序章:Rの継承者
今から約五年前、自由を求めて戦いを起こした者達がいた。彼等は人々から『革命の使徒』と呼ばれ、語り継がれるようになった。
「リデル、どうしてお前は戦いを起こしたの?」
「……それは、俺が幸せになりたかったからだ」
向かい合う青年達は互いの思いを胸に戦いに身を投じた。激しい金属音が響き、ふたりは睨み合う。
「……アーサー、どうしてそこまでハイブライトに拘る? この国にはもう狂気しか残されていない。それなのに」
リデルの問いかけにアーサーは事も無げに答えた。
「今まで過ごしてきた暮らしを脅かす存在を許すと思っているの? 馬鹿だね、リデル……大人しくしてくれたら、君には更なる幸せが待ち受けていたのに」
アーサーは目の前で奮闘するリデルを嘲り、彼の剣をかわしながら切り付ける。リデルは辛うじてかわしたが徐々に押され始めていた。
ふたりは一歩も引かなかった。使命を全うする彼と自分の思いを貫く彼。
――しかし、結末は唐突に訪れた。
「リデル……!」
息を切らしてやってきた少女――ティアがリデルを呼んだ。彼女の声にアーサーも驚き、剣を引いた。彼女は一歩ずつ近付き、アーサーを見据えた。
「どうして、どうして争うの……どうして、元は同じ家の人間なのに争うの……もう、やめて」
ティアの悲痛な声にアーサーが一瞬止まった。しかし、彼女の声や瞳は全て自分の目の前にいる青年――リデルに向けられていた。
そう、ティアが見ているのはリデルだけ。確かに彼女は誰に対しても明朗快活な少女だった。彼女がいる場所はとても暖かい。冷たい空間でいつも気を張る自分にとって彼女は太陽だった。
彼女と自分は家同士の付き合いだった。逆に言えばそれ以外の情はないと誰もが思っていた。しかし、自分は――太陽のような彼女をずっと見つめていた。
そして、いつか彼女も自分を見つめてくれると。そんな幸せがやってくると信じていた。
だが、彼女の今を見て、そんな日は一生やって来ないと確信してしまった。彼女が見つめているのは、リデルだけ。
「……許さない!」
彼は懐から拳銃を取り出し、呼びかけるティアに向かって発砲した。銃声音が空間を引き裂くように鳴き出す。
「……ティ、ア……」
ティアに覆いかぶさるように倒れていたのはリデルだった。リデルは顔を上げ、目を見開くティアの頬を撫でる。
「ごめんな……ティア、こんな、争いに、巻き込んで……」
リデルは悲しそうに、しかしこれ以上無い優しい微笑みでティアを見つめていた。そして、彼の瞳から雫が落ちて――そのまま彼は重心を失った。
「リデル……?」
もう分かっていた。自分を守るように覆っている彼の身体には魂がないということは。もう、彼はどこにもいないのだと。
「リデル……!」
彼を抱きしめてティアは啜り泣く。謝罪など聞きたくなかった。たった一言、彼からの愛さえ聞かせてくれたらそれで良かった。これからもずっと一緒にいられると信じて疑わなかったのに。
「ティア、次は君だよ」
ふたりを見下ろしていたアーサーが銃口をティアの額に押し付ける。彼女は涙が溜まった瞳でアーサーを見上げ、凛とした声で言い放った。
「あなたの、思い通りには、決してならない」
その言葉と同時にティアの口から血が噴き出した。
「……ティア、まさか!」
小刻みに震えるティアを何とかしようとアーサーは叫ぶが、ティアは既に生気を失ったリデルの髪に唇を寄せて……やがて彼女は目を閉じた。
「……ティア……」
アーサーは膝を落とし、崩れ落ちる。自分の求めたものは全てすり抜ける。自分が抱えたものは全て振り切ってしまう。
『俺は、カインを信じる。兄さん、ごめんな。でも』
自分の制止を振り切って破滅の道を歩んだ大切な兄弟も、もしかすれば分かり合えるかもしれない悪友も、密かに愛していた彼女も。
「……なぜだ、なぜだ!!」
既に嵐が去り、静寂が広がる空間でアーサーの叫びだけが空しく木霊した。
****
この革命は後に『緋の動乱』と名付けられ、革命に賛同した者はハイブライト家に属していた兵士達に次々と殺害された。
当主アルディから『一兵たりとも生かしてはならない』と命令が下ったという予測が瞬く間に兵士達の間で噂になったからだ。無論、関係の無い者達も巻き込まれ、処刑された。
中には革命中に戦死した者達も存在し、被害は増大なものとなった。ただの学童達の争いにしては大きな爪痕を残したこの戦いを人々は賛美し、或いは恐怖し、ハイブライトが築き上げた美しい歴史に影を落とす。
結局、蜂起した学童達は殆どが戦死し、残されたのは戦いを導いた首謀者だけだった。
険しい表情で、兵達はその首謀者を当主の前に引き渡す。その首謀者は何を隠そう当主の実の子供。列挙される名前全て、学童達の間でも名高い人気を得た者ばかりだった。兵達でさえ知らない者はいないほど。
「……セイシェル」
アルディは漸く、首謀者たる彼の名前を呼ぶ事ができた。呼ばれたセイシェルはただじっと父であるアルディの顔を見つめていた。リデル達が起こした戦いは無意味だった。その事を改めて思い知らされた。
リデル達が掲げた理想は何だったのだろう。セイシェルはただ空しさで声を出す事もできなかった。
『自由になりたい。何物にも縛られず生きていける権利がある』
生前、リデルはそのような事をずっと言っていた。それは美しい理想だとセイシェルは共感していた。だが、今になって思えば無謀な賭けだった。いや、そもそも勝てるはずの無い、ただの暴動でしかなかった。
誰が見ても分かる結果なのにどうして皆はリデルの言葉に賛同したのか。その中にはセイシェルもいた。どうして、あの時、自分はリデルの言葉や行動に賛同したのか。リデルが生きていれば問う事もできた。
「……分かっているね。この戦いでハイブライトに剣を向けた者はもう誰もいない。誰も、残されてはいない。そう、お前を除けば」
皆が自分を生かした。リデルも、ティアも、エレザも、親しかったものはどこにもいない。たった独りだけこんな寂しい世界に存在している。どうして、自分も潰えなかったのか。父と決別してまでリデルの言葉に共感した理由。
最も、アルディでさえセイシェルのとった行動には疑問を覚えていたようだった。事実、セイシェルを見つめるアルディの瞳はただ父親としての優しさと切なさが宿っているだけだった。
「結果の無いことにどうして加担した。理想だけを追求しても計画が虚構であれば何も成さない。お前はそれを知っているはずだ。虚構であると知りながらどうして協力したのだ。この世界で、今のままで日常を過ごしていれば幸せだったのに」
アルディの言葉は最もだった。彼は冷酷な王国の主以上に誰よりも現実を知っている。絶対的な力がなければハイブライトで力を奮う者達を束ねることはできないという事実を、彼は生きている過程で知ったのだろう。
「……それでも、私は一縷の望みに賭けたかった」
幸せな日常を送る王国の人間ではなく、戦いに身を投じる英雄としての自分に憧れていた。この世界をどうにかして変えたかった。アルディが振り撒く暴力的な光を払拭したかった。それは言葉では言い表せない衝動に近かった。
もしかすれば、自分は破壊者になりたかったのかもしれない。人々を不幸に叩き落とす悪魔として。
「セイシェル……」
主として君臨する父の顔を初めて真っ直ぐとセイシェルは見つめた。そこに王としての威厳は微塵も無い。ただ過った道を進んだ我が子に対する深い悲しみだけが彼の顔を彩っていた。
その悲しみを、もっと昔に見ていれば、結果は違っていたのかもしれないとセイシェルは思う。だが、それは全て過去の話。もう、自分はハイブライトの人間ではない。単なる反逆者になったのだ。
「……連れて行け。刑は後日判断する」
アルディの振り絞るような声を合図に兵達はセイシェルを連れて行く。ああ、これで何もかも終わるとセイシェルは安堵した瞬間だった。
「待って……待って下さい!」
事を見守っていた青年アイシアがセイシェルの後を追いかけようとする。それを見守る叔母ラサーニャが必死で彼を制止した。
「何故です! 何故、兄上は許されないのですか! 兄上はハイブライトにとって必要な存在であるはず! どうして、どうして連れて行くのです!」
「アイシア……お願い、落ち着いて……まだ」
「動乱に身を投じた人は皆いない! いずれ兄上も……どうしてですか! 私は、私は……!」
半狂乱で泣き叫ぶアイシアを咎める術を誰も持っていなかった。彼を宥めながらラサーニャはアルディを見つめ、たった一言だけ彼に伝える。
「あなたには、セイシェルの苦悩が分からなかったのですか?」
血を分けた弟と妹を憎む彼が。その二人に淀みの無い愛情を向けられ、葛藤する彼の心が。少なからず親愛の情を抱く二人を憎む苦しみが、彼にはわからないのか。
「お前たちも、その程度だ」
アルディが低い声で二人を牽制する。
「お前たちも、その程度だ。人は、簡単に人を裏切る。友情など、愛など幻想だ。私がこの国の頂点にいる限り、私に刃向かう者は許されない。万死に値する。そう、誰であろうと」
自分の築き上げた理想郷を守る事の何がいけないのか。アルディは全員に問い質していた。事実、アルディ達がもたらした栄光を自分たちも有り難がっていたではないか。
愛する者も喪い、信じた戦友も失い、確信した全てを奪われた。そう、あの時から自分は決めていたのだ。自分だけの理想を追求する、と。もう、誰も信じる事はしない、と。
今までだって自分の信じる正義を貫いてきた。そう、これからだって。
「下がれ、もう何も言うことはない」
ラサーニャは憂いに満ちた表情を浮かべたまま、アイシアを宥めてその場から立ち去る。
――いったい、何が間違っていたというのだろう?
****
セイシェルが連れて行かれた場所はハイブライト城内の地下牢であった。彼はそこに収容された。彼に対する刑が全く決定されていないが故だった。
そして、ハイブライトの直系が自国を滅ぼそうとしていたという事実をまだ多くの者達が受け入れていないからというのもあった。今や彼は人々を錯乱させる混沌そのものとなっている。
誰も彼に話しかける者は存在しない。セイシェルは孤独を味わっていた。
ただ、彼は昔を思い起こしている。リデル達と笑い会った日々、カイン達と語り合った時間、父の空気感に畏怖する時代、叔母や義弟に近付きたい心境。全て、掛け替えの無い宝だった。
そんな宝を手放して淡々と死への道を歩む自分の愚かさにセイシェルは最早語る言葉を持っていなかった。
どちらにせよ、自分の目の前に在る結末が『死』ならば、今更怒りを叫んだところで無意味だろう。友を喪った悲しみを表すことすら面倒だと、彼はゆっくりと目を閉じる。
意識を手放せば、待っているのは安らぎだけだ。
それでも、かつての自分はまさかこんな場所で死を迎えるとは考えただろうか。そもそも、何も考えずに与えられた幸せを貪っていただけではないだろうか。
(少しは、意味があったのだろうか?)
自分を揺り動かす感情を理解しようとした。理解しなくても恐らく生きていけただろう。それでも、自分は理解しようとした。ならば、きっと意味はあったのだろう。
根底にあった不明瞭な憎悪は、やがて不器用でちっぽけな愛情に変わってしまった事を、ここで彼は漸く認めた。
もう逃げられない。自分は、カインを愛していた。彼が、兄弟であったならどれほど良かっただろうと思っていた。イリアが、自分の妹であったならどれほど愛らしく思っただろう。
きっと、溺愛していただろう。そんな二人を憎むしかない自分の宿命を何度呪っただろう。
愛を知るまで、自分に怖いものなどあっただろうか。悲しみなどあっただろうか。
あの夜、カインを抱きしめた時、自分は実感した。
自分の命が潰えるよりも、カインを喪う事の方がずっと恐ろしく思えた。彼を喪いたくないと思ってしまった。だから、こんな罰が下るのだ。これは、当然の事なのだ。
「……おやすみ」
カインは生きているだろうか。少しは幸せな人生を送っているだろうか。自分はカインを幸せに出来なかった。ならば、優しい誰かがカインを幸せにしてくれるといい。
そう、カインの事は忘れなければ。カインの真っ直ぐな信頼を引き裂いた自分にカインを愛する資格などないはずだ。
湿気臭い空気の中で彼は眠りに落ちた。せめて、夢だけは幸せなものであって欲しいと願いながら。
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次に彼が意識を鮮明にさせたのは視界に仄かな光が差し込んできたからであった。湿気臭い牢屋に光などあるものかと半分不審気味に目を開けたが確かに自分は赤い光に囲まれているのであった。
ゆっくりと身を起こそうとしたところで何者かが自分の身体を支えている感触に気付いた。
「ああ、まだ起き上がってはいけない。苦しいだろうから」
その声に対して彼は少し首を傾げた。声が示す息苦しさはなかったからである。しかし、冷気に身を曝され凍えるような寒さは頻りに訴えていた。
ただ何となく、彼は助けを求めていた。
「ふふ、そんな目をしないでおくれよ。大丈夫、すぐに助けてやるから」
力強い言葉と共に声を発した主はひたすら自分を気遣っていた。
だが、彼はふと我に返る。この声は聞き覚えがあると本能で察したからだ。すると彼を囲む赤い光は徐々に瞬きを激しくしていく。
「ねえ、ずっと考えていたんだ」
声の主は楽しそうな調子で彼に話し続ける。彼は再び焦点の定まらない意識で声を享受していた。どうしても周囲を直視してはいけないという本能からの警告によるものだった。
「お前を見たときから俺は必要とされていたのではないかなって。それなのにお前と来たらいつまで経っても俺の事を認識してくれないから」
確かに全てに既視感のようなものは彼も感じていた。声ですらも。だが、声が何者なのか彼は答える事が出来なかった。
「それもそうだよな。俺には名前が無かった。だから、お前に認識してもらえなかったと。もう、お前を放任する事はやめる。お前では、何にもならない」
その瞬間、八方を囲んでいた赤い光は火花のように激しく散り、悲鳴のような轟音を上げた。不思議なことに痛みはなかったが、何か恐ろしい事に自分は駆り出されるのではないかと不安を覚えた。
赤い光は自分の直ぐ目の前に集まり、やがて一人の人間の姿を照らしていく。
そして、自分の目の前に現れた存在は――自分と瓜二つの男だった。
「やあ、俺の片割れ。長らく待たせたな」
姿を現した男はゆっくりと彼に近付いていく。どうして自分と瓜二つの男が目の前に。淡い不安感は明確な恐怖に変貌し、彼は身を震わせながら男を見上げた。
「俺の名前を覚えていてくれ、セイシェル。俺の名前は『ゼーウェル』だ。お前の成し得なかった事も、俺ならば成せる」
「……待て。一体何を……」
搾り出すような声は女のように儚げで頼りなかった。ゼーウェルと名乗った男は彼の様子を見て微笑んだ。
「安心してくれ。お前は俺に身を委ねたらいい。俺はお前の望みを叶える為に此処にいるのだから。まあ、お前は疑い深いから信じてくれないのも当たり前。まずはお前の信頼を稼がねば」
妖しく笑うゼーウェルを目の前に、彼は反論する術を持っていなかった。そもそも、この世界から出る方法も知らない。ゼーウェルの突き付けた条件に従うほかなかった。
彼は肩を落とし、悲しげな表情でじっと待っていた。なぜこんなに悲しくなるのか彼には皆目見当もつかない。だが、ゼーウェルを見る度に泣きたくなってしまうのだ。
「そんなに悲しまないで……セイシェル」
声を発する事もしないセイシェルをゼーウェルは恍惚として抱きしめた。
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目を開いた彼は何気ない動作で牢獄から飛び出した。そばには見張っていた兵士の死体が転がっている。恐らく彼が話し掛けた事に応じた結果だろう。
牢屋の扉にも血がこびり付いていた。それを避けながら持っていた鍵を解除し、彼はゆったりとした動作で歩き出す。
「ここの兵士は三人……たった三人か」
彼は口元に笑みを浮かべながら懐の銃を取り出す。階段を踏みしめ、入り口を抜けた瞬間に数発、発砲した。
兵士達が異変に気付き、応じようとした瞬間を狙ったものであった。あとは眠る兵士に向かって発砲し、彼は勝利の笑みを浮かべた。
自分を閉じ込めていた監獄はこんなにも脆くて容易いものだったのかと声を上げて笑いたい衝動に陥った。
「何事なの…・・・セイシェル!」
駆けつけたのはアルディの右腕として君臨する光り輝く美しい彼女――ラサーニャの声だった。彼女がセイシェルを心配していることはずっと前から知っていた。
「お久しぶりですね。何と言う表情をされているのです」
返り血にも構わず彼はラサーニャを挑発する。彼女は一瞬呆然としたが、やがて彼女の顔は悲壮感に彩られていく。
「やはり、貴女の目は誤魔化せませんか」
「……お、お前は!」
叫ぶ彼女を牽制するように彼は銃をラサーニャに向ける。後ずさるラサーニャを嘲笑いながら彼は彼女に迫る。
「どうしてそのように怯えるのですか、ラサーニャ。私がそんなに恐ろしいのですか?」
床に広がる赤い水溜りにも構わず彼は楽しそうに笑って彼女を追い詰める。一方の彼女は怯えるような声で彼に問いかけるのみだった。
「どうして、どうしてお前がいるの……どうしてなの……」
彼女は目の前にいる人物の事をよく知っているようだった。そして、今自分が対峙しているのは『セイシェル』で無い事も彼女は瞬時に理解したようであった。
「どうしても何も、私は彼に望まれてここにいるのですよ。彼は――セイシェルは私を望んだ。それに、私が応えた。ただそれだけの事ですよ」
「……セイシェルを、どこへやったの……」
彼の答えに未だラサーニャは納得していなかった。掠れた声で彼にセイシェルの在り処を尋ねる。
「貴女のような方に上辺だけの説明が通じないこと、私は忘れておりました……これは失礼」
会釈をし、顔を上げたと同時に彼は突然発砲した。その弾丸はラサーニャの直ぐ横を掠め、柱に当たる。弾丸は柱の部分に食い込み、割れ目を生み出した。
「これで貴女も理解したでしょう、私の目的を。誰も、誰も私を止めることなど不可能。私は、生まれ変わったのですよ。貴女の知っている『無力な私』ではない」
呆然と見つめる彼女の直ぐ目の前まで彼は近付き、この上なく優しく微笑んだ。その笑みだけを見れば彼女を慕い慈しむ青年そのものであった。だが、彼女はこの笑みが優しいものではない事を知っていた。
彼女に向ける彼の微笑みにはひと欠片の慈悲も見当たらない。ただ、底なしの憎悪だけを彼女に向けているように思えた。
もう、不器用に強請る愛情の飢餓も消えてしまった。自分に向けられる柔らかい優しさも何もかも。自分を支えた希望の多くが死に絶えた。これから彼が見せ付けるであろう絶望を思い、彼女の目から大粒の涙がこぼれる。
誰もが見惚れた美しく冷たい笑みは消えうせた。彼は目を細める。人を魅入らせる彼女の笑みは『昔』から気に食わなかった。だが、今目の前にある涙は何よりも美しい宝のように思えた。それを喉から手が出るほど欲しいとさえ感じた。
「貴女はとても美しい……」
意図せず彼の口から恍惚とした言葉が漏れる。これからもっと彼女はその美しい宝石を自分に恵んでくれるのだろうと思うと心が高鳴る気がした。
「ラサーニャ様、これから私は大都市に行きます。それまでに父を説得して下さいね? 最も、ハイブライトの兵士如きが私を止める事など不可能でしょうが……ここにいた精鋭の惨状を見れば皆、考えを変えるでしょうし」
漸く彼は彼女から離れ、踵を返す。宣言通り彼は目的地へ向かうのだろう。一体、自分に何が出来るのだろうと一人残されたラサーニャは絶望した。絶対的な力を持つ彼にどう対抗するのか。自分は最早無力だった。それでも。
「待ちなさい……ゼーウェル!」
惨状をそのままにラサーニャは忽然と消えた彼『ゼーウェル』の姿を追いかけた。
****
時を溯る。まだ自分達が当主として歩み始める少し前の話だった。まだ若かったラサーニャはアルディに呼ばれ、彼の部屋に入って行った。
その頃の彼は憔悴しきっており、何か意見を言えば激昂するほど危うい状態だった。そんな彼を支えていたのがラサーニャであった。
「お兄様……何でしょう。突然私を呼び出して」
「ふふ、妹の癖にそんな口を利くのか」
笑ったかと思えば威嚇行動。ラサーニャは沈む心情を懸命に押さえながら「いえ、いつもなら事前に仰って下さるから」と訂正したのである。そしてこの訂正は功を成したのか彼の怒りを静めたのであった。
「へえ、意外と真面目なんだね。どうして『ソフィア』にはそんな真面目さがなかったのかな」
「お兄様……」
口を開けば『ソフィア』と呼ぶ彼をラサーニャは寂しそうに見つめていた。ソフィアは彼の全てだった。その柱を失った彼は人間としての人格を手放しかけている。
ラサーニャは悲しみでいっぱいだった。ソフィアを求めるアルディも、アルディを受け入れないソフィアにも彼女は深い悲しみを抱いていた。
「ソフィアは実に素直な人だった。いろんな人を愛する人だった……当然、僕にも彼女は慈悲を与えてくれた。でも、彼女が僕に向けるものは慈悲なんだ。同情なんだ。僕が欲しいものはそんな薄っぺらいものじゃない」
「……お兄様、その話は……」
「シリウスは僕の大事な弟だった。僕を支えてくれる愛すべき兄弟だったのに彼は僕から何もかも奪っていった。当主になる力も何もかも!」
アルディは手元にあるグラスを乱暴に掴み、赤い液体を喉に流し込む。一種の上流貴族の嗜みの証であったその飲み物は彼を通じて見る限り単なる動物の液体のように思えてならなかった。
飲み干しきれなかった液体は彼の口端から流れた。ただ、彼は僅かな理性を残していたのか手元にあった布で口元を拭ったのであった。身に付けている衣装を汚したくなかったのだろう。
この液体を飲んで暫くは彼の表情は穏やかなものだった。何も知らなければ見る者全ての心を洗い流してくれるような清らかさがあったはずだった。しかし、彼の中に潜む黒い存在を知る彼女の悲しみは一層深くなるばかりだった。
「はあ……どうして、彼女は僕に何も残してくれなかったのだろう……少しでも残してくれたら、僕は彼女を赦しただろうに……そう思わないか、ラサーニャ」
この彼の問は単純に彼の願望を口に出しているだけなのだろう。特に深い意味はなかったと思う。だが、彼の願望はラサーニャの心を容赦なく抉った。
彼はソフィアの真の願望を知らないのだ。そもそも彼はソフィアを人間として看做していないのだ。図らずもその事実をラサーニャは改めて思い知った。
「……セイシェルが、いるではありませんか」
そう、彼女が残したほんの僅かな慈悲。その結晶が彼とソフィアの間に成された子『セイシェル』だった。彼女が苦渋の決断をして残した存在では足りないというのか。
「……そうだね、セイシェルがいる……それだけで十分な筈だ……でも、どうしてソフィアは消えてしまったのだろう」
ラサーニャの言葉は何の意味も成さない。そんな事はもうずっと前に理解した筈だった。それを承知で彼女は彼を支えるという使命を選んだ。それなのにまだ自分は悲しくなる。
アルディがもう消えた泡沫を掴もうとする哀れな姿をどうしても受け入れることができなかった。
「……どうしてこんな事になってしまったの……」
彼女の問に答える存在は誰もいなかった。
****
ずっと、意識はあった。ただ、大きな存在に遮られ、身動きがとれない事以外は。
自分を囲んでいた赤い光は男の姿を映し出し、そして何かに包まれたような感触に捉われて、それから。
「……やあ、セイシェル。目が覚めた? ずっと眠っていたんだよ。このまま目覚めなかったらどうしようかと思っていたところだ」
聞き覚えのある声に呼びかけられ、彼は漸く今の状況を把握できた。
「お前は……ゼーウェル?」
「そう、覚えてくれたんだな。とても嬉しいよ」
一つしかない身体に二つの人格が宿った事。セイシェルは漸く思い出した。そして強烈な眠気に襲われて暫く眠ってしまったのである。
「セイシェル、お前を捕らえていた牢獄から出る事ができた。今はな、大都市アエタイトにいるんだよ」
ゼーウェルの話をセイシェルはぼんやりと聞いていた。このまま何の疑問も思い浮かべず、彼の話を聞くところで――彼は急に意識を鮮明にした。
響く爆音。倒れる兵士。地に伏せた肉塊のようなもの。そして、ラサーニャの涙。
「ああ、ああ……なぜこんな事に……!?」
ラサーニャの涙がセイシェルの罪悪感を揺り起こす。
「ゼーウェル、何と言うことを! 私は、私は死すべき存在だった……私は望んで……っ!」
「まだ分からないのか、セイシェル」
錯乱する彼の口を手で塞いでゼーウェルはセイシェルを一喝する。彼の反応が支配者には気に入らなかったようである。
「私は手荒な事をしたくない。セイシェルは私に生きる理由を与えてくれた存在だ。できれば大切にしたい。でも、お前が間違った事をするなら私は力ずくでも止める」
恫喝のような言葉にセイシェルの顔が歪んでいく。どうして彼はここまでして自分を縛り付けるのか。
「分かった? 死に急ぐような言葉を吐くものではない。お前は望まれて生まれた存在。それを否定する連中こそ裁かれなくてはならない。そう思わないか?」
厳しさの後には縋りたくなるような優しさを与える存在をセイシェルは恐ろしく思った。もう、何も言えなかった。
自分の命は彼によって生かされているのだ。自分に拒否権など存在しない。
「任せてくれ、必ずお前は幸せになるから」
力なくぶら下がったセイシェルの手を取って彼は慈悲深い笑みを深めた。
****
彼を通して自分は様々な人を見つめてきた。
彼は本当に冷めた人間だった。正確には何もかも諦めた人間だった。本当は彼の心の中にも希望というものは常に存在していた。しかし、長年の経験で彼は希望を見出すのを諦めてしまった。
愛は所詮幻。彼が生きてきた中で学んだのは悲しい文章だった。自分はそんな彼を哀れみ、心から悲しく思った。
自分の声は彼には届かない。そんな事は分かりきっていた。しかし、自分は彼に語りかけるのを諦めなかった。
なぜなら、本当の彼の表情はこの上なく優しく、愛らしいものだったから。そんな煌いたものを腐らせることができなかった。
そんな自分の切なる願いが届いたのか、彼は少しずつ優しくなっていったような気がする。自分が彼を変えている。これはとても幸せな事実だった。
本当に幸せだった。嬉しかった。何より大切な時間だった。例えようもない達成感が自分を満たしていた。
――しかし、彼の良さを見出した存在が、次々と彼に近付いてくる。自分が何年も掛けて伝えた言葉をたった一瞬で言って見せて、そう、容易く彼に触れる事を成し遂げた。
そして、彼はその存在を『親友』だと位置付け、楽しそうに笑っていた。
どうして、こうも違うのか。隔たれた壁から叫びを上げる事だけが唯一の手段であった自分と、彼。
彼は自由だった。何もかも自由で眩しかった。
芽生えた愛情はやがて憎悪に変わった。確かに自分は彼を愛していた。彼が良い方向へ進む事を願っていた。
けれど、今は彼が自由になっていく事が酷く憎らしく思った。赦せなかった。
彼の幸せのために犠牲になった存在がいる事も認識しない彼がどうしても赦せなくなった。
『あの炎』さえなければ、自分もここにいたのだ。彼の傍らで笑っていられたのに。周りの権威によって自分は炎に呑まれ、存在をかき消された。
今、ここにいるのは憎悪だけだった。この感情だけが自分を繋ぎ止めていた。
そして、決めたのだ。
彼の幸せを遠くから祈るだけの愚かな行為はやめることを。彼に見返りを求める事を心から誓った。
彼が幸せなら、自分も幸せでなければならない。
その為には彼を自らの手で導き、彼と自分の幸せを求めるのだ。
彼に近づくことは誰であろうと許さない。
やがて、彼は目覚めたのであった。
『ゼーウェル』という名前を以って、この世界に舞い戻って来たのだった。
****
目覚めた彼がまず第一にやってきたのは自分の部屋だった。セイシェルが自身の部屋にあまりにも無関心だった事が心配でならないと彼はずっと感じていた。
冷めた人間のように見えて真っ白で純粋で誠実な彼は疑うことを知らない。それもその筈であった。アルディがセイシェルに求めたのは『女神』の役割であったからだ。
そんな彼にはハイブライトの威厳を示す衣装をなかなか与えてくれなかった。最初はそれに憤慨したセイシェルだったがアルディが主張を翻さない事を知ってから諦めたのだった。
そうしているうちにセイシェルにとって自室は鳥籠のような息苦しさを与えるのか、寝る時間になるまで滅多にここにやってくることはなかった。
今、セイシェルは意識を取り戻しているだろう。きっと彼自身は何故ここに近付くのか知らないはずだ。最も、今から自分が何を成すのかも彼は知らないのだろうが。
自然な動作で衣装ケースの、下側に小さく据えられた引き出しを彼は開いた。そこにはやはりあの『女神』が気に入りそうな装飾品が数点収められていた。
彼はそれを避け、やがて小さく折られた紙切れを見つけた。
あの『女神』は幸運にも自分にとって女神であったらしい。勤勉な女神は自分の出来事をよく書き残す癖があった。無論、彼女が去った際に殆ど持っていったのだが何と幸運だろう。
恐らく女神は自分の発した言葉も周りの同調も全て墓場まで持ち込むつもりだったのだろう。何と健気な女神だろう。アルディが崇めるのも無理はなかった。
大都市アエタイトに繰り出すまではこの紙切れは彼にとって必要なものだった。それを大事に懐に仕舞い、用無しとなった衣装ケースを閉めた。
彼の顔に笑みが浮かび上がると同時に、意識下で見つめる彼の顔は恐怖で歪んでいた。
そう、彼は最初の惨劇を見ていないのだろう。いい機会だと思った。
正しい事を成す為には、多少の惨劇は必需品だった。恐らく、彼の親友が全部その惨劇を背負ってくれたのだろう。彼は本当に光だと思った。同時に益々憎らしく思った。
彼に、理解してもらわねばならない。彼の望みを叶えるという事はどういう事なのか。
そして、きっといつか彼は賛同してくれるだろう。
窓から覗く日暮れを背に、彼は足を速めて目的地へと向かった。
****
こんな時間になると人々はもう殆ど自分の家に帰っていたようである。その為容易く、それこそ赤子の手を捻るような単純さで目的地に辿り付いた。
大都市アエタイト。人々の生活の基盤であり、ハイブライトが成し遂げた栄光の象徴だった。争いに曝された大都市だったが広大な土地であるここの全てが崩壊したわけではなかったようだ。
ただ一部分が爛れただけ。生活が潤っている人間は今日も平和に過ごしているのだろう。
生活が潤っている人間の帰宅はいつも夜が更けてから。男の方は甘言でも吐き、女の方は存分に自分の魅力を振り撒いているのだろう。その何時間か後に我が身に起こる悲劇など露ほども知らない。
彼は軽い足取りで台所まで行き、入念に手袋を嵌めて手近なそれを手に取った。多少なりとも腕が立つのは決まって彼等に従属的な者ばかりであった。守られなければ生きていけない存在を手折るのはそれで十分だ。
そんな従属的な存在は屋内の通路と部屋で既に帰らぬ人になっている。ある者は背後から襲撃され、ある者は対面した瞬間に攻撃され、息絶えている。これは一種の彼なりの慈悲であった。
長年従属した存在が別の世界で生きていく事は難しい。そして彼等を囲っている存在はもうじきこの世から抹消されるのだ。せめて、彼等も主人の元へ導くことが慈悲だろうと考えた。
彼は軽やかな足取りで玄関までやってきた。彼等を動かすことは実に容易い。彼等が主人である前にハイブライトに飼われた存在だからだ。アルディの名前を出せば従属する彼等はあっさりと応じ、そしてこの有様。
玄関を開けたのは女の方だった。悲鳴を上げようとする彼女の手を彼は引いて利き手で持っていた「それ」を深く刺し込んだ。
何度も何度も刺し込み、彼女は脱力し崩れ落ちた。それと同時に彼は持っていたものをスッと引き抜いた。衣服にこびりついた赤に彼は怪訝そうな表情を示す。だが、この衣服はどうせすぐに捨てるものだ。事を終えたところでここから衣服を持って行けば良いだろう。
そんな事を考えているとまた玄関の扉が開いた。やる事は同じだったが少し手法を変えた。持っていた「それ」を徐に彼は帰宅した家主に向かって投げつけた。
彼からすれば見えないところから何か降ってくるのだ。その恐怖は計り知れないだろう。そして傍らに転がる死体に悲鳴を上げ始める。錯乱した彼は何か叫んでいた。恐らく助けを呼んでいるのだろう。
昼間であれば誰かが気付いただろうがこんな夜更けに訪ねて来る者はいなかった。暫く錯乱している状態を面白く眺めていたがやがて彼が踵を返して玄関へ戻ってきたのを察してすぐに動いた。
「いかがしましたか!」
「おお、アルディ様の……何者かがこの家を襲撃したのです……ここには何も、何も……」
彼は実に興味深かった。直ぐ傍まで危険が迫っているのに自分の事は露ほども疑っていないのだ。如何に、如何にアルディを盲信しているのか。アルディが一貴族を助けるものか。そんな事実、ハイブライトの内部にいたこの者は知っているはずなのに。
「そうでしたか……それは、可哀想な事だ」
アルディを盲信する彼が、あまりにも可哀想でならなかった。そして、こんな無力な存在が自分の全てを抹消したという事実に怒りを隠せなかった。
懐に忍ばせていた先ほどの「それ」を取り出し、彼が顔を上げて立ち上がった瞬間に思い切り腹部に刺し込んだ。
先ほどの女とは違って一撃で彼は息絶えたようだった。怒りは際限を撤廃するとよく言ったものだ。
もう、ここには誰もいない。誰もここに戻ってくる事はない。
彼は直ぐ近くの部屋に入り、衣服を脱ぎ捨てた。そして血で塗れた衣装をナイフで切り刻んで手近なタンスから衣装を取り出して身に付けた。
ここの家主の命が目的であった。他は彼にとって何の役に立たないものばかりであった。悪趣味だと笑って、彼は堂々と家から飛び出した。
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帰路は往路以上に容易かった。夜の闇が自分の姿を隠し、光は薄らとした月のみであった。しかも今宵は雲に覆われて光すら潰えている。
何の障害もない平地。まるで空を飛んでいるかのような軽やかさで彼はハイブライトに着いた。
彼女はまだ起きているだろうか。彼はそんな事ばかりを考えた。まず第一に彼女に話したかった。
そんな事で、今、自分は彼女の部屋の前に立ってゆっくりと扉を開ける。いきなり開け放つのは情緒に欠けているからだ。
「ラサーニャ様」
ゆっくりした口調で声を掛けると彼女はまたしても目を見開いた。まだ、彼女は希望を捨てていないのだろう。もう、どこにも希望などないのに。彼女の懐かしんだ昔など永遠に戻って来ないのに。
「認めたらどうですか。そうしたら楽になれますよ」
彼にとっては助け舟を出すような提案だった。勿論彼女が首を振って否定するところまで計算した上で。彼女は搾り出すような口調で答える。
「……先ほどトールス家の一部から訃報を聞いたわ……」
思ったよりも情報が伝わるのは早かったようだ。単なる一部に過ぎない存在の死が意外にも影響をもたらすとは。彼は少しだけ感心した。
最も、彼女はそんな事を問題にしているようではなかった。
「これは、私への罰かしら……私が、もっと力があるなら……」
不器用ながら優しい彼はもうどこにもいない。ゆっくりと、しかし確実に育つ筈の存在もどこにもいない。目の前にいるのは変わり果てた彼の姿だった。
徐に彼は彼女を引き寄せて抱きしめた。どうしてこんな衝動に駆られるのか、彼には実は説明できる言葉がなかった。
「……いけない事よ、これは。私は、貴方を認めてはいけないのに、どうして貴方がここに来るのを待っているのかしら……」
「私がもしかすればここでラサーニャ様を殺めるかもしれないのに?」
「……そうね、警戒心が無さ過ぎるわ……でも、今、私を殺めても貴方には何の得もないでしょう……ゼーウェル」
「私を信じてくれているのですか。愚かな事だ」
空いている方の手で彼はラサーニャの首に触れる。確かに脈打つ音が聞こえた。
「安心して下さい。貴女を殺めるときは凶器など使いませんよ。この手で、貴女の生命を摘みたいのですから」
彼女は自分を認知した数少ない存在。そして、人生の中でずっと自分を育ててきた存在。
無論、自分を駆り立てたのは『彼』だったが、彼女からは何もかも与えられたのだ。この感情も力も全て。彼女が自分の源。
アルディは自身が愛でる存在を『女神』だと信仰する。ならば、自分は全てを恵んでくれた彼女を『崇拝』し『支配』したいと渇望する。
やがて彼は彼女をそっと引き離し、背を向けた。
「おやすみなさい、ラサーニャ」
僅かな時間でも鮮やかで美しい思い出に浸って欲しい。何なら彼女が安らぐまで、自分は彼女の傍で歌ってやろうではないか。どんな歌が好みだろう。王道的に愛でもいいのだろうか。
「……おやすみ、ゼーウェル」
彼が自分を痛めつけようとしている事は明確なのに、どうしてその腕を拒めないのか彼女には分からなかった。それでも、彼が見せた一瞬の優しさが希望を諦めさせてくれない。
自身が甘いのだとラサーニャは笑ったが、それでも完全に彼を突き離す事は不可能だった。そう簡単に彼に抱いた愛情を捨て切る事はできない。
「……おやすみ」
最後に呟いた一言は彼に聞こえただろうか。僅かに残された希望に彼女は縋る。どうか、彼が過酷な道を選ぶ事を制止してくれないかと。
夜は徐々に深まっていく。惨劇の後には静寂が残されたのみだった。