェル」

「ここまで鉄壁だととても悲しくなるな、マダム・レイ」

「でもこうされるのは嫌ではないのよ、おかしなものね。そう思わない? ゼーウェル」

 わからない、というのは一種の戯れだ。本当は彼の言う通り、どこかで背徳を望んでいたのかもしれない。その証拠に彼にしがみついて声を上げる己の姿が一瞬思い浮かび悲鳴をあげたくなったほどだ。

 無論彼も気付いていながら降伏するまで突く予定だったのだろう。最も本当に彼の指す『戯れ』を実行する気はないことに気付いたのはずっと後の話だった。

「せっかくだ、今日も月見鑑賞でもしないか、レイ」

「いいわよ。あなた、本当に趣味がよろしいのね、ミスター・ゼーウェル」

 もう、彼の名前は忘れられない気がした。あの時は気分転換と好奇心で夜を駆けたからうっすらと覚えるに留まっただけだが、彼の声は微かに残った。全部を忘れる事ができなかった時点で軽い駆け引きの勝敗はもう明白だった。それ見た事かと言わんばかりに心臓の高鳴りは治まる気配がない。

「月が好きなの?」

「いいや、ただ綺麗だと思うだけで特に思い入れはない。綺麗だと感じる事と好きだと感じる事は少し違うと思うぞ。それに月は私には合わない」

「そうでもないと思うわよ。少なくとも昼過ぎにあなたがいる方がよっぽど驚くし、あなたほど夜が似合う人、そうそういないと思うわ」

「それは褒めているのか」

「私なりには褒めているのよ、ミスター・ゼーウェル」

「まあ、ミス・レイのお言葉だ。有り難く受け取っておこうか」

 彼に知られないよう一瞬だけ振り返ると、彼は柔らかく微笑んでいた。つられて自分も思わず笑ったがあまりに彼の今の笑みは端正な顔立ちに映えるので心臓はうるさいほど鳴り響いている。

 ただ、彼の顔立ちはどちらかと言えば冷たさを感じる方だったのでこんな風に笑えるのかと驚いたのだ。一連の会話の中で驚きと楽しみばかりを見出す自分がよく分からない。ただ、確かに彼の傍にいるのは楽しかった。永遠に時が止まっていて欲しいと願ってしまう。フレアとレイザを見た時の悲しさはもうなかった。

「本格的に夜が深くなっていく。送って差し上げよう、ミス・レイ」

「あら、とても嬉しいわ、ゼーウェル……」

 夜が深くなると同時に瞼が重くなる。彼女は警戒する事なくゼーウェルに身を委ねた。彼は彼で大事なものを慈しむように彼女を抱き締めた。

「お休み、私の天使」

 挑戦的な態度からはとても想像できないような暖かい声とともに細く繊細な髪を何度も撫でた。


****


 レ……レイ……レイ!

「きゃあっ!」

「レイ、いったいどうしたの?」

 レイが目を開くと彼女の声に驚いたフレアが目を丸くしながら問いかけてくる。

「……フレア、なのね」

「そうよ、どうしたの? 怖い夢でも見たのかしら」

 いつも最初に朝を告げにやってくるのはフレアなのだが、ほとんどレイは朝の光を瞼に感じて自然と起きるのだ。寧ろフレアを起こしに行くかひとりで先に朝の始まりを祈るか。

 だが、生まれて初めて違う人に夜の終わりを告げられたのでレイは後ろめたさからフレアの声に驚いたのだろう。彼女はきっと、自分が持っている秘密など知らないだろう。

「たまにはゆっくりするといいわ。レイザが朝食を作ってくれるから」

 またしても、レイザ。いきなりやってきた彼は力を持って生まれてきた。自分には持たない力を愛する人に惜しげもなく提供する彼はフレアにとってまさしく救世主。自分も確かに有り難がっていたはずなのに、今はどうして彼の施しを素直に喜べないのだろう。

 レイには、分からない。自分の兄にそのような感情を持ってはいけないと分かっているのに。優れた兄に対する宜しくない感情が、まるで病のように広がっていく。最も、フレアはそんなレイの表情や内心を知るはずもない。

「いつも有難う、レイ。たまにはゆっくりするといいわ」

 毎日見る穏やかな母として彼女はレイの前に立っている。今までフレアのその姿が真実だと思っていたのに、レイザに抱かれて泣いているフレアを見てから信じられなくなっている。

 それは、いけないことなのにね。

「フレア、無理しないでね」

 無力な自分はこんなありふれた言葉しか紡げない。悲しい事にこれが現実だ。

 かの人は今、何をしているのだろう。

 かの人は自分を、どのように受け止めたのだろう。

 フレアが立ち去ればそればかりを気にして繰り返す。夜のように抑揚のない声ばかりを何度も再生している。何度も、絶対忘れないよう頭に刻む作業を繰り返している。

『おやすみ、わたしの愛する人』

 彼がそっと囁いた言葉を、自分は永遠に忘れないだろう。今宵は会えるのか。また、会えるのか。彼が約束を聞いてくれるとは思えないが、具体性のない約束だけでもしておけばよかったと悔やんでいる。

 あまりに胸が高鳴って、人はこれを切ないと表すのだろうか。ならば、切ないのだ。この切ないの正体が知りたくてたまらない。フレアなら教えてくれるだろうが何故かそのような気にはなれなかった。理由はわからない。

 ただひとつ、彼女は起きて窓を開け、朝日を部屋に招く。また、会えると信じている。

「おはよう、ミスター・ゼーウェル!」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ