第二章:女神を賛美せよ
どこまでも色彩のない空間に自分は幽閉されていた。そう、生まれてからこの年まで。
どんなに抗っても所詮自分は誰かの代用品でしかない事はすぐに気付いた。父の目を見れば誰でも気付くだろう。
父がただの一時でも『ソフィア』の名前を口にしない日などあっただろうか。思い出せる範囲で掘り起こしてもそのような日はなかった。
父にとって最も不幸なのは自身が『ソフィア』の面影を継承しなかった事だろう。あの母の腹から生まれた筈なのに何一つ継承していない事を知った父は一体どのような思いで自身を育てたのだろう。
無力な子どもなのだ。あの手で息の根を止める事だってできたはずだ。父にとって自身は『無価値な子ども』なのだから。それなのに、どうして。
父に『女神の代用品』である使命を強要され、生を紡ぐ場所として用意された空間には息苦しいほどの高価な家具ばかり敷き詰められた。身に付けるものも確か母の好きそうなものばかりではなかったか。
そんな父が『イリア』と『カイン』の存在を知った時の表情を自分は今でも覚えている。目を見開き、唇を噛み締めていたあの表情を見た時から自分の意思は決まっていた。
自身が独りではなかった事に対する喜びは投げ捨てた。あの二人を憎む事が父の望む事なのだろうと認識した。
――ならば、なぜ、あの二人をずっとそのままにしたのだろう。
あの二人が王城の中にいた事は父が知らないはずがない。父は、本当に『ソフィア』と『シリウス』を憎んだのだろうか。
所詮無価値な子どもに父の本心が晒される日はずっと来ない。やはり、自分だけが異端なのだと知った時、リデルの『ハイブライトを変える』という意思を肯定した。
リデルとはある種同族だった。貴族でありながら認められない哀れな青年と、王宮の継承者でありながら代用品でしか生きられない自分。通じ合うまで時間などいらなかった。
だが、彼を通じて僅かではあるが同志を得た。出身不明のエレザ、家の発展のために恋する事も出来ないティア。四人でいた時、自分は『ハイブライトの血を引く存在』など思わなかった。
四人の前ではただの世間知らずな『セイシェル』として振舞えた気がする。それとは別にカインとイリアに出会ったときも確かに『セイシェル』であった気がした。
今でも、丘を登りきった達成感と見下ろすハイブライトの小ささに感動した衝撃を忘れない。
――そのような幸せはもうどこにも存在しない。
何故、あの時、素直に言えなかったのだろう。ずっと幸せが続くとでも思っていたのか。そうだとすれば自分は如何に罪深いのか。
「セイシェル、何を考えているの?」
声の主に気付いて思考を止めた。今、この身体にいるのは一人ではない事実を忘れていた。
「……何も」
「あまり警戒しないでくれ、お願いだから」
僅かに懇願するような悲しい声に胸が痛む。本来なら怒りの感情を覚えるはずなのにどうも声の主に逆らう意思はこうして削がれる。
「……ゼーウェル」
「ああ、やっと覚えてくれたのか。とても嬉しい」
機械的に呼び返しただけの行為をゼーウェルは無邪気に喜んだ。歪な思惑からの笑顔には見えない。ただ名前を呼ばれた事を喜んでいるように思えた。
イリアの前に立った彼とは別人ではないだろうか。彼が本当に生きていたら楽しかったのかもしれないと別の未来を予想した。
「セイシェルを幽閉するのは本意ではなかった。不便を強いて申し訳無いと思っている。でも、私がいられるのはこの身体だけだから」
「……分かっている」
本当に、ゼーウェルの存在を自分は分かっているだろうか?
ただの一度でも、ゼーウェルを思い起こした事はあっただろうか。ずっと自分の中にいた人格を尊重した日などあっただろうか。
ゼーウェルは自分にどのような感情を持っているだろうか。自分が今まで一度もゼーウェルを大事にしなかったから、彼がこのような凶行を起こすのではないだろうか。
そして、今も自分はゼーウェルを見つめる事が出来ない。彼を見る度に罪悪感に襲われるから、彼を見たくないのだ。
「……分かっているなどと簡単に口にしていいはずがないな……私は、ゼーウェルの事を何一つ知らない……だから、このような事をお前に強いてしまうのだ……私の所為なのだ」
自分があまりにも愚かで無知だから、彼はイリアを手に掛けたというのに。大事な幸せを奪われた怒りはどこにあるのだろう。愛する存在を奪った彼に対して向ける感情はひたすら苦しいものだった。
自分がゼーウェルに向けている感情はどこまでも悲しみだけだったのだ。もし、彼が許してくれるのであれば、この場で大声を上げて泣いてしまいたい程だ。
「私の所為なのか……」
ゼーウェルという名前をとても懐かしく思う。それなのに理由が分からない。彼に会えて嬉しいと感じているのに今の彼は自分の望む姿ではない。突き放してしまいたいのに、いざ目の前に彼が現れると抱き締めたくなる。
矛盾した感情を整理する術も無く口を閉ざしているとゼーウェルは緩慢とした口調で語る。
「私はね、幸せと言うものを考えていたんだ。いつもセイシェルは悲しそうな顔をしている。それはどうしてなのか、私にはずっとわからなかった」
「……今は、分かるというのか……?」
会話をしているようで全く通じる気配の無い会話をもう何度も繰り返した。きっと、自分の想いを彼が汲み取る事は永久に不可能なのだ。
「どうだろう。まだ曖昧ではあるが、セイシェルはずっと愛というものを求めているのかななどと考えていた。でもお前の求めた愛に応える者はまだ現れない。それにセイシェルは寂しさを覚えている。そのような事を何となく理解している」
そして彼は不自然な程真摯な瞳をこちらに向ける。それに吸い寄せられるように自分も彼を見つめる。
そのような動作ですら僅かな違いがあった。言葉にすれば僅かな違いに過ぎない。しかし、様々なものが噛み合わないという事実を自分は改めて自覚する。
彼は一瞬たりとも瞬きをする事は無かった。真摯な眼差しに思わず怯んでしまいそうになる。だが、少しでも逃れるような姿勢に入れば彼の腕が自分の身体に巻きつくだろう。
「ずっと昔に諦めたものさ。身勝手な私が本能的に求めているに過ぎない幻。だから、気にしないでくれ」
彼の腕から何とかして逃れようと取り繕う。最早取り繕っているのかも分からないほど弱い言い訳をゼーウェルに何度も伝える。
本当は彼が自身と共に過ごして直ぐ分かってしまったのだ。自分と彼はどんなに求め合っても永遠に交わらないのだと。解り合う術すらも持たないのだと。
ゼーウェルの求める何かに自分は決して応えられない。それでも、こうしてふたりでいる今が嬉しいと感じている。身勝手だと嫌悪すら覚えた。
独りではない心強さに救われている。悲しいほど気高くゼーウェルは自分の為に罪を積み上げていく。容易く命を奪って権力を奮う人々に罰を与えていく。
その様を見て心のどこかで当然だと高慢な本音を抱いた事実をきっと誰も知らないだろう。解り合えないふたりなのに、突き放さなければならないのに、どうして目を離すこともままならないのか。
もうふたりとも光を仰ぐ事がないのであれば、いっそ奈落へ堕ちても構わないのではないか。どうせもうこの手は二度と祈りに触れることはない。
解り合えない事実がどれほど悲しくても自分は、どうしても、どうしてもゼーウェルを独りにはできないのだから。
虚ろな瞳で空を仰ぐセイシェルの背を彼は支離滅裂な感情で眺めていた。
この肉体で目覚めてから直ぐに彼を邪魔する存在を消し去った。逃げ惑う力無き物体の叫びもただの騒音でしかなかった。この手で静寂に導いた時はとてつもない程の高揚感を抱いたものだ。
それなのに、理解できない。
彼自身を考えていなかった彼女を『愛している』と叫び、彼女の元へ行きたいと嘆く彼が。彼を幸せにしたいのは本当だ。今でもこの想いに偽りなど無い。
だが、どうしてか彼が絶望し自分自身に縋る様をこの目で見てみたいと、彼を揺るがす感情を支配してしまいたいと思っている。
自分自身が積み上げていく罪に苦悩し、もっと弱くなってしまえばいいのに。そうすればずっと共にいられるのに。
「待っていてね、セイシェル」
その場に立っている力を喪い、再び闇へ呑まれた彼に囁き、前を向く。自分は彼の剣となり、盾となる。誰も彼を妨害する事は出来ない。彼さえここにいるなら後はどうなっても構わないのだ。
****
華やかな王城の景色に彩を与えるような銀が風に舞う。ただ、踏み鳴らす足音に気品は微塵も無かった。まるで草木を荒らすような勢いで玉座に迫る。そして。
「父上……」
切羽詰ったような、もうどうしようもない絶望も併せた嘆きが統率者を呼んだ。どれほど嘆いても狂気による凶行が止まらないと言うならもう統率者自らが武器を取るしかないのだ。
「……知っている。アエタイトの被害だろう。だが、未知なる力にどう立ち向かえという」
父の弱気な呟きも最もであった。父は彼に依存でしかない多大な期待と希望を背負わせて自我を壊してしまったのだ。国の繁栄の為にと冷酷な統率者を務める父でも我が子への罪の前にどのように向き合えばいいのかわからない。
もっと遡れば父の独り善がりな愛が母を追い詰め、我が子に孤独を植えつけたという罪にも苦しんでいる。しかし、今更変える事もできないのは誰もが知っている。だから諦めたのに。
「諦めるのですか! 己が腹を痛めた子が罪を犯しているのを貴方は何とも思わないのですか!」
「アイシア、おやめなさい」
隣で従うラサーニャの声も玉座を目の前に叫ぶ青年アイシアを制止する力などない。
「私は見たくないのです! 兄が、自国の者を顔色ひとつ変えずに殺めていく姿など! 父上、私に指揮を! 彼を……ゼーウェルを倒す権限を!」
「なりません、アイシア!」
ラサーニャは父に詰め寄ろうとするアイシアの前に立つ。
「アイシア、いけません。あなたにゼーウェルを倒す事は出来ない。散っていった者達の二の舞になるのよ」
宥めようとするラサーニャを前にしてもなおアイシアの兄への絶対的な愛情は揺るがない。
「構いません! ゼーウェルが私を倒すならそれも運命、喜んで受け入れるつもりです。しかし、黙って見ているだけなど私にはできません。母上!」
「アイシア、私はアイシアを喪いたくない。早まった真似はしないで」
どこかでアイシアも分かっているのだ。ゼーウェルに成す術などない事実については。見た記憶のない力を奮い、躊躇いすら見せず人の命を消し去る鮮やかな一連の流れはいっそ神に相応しい。
もしくは神に相反する悪そのものではないかと。
それでもアイシアは優しく誠実かつそれでいて人々に希望を求める術を諦めた悲しい兄が憎悪に支配されている姿は見たくないのだ。
家族を見つめる兄の悲しく優しい眼差しが憤怒に塗れ、捩れた悦びに嗤う姿は見るに絶えない。
どうしたって敵わなくとも、武器を持たず逃げるくらいなら戦った上で果てたいと思うのは許されないのだろうか。
「わかりました、母上。私はもう誰の許しも求めない。私一人でもゼーウェルと戦う所存です。母上は、ゼーウェルのあのような姿を見たくないと思っていないようですから」
長年目を背けて生きてきた。それまでの歴史をそう容易く変えられるならゼーウェルを見て苦しんだりはしないのだ。
それでも黙って享受する母をアイシアは理解できないのだ。
ゼーウェルが憎みながらも愛しているのは『貴女』ではないかとずっと前から確信している。
散々目の前に現れては自身の隠した者全てを殺め、陵辱の限りを尽くす彼が何故今も母にだけは躊躇するのか。
少し力を奮えば母を殺める術を持っている彼が、今もこうして母に罵倒しながらも僅かに情を見せるのか。
彼が一番憎悪しながら今も求めているのは『貴女』なのだと。
アイシアはゼーウェルの一連の振る舞いを見て、母に突き付けたくなる。勿論、母が受け入れるという答えを言わない事は重々承知の上で。
「父上、母上、私一人でもゼーウェルと戦う術を見出します。私は、一国を動かす統率者の代行者である以前に『ゼーウェルの兄弟』です。兄が罪を犯さぬよう説得するのが私の使命です」
それだけを告げてアイシアは王間に背を向けた。ゼーウェルは今でも罪を犯しているのだ。あの優しい手が血の海に浸っていると思うと泣きたくなる。行くなと縋りたくなる。
そこで彼が自分を迎撃しても生きるには必要な事なのだ。獣も動物に喰らいついて生きていくのと同じで人間も主義主張が違えば互いの命を削らなければならない。
「……アイシア」
ラサーニャもまたゼーウェルの事を考えていた。彼の出現はもしや自分達が新たな世界へ行く為の布石ではないか、と。
もし、ゼーウェルが人を殺める事に意義を見出しているなら、自分にあれほどまで苛烈な感情を向けているなら、それでも頬を撫でる彼の手が暖かいならば。
ゼーウェルという存在に目を向けなければならないのではないだろうか。
「……私も、一人になります」
ふと、思い浮かべるのはアイシアが生まれる前の事。その傍らに樹木のような髪色を持つ精悍な『彼』がずっと慈愛に満ちた眼差しで見守っていた事を何故か思い出す。
父は何も言わずにラサーニャの許可に肯定を示した。長年兄妹として繋がっていれば気配で分かるものがある。しかし、本当に通じ合っていたのだろうか。共生であっただろうか。
この関係は、父が喜ぶだけの『片利』なものに過ぎなかったのではないか。自分はずっと昔にもっと大切にすべき存在を自ら壊してしまったのではないか。
王間を離れる間もずっとラサーニャは樹木のような慈愛を持つ『彼』とゼーウェルへの愛情を示すアイシアの交互を繰り返し想像していた。
「……ウェリ……ス」
口を開けば忙しい日々によってもう昔に忘れ去った名前を真っ先に出していた。緩慢な意識で歩く通路は相変わらず赤子を抱く天使や女を模した女神の絵ばかりを飾っていて、そればかり目に映る。
誰にとっても母と赤子は神聖な夢想ができる。芸術にとってこの組み合わせは王道であり究極だった。誰もがより美しい女神と赤子の関係性ばかりを表現しようとする。
父も例外なく、生身の人間で美しい女神を求め、女神とその守護者の関係性を表現しようとしていた。当たり前のように赤子を望みながら。
誰もが、当たり前のように女神を守り、赤子を生み、その全てを力強い腕で抱こうとする。
ただ、樹木のような『彼』は自分を抱く事も赤子を望む事もあまり口にしなかったように思う。だから、異質で忘れ去ろうとしたのか。それとも。
「……悲しい。寂しい。苦しい」
柔らかな寝床に身を沈めながら初めて受動の言葉を何度か並べた。或いは求めまいとして根底に沈めていただけなのかもしれないと。
****
大都市アエタイトは王城ハイブライトが治める地図のほぼ中心にあったとはずっと聞いていた。東の地という名前と禁忌の地という伝承の両方でアシーエルは使われていた。
大都市の民からすれば未開拓で自然に覆われたこの地を不気味に思わない筈が無い。教会にいるレイザは大都市の民の視点でぼんやりと大都市の民の言葉を思い返していた。
鬱蒼と茂る深緑は開かれた大都市よりもずっと快適で涼しい反面、深緑特有の青い匂いと静かさと日差しが遮られる事で不気味さを醸し出していた。
ただ、大都市にいればわざわざ未開拓の場所に行く意味など無い。だから、東の地や禁忌の地と言われているのだ。世界に放出され手垢のついた物語では『鬱蒼と茂る深緑の先に魔王がいる』というのも演出としては王道で様になる。
この教会も大都市にあるような煌びやかな色はしていない。濁った赤と樹木のような色で形成されているのだから見方によっては『魔王城』に近い。少なくともハイブライトの人間と大都市の多くの者はこれを『教会』とは言わないだろう。
ただ、自分の中にあった鬱積した感情の残滓はもう残っていなかった。昔は聖杯から零れるような程あった血のように赤い感情。聖杯では抑え切れず身体にまで巡る紅は目に現れた。
しかし、その紅は父と思う存在に出会って濾過されてしまった。今ではどうだろう。濾過した液体もなく残滓も枯れ果てた。穏やかとは残滓も零れるものもない平定した感情なのだろう。もしかすれば聖杯もないのかもしれない。
今、身に付けている衣服もすっかり変わってしまい、借りてきた猫のようというのはこういうものだろう。随分人慣れしてしまったと思う。
濾過された時から、恐らくは抹殺者の名前に相応しくない姿と心を得てしまったのだ。僅かな話と邂逅と永遠の別れによって。血を見る度に悦楽に浸っていた昔を今はただ憐れに思った。あの頃、憎悪の対象の命を奪って何を得ようとしたのか。
報復など、無意味ではないか。幾ら恨めど時は戻らず大切な何かを喪失したというのも紛れもない現実である。奪ったところで戻って来ない。また新たな憎悪に苛まされるなら剣を奮う意味がない。
結局、昔にやった悦楽はただの紛い物で自慰にもならないばかりか自傷行為だった。この現実を昔は受け止め切れなかったが、今受け止めても大した変化はなかった。寧ろ晴れやかな気持ちになった。
抹殺者と呼ばれる事に喜びなどどこにもなかったのだ。あれはただの自傷行為だともっと早く気付いていればよかったのに。後悔はいつまでもし続ける。
此処に来た時は汚れた布切れと亡き父から渡された羽織という均等に欠けた組み合わせだが、昨日、自分のためにと仕立てたらしい新しい衣服を二着並べながらフレアは楽しそうな声で歌っていた。
「絶対、レイザに似合うと思うのよ」などという自信に満ちた言葉とともに。どちらでもいいと適当に回答したらフレアは頬を膨らませて「服はその人を彩るものよ。適当なことなんてしてはいけないわ」と説教された。
お淑やかなフレアの印象からは随分遠く、あの時程『母であり姉』という印象を持つ出来事は今のところ存在しない。それに、確かに衣服はその人を象徴する美しいものだ。
ハイブライトは身分さによって振る舞いを変えてくるので来た当初から何もかも気に食わなかったが衣服の豪華さには悔しいが賞賛せざるを得ないでいた記憶がある。新緑の正装を身に纏う兄は凛として美しかったのだ。そして、同じく新緑の軽いドレスを身に纏う空の少女もだ。
衣服に身を包む前に、選んで欲しいとフレアから懇願され、嬉々として並べられたのは二着。一着目は赤い花が至るところに並べられており、茎の色で色彩の調和を保っているようだった。古びた汽車の窓から見えた赤い花によく似ていると、凡そ服とは別の方向で思いを馳せていた。
もう一着は深緑をベースに太陽のような模様が裾に縫い付けられていたが自分の視界にはどこにもその太陽は映らなかった。ただ、最初に見せられた衣服の赤ばかり脳内で何度も再生される。
未だ自分は情熱や愛情を振り切れていないのだ。赤は情熱を示すと、花にまつわる言葉でも色を表す文章でもよく言われている。あの時の自分にはあって今の自分にはないもの。幼く無知な頃には無我夢中で追いかける事が出来て今は忘れ去ってしまったもの。
あの時の自分は未熟で愚かだったが、いっそ清々しいほど愚かしく誰かを愛し求めた。自分の愛に応えてくれた時、もう何もいらないと思うほどに幸せだった。それなのに、ある日それは人々が連なる変革によって容易く崩れ去ってしまった。自分の信じた幸せが永遠だと確信していたのにそれは一瞬よりもまだ脆く弱い。
まだ忘れていなかったのか。あの愚かな己は捨て去ると決めたではないか。
『俺の名は、レイザ……レイザ・ハーヴィストだ!』
幸せを壊された夜、躊躇していた剣を迷う素振りすら見せずに振り翳した。刃を奮い、血を浴びた夜を忘れたのか。朝が来る度に光を忌避し怯えながら闇を待ち望む日々を、もう忘れたのか。
「レイザ、どうしたの? 気に入らなかったかしら」
フレアが落ち込んだ様子でこちらを窺ってくるので、レイザは慌てて首を振って「そんな事はない」と笑顔で答えた。
「フレアには来た時から善くしてもらって、これでいいのかとただ悩んでいただけさ。レイにも気を遣わせて、不甲斐ない」
見え透いた嘘を吐いた。フレアにはきっと悟られているだろう。それでも、フレアに問われるのは申し訳無い気がして何も言えなかった。
纏わりつく血の臭いと人々との駆け引きと自他による身勝手な欲望が満ち溢れた地に根を下ろし、積極的に己の正義こそが全てと裁きの鉄槌を打ち続けた自分に今の空気はあまりにも清涼で澄み切っている。
腹を満たす上質な食料と上等な衣服と守護する居住が与えられる健やかな環境は果たして今の自分に相応しいのだろうか。享受しても良いのだろうか。罪を犯した己に与えられるべき加護であるのか。
悩むレイザにフレアは優しく微笑んだ。
「レイザ……私は、レイザに幸せになって欲しい」
レイザが顔を上げるとフレアはただ祈りを捧げる聖職者のような笑みで彼に説いた。
「今までだってずっと貴方は食べ物にも満足に有りつけず、衣服だって満足に着られなかった。それが運命だったり身分だったりというものの結果なら多分仕方ないのだけど。でも、私は思うのよ。誰にだって綺麗なお洋服を着る権利はあるし、美味しいものをたくさん食べる特権だってあるわ。誰にでもこんな家を与えられる資格もある。それは生まれた時に既に与えられた力なの。だから、受け取るべきよ、レイザ」
その優しい微笑みは、かつて馴染みがあった彼女がよく見せる笑顔と似ていた。見返り一つ求めずただ自分を愛し寄り添い抱き締めてくれた彼女に。
「誰が何と言おうと、レイザは世界一かっこいいのよ」
フレアの言葉にレイザは思わず目を見開いた。今になって自分は彼女の温もりを心から望んでいる。もう、どこにもいない彼女の面影を求め泣いている。どうして、今更彼女を追い求めるのか。どこにもいない事実がこれほど悲しいと何故気付かないのか。
彼女が自分を愛してくれていると驕っていた。もちろんその事実は真実でもあるのだろう。しかし、それ以上に自分が彼女を深く重く愛していたのだ。彼女の求める愛とは違うかもしれないが自分は彼女を愛している。どうして今、彼女の笑顔と声が聞けないのかと泣きながら問い続けている。どこにもないのに何度も呼び続けている。
「ねえ、レイザ。これを着て。美味しい食事も用意したから、たくさん食べてね。ああ、レイザの晴れ姿を見るのが待ち遠しい。レイも待ってるから」
彼の慟哭も知らずにフレアは子供のような無邪気さで駆け回っている。
――自分の目の前にある幸せに浸ってもいいのだろうか?
――この幸せを受け取る事を赦してくれるのだろうか?
「あ、ごめん。レイはまだ食事の準備に慣れていなかったわ。過保護かもしれない、でも放っておけない……! レイザ、先に行くわね。ここは狭いから道なりに行けば私達の部屋に行けるわよ。凄く狭いからちょっと窮屈かもしれないけど」
捲し立てるように喋った後、フレアは足音を立てて部屋を飛び出した。その姿にレイザはため息をつきつつ微笑んだ。
(昔も、こんな事があったな)
花を生けているのかと思ったらすぐ本を開き、勉強しているのかと安心すれば外に出ようと立ち上がった瞬間に飛び出す。ちっとも大人しくない彼女に振り回されて疲れ果て……でも悪くないと思っていた。
「……もう昔の話だな……イリア、様」
寂しげな呟きを残してレイザは選んだ方の衣服を手に取って着替える事にした。フレアの言う通り正当に与えられたものを受け取るのは生きる上での権利でもあり義務でもある。
奪ったものでも侵食したものでもなく、自分の手で手に入れたものなのだから謝る必要も況してや遠慮する必要がどこにあるのだろうか。
振り返るとこの教会は下手をすれば今まで見た聖域よりも大規模では無いだろうか。台所や寝床、客室や礼拝堂、教えを学ぶ広間もある。無論、大都市アエタイトはハイブライト本城と繋がっているのだからわざわざこの規模の教会を置く意味はないのだろう。
これほど広い場所でなら耳障りな城の者達の『偶像崇拝』の説教も心安らかに聞けるかもしれないと一瞬思った。
彼等が言う『命よりも女神への信仰心が第一』という内容にただの一時も賛同できない。まして『信仰心に殉する』という宣誓を聞けば聞くほど吐き気がする。
彼等は女神を愛しているのではない。女神を愛する自分を愛しているように見えて内心嘲っていた程だ。自分は信仰心に殉死する事も第一とする事も真っ平御免だ。そう言う意味では全く信仰心が無い。彼等の宣誓や教えは女神を自慰の対象としているような欲深さだと、どうしても思ってしまう。
だが、彼等が正義なら自分は異端なのだ。どれほど声を上げて剣を奮っても彼等が正義なら自分は罪人だ。時代とはそういうものだと妥協して受け入れてきた。もちろん、生きる為なら何でも利用し手を尽くすが自ら進んで変質や異端を誇らしく思っているかと言えばそうではない。
アエタイトにいる時に、レイザはそう考えた。罪人だからと異端だからと誇らしく剣を奮えば道を外した正義になってしまう。そんな薄い正義の為に生きている為ではない。
『ワーム』を得る為に『クライ』今に立ち向かい自分の道を歩き『ライブ』を経て『クオリティ』を追及し『ライフ』を散らし、また誰かに自らの『ライブ』を示すのだ。今は落ちぶれていてもいつか必ず果たせると自分はずっと信じている。
彼女が花畑を走った姿を思い浮かべながら、自分も跳ねる心持でフレアの待つ台所へと飛び立った。
****
「レイザはまだかしら。それとも気に入らなかったのかな……」
準備に張り切りすぎたのか疲れて椅子に座ったフレアが拗ねたように吐き出した。レイザの衣服は自分が決めると嬉しそうに言っていた自身の意気消沈振りをフレアは年頃の娘と同じような、しかし違うと言ったような悩ましく複雑な感情を抱いてしまった。
レイザの出で立ちは粗末ではあるが目を引くのは間違いない。事実、レイザの面影を映した作品を持ってきた時、自分は美男を見た少女のような声を上げて跳ね回っていた。
その様子に女性としての成長と消え逝く子供らしさに喜びと寂しさがあった。母とはこういうものなのだろうとフレアはその時初めて実感した。あらゆる媒体で『母と娘の成長と意識の剥離』を描いた話は実際にあり、聞き手として何度も受け止めていたが今まで他人事と思い正確に認識できなかったのだろう。
言葉で言い表せない複雑な感情は当事者になってみないと分からない。他人を真に理解することはできないとうまく言ったものだ。当たり前のような話に実感できる人がどれほどいるかと言われたらそう多くは無いのだろうとフレアは無意識下で真面目に結論を出していた。
「そんなことないよ、フレア。レイザは戸惑っているだけじゃない? 私がここに来た時も同じような感覚でいたんだもの。馴染んだ処から離れて新しい所に行くってそういうものよ」
大きな瞳を輝かせてレイは主役の登場を待っていた。しかしフレアが待ちきれないと慌てているのに対しこう切り返して嗜めた辺り、フレアはまたしてもレイの成長を身に染みて受け止める事となった。
王城の指揮下にあるとされる聖職者は花の刺繍を施した淡く紅を帯びながら薄暗い衣装を身に付けて一日の使命に励まなければならないが、まだあどけなく刺々しかった頃の彼女を知るフレアは随分薄暗い紅が馴染んだと感慨に耽る。
捨てられた子犬のような悲しい瞳をしながらもう二度と誰も信じないと誰の手も撥ね退けてきた幼いレイは、自分が誰よりも愛した少女に触れて徐々に無邪気さを取り戻していく過程は自分の中にある愛情を満たしていった。思い出す度に清涼な笑顔が蘇る。
自由に羽ばたいて往けるはずの白鳥が射抜かれ、傷ついた羽を良い事に檻の中に入れられる様を見た時の虚無は何年経っても消えない。愛し愛され当たり前のような幸せを望む『女神』が御像として捧げられている現実も自分の心を抉る刃でしかなかった。
たった少しの願いを求めて羽をひきずって逃げ出したふたりを見過さない主は冷酷に追い詰めて潰してしまった。それが世の常だと言うのなら仕方ないと割り切ってきたつもりだ。それに『女神』は大切な形見を二つも残してくれたのだから。
――例え、自分が策略を巡らせる側に立っていたとしても自分は。
「フレア、レイ、待たせたな」
昔の思い出を引っ張り出していたところで主役であるレイザが登場した。
「遅いわよ、レイザ。フレアが待ちくたびれていたんだから」
「悪かった……結構悩んでしまって」
レイが頬を膨らませて詰め寄っているのをレイザが何とか鎮めようと発した言葉がこうだった。彼の言う『悩み』は何も選択を迫られた衣装だけを指しているわけでもなかったのだろうとフレアは罪悪交じりで思った。
レイの言う通り、いきなり新しい場所と安寧を与えられて困惑していたのだろう。もしかすれば彼の奥底に沈んだだけの『人格』と戦っていたのかもしれない。彼が作らざるを得なかった人格に苛まされていたのだとしたら自分はどのように対峙すればいいのか。
ただ、それでも彼が選んだのは『新しい緑に咲いた花』の方だった事実を喜びたい。無論どちらも必死に考えたので交互に着替えてくれてもいいのだが新緑の方が彼の持つ人格に安らかな眠りを与えられるような希望を込めたのは事実だ。
「レイザの服はどうしても緑がいいとフレアと二人で話していたのよね。でもフレアが言うにはハイブライトって深い緑の方なんだって。だからもっと明るめの方がいいよねみたいな話もしてさ。私も明るい方が好きだなって言っていたのよ」
「レイ、お喋りが過ぎるわ」
主役の登場で饒舌に話し出すレイを嗜めるつもりで彼女の頭を軽く撫でた。やはりと言うべきか子供の体温というのはどうしてこうも熱を帯びているのか。それなのにどうして暖かいのだろうか。よく手に馴染む熱に触れる度にこの手でずっと守りたいと願ってしまう。
女神のことだって一緒だ。傷ついた羽のままでいるのを本当は深く祈っていたのかもしれない。そこでフレアは二人の見えない場所で自嘲気味に笑った。
自分は聖職者にはなれない。幾ら祈りを捧げても願いを唱えても信仰を説いても根本にあるのは程遠い欲望の数々だった。生まれては滅ぶ欲望の累々たる屍を集めて出来たのがフレアという人間だった。
レイザをこの手に置くこともレイを見守ってきたのも端から見れば献身的な聖職者のそれだが、真実を知る『敗者』は高らかに罵倒するに違いない。最初の一声が使命を全うする善良な市民の死で明確に示されたのだ。
もう、自分に残された時間は少ない。フレアは心の中でずっと考えていた。幾ら大都市から遠く離れても大都市の声が届かない場所など存在しない。それにこの地は大都市より東に位置している。
少女が奪われて連れられたのは西から中心に下っていく王城。それならば確実に遡って東に赴くのは自然の成り行きだ。敗者は立ち塞がる障害を退けて必ず来る。不吉な足音を立てながら緩やかに迫ってくる。
それでも、望みがあるのだとすれば。
「フレア、最近調子が悪いの? さっきから制止してばかりよ」
「あ、そうだったわね……さあ、食事にしましょう」
「うん! ああもうお腹空いちゃった。いただきます!」
「俺もそうする。いただきます」
二人が早々に食事を味わっている姿を目に焼き付けながらフレアは人々が織り成し声を張り上げる昔を思い返していた。
****
「美味しかった! 相変わらず、有り合わせの食材で作ったばかりのものだけど」
レイの顔に影が差しているのでレイザは「十分豪華だったが何か深刻な事情がありそうだな」と詳しく話を聞く事にした。
「本当はねもっと欲しいのよ。でも大都市や周辺に持ってくるのがいっぱいいっぱいらしくて。こんな遠い場所まで持ってくるだけの力はないって突っ撥ねられたらしいのよ。でも、聖職者達を一日自分につけてくれるなら考えてみたいって言われて」
レイは深刻そうに話しているが内容は理解できないと言った様子だった。一方のレイザはその話の全容が分からないほど子供ではいられなかった。
確かに大都市からしてみればアシーエルに対する優先度は低いのだろうが、商人の言っている事は権力を盾にした傲慢な要求に他ならない。自分の中で封じていた人格の産声をもう一度聞いたような錯覚に陥る。
(力も無いくせに。一人では何も出来ないくせに、幸せだけは当たり前のように要求する。生まれが高貴だから自分は気高いと……)
姿も知らぬ商人に刃を向け嬲る己の姿を想像し背筋を凍らせる。産声を受け入れれば悪魔に成り果ててしまう。幾らレイやフレアを不平等から守ると立派な正義があっても刃を奮えば暴力に変わる。
「レイ、商人の対応は俺がしよう」
「本当? ありがとう。何となく怖くていつもフレアとか他の人についてもらっていたから」
理解はできなくても感じ取っているレイの表情に生気が戻ったのを見て、自分の中にある産声も消えた。せめてレイは何も知らずに無邪気で笑っていてくれたらいい。
共有した時間も少なく朧にしか覚えていない小さな妹を自分は確かに『妹』だと思っていた。傍らにいるフレアの姿も殆ど欠けていたにも関わらず彼女を『姉』だと今では明確に認識している。
喪いたくない、失くしたくない。同時に悪魔に成り果てた己の姿を知られたくない。これこそが愛だとしたらどうして悲しさばかり増していくのか分からなかった。
もっと柔らかく暖かく穏やかである概念ではないのか。自分の抱く愛はあまりにも薄汚れて欲深く醜い。割り切って手を汚してきたつもりなのにどうやら心まで薄汚れてしまったのだろう。その穢れは二度と落ちない。
最も密かな苦悩など年の離れた妹には伝わらないようで相変わらず無邪気に笑ってこの手を握るばかりだった。
「何だかレイザに話したら楽になった。レイザって魔法使いよね。色んな人のお願いを叶えてしまうんだもの。フレアが明るくなりますようにっていう私のお願いもレイザが来てくれて叶ったし私とっても嬉しいわ。今凄く幸せ」
「本当に魔法が使えたらもっとレイのお願いを叶えることができるんだろうな」
「今でも十分よ。それにその服とっても様になってるから私それだけで嬉しい。これからずっと一緒にいてね」
「ああ、レイはまだまだ危なっかしいから簡単に目を離すわけにはいかないな」
兄妹のようなやり取りにレイザはもうひとつ封じていた筈の記憶を思い出す。名も無い丘に登り山頂から見上げる空と見下ろした王城の対比。どこまでも自由になれると信じて疑わない空はいったいどこにあるのだろう。
セイシェルは結局大儀を刻んだ旗を率いても敗者になり、イリアが愛を育てても骸として土に埋められた。あの時見た空は所詮幻かもしれない。
「あら、二人とも。まだ眠っていなかったの?」
台所から出てきたフレアに呼び止められ、二人は振り向いた。フレアは普段から使い込んでいるローブに着替えていたようであらゆるところに皺や染みがついていた。察するに食事の片付けと明日の用意まで几帳面にこなしていたのだろう。
「話し込んでいたらこうなったみたい」
「レイはいつでも廊下でお話するのが好きなのね」
「い、意識していたわけではないんだけど」
「まあまあ、フレアはもう大丈夫なのか?」
「ええ、礼拝堂の掃除を軽くしておいてから寝る事にするわ。まだお祈りもしていないけど、二人はもう疲れただろうし先に寝てね。あ、レイザ、その服とても似合うわ。今度ゆっくり話をさせてね。おやすみ」
「おやすみなさい、フレア」
背を向けて静かに歩き出したフレアを見送ってから二人も寝室に向かって歩き出す。それぞれの別室まで用意する程部屋数がないらしいがレイザは客間のベッドで寝る事を考え、レイをいつもの部屋まで送り届ける。
「ごめんね、レイザ」
「いいんだよ。レイは今まで通りゆっくり休めばいい」
「ありがとう、おやすみ」
「ああ、おやすみ。レイ」
さり気無く場所も把握できたところでレイザは客間へ戻ろうとしたが、どうにもフレアの様子が気になってしまった。レイはずっと前から気になっているようだが今日見ただけでもフレアは何か思い詰めたような表情や眼差しで口を閉ざす事が多い。
話しかければ明るい返事が降ってくるのだが間を置くと思い詰めたような、苦悶に満ちた眼差しが彼女の顔を彩っている。一人にしてはいけないと本能で察したレイザは取り敢えず台所で待とうと決め、今いる場所から台所へ戻る事にした。
****
二人は今日も健やかに日常を送る事ができた。その感謝を祈るのがフレアにとって夜の日課であり習慣として身体に染みついていた。
礼拝堂の教壇には手を組みながら空を見上げる女神と、彼女を祝福し囲う天使の御像があった。未だ偶像崇拝から解放されない女神をフレアは聖職者の立場にいながら痛々しく思っていた。
女神が生きている頃から女神として賛美し、羽ばたく偶像に無数の希望を乗せて、墜落した時には稀に見る悲劇として弾劾した己の行為を端に置いて、さも女神に寄り添う態度を取れる厚顔無恥な自他に嫌気が差していた。
レイを見守り、レイザを引き取った事だけで己の罪が赦されるとは思っていない。そんな甘い考えは遠い昔に捨ててきたのだ。
だが、相応しくない聖職者の衣装に身を包み、献身を尽くせば赦されると、どこかで思っているのだろう。その己の甘さを笑いたくもなるが、ただ懇願して使命や心を放棄するつもりはなかった。
「私は、決して許されない事をした」
低い声で唸りながら浮かぶ過ちをじっと思い出す。祝福される生命をこの手で捻じ伏せ、使者が起こした燃え盛る炎に命無き亡骸を放り投げた事実を忘れた日は一つもない。
だが、二人同時に権威を保証されて存在する事が必ずしも争いに繋がらないという説を信じて生きて生けるほどの強さと可能性はどうしても持てなかった。
事実、二人同時に権威を保証された存在は互いに憂い合い、片方を消し去ったではないか。目にした事実を上回る可能性理論があるならば誰か教えて欲しいと切に願っている。
所詮、己の周りにいる存在など本に書かれた事を盲信する冷酷な悪魔だと知ったのも過ちを犯してすぐだった。自分は孤独である。そう思ったフレアは残された時間を己の気の済むまま懺悔しようと決意した。
懺悔する態度でも見せておけばいいと裏で見下しながら。
「でも、間違っているとは思わない。正しくは無くとも最善だと思っている。何だってして見せるわ。例え『ゼーウェル』が猛威を奮ったとしてもね」
彼女の口から出た名前は誰もが知っている筈で知らない振りをしている不幸の象徴だった。今も不幸を招く災厄として蠢いている。彼の前に立った者は皆揃って地に堕ちていく。
己の真実を見抜きながらも戦う事を選んだ医療従事者ハロルドもその一人だった。無論、彼自身が己の罪滅ぼしとして自分に心を寄せていた事は昔から知っている。彼は懺悔する術もなく与えられた庇護の中で生きてきた。
努力家で信念を選んだハロルドと似て非なる存在はもう一人いた。それが、突発的な経緯で自殺を遂げたと騒がれたアクロイドの事である。息子シャールと妻イザベラは彼の姿を捉えていない。善良な医療従事者で誇れる父親という認識で今も生きているのだろう。
ただ、彼は善良すぎたのだ。正義を重んじるあまり獣として身を落としていった。いつか罪は暴かれる。ただ、それが彼と似通っていた人間に暴かれた事がアクロイドが死を選んだ切っ掛けになっただけ。
アクロイドが自分の技術を駆使して命を奪った行為は間違いなく断罪されるべきではあるが、突然敗者にされて憤らない者はいるのだろうか。彼は力があるばかりに敗者にされてしまった。ただ、己の思いに悩みながら生きてきただけなのに。
アクロイドの持つ医療技術をなぞる存在はいなかった。大都市の秩序者は権力者の死に不審を抱き、状況を振り返って勘付いたが追い詰めるには不足が過ぎる。
異国から呼び寄せたハロルドがいた事がアクロイドの不幸になってしまった。彼は誰であろうと救済するという気高い信念の元で医療を志し、従事してきた。アクロイドはもう救済出来ない。しかし、他に方法はなかったのか。
未だにふたりは迷っていた。ハロルドがフレアの罪を決して口にしないのはアクロイドが彼の生き様に影を落としていったせいなのは知っている。
それならば、何故自分を守ろうと決意したのだろう。想われていた事は嬉しかったが理由が今ひとつ分からない。
ただ、本来なら明るい未来を生きるはずだったうら若き彼に『クライ』未来を歩ませ、誇るべき『ライブ』を喪った最期が今も胸に突き刺さっている。
「……何を今更」
戻れない事などとうの昔から自覚していたのに。それでも引きずられるのは自分も『クライ』今を打破したいからなのだろうか。
今もハロルドの死に心を痛めている。大事だと思う存在を喪ったことだと答えを出して過ごしていたがそうではない。心のどこかでハロルドが羨ましいからだ。
彼はアクロイドが授けようとした敗者の称号を最後の最後で打ち砕いたからなのだ。絶対に他者を傷つけないという誇りを最後まで守りきったからだ。フレアにもアクロイドにも成せなかった偉業を彼は成し遂げたのだ。
『自らとイリアを守り、幸福を願う』ことだけを胸に最後まで生き抜けた。罪悪感半分、羨望半分と言った感情を抱えながら今も自分はこうして祈るだけ。無力で愚かな存在だ。
フレアの罪を知りながらも姿勢を変えなかった若者に対する羨望を抱えながら、僅かな時間をこれからも生きていくのだろう。
「フレア様!」
血相を変えて飛び込んだ聖職者の話の内容などフレアはずっと前から見抜いていた。どうせ変わり映えのしない絶望だろうと諦めた。
「大都市より南下したロンカ方面でハイブライトの者達が次々と倒されています……ロンカまで戦力を喪えばこちらに来るのも時間の問題……フレア様」
「……もう、何も出来ないのね」
万が一という予測まで立てたかの者は少しでも力があれば滅びを呼び寄せる。勢いはとどまることを知らず増していく。しかし力を持たない己に何ができるのか。王城でさえ持て余すかの人の力なのに。
制止しようとする者は揃いも揃って地に堕ちていくではないか。
「フレア様、ここも危険です。どうか貴女だけでもお逃げ下さい。我々は最早『二十五年前』に死したも同じ。最後まで残ります。しかし……貴女にはまだ未来がある」
彼の優しさは恩義。ただそれだけだ。自分が動けばかの人はどこまでも追いかけてくる。
「そうはいかないわ。私はここに残る」
「フレア様!」
彼の制止にも聞く耳を持たず、フレアは続ける。
「私にはここに残る理由がいくつもある。そう『大事な物』を投げ捨てて私だけ逃げる事は出来ない。もちろん、貴方達を見捨てる事も出来ない。分かるでしょう」
ここまで言うと彼は一切の反論が出来ない。反論させる余地も隙も彼に与える心算はフレアにも持ち合わせていなかった。彼はただ唇を噛み締めてフレアを見上げるのみだった。いっそ憐れだとフレアは嘆いた。
「そろそろお休みなさい。明日は神父様と村の者で祈りを捧げる時間です。貴方も神に仕える者ならば、祈りは大事になさい」
今の自分は神父と同等の権利がある。そもそも秩序者の名前を借りてここにいるのだから権利を有するのは当然だった。彼にとってフレアの言葉は絶対なのだ。逆らう事は出来ない。同時にフレアの心情を彼が視る事もかなわない。
根本的には信心深い者と自分は分かり合えないのだから。去り行く若者の背を見ても何の心も動かされなかった自分が何故聖職者が勤まっているのだろうと考えておかしくなってしまった。
逃げたところでどうにもならないのに理論無き希望を信じて自分を逃がして犠牲になろうとする彼に対する感情もハロルドと同じく『羨望』の塊だった。
欲望という屍を掻き集めて生まれたのがフレア。
「……ゼーウェル……最後に生まれた掌握者、か」
いつか向き合うであろうかの人に思いを馳せながらフレアは在るべき場所へ戻って往った。
****
フレアのいない台所ではレイザとレイが明日の食事の準備を始めていた。明日の準備をして直ぐに食事ができる状態にしておくとフレアが楽になる。提案したのはレイだった。
もちろんレイザもレイの提案には二つ返事で引き受け、寝る間も惜しんで狭い台所で食材の確認をしていた。
「レイ、紅茶って飲んだ事あるのか」
「うーん、聞いた事はあるけどここでは無理なんじゃないかな」
食材を並べて見ても穀物が食材の大半を占めている。紅茶の元である茶葉などどこにもなく、到底お目にかかれない代物であった。ここでもレイザは大都市とアシーエルの違いを痛感したのだった。
穀物は力にはなるが根本的な成長にはなかなか繋がらない。成長に必要な肉類などほんの僅かでこれではスープを作るのが関の山だった。それでもレイザはふたりが食事にありつけている事に対して素直に感謝した。
パンとスープを毎日食す幸せが当たり前ではなかった事実を知ったのは元名を捨てた直ぐ後だった。
「レイは幸せ者だな」
思わず口から出た言葉にレイザは顔を青ざめた。誰かの命を奪わなければ生き抜く事もできない。奪ったとしても得られるものは少なかった。権力者を消せば巨万の富が得られるなど幻想だ。彼等の財産など探してみてもどこにもなかったのだ。
気付けば衣服は喪い、染みだらけの布一枚を何とか纏わせて汚水を啜る生活を余儀なくされてしまった。それでも地に堕ちる未来だけは逃れたくて必死に動き回っていた。生きる事に手段など選ぶ暇も無かった。
フレアの元で愛情に満たされて育つレイにそんな話はしたくなかった。知って欲しくもなかった。
ただ、幸いだったのはレイザの中にある影には見向きもせず「私もそう思っているのよ」と無邪気に笑っているレイのままだった事だろうか。
レイはテーブルクロスなどを敷いて中心に一輪の花を刺したコップを置いた。特に物珍しくも無い、何なら今外に出れば大量に咲き誇る白い花だった。
「フレアってね、何でも知っているのよ。このお花、マーガレットっていう種類なんだけどお花には意味があるんだって。このお花の意味はね『真実の愛』だって」
「……フレアが好きそうだよな」
如何にもと思い、レイザは笑ってしまった。あの親にしてあの子ありと実感してしまった。今レイとしている会話も空を飛べる少女が好きそうな話そのものではないか。
あの少女は自分だけではなくレイにまで花を愛する素晴らしさを話していたのだろうか。微笑ましいと思う半面でもう二度とあの少女に会えない事実に胸が苦しくなった。
「大切に育てたらいつのまにか広がってる赤い花は『アネモネ』って言って、ああでも意味は忘れちゃった。ちょっと前まではその赤い花をこの机に飾っていたの。フレアは花が大好きみたいで花壇でたくさんのお花を育てているわ。他の人もお世話を手伝ってくれるし毎日花壇を見るのが楽しみなのよ」
「そうだな、朝に見たら綺麗だろうな」
汽車の窓から覗いた花々にさえ心を動かされたのだから自分たちの手で育てた花はどれほど綺麗で愛おしいのだろう。同時に自分にとってレイがあまりにも眩しくて目を細めてしまった。ああ、どこまでも無垢だ。世界を知らない雛鳥だ。
かつて、自分にもこんな日々があったのだろう。何も知らずに微笑んで兄の優しさに触れて姉の愛に満たされて何の躊躇いも無く笑っていた日々が。
姉の、イリアの愛はあまりにも眩しかった。それでいてどこまでも真っ直ぐで高らかだった。自分を見つめる碧い瞳に焦がれて罪だと知りながら抱き締めてしまった。
寂しかったのだ、結局のところ。隔離された中で生きていた事が寂しかった。母も父も自分を愛してくれていたのに自分はもっと広く大きな空を仰ぎたいと思ってしまった。
レイのように小さな箱庭を幸せだと享受し、愛しぬけたらもっと幸せだったのかもしれない。
彼方へ飛ばした意識をもう一度元に戻して見るとレイは相変わらずの眩しい眼差しを浮かべたまま質問してきた。
「レイザは幸せだと思った事があったの? 私はずっと幸せだしレイザと一緒にいられて嬉しいけど、レイザってずっと苦しそうに見えるのよね。変な事聞いてしまっていたらごめんね。でも今にも泣きそうだったから」
レイにとっては気になっていたから聞いた以上の意味は無かったのだろう。ただ、聞かれたレイザにとっては己の心を曝されたようでレイに対し歪んだ感情を抱いてしまった。
時として無邪気な幼さは憎らしい。この手で手折ってしまったらどうなるだろう。この笑顔は涙に変わってしまうのか。ついさっきまで無邪気で愛らしいと思ったのに今ではこの少女の何もかもを壊したい衝動に変わってしまった。
拙い言葉で話しておきながら気軽に本質を突いてくる。こちらの思いなど汲み取る姿勢など一切見受けられない。それはかつて何も知らずに兄を傷つけ追い詰めた自分を見ているようで耐えられなかった。
「さあ……どうだったかな。そんなもの、あったかもしれないしなかったかもしれないな」
空へ飛び立つ日を夢見た自分を未だに忘れられない。手に入れたい青を掴もうとしても届かず、寂しさのあまり手放した。どれもこれも愚かな時代の昔話ではないか。全てを喪って残ったものは薄汚れた生き様と感情だけだった。
レイザは衝動を堪えながらそれだけをレイに伝えて、かろうじて笑ってみせた。ただの意地に近かった。涙をみせてしまえばこの手は目の前の少女を傷つけるだろうと分かっていたのだろうか。心のままに従えば一時でも楽になるだろうに。
そのようなレイザの心情をレイが汲み取る事は不可能だった。彼女は首を傾げながらもう一言付け加える。
「幸せだと思ったこと、多分あったはずよ。レイザにもあったはず。楽しいこととか幸せとか色々」
どこまでも世界を知らない雛鳥だった。こうも無邪気であったならと可能性理論を考えてしまう。目の前にいる虚像が歪んでいくのをレイザは感じていた。
今、彼女は誰が見ても美しく煌いた刃を手にして立っている。きっと彼女が持つ刃は世界で一番綺麗な刃だ。
「……あら、もしかしてまだ眠っていなかったの?」
扉を開けた音にハッとしてレイザが振り返るとフレアが驚きと申し訳なさの入り混じった視線と声色で話しかけていることをやっと知った。
「ごめんなさいね。ふたりとも、明日はこのアシーエル全体が神に祈りを捧げる日になっているの。ちょっとしたお祭りみたいになるから楽しみにしていて欲しいわ。綺麗なのよ」
「そうなんだ! 女神様が綺麗になる日ね」
神に祈りを捧げる祭りはレイザも何となく知っていた。女神を象る御像を花で彩り小さな火を照らして賛歌を歌う。この日だけは豪華な食事が地域や身分を問わずやって来る。女神を純粋に信仰している者も苦しむ者も幸いになれる日だった。
「じゃあ、今作ろうとしている食事は夜食として食べた方がいいかなあ」
「そうねえ、保管する場所がなくなるから……あれだけじゃ足りないし、食べようか」
フレアの提案にレイは花のような笑顔を浮かべて喜んだ。
「やった! ありがと、フレア」
「レイ、もっとゆっくり食べるのよ。身体に悪いから」
「はーい……」
フレアの小言にレイが頬を膨らませている姿を微笑ましく思いながらレイザも加勢する。
「どうせいつも急いで食べているんじゃないか。俺よりも早く終わってしまうから」
「あら、レイザだって割合大食いよ?」
「結構口が立つんだな」
レイの生意気な返答におかしくなってレイザは乱暴に彼女の髪を撫でる。レイは彼の手を受け止めて大声を上げて笑っていた。
その様子を食材の整理をしながらフレアはどこか悲しそうに目を細めた。
(こんな幸せが、昔、あっただろうか?)
もうどこにもない過去。もう開かない未来。
(ずっと昔に求めていたものは、そこに存在していただろうか)
無邪気に微笑む《彼女》と《彼女》を囲みながら祝福する《二人》。その光景を見守る《自分》は確かに思い出として胸に刻まれている。
ああ、あの頃欲しがったものは手に入ったのだろうか。そもそも欲しがったものはいったい何だっただろうか。本当にそれは欲しがったものであったのだろうか。
「フレア、どうした?」
言葉を発しないフレアを心配したレイザが声を掛けるも、咄嗟の返答が一向に思いつかずただ曖昧に笑ってみせただけだ。
あの頃欲しがったものは手に入らなかった。
「楽しそうだったから、いいなあと思って」
「まあ、そうならいいけどさ。フレアの話もそのうち聞かせてくれよ」
「私の? そうね、長話になってしまうけど聞いてくれると嬉しいわ」
しかし、違う形で手に入った幸せが今ここにある。ふたりが今笑い合っている時間こそが守るべき幸せで存在理由だった。
自分はレイザが向けてくれる笑みを真正面から見ることは出来ない。自分にとって尊ぶもので大切な宝物だった。大事に仕舞って慈しんでいたいと祈った。
(この幸せがあるなら、あとはどうなってもいい)
己が歩く道の端にある灯は既に消されたあとだ。あとは深淵が手招きをして堕ちてくるのを待っている。深淵が大きくなるその前に自分は最後の力を奮いたい。
フレアの脳裏にはもう見慣れた炎が燃え上がる様だけが描かれている、いつでも。
****
皆で囲んだ二度目の晩食を終えた後、レイは別の場所で口を洗っていた。水で洗って吐き捨てる作業を毎日行うように言ったのはフレアだった。
フレアは「これをすると身体が強くなると私も教えられた」と言って勧めてきた。当時はまだここに馴染めなかった時代で返答はフレアの思っているものとは随分違っているのではないかと記憶を掘り起こした。
それでもフレアが勧めるので最初は小言をかわす名目で始めたらいつしか習慣となり、自然と行っていた。
フレアの言う通り何故かは知らないが自分が成長しているような感覚はあったので味を占めて続けた。そして今では当たり前だと思っている。
「今日は楽しかったなあ」
兄と言われても俄かには信じがたいレイザと実際に会えて嬉しかった。いつも彼の話はフレアを通して聞いているだけだった。
話の中のレイザはひたすら美しい青年だったが会ってからも容姿『だけ』を見ればフレアが色めき立つのは理解できる。
ただ、レイザを美しいと崇めるフレアを見て自分は言い知れぬ感情を抱いた。喜怒哀楽のどれにも当てはまっていて掠っていない感情はレイザにも同じように向けられた。
今の自分がフレアを慕っているのは短い間を共に過ごした少女のおかげだった。色とりどりの花を持ってきては飾り、教会を飾る以上の意味を成さない花壇の花を綺麗とはしゃいだ少女がいたから自分は戻ってきた。
フレアの手を取るまでの自分と少女に会うまでの自分など覚えていない。しかし、あの時の自分にとって花は『その辺に咲いている雑草』以上の意味を見出せなかった。
それがいつしか目を潤す色がないと落ち着かないようになっているのだから人生とは意味不明だと笑える。
花を教えて色を与えてくれた少女は遠い昔にいなくなってしまった。いなくなって初めて少女は誰よりも強く誰より愛を知っていると自分も知った。
もう少女は何も語らず教えてくれない。もう、永遠に帰って来ないのだ。
何故なら少女はもう手折られてしまったのだ。花を摘む無邪気な子供に摘まれて手折られた。
「……イリア、姉さん」
少女――フレアにとって娘同然に愛していたイリアが大都市で襲撃された話を聞いて以来、夜に眠れなくなってしまった。
眠ればイリアの声と笑顔ばかりを振り返って悲しくなるから、眠れなくなった。それまでは夜になると眠たくなったのに。
その後の行動は殆ど衝動的だった。この空間を駆け抜けば何かが変わると一縷の希望に縋って走り出した。
礼拝堂の扉の前まで来たら扉を見て我に返るがそれでも衝動は抑え切れず扉を開けて歩いた。
降り注ぐ藍色によって色彩が沈んでいる。ただ、月明かりだけが色を照らしている。その灯を頼りにレイは歩き出す。恐怖心と好奇心で心は常にざわめいた。
そんなみっともない姿は夜が隠してくれている。色の無い夜に怯えたこともあったがこの瞬間に夜は安心へと変わった。
「……危ないな、このような時間に外に出るなんて」
誰かに抑止されて身を固めた。我に返って風景を見回すと雑木林の中にいた事実に気付いた。戻る道が分からないのだ。
「どうしたんだ。人がここにいるのは珍しいのか。それとも君がここに来たのが初めてなのか」
声だけで主が男のものであることは分かる。だが、聞きなれたレイザの声よりもずっと低く落ち着いていて抑陽があまりない。
緩やかな優しさを覚えてレイは勇気を出して振り返った。目の前にいる男は黒衣を身に付けていた。端正な顔立ちはしていると思うが明確には分からない。
レイザはもっと女性らしいしなやかさがあったのでこの男の存在はただただレイに衝撃を与えたのだ。明確に男だと分かる特徴を抑えているからだろうか。
「どうして、ここにいるの?」
どうしても声の掠れを止められなかった。もっと顔を見たいと思ったが真っ直ぐ見つめる事は不可能だと思ってしまった。
男はレイの様子を気にしながら口を開いた。
「変な奴の戯言だと思ってくれ。月を見に来た。今日は雲一つない空だったからさぞ月も綺麗に拝めると確信したからな……ところで」
男はレイの隣にそっと寄り添って、木に凭れながらゆっくり話しかける。
「少しだけでいい。少しだけ、私と一緒に月を見てくれないか。一人よりも二人の方がいい……せっかくだ、君の名前を教えてくれ」
男は自分を誘っている。近くに寄り添われ、優しく声を掛けられ、警戒すべきなのに心音は高く鳴り響いたままだった。
どこまでも落ちていくのを感じながらレイは口を開く。
「レイ・ハーバード……あなた、は?」
もっと近付きたくて、もっと傍にいたくて、できればもっと話したくて。男はレイの方を向いて穏やかに微笑みながら答えた。
「ゼーウェル」
それだけを言って男は月を見上げた。その様子をレイはずっと眺めている。かの人から目を離せない。何かが音を立てている感覚だけを刻み続けている。
「……ゼーウェル……」
ただ、かの人の隣で眺める月は何度も見た綺麗なものより一層輝いている。この夜が続く事をずっと願っていた。今一番美しい月に。