第一章:悪魔の行進曲
「ごめんな」
甲冑の兵士達に囲まれながら、彼は肩を落として、たった一言だけ呟いた。その彼の言葉が自分の脳裏に深く刻まれていく。それまでは、暖かい陽だまりの下で、お互いの体温を感じながら眠っていたような気がするのに。
夢の中で望んでいた優しい微笑みが直ぐ目の前にある。とても幸せだったのだ。守られるようにあやされて「おやすみ」と語り合って、ふたり安らかに眠っていたのに。まどろんでいた意識が冷や水を浴びたように鮮明になっていく。
自分達を包む空は黒一色。色と言う色が急速に枯れていく。
ずっと、自分は信じていた。自分の隣で花を咲かせてくれた少女と、潤してくれた青年がそばにいる日々を。それを呆気なく奪われた。
自分の信じていた世界は、呆気なく壊された。
煌く光の下で笑う日々が、透き通った空が遠い。何もかも、滅んだ。今、ここにあるのは、色彩の無い絶望だけ。
「赦さない……!」
彼女から託された誇り高い剣が鈍く輝いている。もう既に彼の姿はそこにはない。暗闇さえも自分を叩き落としている。包みこんでくれるような穏やかさがあるはずの夜空はどこにもない。
「俺の名前は、レイザ・ハーヴィストだ……!」
突如訪れた夜の中心で彼は剣を掲げ、怒りの叫びを上げた。ただ一人残された彼の瞳には薄らと煌いていた。
****
仄かに輝く街灯を避けるように男は毛皮を頭から被って、誰にも見られないような速さで歩いていた。
もう夕日が間近に迫る。行き交う人々は優しい温もりを求めて愛しい我が家へと戻っていた。
ある人は楽しい談笑をしながら煌く光の下にある扉の中に吸い込まれていき、ある人は恐らくは配偶者のことを案じながら無言で歩き、ある人は夕食の事を言い立てている。
帰路につく人たちの足を止めようと露店の中に並ぶ机越しから威勢よく声を上げて誘惑する。数多くある品の中で珍しいものを見つけた子供が親に強請っている姿もよく見かける。
傍から見れば何気ない日常だった。だからこそ、この中を歩く彼だけが日常から浮き出されていた。
四方八方で肌を露出し、甘い声をかける女たちも彼にだけは一切近付こうとはしなかった。
恐らく、彼が持つ鋭利な雰囲気が人を跳ね除けているのだろう。
最も、彼にとっては取るに足らない事のようで迷う素振りすら見せずひたすら歩いていた。
茜差す空は藍色へと染まり始めている。もう、後少しすれば月が拝める夜がやってくるだろう。彼は更に足を速めた。
気付けば閑散とした住宅街に彼は立っていた。そして、懐を漁って皺だらけの紙切れを取り出した。
そこには名前と場所だけが簡単に記載されており、彼の口元に笑みが宿る。そして彼は毛皮を取った。
艶のある長い黒髪と女性を思わせる儚げな顔が白火に曝される。
「……ここが、目的地」
そう言って彼は歩みを進めて中に入る。中に入るのはそれほど苦を要するものではなかった。
いつでも他者を受け入れているのだろうと思える室内は意外にも古めかしい絵画や控えめな花差しなどが綺麗に置かれている趣のある室内だった。
ただ、どれもそれなりの金を掛けて手入れをしなければ保てないような綺麗さに満ち溢れている。部屋を眺める彼の目が徐々に鋭くなっていく。
一切の気配を押し殺し、彼は音も立てずに探索した。なぜなら、ここに来るのは初めてだからである。そして、もう二度とここに来る事はないのである。
そして、彼の目が一点を捉えた。
突き辺りの左にある扉であった。足早に扉の前まで行き、彼は腰に差している――双剣を抜いた。刃を外側に向け、力を込める。息を吸い込んで扉を開けた。
バタン!
そこにいるのは無防備な男だった。男が悲鳴をあげるよりも彼は直ぐに双剣を振り下ろした。刃は男の身体を真っ直ぐ捕らえ、血が零れる。
それに構わず彼は男の背後に回り、剣を斜めに振り切った。血が床と布に飛び散る。男は悲鳴を上げる間もなく倒れ、ただの肉塊と化して絶命していた。
「何だ、この程度か……」
彼はため息をつき、仕舞っていた紙切れを粉々に千切って男の上に降り掛けた。
「せめてあの世で幸せになってくれ」
嘲るような声を残して彼は剣を振って血を払い、鞘の中に戻した。そして彼は再び緩慢とした足取りで来た道を戻っていく。
****
外に出ると彼は僅かながら目を見開いた。それもその筈で、茜色に染まる空は藍色へと様変わりしていたからである。今宵は三日月。光は少しだけ道を照らしている。
直線上の道を歩きながら、彼はまた笑った。しかし、今度は寂しそうな微笑だった。もう誰もそこにはいない。彼一人だけの筈だった。
「そこの方」
自らに接する初老の紳士の声を聞くまでは。
「……誰だ」
彼は唸るような低い声を上げて相手を睨む。普通ならば彼の視線だけで人々が怯むはずだった。しかし、紳士は一切の躊躇いを見せることなく彼の目の前に立っていた。
「貴方は、もしやレイザ――レイザ・ハーヴィストではないのですか? 抹殺者と呼ばれる……」
紳士の口から出た名前に彼――レイザは眉間に皺を寄せ、視線を更に鋭利なものへと変える。
「よく知っているじゃないか。最も、抹殺者などという名称はこの都市の住人が勝手に噂しているだけだ。俺はその名称を心の底から嫌悪している」
「……そうでしょう。私も胸を痛めております」
レイザの何十年も先を生きているだろう紳士が悲しそうな声で言った台詞には何か言い表せない深い感情が込められているように思う。だが、レイザにはあまり感知する事が出来なかった。
「何故、俺を見て胸を痛める?」
「……貴方が変わってしまった事にです……」
ひたすら紳士は目を伏せて絞るような声を出すのみだった。要件の見えない紳士にレイザは苛立ちを募らせ始め、そして。
「この住人たちは俺を抹殺者と呼び、忌まわしげに見ている。事実、俺はあまり陽のあるところで動けないことをしているのだ。抹殺者と呼ぶに値する事はな」
レイザは腰にある双剣を抜き、紳士の目の前に突き付ける。
「例え、夜になっても分かるだろう? この剣の色が。この剣は人の血を浴びて生きている。俺は、他者の命を奪って生き長らえている。お前も俺の糧になりたいか」
彼が持つ剣は赤い色で覆われており、銀の煌きは殆ど見えなかった。今まで同じようなやり方で何人もの存在を剣で殺めてきたのだろう。これは一種の挑発であり警告でもあった。
命を奪う行為はこれからも続けるという明確な意思表示でもあった。
紳士は僅かに身を震わせて零れるような言葉を彼に向ける。
「……すまない、カイン」
「……?」
レイザは首を傾げていた。目の前の紳士の反応に困惑したのだ。怯えるでもなく悲しみばかりを吐き出す紳士に。
紳士は何かを振り切るように首を振って、レイザに話を続ける。
「抹殺者である貴殿の腕を見込んで頼みがあってここに来た。貴殿は、ハイブライトの者達を抹殺したくてこのような行為を繰り返しているのだろう?」
「……ああ」
困惑しながらも肯定を示すレイザに紳士は重苦しい声で告げる。
「アエタイトの秩序を保つジェイソン・キースという者をこの世から抹消して欲しい」
「……!」
ジェイソンの名前が出た瞬間、氷のように凍てついた彼の表情に驚愕と悲哀が滲んでいく。紳士の言葉に彼は返す言葉も吹き飛んでしまった。
ジェイソン・キース。アエタイトの秩序者でありながらハイブライトでも珍重されている権力者。しかし、そんな彼は秘密裏で自分達を気にかけ金銭も物資も融資してくれた数少ない人格者でもあった。
自分にも理解を示し、自分に関わる者を保護してくれた存在であった。味方であった少ない存在であった者の名前が何故ここに出てくるのか。
しかし、紳士は彼の心情を知る術を持たない。
「あの者は人々を守りながら自分の欲求を満たす恐るべき悪人。罰するべき存在です。全ての黒幕であり死すべき者。その者は露店を通り過ぎた先の屋敷にいる。さあ、レイザ……朗報をお待ちしております。貴方が成功した暁には褒美も多分に用意しましょう」
レイザは一つも動くことができなかった。突きつけた筈の刃が小刻みに震えている。
今まで、殺める存在の事など気にも留めなかった。寧ろ優越感すら覚えていた筈のやり取りが恐怖に彩られていく。
紳士はレイザに一切の声を掛ける事もなく背を向けて、ゆっくりと歩き出した。
夜にただ一人、レイザだけが残された。
****
人々はもう寝静まっていた。煌く光も仄かに点る程度で全て眠りについていた。小さな灯火だけを頼りに歩くレイザの足取りは重たく不安定だった。
華やかな色を与える都市の主となる通りに差し掛かると重たい足取りは更に重たくなり、鉛でもつけているように感じてしまった。
こんな苦しみはもう二度と味わうことなどないと確信していた。自分にはもう心と示すものは何も残っていないと思っていた。それを全て昔に置いてきたはずなのだ。
しかし、締め付けられるような苦しみと泣き出したい感情で自分の心は錯乱していた。
「俺は、今まで」
自分を追い詰めた者達を斬り捨てた夜を思い出す。何もかも失った己に躊躇う感情は何一つ持たなかった。立ちはだかる存在を退け赤い血を浴びる自分はまさに「抹殺者」そのもの。
そのまま命を吸い上げながら生きてきた。自分を生かしていたのは幸せと呼ぶべき世界を破壊された憎しみだけ。他には無意味だと諦めた。
そんな事はなかったのに。今だってずっと願っていた。もっと力があれば失った全てを取り戻せるのではないかと思っている。今の半分でも力があれば。
結局願い空しく少女は行方も分からないまま、彼は捕らえられ死を待つだけとなってしまった。自分の信じた幸せは砕け散ったのだ。
赦せる筈がなかった。自分の生きる理由を否定されて赦せる筈が。しかし、無力な自分に何が出来るのか。権力者でもなければ権力に縋る術もない。
できることは、道を歩く権力者の命を戯れに奪う事だけだった。それすら結局無意味なのに。
今まで、自分は何をやってきたのか。正しいと思う事を実行していた筈だったのに、全部虚構だったのか。
「……ジェイソン」
通りを抜けて直ぐ拝める屋敷は他のどれよりも権力を示すのに相応しい大きさと色合いだった。しかし、他の住宅に溶け込むように素朴な色で統一されていた。
彼は、変わらない。ジェイソンは、変わっていない。権力者になっても愛情深いところも感情に左右されるところも。
変わり果てたのは、自分だったか。
罪悪感に押しつぶされそうになりながら茶色の取っ手に手を掛ける前に、ゆっくりと扉が開かれる。
「……レイザ、来てくれたのですね」
「……ジェイソン」
優しくて、悲しみに染まった声が出迎えてくれる。きっと自分の今の姿はジェイソンに望まれていない。それが分かってしまったのが辛かった。
「入って下さい。その様子ではろくなものを食べていないでしょう。貴方の為に良い紅茶を淹れようと思ったのですよ」
気丈に振舞うジェイソンにいっそ泣き縋りたくなった。
「一人で何もかも取り仕切るのは大変ですね。こう、私は元々緩やかな性分でして、ヘレンのような決断力に随分助けられたと実感しております」
「……奥方は?」
ジェイソンは幼い息子『レディシア』と強気な妻『ヘレン』がいたはずだ。仲睦まじいと割合有名だった家族の形はどこにもない。ただ、すっかり老け込んだ彼だけが広い家をもてあましているように見えた。
「まあ、お座り下さい」
白いティーカップを置かれ、対面側に座るよう促される。特に疑問もなく、レイザは頷いた。
「……ヘレンのことを覚えて下さって有難うございます。ヘレンは『五年前』にハイブライト城で亡くなりました」
単刀直入に切り出された回答にレイザの顔が真っ青になっていく。五年前――セイシェルが引き起こした動乱の時期と一致しているではないか。寧ろ同じではないか。
ジェイソンは更に続ける。
「私は特に失敗した人生を歩んでいると思っていません。栄光を手に入れ、愛する人と共に過ごす。最高の人生を送る事が出来たと思っています。今だって……そう、ヘレンをもっと傍に置いていたなら!」
彼の口調が突然怒りと悲しみを孕んだ強いものに変わる。
「ヘレンはあの日、船着き場まで行きました。あの船には、レディシアが乗っていたからです。当然、息子は追撃されていました……母親の愛とは偉大なもので、彼女は息子を守る為に、兵をたくさん殺めました……でも、どうでしょう。セイシェルは結局負けたではありませんか!」
「……」
「私は、セイシェルに期待していました。あの窮屈な国が、自由で美しい国になる事を! しかし、彼の行いは無意味。ヘレンの愛も無意味だったのです! 貴方も、レイザも悔しいとは思いませんか!」
――ごめんね。
あの日も、今のような夜だった。セイシェルは虚ろな目で歩いていた。彼の同志は全て散っていったのだろう。ハイブライトにいた頃の生命力を失い、悲しげに笑っている彼の身体の重さを自分はうまく受け止められなかった。
あの背中にどれほどの思いを抱えていたのかも分からない。ただ、自分はセイシェルに手を伸ばした。あれはどのような感情からきたものなのだろう。自分の手はどうして彼に向けられたのだろう。それでも、自分の伸ばした手に応えてくれたセイシェルに一種の喜びを見出していた。
彼が、兵たちに連れて行かれるまでは。
「……セイシェル」
自分から奪った全てに憎悪した。自分の無力さを嫌悪した。同じ腹から生まれ、血を分けた兄弟の事情すら知らない哀れな自分を心から。
「……貴方も、セイシェルに期待していたでしょう。いえ、貴方はセイシェルにもっと違うものを求めていたでしょう。ですが、彼は何一つ答えてくれなかったのです。そんな彼を貴方はどう思っているのです」
ジェイソンの問いはレイザの自我を破壊するに十分な威力であった。彼は机を揺らして立ち上がる。
「……それを、俺に……それを俺に聞くのか! 分かるだろう! 俺が好きで人殺しをやっているとでも思っているのか! 奴等は俺から何もかも奪っていった……父も母も、尊敬していた彼女も――セイシェルも! 何故、俺だけが蹂躙されて奴等は幸せなのだ! 赦されない……例え、神が赦しても、俺は絶対に赦さない!」
彼の怒声とともにカップに注がれた紅茶は波打ち、僅かな液体が机に飛び散った。同時に白いカップの中に一滴の液体が落ちた。
「貴方はセイシェルを、愛しているのですね。今でも……裏切られ、放り出され、このような惨めな姿を曝して生きている今でさえも」
そうだ、ジェイソンは子を育てていたのだ。家族を守ってきたのだ。自分が抱く感情など全て見通しているのだろう。それでも、レイザには認める事が出来なかった。
セイシェルは自分を利用したのだ。言葉にもできないほどちっぽけな理想のために自分を――天使のような無垢な少女イリアを。
イリアが自分に思いを寄せていたことは知っていた。最初は煩わしいと思っていた。だが、彼女のお節介すぎる真っ直ぐな愛に自分は満たされた。
彼女を抱きしめた夜を、もう何度夢に見ただろう。あれは幸せだった。柔らかな温もりに包まれて何もかも満たされていたのに、セイシェルは容易く幻想を打ち砕いた。
彼女の愛を打ち砕き、自分の飢餓を嘲笑ったのだ。酷い人間だと思った。怒りに震え、彼を切りつけた。彼の腕から零れ落ちる紅の軌跡を自分は一生忘れないだろう。
それなのに――彼を失うのが恐ろしかった。
「そうだよ……」
どれほど彼を酷い人間だと罵倒しても、心の奥底にある憧憬から逃れる事はできない。
彼は、幼い自分の救済者。親友の絆を得たのも、柔らかな温もりを抱いたのも、切欠は彼が作り出した。自分に新しい世界を教えた彼は、荒野に自分を放り出していなくなった。
「知っているか、セイシェルは俺に言ったんだ……『ごめんね』と。泣きそうなのに、どうして笑っていられるんだ。負けたらセイシェルは死ぬ。それなのに、どうして笑っていたんだ」
机に伏してレイザのすすり泣く声が聞こえた。
「俺は、セイシェルを愛していた……! 心から! 俺は、セイシェルと共に果てたかったのに、どうしてセイシェルは俺を容易く手放したんだ! セイシェルと一緒にいられるなら死んでも構わない。ずっと、一緒にいたかった……」
崩れ落ちるレイザをジェイソンはどうすれば彼が立ち直れるのか分からず、今の空気を完全に持て余していた。ただ、憶測でしかない幼い息子の心情をジェイソンは描いていた。
彼も――レディシアもこう望んだだろうか。自分と共にありたいと望んでくれたのだろうか。
レディシアは自分にとって命よりも大切な存在だった。あの笑顔を見るのが自分の生きる希望だった。あの笑顔は自分の穢れを浄化してくれる素晴らしいものだった。だが、ここにいては希望は潰えてしまう。だから、平和な地で幸せになって欲しいと願った。
これは自分の我儘なのだろうか。愛というものを勝手に押し付けたのか。寂しく震えるレディシアを抱きしめる事も叶わなくなってしまった。これは、最も大切にしたものを手放した自身への罰だろうか。
「レイザ……貴方をここへ呼び出したのはもう一つ、理由がある」
やけに重たい口調でレイザに告げた。彼は反射的に顔を上げ、ジェイソンをじっと見つめていた。涙に濡れた瞳はおおよそ抹殺者と呼べる者が持つ瞳ではない。ただ、いたいけな子どものように見えてならなかった。
「私は貴方を救う義務がある。本来、貴方は船に乗り、異国の地へ逃れる権利を有していた……しかし、ハイブライトはその権利を奪い、貴方を不当に貶めた。それは、赦されない事である……だから、貴方は今から自由だ」
「……ジェイソン?」
崩れ落ちたままのレイザの目の前に袋と、小型の剣を置いた。
「その袋には、ここから東の地アシーエルへ行けるだけの金貨があります。貴方の保護はアシーエルの聖職者『フレア』にお願いしています。そして……」
ジェイソンはレイザと同じ視線になるよう座り、彼に伝える。
「貴方は、私を罰する使命がある」
「……!」
レイザの目が大きく見開かれる。ジェイソンは『自分を殺せ』と言っているのだ。到底、レイザにはジェイソンを手に掛ける事ができなかった。
「なぜ、何故そんな事を!」
「私が、貴方を保護しなかったからです。それどころか、貴方を争いに駆り立てたからです……国の礎となる若者を保護しなかった私の行いは万死に値する……ですが、これは私の我儘です」
レイザの悲鳴にジェイソンは淡々と答えたが、やがて彼は目を細め、優しく微笑みながら彼に話す。
「貴方に会えて、私はとても清清しい思いでいます。もう、大往生を果たしたのではないかと。息子を持ち、栄光を手に入れ、愛する人と生涯を共に出来ました。これ以上の幸せがありましょうか。私は地位も名誉も栄光も手に入れた。素晴らしい歴史の立役者となったのです。そして、今、その幕を下ろす時なのですよ……貴方に、新たな歴史の先駆者になって欲しいのです」
「……ジェイソン」
「顔も名前も知らない輩に私の栄光などを奪われてなるものか……しかし、貴方になら喜んで私は持っている全てを譲りましょう。平民から這い上がり、ハイブライトまで自力でやって来た貴方です。そして、セイシェルやイリアの意思でもあります。貴方を守る事は……さあ」
両手を広げ、彼はレイザが剣を持つ事を待っている。彼は硬直したままジェイソンを見ているだけだった。自分はただ欲望のまま地位も振り切ってハイブライトの土地を踏んだだけ。何故、ジェイソンが自身を差し出そうとするのか、レイザには分からなかった。
だが、レイザが躊躇しているとジェイソンの目が温厚な紳士から呪わしい悪魔へと変貌していった。恨めしそうな目でレイザを睨み、今にも罵倒する勢いであった。
そのような悪魔の姿に変貌させるまで、ジェイソンに生を望むのは酷なような気がした。自分にとって望むジェイソンの姿は優しくて温厚な『父親』なのだ。悪魔の姿ではない。
レイザは意を決して傍に置かれた剣を手に取り、彼を押し倒す。そして、彼の上に跨り、持っていた剣を振り上げる。
「俺が死ぬまで、待っていてくれ。そして、せめて天上では幸せになってくれないか……」
切っ先が古びたシャンデリアの灯を受け煌く。それはもう長らく拝んだ事のない青空に一際映える太陽のように思えてならなかった。ああ、自分は漸く夜明けを向かえる事が出来たのだ。
呪わしい悪魔はもういなかった。ただ、希望を得たように喜ぶ『父親』の姿があっただけだ――そう、これからも自分にとって父となるだろう。
胸に突き刺さった剣をゆっくりと抜き、膝を着いてレイザは目を閉じた。ほんの短い時間だったのかもしれない。或いは永遠とも呼べる長い時間だったのかもしれない。ただ、自分は祈った。
そして長い時間から覚めた彼は、今はもういない『父』から手渡された剣を鞘に入れ、彼の心配りであろう袋を持って足早に立ち去った。ここにいる事は、きっと望んでいないだろう。
****
外へ出ると、薄らと太陽の光が差し始めていた。自分の着ているみすぼらしい布切れの上にはいつの間にか上等なコートが背中を覆っていた。
そう言えば泣き崩れていた時、ジェイソンが自分を抱きしめたような気がする。もしや、あの時に咄嗟に着せたのだろうか。
「知っていたか?」
答える声などどこにもないと知りながらレイザは問う。そうせずにはいられなかった。
「ジェイソンの事だけは絶対手に掛けないってずっと跳ね除けてきたんだ」
抹殺者として蠢く彼の元へ時折呪詛のようにハイブライトの人間の情報が流れ込んでくることがあった。ここに住む平民はハイブライトを動かす権力者を呪わしく思っていたのだろう。
その情報通りに彼は権力者の元に辿り着き、命を奪っていった。勿論その情報の中には当然アエタイトの秩序者であるジェイソンの名前も流れて来る。
だが、レイザにはジェイソンを手に掛ける事はできなかった。
彼だけは、人を色眼鏡で見る事のない公平な人間だと知っていたからだ。それ故にアエタイト内の勢力が整わなかったことも、逆にハイブライトの思惑が流れることなく人が集まる都市になったのも。
ジェイソンが愛情深く公平な人間だからだ。同時に表舞台で繰り広げられる駆け引きが苦手な人間でもあった。
「さよなら……」
ジェイソンの言葉に偽りなどない。彼の言う通り、アシーエルへ行くべきだとレイザは思った。
そして、ジェイソンの言葉の中で懐古を呼び起こす名前が刻まれていたことも思い出した。
『フレア』
もう朧気な姿でしか描けない。辛うじてこの名前を持つ女性が幼い自分の傍らにいたのを覚えている程度だった。
アシーエルに『フレア』がいる。自分を救ってくれるだろう女性が。
僅かな思い出の端にしかない女性の安否をレイザは祈っていた。そして、早く会いたいと思った。
温もりに浸ってしまった自分は、もう抹殺者として生きる事はできないと分かってしまった。もう、この手は命を刈り取る事が出来ない。
だから彼は足速に駅まで向かう。自分を救ってくれる可能性を掴む為に。
――或いは、抹殺者としての人格が目覚める大都市から逃避する為に。
今尚、彼の脳裏から消えない健気な少女の微笑と愛らしい声、何も知らないまま兄の面影だけを追いかけていた自分の頼りなさ。
『間も無く、アシーエル行きの……』
戦いで爛れた筈の大都市は今もこうして大都市として君臨している。どうせ爛れ腐ったのは一部だけ。いくら自分が怒りの咆哮を上げたところで意味などない。
ここは、自分にとって絶望だけが蔓延る醜い地なのだ。
(さあ、行こう。安息の地――アシーエルへ)
暖かな記憶をひたすら肯定してくれるアシーエルこそ、己の故郷なのだろう。
****
空を覆う茜はまるで人々を焼き尽くす炎に似ている。揺れ動く炎から逃れるように人々は安息の地へ向かい蠢いている。
ここは相変わらず人々の思惑なしでは生きていけない強固で脆い巨大な要塞だった。ただ、人々を押しのけるように悠然と歩く彼からは皆一斉に距離を取る。
そのような他愛ない事に気を取られているわけでもなく、彼は凛とした歩みで目的地へと進む。
「もうすぐ、会える」
笑みが、深くなる。この一瞬先に訪れるだろう展開を想像し、ますます彼は笑った。だが、不意に彼の顔から笑みが消える。
胸を締め付ける鈍痛が笑みを保てなくしているのだ。封じ込めた人格の声だと思い込んだがどうも違う。
「……最善であるはずだ。そう、これこそが最善であるはずなのだ」
この痛みが何故身体を重くしているのか、彼には理解できなかった。不意にラサーニャの『おやすみ』の声が脳内で何度も再生される。
ラサーニャ。最も憎らしくて苛立つ己の創造神。即ち女神。漸く手に入れて彼女の脅威となった筈なのに、彼女と来たら自分に向かって放った言葉がこれだ。
まるで、あやされているような声と言葉。衝動に近い怒りで支配される。それと同時に強烈な眩暈を起こす可愛い歌声。陽気に歌って嬉しそうに笑う少女が陽炎のように揺れる。
この手で全てを消し去る事こそが最善で幸い。尊ぶべき目的の為に流れる血は達成される喜びに捧ぐ聖杯に注ぐもの。これは、正しいと誰もが信じるはずなのに。
「どうして、そのような瞳で私を見つめる……」
揺れ踊る面影は答えない。ただ、悲しそうに見つめているだけだった。その悲しそうな瞳が赦せないでいる。
いつだって面影が自分を見る瞳は悲しいものなのだ。何を犠牲にしても欲しかった光ではないのだ。今にも消えそうなほどの儚い欠片だけを寄越してくれる。
いつもならば答えない面影は、珍しく口を開いた。
『……お前を、このような目に遭わせたのは私なのだろうか……』
目を伏せ、懺悔するように吐き出した文章に彼は苛立ちを覚えた。この文章こそが自分と彼の関係性を示している。
「ねえ、どうしてそんな顔をするんだ。まだ、大事にしているのか?」
何れ、彼の事など何一つ考えなくなる彼女が。少し前だって彼女は彼の心情を理解しただろうか。ただ無知な笑みを浮かべて『お兄様』と慕っていただけではないか。
誰もが無邪気な聖女だと崇める少女は彼を除け者にした女の娘ではないか。アルディが未だ『女神』だと渇望してならない女の娘。物語では純愛と呼ばれた愛を貫いた女。
最も、己から見れば自身の腹を痛めて生んだ尊い子より薄汚い自身欲望を選んだ穢れた女。そして、血は争えない。
聖女と崇められた少女は全く同じ血を引く少年に惹かれていたのだから。ただひたすらに少年を愛する少女。その傍らで苦しむ存在がいる事も知らないで。
「悔しいだろう? 何故、お前だけこのような目に遭って彼等は幸せなのだろうと思った事はないか? お前は優しいから、それでも赦すだろうけど」
二人の姿を哀しそうに見守り、迷いながらも優しさを示す。二人の理解者となる道を選んだ彼はとても美しいと思う。そう、何よりも美しい。どうして誰も気付かないのだろうと惜しい気にさえさせてくれる。
「でも、私は絶対に赦さない」
例え張本人である彼が赦したとしても自分は彼等を赦すわけにはいかない。彼が幸せになるには、彼等を退けなければならないのだ。
「……さよなら――イリア」
脳裏に浮かべた情報はいっそ笑いたくなるほど正確性を証明してくれた。聖女には似つかわしくない錆びれた一軒家の前に立ち、ゆっくりと扉を開き、そして。
彼は足早にその空間に足を踏み入れた。
****
その時の衝撃を、彼女は果たして言葉に出来たのか。
人影が映し出され、己が出迎えた瞬間の感情を自分はきちんと文章に残せたのだろうか。彼女は時が止まったような錯覚さえ覚えた。
「……お兄様」
いや、違うのだ。自分は知っている。目の前にいる人間の正体も、彼が身に纏う黒衣の意味も。そのような事象が理解できない子どもではいられなくなった。
迎えられた彼は少々驚いた。彼女が聡明である点に、である。身に付けている衣装は気品漂うドレスでもない。薄汚れた無地のローブ。最早ローブとも表せない布切れのようなものだった。
だが、彼女の持つ金色と蒼い瞳は昔と同じように美しく輝いていた。女神の持つ瞳の美しさとはまた違う。女神の持つ瞳が海のように揺れるなら、彼女の持つ瞳は自由を示す空だと思う。
どうして、あの時と同じにはなれないのだろう。どうして、道を違えたのか。
「お兄様、私、知っているのよ」
彼女の瞳はいつだって真っ直ぐだ。きっと、彼女はどこまでも羽ばたいていけるのだろう。どれほど手折られても、何度でも蘇るのだろう。
「お兄様は私を消すつもりなのね」
彼女は諦めているわけでも絶望しているわけでもなかった。対照的に彼女は『何か』を信じていた。そう、自分が最も手折りたい偶像を。
「そう、私は君が憎い。なぜなら、君は愛されているからだ。君は、人々の『希望』だからだ」
この蒼を見れば誰もが彼女を愛する。そう、自分の中にいる人格も彼女を愛している。彼女の為ならばこの人格はどのような犠牲も厭わない。
彼女がいるうちは、自分が陽の目を見る事など永遠に訪れない。彼女が纏う偶像をこの手で破壊しなければならない。
「消えてもらう――イリア・ハーバード」
ゼーウェルは懐から銃を取り出し、イリアの胸を狙って構える。
だが、彼女は――イリアは静かにゼーウェルを見つめたままだった。怯えることも悲鳴をあげることも命乞いをすることもしなかった。
「あなたは、可哀想ね。何も知ろうとしないなんて」
何故、彼女は何もしないのか。静かに受け入れるつもりなのかと嘲笑しようとして再び彼女を見たら、決してそのような姿勢でもなかった。
「ゼーウェル、これだけは覚えておいて。例え、私が消えたとしても、私の信じた夢や抱いた愛は絶対に消えない。カインを愛して地獄に落ちるなら本望よ。だって、私は自由だもの。アルディの望む女神でもなければ、ソフィアの娘でもない。私は『イリア』よ。この先も永遠に」
彼女の言葉が、ゼーウェルには理解出来ない。だが、封じ込めた人格は違う。
『イリア! 私だ。私の声を聞いてくれ。私は、ただイリアを愛していた! ソフィアの娘として憎んだ事もある。だが、私は楽しかった! カインに慕われて、イリアに出会えて、私は楽しかった! だから私はイリアを愛している! 私を『セイシェル』として認めたイリアを、この先も永遠に!』
人格が――そう、彼が必死に叫ぶ姿に唖然とした。彼を邪険にした女の血を引く娘を『愛してる』と叫ぶ彼が自分には理解出来なかった。
「……それが聞けただけで十分よ、セイシェル――私、あなたを」
彼の言葉を受け取り、答えようとした娘もゼーウェルには許せなかった。
「許さない、絶対に!」
銃声が鳴り響き、彼女は糸の切れた人形のように倒れた。錆びれた床に紅が広がっていく。
『……すまない、イリア。私が、私が……』
どうにもならなかった。だが、心の中にあった幸福は自身だけのものではないと知る事が出来た。それだけで幸せだと思った。もう何も欲しいものなどない。
『ゼーウェル、私も彼女の元へ連れて行ってくれないか!』
親友であるリデルが何故あのような暴動を起こしたのか。自分は漸く知る事が出来た。彼は大儀など掲げていない。ただ、自分の幸せを守る為だけに戦った。その為に青春を犠牲にした。
戦いに大した意味など何もなかった。そしてまた自分もリデルの暴動を引き継ぐ理由も大儀も考えた事などなかった。ただ、自分の傍らで眠るカインを失いたくないだけだった。ただの醜く浅ましい欲望だけで命すら投げ出した。
「……私は間違ってなどいない。私は正しい……そう、私は正しいのだ! 絶対に許さない。ここにいる全てを消し去ってやる! あーはっはっは……っ!」
ゼーウェルは声の限り叫んだ。酷く悲しい遠吠えにも、雄々しい宣誓にも受け取れる。恐らくゼーウェルは宣誓のつもりで言ったのだろう。
『……私の所為なのか?』
自由など、望んだから。あの窮屈な箱庭を疎んだから。他者を妬んだから。幸せになりたいと羨望を抱いたから。誰も答えてはくれない。
これから自分を待っているのは窮屈な箱庭よりも更に窮屈な檻に閉じ込められるという定め。絶望と無力さを何度も突き付けられる苦しみ。強固で痛々しい愛情を向けられる悲しみ。喜びなど、何一つ残されていない。
『ゼーウェル、私の所為なのか?』
黒と紅の双眼に浮かぶ雫と響き渡る高笑いに、己はただ胸を痛めるばかりだった。
ただ、彼女の蒼い瞳だけは忘れないだろうと思う。空のように高く澄んだあの蒼だけは。
****
鈍い茜色が藍に塗り潰されていく。仄かな月だけが周囲を照らしている。それなのに急激に発展する大都市を彩る灯は太陽よりもまだ暴力的な輝きで目が潰れそうになった。
長旅の為にと鈍行列車に乗り込んだレイザは手にした紙切れを見つめていた。誰が見ても紙切れでしかなかった。ただ、これを見つめる役員と自分の微笑みはとても暖かいものだったと思い直した。
地位もない人間がこの紙切れを手に入れる事は困難を極めているらしい噂は耳にした。それも五年前の代償なのだろう。
だが、よくも悪くも世界を動かしてしまった兄を自分は誇りに思っている。勿論、ただ純粋に兄を信じたばかりではない。
兄に縋りたい気持ちも罵りたいほどの憎悪もあった。彼は困惑しながら受け止めてくれるだろうが、自分が本当に欲しかったものは崇高で穢れのない誠実ではないのだ。
「……俺は、生きていけるだろうか」
兄を奪った王国の事を知ったのは遥か昔。両親の死の真相を知ったのはつい最近だった。今まで王国内の秘密は王国の中だけで蠢いていた。それが急に大都市を始め様々なところで広がっている。
『父シリウスと母ソフィアはラサーニャに抹殺された』
誰も薄汚れた黒髪の青年が『カイン・ノアシェラン』などとは思わないだろう。下品な笑いと共にただの戯言のように添える噂話にレイザが覚えた感情は憎しみでもなく、ただひたすらに『寂しい』という感想だけだった。
この身体に流れている血は結局何なのだろう。父も母もハイブライト側の人間のはずなのに何故自分は何も知らないままこうして生かされたのか。
ラサーニャは何故二人を抹消したのか。ただ、その理由だけを知りたいと思うようになった。だが、平民以下の落ちぶれた自分に何が出来ようか。
無力であると言う暗示だけが病のように付き纏う。託された懐剣が鈍色に輝き、魅了していく。
そこで、彼は隣の不穏な気配に気付いた。
「何をしている」
懐剣を喉元まで突き付けられた者はただの略奪者だった事をレイザは直感で気付いた。恐らく不法にこの汽車に乗り込んだのだろう。
相対する略奪者もナイフを握るが、その手は小刻みに震えている。このまま喉を貫けば略奪者は息絶える。しかし、レイザは彼からナイフを奪って懐にしまったところで自身の刃も引いた。
「こんな物騒なものを持たれても落ち着かないだろう。命が惜しいなら大人しくしておくことだな」
それだけを言うとレイザは立ち上がり、別の席に移る。略奪者からしても隣に人がいるのは落ち着かないだろう。最も見ず知らずのかの人の違法行為を手助けする意思もない。
そうだ、ここは無法地帯だ。弱肉強食の世界だ。あれはいずれ地の砂になってしまうだろう。ナイフを持つ手が震えているのだから。
そのような無法地帯でも空は移り変わり、地上には変わらず花が咲いている。
昔、傍らで一途に自分を好きだと言った彼女はよく花を持って来てくれる事を思い出す。聞きもしないのに花の名前ばかり羅列して枯れた花の始末は押し付けられた。
そのうち、枯れそうになった花すらも彼女は大事にし始めて手を焼いた事まで鮮明だ。
三人で丘に登ったあの日、ハイブライトなどちっぽけな模型だと笑った時もあっただろうか。
『カイン、次はどこへ行く? お兄様も誘わなきゃ』
『イリア様……セイシェル様は』
『お勉強ばかりじゃつまらないじゃない』
箱庭娘らしからぬ旺盛な探究心に疲労したのはいつも兄と自分だった。最初は兄に会う為だけの薄い目的だったのに。
自分に向けられる蒼はいつも真っ直ぐで透明だった。空を見ていると思った。
深い海は沈めば沈むほど暗くなっていく。だが、朝焼けの空に暗度などあったか。朝焼けの空はどれほど霞んでも明るく輝いているではないか。
だから、自分は彼女に憧れた。彼女が箱庭で育てられた美しい聖女ではなく彼女が『空も飛べる鳥のように自由だった』からだ。
彼女の『好き』に応えたら幸せだっただろう。それなのに羽ばたく勇気も持てない自分は頷いて体温を奪うだけだった。
結果、彼女は墜落してしまった。仰いだ空はもう二度と戻ってこない。それでも、自分はまだあの体温を求めている。
「フレア、姉さん」
色あせて枯れた記憶を、どうしても捨てる事ができなかった。最後まで。
****
アシーエルまでの長旅は結果からすれば果てしなく長い時間だった。呼び声に促され降り立つと太陽の明かりに思わず目を瞑ってしまったほどだった。
隣にいた略奪者の姿がなかった事に気付き、一種の哀しみを覚えた気がした。まだ、自分にも心が残っている。
大都市はおろかハイブライトからも遠いこの狭い世界は改竄されていなかった。深緑の木々に囲まれ、砂道を歩く。
途中に建っている住処も小屋と呼称するに相応しい。だが、みずぼらしいその場凌ぎの小屋ではなく人々の工夫を施して建てているため心が洗われていく。
ほどなくして辿り付くとそこには人々の象徴である『教会』があった。今まで教会は権威の象徴として嫌悪していたがアシーエルにある教会に嫌悪はなかった。
人々が純粋に祈りを捧げ、花や建物にまでこだわりを仕掛けているのを感じ取ったからだろう。理論を持った美しさではない。
芸術には疎い事を恥じるばかりだが、知識も不要のように思えた。
やはりというべきか中心を陣取るように女神像が遠目からでも拝めるつくりにはなっている。やはりハイブライトの影響は受けているのだ。遠く離れた地であっても。
その女神像の傍らで楽しく談笑している二人の女性がいた。一人は聖職者、もう一人はその娘、だろうか。
「お客様ね」
こちらの足音に気付いたのか娘の方が振り返る。
「……嘘でしょう?」
娘は信じられないといった面持ちで目を見開く。彼女の声に気付いた聖職者の女性の方も振り向き、そして感激に涙を震わせる。
「レイザ……貴方は、レイザなの? ジェイソンの言った通り、貴方は生きていたのね……?」
「……もしかして、フレア姉さんと、レイ?」
もう朧けな記憶だけを掘り起こして名前を呼ぶ。彼女等の姿など自分は覚えていないはずなのにどうしてこうも嬉しいのか。昔の記憶はまだ生きているのかもしれない。
「お兄ちゃん……ううん、今はレイザなのよね。でもそんな事構わない。会えただけでとても嬉しいのよ。ねえ、フレア、レイザは長旅で疲れてるだろうし早くお茶にしましょ」
「……レイ、ごめんな」
もっと幼かったはずの少女に気遣われてレイザは思わず懺悔する。ずっと彼女には寂しい思いをさせていたのだろうと自覚したからだ。それに比べて心の儘に生きる自分をレイはどう見ているだろうか。
「そんな顔しないで。やっと会えたんだもの。大都市の事も聞かせて。私、レイザと離れてからアシーエルしか知らないんだもの」
自分を先導する彼女に既視感を覚える。ああ、蒼を持つ彼女もこのように柔らかい手で自分を導いていたのだと。強く握り締めれば手折れてしまうほど力のない弱弱しい手。
この柔らかい手を思い起こすと急に離し難くなった。
薄暗い空間に光が一筋差している。ああ、これで終わる。あとは穏やかに過ごしていくだけだ。
そう、これでもう、脅かされずに済む。
****
王城にいた頃の部屋よりもまだ手狭で台所と食卓がこれほど密集している空間は久し振りだった。しかし、屋内で身の安全を気にしながら生を紡ぐ日々から遠ざかるこの空間は身に余る幸福のように受け取った。
その食卓机のある空間を見回せば教会にあったものよりも小さいが女神像はここにも君臨している。
レイザからすれば理解できない服装を身に纏い肌を曝しているだけの女性にしか見えないが、じっと見つめるフレアの瞳には真摯な光が瞬いている。彼女にはこれが紛れもなく女神なのだろう。
信心深さなど一欠片も持ち合わせていないレイザにはフレアの瞳や姿勢は正直なところ居心地が悪かった。だが、ここは教会。神を崇める神聖な場なので居心地の悪さは仕方ないのだ。生まれ持った性質を捻じ曲げる気もないのだから。
「ジェイソンとはたくさん話したわ。ヘレン様が亡くなった事、ジェイソン様のご子息が隣大陸『ライハード』に逃げ延びた事も……でも、一番は貴方の事とラルクの事かしら」
「ラルク……」
ラルク・トールス。自分に居場所を与えた快活な親友ではないか。途中から上級生とやり取りしていたがそういえば彼の名前はどこにもなかった。あの動乱で散ったならば中級生で尚且つトールス家の子である。名前ぐらいは聞けるはずだったが。
数少ない親友の行く末を気にするレイザにフレアは説明する。
「ラルクはね、リデルの反乱に加担したの。船着場で子ども達を先導する為にラルクはハイブライトの兵を退けたの。だから、彼はハイブライトにいられなくなったと聞いたわ。でも、罪に問えるのは上級生になってからだから彼は兄上と共に追放されたと聞いたけど」
「……どこにいるのだろう」
「分からないわ。でも兄上が一緒なら大丈夫でしょう……そのような話ばかりをした。五年前の事ばかり……未練がましいわね。もう過ぎた事なのにね」
レイが穏やかに微笑みながら紅茶を注いだカップを二人の前に並べていく。ほのかに花の香りがしたような気がして、レイザはジェイソンがもてなした紅茶の名前が『レッドローズ』であることをふと思い出した。
紅茶に口をつけながらフレアは昔の話をする。
「貴方がハイブライトへ行くなんて言い出した時、正直身が竦んだわ。だって、彼等は平民を見下しているもの。でも、貴方はソフィア様に似ていて言い出すと聞かないから、ジェイソンによく相談していたのよ。でも、貴方はそんな逆境も切り抜けてきたのね。私にとってレイザはいつまでも子どもなのだけど」
「色々すまなかった。よく考えもしないで無謀な行動を起こしたと思う……」
「仕方ないわ。だってレイザはソフィア様の子どもですもの。血は争えないわね」
一聖職者に過ぎないフレアと幼いレイに自分は残酷な仕打ちをしたと思う。そんな自分を暖かく迎え入れてくれる二人にレイザは泣きそうになった。
俯くばかりのレイザにフレアが真摯な瞳で見つめる。
「ねえ、レイザ。ずっと一緒にいよう。もう貴方の手も身体も醜い血で染める必要なんてない。私、ずっと間違った事をしたと思った。レイザの強い意思に逆らえなかった事が苦しかった。でもね、今の私は違うの。私が、私がレイザを守るわ」
「……フレア」
「もう私は『何も失いたくない』の。レイザ、お願い。私にレイザを守らせて。もう私にはレイとレイザだけが全てなの。もう何も失いたくない。もう手放す事なんてしたくない。お願いよ、レイザ」
懇願するような言葉を叫ぶフレアにレイザは是とも否とも答えられなかった。どうして彼女はここまでして自分を守ろうとするのか、レイザには答えが見出せないでいる。
ソフィアの子どもだからだろうか。彼女に遣えた使命だからだろうか。考える説は山のようにあるはずなのに、どうして明確に彼女の気持ちを見つけられないのか。
「ねえ、フレア。レイザは長旅で疲れているみたいだし、こんな辛気臭い話はやめにしましょう。そろそろ晩食だし、レイザにはお腹いっぱい食べて欲しいの。大都市に比べたら質素なものかもしれないけど」
レイは無邪気に笑いながら台所へ行く。何かと大都市アエタイトを引き合いに出す彼女は大都市を『夢の国』だと信じているのだろう。何と健気な信仰心だろう。
自分が大都市でどのような生を紡いできたか彼女は知らない。そして、きっとフレアも知らない。
そう、今は夢の中なのだ。自分は美しく綺麗で穢れのない夢物語の主人公になっているのだ。だから、彼女たちに愛される。
レイザは今置かれた自分の環境を享受できないでいた。
****
二人だけの部屋にずっと会いたかった家族がやって来た。
レイザ。愛した女神の生き写し。誰もが抱いた希望を彼は握っている。愛した女神も弱々しい外見とは裏腹に自身の意思を貫き、散っていった。
「……女神、貴方の残した希望は、私が守る。そう、この命に代えても」
女神を失ったあの日から自分は奪われた。空の瞳を持つ少女と、静かな夜を映す少年。空は塗り潰され、夜は紅に変貌した。自分の抱いた光は砕かれた。
たった一人のこの手で何が出来るのか。それでも、自分は光を信じている。
「……フレア、様」
一人きりの彼女に話しかけたのは男性だった。振り向く彼女はすぐに声の主が誰なのか気付いた。
「ハロルド」
自分の事を『シスター』と呼ぶ者は多いが『フレア様』と呼ぶ人間は少ない。敬称を付ける人間は更に少ない。
すっかり薄汚れた白衣を身に付け、霞んだ枯葉の髪色が彼の行く末を表しているようでもあってフレアは僅かに胸を痛めた。
「フレア様のお顔が見たかったのです。私はつくづく欲深い人間ですね。これでは『アクロイド』と同じではないか」
「……私も、貴女の顔が見たかった」
ハロルドの顔を見上げるフレアの瞳には煌く灯がちらついている。ハロルドは傷だらけの手でそっと彼女の頬に触れた。
「……私は、貴女を手放したくなかった。全てを失った私を救ってくれた貴女はきっと救世主なのでしょう……その貴女に私ができることは何もない」
「そんなこと、ないわ……ハイブライトからイリアを守った。私はとても嬉しいわ。それに、アクロイドに良心を取り戻させた貴方がイリアのそばにいることは私の安息にも繋がった」
「それも、今日までです……私は、イリア様を最後まで守れなかった。だから、私は貴方に懺悔しに来たのです」
彼は気丈に振舞うフレアを抱きしめた。彼女は小刻みに震えながら押し寄せるあらゆる感情を堪えている。
「蘇ったのよ……あいつが……。そうよ、ゼーウェルが」
「……もう、イリア様の事はご存知なのですね」
彼女の髪を撫でながらハロルドはある決意を固める。
「……誰であろうと、助ける。そう、貴女が例え『赦されぬ罪を犯した』としても。私は、アクロイドにそう誓った」
「……ハロルド」
彼女が僅かに身を捩ったのを見て、ハロルドは彼女をそっと放した。震える感情を抑えながらも彼女の瞳はいつでも真摯なままだ。
「私は、間違った事などしていないと思っているの。今でも。彼女の胎内にいた子どもを見た時の私の衝撃、貴方ならわかってくれるはず。なぜ、彼女の胎内は平和ではなかったのか。私はもう彼女に全てを捧げたの。だから、彼女を苦しめる存在は退ける。今だって変わらない」
「お気持ちは分かります。ですが、私は貴女の罪は『赦されぬもの』だと思っています。医師である私に貴方は理解しろと求めるのですか?」
「……そうね、ごめんなさい」
悲しい表情で罪を咎めるハロルドに自分は何と言う仕打ちをしたのだろう。彼の喜びや人生を踏み躙る強要をしてしまった事をフレアは恥じた。
「……私は、このハイブライトをとても残念に思う。貴女もアクロイドも名画のように美しいのに、どうしてこんなにも醜いのか。いや、私の信じた正義などどこにも存在しないのでしょう。きっと、これが答え」
自分の踏んできた土地も荒れ果てていた。活気を求めすぎた結果であろうと彼は思いながら与えられた任務をこなしていた。だが、任務に関わる人間はもっと人間らしかった。
フレアもアクロイドも危険なまでに美しい『正義』や『愛』を脳裏に描いている。だから置かれた現実が抱いた幻想の間に生じる瓦解に彼等が耐え切れないのだ。
「それでも、私は女神を守るの」
ああ、こんなにも愛を美しく悲しいと思った事などない。だから、自分は心の中で固めた意思を実行するのだろう。止まらない事はおろか、加速するだけなのに。
「ならば、私は貴女を守る」
もうすぐ、この胸で動く心音が止まる。そんな結末を見据えながら、ハロルドは最後にフレアの額に唇を当てた。
「私は、貴女を忘れない。でも、貴女は私の事など考えないで下さい。私の人生は本来とうの昔に終わっていたのですから」
過酷な運命を背負っているとは思えないほど彼は太陽のように笑って見せた。この息苦しい世界でこのような笑顔、どこで見ただろう。
押した選択肢が違えば出会わなかっただろう。しかし、もしかしたら彼と確かな人生を歩んだ未来もあったかもしれない。彼でなくとも、彼のような人と添い遂げる人生だって。
「私はレイザを守りたいの」
心の中にいる優しい女神が残した希望の前では『もしも』など考えられない。もう彼女に自分は身も心も捧げたのだから。
「貴女に会えてよかった」
彼女の貫く愛を否定する隙などどこにもなかった。ただ、僅かな可能性をもしかすれば信じたかもしれない。
綺麗ごとを吐きながらハロルドは彼女に自分の面影を刻もうとしている。女神と戦おうとしている。ああ、愛とはあさましく醜いのだ。なぜなら目の前にいる彼女の震える唇に目を奪われてしまうから。
だが、この唇に触れる資格などない。女神を崇めながら自分を見つめる彼女の瞳を濁したくなかった。
ハロルドは断腸の思いでフレアから背を向ける。もう、この教会を包む太陽は沈んでいる。
刻一刻と、自分の結末と脅威が迫っている。
****
教会から深緑に入るまで自分は何度もフレアを思い出していた。彼女の艶やかな髪と柔らかな額。熱の篭った体温もまだ記憶に新しい。彼女に愛を囁きながら抱き合う人生だって何度も描いた。
だが、女神がいると分かった時から自分の密かな思いは砕け散った。何度も踏み込みたい衝動に駆られながら描いたのは彼女が自分に向ける真摯な瞳と優しい笑顔だ。
女神を愛している彼女に踏み込めば真摯な瞳と優しさがなくなってしまう。どうしてもそれらを失いたくなかった。
彼女の面影を支えにハロルドは立ち止まり、真っ直ぐと前だけを見つめる。
「やあ、ハロルド」
漆黒の正装に身を包む男の正体など、ハイブライトにいる者なら誰でも知っている。
「ゼーウェル様」
彼は悠然と構えている。ハロルドはこの期に及んで神を恨んだ。もっと後にこの結末を用意していると思ったからだ。まだ自分は命が惜しいのかとハロルドはゼーウェルと神の両方を責めた。
もちろん、ゼーウェルはそのような彼の心境など知らない。
「もう、知っているんだろう?」
「何も」
勝ち誇るゼーウェルにしらを切ったのはせめてもの抵抗だった。だが、それすらもゼーウェルは許さない。
「あくまでも私はハロルドの口から聞きたい。答えよ」
彼は自分が思っている以上に残酷で憐れだった。力を行使し、憎悪に堕ちる彼に自分は嘆いたはずの美しい愛を説きたくなった。それは一瞬だけの親心だった。
愛を誇示すれば彼は怒り狂うだろう。それに、自分が抱いた愛は自分だけのものだ。彼になど絶対に渡せない。欲を言えば女神にさえも渡したくないのに。
ゼーウェルは己の顔から表情を消す。
「ハロルド、お前は私を見ていただろう。私が何をしていたか。しかし、お前如きに私が止められるものか。そして、お前は不幸にもここで生涯を終える。愛などに狂ったからこのような目に遭うのだ」
「貴方は、私を不幸だと思っているのですね」
「そうだ。そして、お前の苦しみを解放しに、私は来た」
ゼーウェルの言動に突如強い怒りがハロルドを動かした。
「生憎ですが、私は自分を不幸だと思った事などない。私の運命なら全て受け入れる」
最初は憎いと思った。アクロイドに導かれた結果、本来辿るはずの道を外した自分も元凶であるアクロイドも憎んだ。それだけではなく『アレン』に異国の地への遠征を命じられた事にも恨んだ。
だが、不思議と心は軽かった。今はただ自分を見つめる彼女に出会ったこの運命に感謝を示した。
そう、彼を恐れる必要など、どこにもない。
「貴方に決められる権利などないはずだ。そして、私は絶対に人を傷つけたりしない」
「何が、あったとしても?」
「何が私を脅かすとしても」
ゼーウェルが引き金を引いたのと、ハロルドが宣言したのは同時だった。ハロルドは悲鳴を上げる事もせず地に伏せた。
うつ伏せになった彼を仰向けにして、ゼーウェルは彼の顔をじっと見つめている。
理不尽な人生だったはずだ。それなのにどうして彼の表情は穏やかなのだろう。
彼が、イリアの傍にいたことは知っていた。イリアの保護で逃げ延びた臆病者だとさえ思った。対面したときも命乞いをするのかと嘲笑ったのは記憶に新しい。
だが、実際の彼は武器を突き付けられても決して退かなかった。それどころか最も憎む光を湛えながら挑んだ。
僅かな苛立ちがゼーウェルの胸を焼く。あの瞳は守るべきものを守る為の瞳。幸せを浴びてきた瞳。そう、許せぬ光であった。
彼は自分に自覚はないが力がある。いつか、力をつけて悪を追撃するだろう。彼の正義は真摯で美しいのだ。だから、彼は絶対にゼーウェルを許さない。
だから、これは予定調和のはずなのだ。近いうちに衝突する事は予想できた。
「さよならだ、ハロルド」
せめてもの手向けだった。朝が来れば忌々しい聖職者が彼を発見するだろう。例えば彼が愛した女が。彼の眠る場所が女の傍なのだから、きっと彼は喜んでくれるはずだ。
あの女はハロルドの事を知れば涙を流す。だから、これが最善。
「そう、私が正しい」
漆黒を翻して呟いた頃には夜が少しずつ薄まっている。深緑を切り裂くように彼は足音も立てずに走り出す。
****
朝焼けの空が今日はいっそう眩しい。窓越しからでも空の表情はよくわかる。今日の空は雲を吹き飛ばすように太陽が光を放っている。
「大変です、フレア様! ハロルド様が、ハロルド様が……!」
祭壇に駆け込んだ聖職者の話を聞いた瞬間にフレアが顔を青ざめる。予想よりもずっと早く自分にとっての脅威は目の前に迫っている。
「フレア様、すぐに葬儀の準備を……!」
ハイブライトでも一目置かれていたハロルドの死は遠く離れたアシーエルにも打撃を与えた。フレアは既に外に集まっている聖職者達の中心に立つべく外に出る。
扉を開けば雲一つない快晴が広がっている。その下で聖職者たちは葬送曲を歌いながら花壇に咲いている花を添えた。フレアもまた用意された花を棺の中に入れる。
ハロルドの顔は穏やかなものだった。もしかすれば眠っているだけなのかもしれないと希望さえ湧いたが、胸に刻まれた痕と酸化した黒が彼の死を飾っている。
負けると分かっていて、どうして挑んだのか。フレアはハロルドに懺悔したかった。自分がもっとハロルドと向き合えば別の道があったはずなのに。
祈りと葬送曲だけが響く教会はとても寂しく虚しかった。
「絶対に許さない」
女神だけではない、この地に脅威を与えるであろう彼を、他の誰が許したとしても。
例え、自らの犯した罪が大罪であっても、彼を認めるわけにはいかない。
「私は、レイザとレイを守る」
もう二度と奪われてなるものか。自分の幸せを脅かす存在は決して。
****
快晴の空は王城の庭園を幻想的に飾った。すっかり行き慣れた通路を辿り、寝床へ戻ろうとしたゼーウェルの前にやってきたのは父の忠実な僕でしかないアイシアだった。
「兄上」
権力を持ちながら行使する事を許されない憐れな彼にゼーウェルは見かけだけの優しい笑みを向けた。しかし、アイシアの視線は深い悲しみを刻んだまま動かない。
彼はあくまでもハイブライトの人間だとゼーウェルは笑みを消す。
「私を咎めるつもりかな、アイシア」
「……そのような事など、できるはずもない」
五年前の暴動が今も続く内部でゼーウェルを罰する人間などどこにも存在しない。リデルの暴動をきっかけに人々が『彼の幽閉』を利用して要求を肥大化させた。
内部の暴動こそ収めたが大都市は今も混乱が続いている。無論、その混乱の中心にいるのがゼーウェルである事もアイシアは気付いていた。
最も、ゼーウェルはアイシアと顔を合わせる事を悪いとは思わなかった。優等生らしい宿命を背負うアイシアだが『彼』を慕う気持ちを偽りだとは思っていなかった。
少なくとも、ゼーウェルはアイシアを『弟』として認識はしていた。
「話をしよう、アイシア。聞きたい事もあるだろう」
「ええ、機会を与えて頂けて嬉しいです」
アイシアと共にすぐ近くの客室へ入ると、彼は苦渋に満ちた表情でゼーウェルを見つめる。言葉にするのも苦しいのだろう。
あくまでもゼーウェルはアイシアが口火を切るのを待った。やがて彼は意を決して重い口を開いた。
「……兄上、ハロルドを襲撃したのは、貴方ですか?」
その声色には非難が隠れている。些か残念だとゼーウェルは思った。それは単に弟である彼なら多少の理解は示してくれるだろうという勝手な期待が裏切られたからだ。
だが、可愛い弟の一生懸命な質問にゼーウェルは敬意を示し、答えた。
「その通りだ、アイシア。私は答えた。アイシア、私をどうするつもりか?」
彼を邪険にはできない。寧ろこのような事を問う立場になった彼を可哀想だとゼーウェルは思った。しかし、アイシアは首を振って悲しげに笑うだけだった。
「何度も言うように、私に貴方を止める力などありません。ただ、貴方の意図が知りたかっただけです」
己の無力さに絶望し疲弊したアイシアにゼーウェルは奇妙な感情を持った。
力をあげたい、と思う。彼が剣をとれるほどの力を。だが、優等生たる彼は望まないだろう。もしそのような事をすればアイシアも地に落ちる。
彼を敵にはしたくなかったのだ。
「アイシア、私がこうして無益な殺戮を繰り返す理由はただひとつ。どうしても欲しいものが私にはあるからだ」
アイシアには話したいと思った。ハイブライトの忠実な僕なのに、彼はいつか自分と敵対するかもしれないのに。これはどのような感情から来るものなのか。
「……それは命を奪ってまで成す事なのですか? 罪を重ねてまで成す必要があるのですか?」
気丈に振舞ったアイシアが崩れ落ち、やがてすすり泣く声が聞こえた。ゼーウェルは黙って彼の傍に寄り添うだけだった。
「兄上、もう戻れないのですか。兄上はもう死んでしまったのか。優しかった兄上はもういない。ああ、兄上……何がいけなかったのでしょうか」
無常な叫びが胸を貫く。僅かな罪悪感がゼーウェルを縛って動けなくさせている。どうすればよいかも分からず、彼はアイシアの肩を抱き寄せた。
彼の手の温もりは記憶と同じものなのにどうしてこうも違ってしまうのか。どうして僅かな違いを悟ってしまうのか。アイシアは呪わしく思った。
それでも記憶と同じ温もりにすがる愚かさを恨めしく思った。
「兄上」
どんなに叫ぼうが彼はこれからも罪を成す。誰も止める事などできない。
「ごめんな、アイシャ」
幼い頃の、それも遠い記憶だけを掘り起こして呼んだ名前はただ悲しみだけを深めるばかりだった。
例え、この手が血に染まっても彼は自分を慕い続ける。否、自分の中にいる存在を慕い続けるのだろう。
「何を迷っている」
自分の宣誓が間違いだとは思わない。正しいと実感している。立ち塞がる障壁は退けると決意したではないか。
「思い知らせてやるのだ、長年抱いた根深い感情を」
ハイブライトは自らを消した。そしてこの国は今も他者の生命を吸って生きている。
いずれ、この国を。迷ってはならない。