これって犯罪ですか?
登場人物
水沼雄大………水沼家当主、今回の事件のトラブルメーカー
水沼由美………雄大の妻
水沼フミ………雄大の母
水沼春馬………雄大と前妻との子
水沼春香………長女
水沼夏希………次女
水沼遼…………夏希の夫
水沼秋奈………三女
堀伸弘…………水沼家の使用人
堀愛子…………伸弘の妻
氷室展…………最近、通販で腹筋を鍛える器具を衝動買いしてしまった素人探偵
滝元和彦………猫カフェに週4ペースで通う氷室の友人
1
柏木爽太がここの交番に赴任してきて、もう半年になる。赴任当初は、慣れないことだらけで、自信を失いかけていたが、ようやく職務を一通りこなせるようになった。今こうして深夜の巡回をしている最中に、今年結婚した妻のことや、ローンを組んで買った車のこと、勤務が終わったら何を食べるかといったプライベートに思いが向かうのは余裕が出てきた証拠だった。またそれは、この辺りの治安の良さのためでもあった。柏木が勤務を始めてから、いくつかの犯罪はあったものの、それらは子供の万引きであったり、公共物に対しての落書きであったり、迷惑駐車といったものだった。柏木はよく先輩から、『昔に比べたら、この辺はずいぶん平和になったもんだ』と聞かされていた。20数年前のいわゆるバブル絶頂期には、バブルの恩恵を受けた成金達が競うようにして、この辺りに住居を構えたらしい。そうなると当然、犯罪者の標的になり、高価な美術品などが盗難に遭い、警察は大忙しということになる。柏木が自転車で通り過ぎた地区もいくつか空き家もあるが、それでも都内の他の場所と比べたら、裕福な連中が住んでいるのは、外観からでも明らかだった。柏木の左前方に見える邸宅も有数の資産家だった。前方に見えると言っても、柏木の身長をはるかに超える白い壁で囲まれていて中はうかがい知ることはできない。なんでも、都内の一等地にビジネスホテルをいくつも持っているらしい。不況の中で、地道に業績を上げていき、今や『水沼ホテル』はビジネスホテルの代名詞になっている。柏木はその創業者の水沼雄大と顔見知りだった。以前、先輩に誘われて水沼家のパーティーに行ったことがあったのだ。柏木は、雄大という人物について、強面の近寄り難い人なんだろうなと想像していたが、会ってみると、いつも笑顔で相手に接する、穏やかな性格だったので、すぐに好感を持った。そんなことを考えながら、水沼家を通り過ぎて、交番に戻るため交差点を曲がる。『今日も何もなさそうだ』軽快に自転車をこぐ。
背後で、『ドサッ』という、物が落ちるような音がした。柏木は急ブレーキをかけて、向きを変え、今来た道を戻った。交差点を曲がると、水沼家の白い壁にもたれるように倒れている人物の姿が目に入った。近づいていくと、薄暗い街灯の下で、その人物のかっこうが見えた。それはあまりにも滑稽で、柏木は初め、仮装パーティーの帰りなのかと思ったほどだった。その人物は唐草模様の風呂敷で何か長方形の薄いものを小脇に抱えていて、顔は、ほっかむりで隠している。そんなかっこうだったから、柏木は犯罪性を感じずに、酔っぱらいに近づくような気持ちで向かっていった。すると、その人物は、柏木が近づいてくるのに気づくと、サッと起き直り、柏木とは反対方向へ走って逃げていこうとした。その行動で、柏木は警察官としての意識が戻り、『待ちなさい』と大声で呼びかけ、自転車を全力でこいだ。ほっかむりの人物は、柏木の呼びかけを無視して、全速力で走っている。道路の突きあたりの丁字路を左に曲がると、そこは行き止まりになっていた。ほっかむりは、素早く左右を確認すると、広い庭がある民家に入っていった。少し遅れて柏木もそこに到着した。民家の向こう側の低い壁によじ登っているのを見つけると、自転車を降りて、走って庭を横切っていった。壁に到着すると、ほっかむりは壁の先の空き地を走りぬけている。壁を身軽に飛び越えて空き地を全力疾走する。学生時代に陸上部だった柏木に追いつかれるのは、時間の問題だった。2人の距離は見る見る縮まっていく。ほっかむりが地面に転がっていた木の枝につまずいて、勢いよく前に倒れ込んだ。脇に抱えている風呂敷の中身が、よほど大事らしく、地面との衝突を避けるため、顔から倒れ込んでいった。そのまま動かなくなってしまった。柏木は逃げられることはないと分かると、歩いて近づいていった。真後ろまで来ると、
「大丈夫ですか?」と警戒しながら声をかけた。
ほっかむりは、柏木の問いかけには応えなかった。
「さっき、水沼さんの家から壁をよじ登って出てきましたよね」
反応はない。ひょっとしたら、気を失っているのだろうか。柏木はゆっくりと、しゃがみ込み、横から顔を覗こうとした。すると、顔を見られたくないのか、柏木とは反対の方向にそむけた。柏木は、意を決してほっかむりを外すことにした。手を触れると、一瞬、ピクッと体が動いたが、観念したのか抵抗はしなかった。顔から布が外されていく。それは男の顔だった。それも柏木が知っている顔だった。ほっかむりの男は、白い壁の邸宅のあるじ水沼雄大だった。
「水沼さんですよね?」柏木は信じられないという思いで言った。
水沼雄大は小さくただ一言、「ああ」とだけ答えた。
2
滝元警部の運転する車は住宅街に入っていった。助手席には、携帯型ゲームに熱中している氷室展が座っている。後部座席には、飲食店の深夜アルバイトで、睡魔におそわれている滝元和彦が座っている。警部は、今日は公休で、ドライブついでに、数日前に起きた妙な事件の現場に氷室を連れて行こうと考えた。
「やったー、グリーンサイクロプスを倒したぞ。いいお宝が期待できるぞ。ちぇっ、1597ゴールドかよ。がっかり」
「氷室さん、聞いてるんですか?」警部は、ちらと横に視線を向けた。
「もちろんです、警部。どうぞ続けて下さい。体力が減ったから、いったん、宿屋で寝てくるか」と言いながら、氷室はゲーム機から視線を離さない。
「ゲームも進化したもんですね。私が子供の頃はインベーダーゲームという単純なものだったんですが、今はオンラインで顔も知らない人といっしょに遊べるっていうんですからねぇ、ところで、事件についてですが」警部は胸ポケットから煙草を取り出して、火をつけた。車はM区の中心地付近にさしかかった。
「今から3日前の5月21日に水沼家で、水沼家当主の長男、水沼春馬34才が、水沼雄大が買い漁った絵画が展示されている通称『安らぎの間』で何者かに背後から鈍器状のもので殴られました。被害者の春馬は右側頭部を殴られ、頭がい骨骨折しましたが、命に別状はありませんでした。ただ」警部は窓を開けた。
「春馬は頭の打ちどころが悪かったのか、事件の前後の記憶がないというんです」
「おりゃー、8連鎖だー、どうだまいったか。ああ失礼しました、警部。すると、春馬という人は、その『安らぎの間』に入ってからの記憶がないんですね」
「覚えてないそうです」
「自分がどうしてそこに入ったかは憶えてるんですか?」
「本人は憶えてないと言ってます」
「そうですか。犯人は、その部屋で絵でも盗んで行ったんですか?おーい、そこで呪文を使うなよ」氷室はゲーム機のボタンを連打している。
「ここがこの事件の変なところで、犯人は展示されている絵には手をつけていなかったんです。つまり何も盗まれていないんです」
氷室は、ようやくゲーム機の電源を切り、顔を上げた。
「それが確かだとすると、犯人の目的は春馬という人を襲うことだけだったということですかね。そうなると、犯行の動機を持つ人物は限られてくるんじゃないですか」
警部は苦々しげに微笑んだ。「それが動機を持っていそうな人物が見当たらないんです。なんと言いますか、水沼春馬は定職に就かず、親の金で海外に一人旅に行ったり、部屋に長期間こもって、ゲームをしたりと、ほとんど他人との交友関係がなかったそうなんです。ですから、春馬に恨みや憎しみを持つ人間がいないんです」
「親が金持ちだと、子供はそうなってしまうんですかね。なんか奇妙な事件ですね」
滝元警部は車を路肩に停めて、カーナビの画面に視線を向けた。ルートを確認すると、車を発進させた。
「奇妙なのは、それだけではないんです。春馬の事件の8日前の5月13日に、柏木という巡査が、深夜2時過ぎに水沼家を囲んでいる壁から何かを持って出ていこうとしていた人間を捕まえたんです。柏木は泥棒に違いないと思ったそうです。ところが、捕まえてみたら、なんと水沼雄大だったんです。彼が持っていた包みには、彼が所有している絵が入れられていました。雄大は顔にほっかむりをしていて、いかにも泥棒という格好だったそうです。これをどう思いますか?」
氷室はポケットから手帳を取り出して、事実をメモしていった。
「自分で所有している絵を盗み出そうとしたわけですね。例えば、絵に盗難保険みたいなものは掛けられていなかったですか?」
「調べてみたところ、保険は掛けてなかったようです」
「そうですか、ではその『泥棒』は本当に水沼雄大だったんですか、うりふたつの双子の兄弟がいるとか」
滝元警部は口元に微笑みを浮かべた。
「それは考えませんでしたが、雄大は一人っ子のようです」
「うーん、彼はまともな人でしたか、たまにいるじゃないですか、いい年して、奇行をする人って」
「私が話した感じでは、いたって常識人です。ただ自分がしたことの理由は話そうとしません」
カーナビが目的地に近いことを知らせた。間もなく、左側に3メートルはあると思われる白い壁が見えた。その脇を通過すると、壁が一段奥まっている箇所があり、そこが水沼家の門だった。警部は車のまま門に入っていった。
3
門をくぐると、だだっ広い日本庭園風の内庭が広がっていた。警部は右に向かう舗装された道を進んでいき、高級外車が並んでいるガレージに車を停めた。車が停まった反動で窓ガラスに頭をぶつけた滝元ジュニアが目を覚ました。
「これはすごい。携帯で写メ撮っとこう」
「いったい何LDKあるんだ?」
3人が正門の正面にある3階建の白で統一された水沼邸に向かって進んでいると、正門の近くにある離れのような建物から、1人の女性が出てきた。
「滝元さん、お待ちしていました、今日は『安らぎの間』を見たいということでしたので、これをお持ち下さい」女性は持っていた鍵束から1つ取り出して、警部に手渡した。女性は警部に鍵を渡すと、離れに戻っていった。『安らぎの間』の鍵はこの1つしかないらしい。警部の話では、今の女性は水沼家の使用人の堀愛子。夫の伸弘とともに二十数年前から、水沼家で働いている。堀愛子は、話し方のイントネーションからすると、どうやら東北の北部、青森か秋田の出身らしい。氷室は少し前に、東北に旅行に行ったので、すぐに分かった。
3人は水沼邸の玄関に着いた。氷室が見たこともない大きな玄関の横にチャイムがあった。警部が鳴らすと、しばらくして扉がゆっくりと開いた。扉の先に、ブランドもののスーツに身を包んだ、堂々とした、たたずまいの男性が立っていた。この人物が水沼雄大であるのは明らかだった。
「やあ、警部、お待ちしてましたぞ。今日は何でも凄腕の探偵を連れてくると家内から聞きました。ところでどこにいるんですかな」雄大は警部の周囲に視線を走らせた。
「こちらです」滝元警部は、氷室の肩に手を乗せながら言った。
雄大は氷室をまじまじと眺めた。
「えっ?警部ご冗談でしょう」
「冗談なんかじゃありません。彼がいくつもの難事件を解決に導いた氷室展君です。隣にいるのは私のせがれです」
雄大は、心なし落胆したようだった。「私はてっきり、もっと年輩の紳士かと思っていたが、まあお入り下さい」
玄関を入ると、そこは広さ10畳以上あると思われる空間になっていて、天井は3階まで吹き抜けになっていた。玄関横には、金持ちが置いていそうな甲冑があり、庶民には、単なる漬物石にしか見えないオブジェが正面に安置されている。その左側に、2階に向かう階段があった。部屋の両側にはドアがあるが、閉じられている。雄大は2階へ3人を案内する。階段を上ったところにある扉を開けると、リビングルームらしい部屋になっていた。そこは広さ20畳以上はあり、備え付けの家具類は、1つのブランドで統一されていた。正面はガラス張りで、氷室達が今通ってきた庭園が一望できる。雄大は窓側にある長いソファーに腰をおろした。
「適当に座ってくれ」雄大が奥に向かって手で何か合図すると、キッチンからお盆を持った女性が出てきた。
「家内の由美だ」雄大にそう紹介された女性は、氷室達に会釈すると、お盆にのっている、お茶をテーブルに並べていった。並べ終えると、雄大の隣に座った。滝元警部は雄大と世間話をした後、
「氷室さん、お願いします」と言って煙草に火をつけた。
「そうですね、ここに来る車中で、警部から事件の概要は聞きましたが、何か参考になる事実が出てくるかもしれないので、水沼さんからもお聞きします。事件が起きたのは5月21日でしたね、何時頃でしたか?」
「夜中の11時15分だ」
「やけに正確ですね」氷室は、雄大の落ち着かない目を見つめながら言った。
「春馬がしていた腕時計が、倒れた拍子に壊れた。それが11時15分で止まっていたんだ」
「なるほど、僕もそんなところだろうと思いました。それから犯行場所の『安らぎの間』ですが、それはどこにあるんですか?」
雄大は人差し指を天井に向けて、「この上にある」と言った。
「後で現場を見させていただきます。春馬さんについてですが、春馬さんは『安らぎの間』で何をしていたんでしょうか?」
雄大はお茶を一口すすった。それほど苦くもないのに、苦そうな表情をした。
「さっぱり見当もつかん。春馬は今まで、あそこに入ったこともないし、絵に興味を持ったこともない」
「春馬さんの所持品で、なくなっているものはありませんでしたか?」
「事件前後の春馬の記憶がないから、なんとも言えんが、たぶんないだろう」
今のところ有力な情報が得られていないが、氷室は矢継ぎ早に質問をしていく。
「ちなみに、倒れている春馬さんを発見したのは誰ですか?」
「堀愛子という、ここで長く働いてくれている女性だ。彼女が『安らぎの間』の隣にある私の長女の部屋にいこうとしたところ、『安らぎの間』のドアが少し開いていたので、入ってみたそうだ。入ってみると、春馬が床に倒れているのを見つけ、頭から血を流していたので、すぐに救急車を呼んだという」
『さっき正面入り口で警部に鍵を渡した人だな』滝元ジュニアは使用人の顔を思い浮かべた。
「堀さんが、倒れている春馬さんを見つけたのは何時頃ですか?」
「夜中の1時過ぎだ」
『春馬が襲われてから約2時間か』
「状況についてはだいたい分かりました。あとはこれも警部から聞いているんですが、犯人は、春馬さんを殴っただけで絵には手をつけていないということですが」
「そうだ、犯人は何も持ち去らなかった」
氷室は、質問している間、この水沼家当主のどこか、そわそわとして落ち着かない様子が気になっていた。隣に座って、黙って聞いている雄大の妻も、夫のそうした様子を気にしている。
「絵に、いたずらをされたとかもなかったですか?」
「ない」雄大はきっぱりと言い切った。
「そうですか、そうするとやはり、犯人の目的は春馬さんを襲うことだったんですかね。それから、5月13日の件ですが」
雄大はその日付を聞くと、体をびくっと震わせた。
「よろしければ、教えてもらえませんか。どうして自分で所有している絵を家から『盗み出した』のか」
雄大は、この質問が発せられることは予期していたのだろう。ゆっくりとソファーから立ち上がり、内庭が一望できる窓の方を向いた。滝元警部も雄大の隣に立った。
「私からもお願いします」
警部がそう言ってから、1分以上の沈黙の後、雄大は一同の方に向き直り、囁き声で話し始めた。
「今から20数年前のバブル景気で、私のビジネスもうまくいっていた頃、成金がよくやっていたように、私も手当たり次第に、国内外の絵画を買い漁っていた。その中には有名なところだと、ピカソの習作なんかもあったな。その後の不況で、いくつか手放したものもあるが、それでも数百点、正確に言うと、233点の絵が今も、ここと私のオフィスにある。それらの中には、展示せずに、保管室に眠っているものがあって、つい最近それらを一つずつ出してみようと思ってな。そうして見ていくと、中には多少、傷んでいるものがあった。それらをまとめて知り合いの修復屋に修復を依頼したんだ」
雄大はソファーに腰をおろした。
「ところで、君らは、柳生清司という画家は知っているだろう。万博なんかにも、作品を出品したことがある有名な画家だ。都内には、彼の個人美術館がある。彼は若い時は、絵が評価されず、だいぶ苦しんだようだ。若い頃は海外の有名な画家、ゴッホやルノワールの作品の模写をした時期もあった。ゴッホとは親交もあったらしい。彼の模写は、本物と区別がつかないほどの出来栄えで、そこそこ評判になったが、やはり自分の画風を確立したいという欲求があったんだろう、いろいろな試行錯誤の末、君達も知っているような表現に行きついた」
滝元は、柳生清司について知っていることを思い出そうとした。たしか、額縁から絵の一部がはみ出して見える奇妙な絵とかアルチンボルドという画家のように、逆さにすると、人間の顔が浮き上がって見えたりするような、あれはトリックアートって言ったっけ。自分はそれほど好きじゃない画家だったな。
雄大は続ける。
「修復を依頼したものの中で、1つだけ作者が不明なものがあった。それは、たまたまある画廊に友人と入った時に見つけたもので、私と友人は、そのなんとも言えない魅力にひかれて、共同で絵を買い、所有することにした。絵は女性とその子供達が、森の木陰でくつろぎ、新緑を楽しんでいるという構図で、女性の子供達を見守る眼差しが、まるで神様が人間を見守っているかのような、慈悲深いものでな。修復作業が終わるのを心待ちにしていた。修復から戻ってきた絵を見ると、右端の辺りに何か文字が書かれているのを見つけてな。すぐに修復屋に問い合わせてみると、おそらく元々書かれていたものだが、誰かが上から色を塗って、隠れていたんだろうということだった。その文字をよく見ると、柳生清司と書かれてあったのだ」
雄大は、柳生清司という言葉を強調して、質問が来るのを待った。誰も質問をしないので、氷室が、
「つまり水沼さんが思っていたより、その絵は価値があったわけですね」と言うと、雄大は笑みを浮かべた。
「柳生の作品という価値だけじゃない。その絵が柳生の作品ということであれば、もっとすごいことになる」
「すごいことって何ですか?」滝元警部が訊いた。
「柳生清司は、生涯で377点の作品を残したと言われている。そのうち、376点は所在が分かっていたが、1つだけ所在不明なものがあった。それは、柳生が死の床で描いたもので、その絵には暗号が隠されているという噂だった。トリックアートの分野を開拓した彼らしい遊び心だな。しかし、彼の死後、その絵は一般の人の目に触れることなく、どこかに消えてしまったらしい。柳生は生前、相当な財産を残したが、身寄りがなく、それらの大部分は、彼の弟子が管理している。その噂では、その暗号を解いた者には、彼の財産の一部が分け与えられるらしい。そして、その不明だった絵が、私と友人が共同で所有していた絵だったのだ」
『画家の財産の一部って、どのくらいなんだろう?何億円とかかな。そしたら、一生遊んで暮らせるじゃないか』滝元は、すっかり眠気が覚めた。
「そして、水沼さんは、その柳生の絵を『盗み出そう』としたんですね?」
雄大の顔に、皮肉な微笑が浮かんだ。
「その絵に暗号が隠されている噂があると言っても、その事を知っているのは、ほんの一握りの連中だけでな。私は、たまたま画家の生涯について個人的に研究するのが趣味だったから、知っていたので、世間一般には知られていない事実だ。私の友人も知らない。それで、なぜ私が絵を盗まれたように見せかけようとしたのか。それは友人が暗号について知らないでいるうちに、それを解いて、柳生の財産の一部を私が独り占めしようとしたからなんだ」
雄大は、隠していたことを話したことで、ほっとしたようだ。
「それで、暗号は解けたんですか?」警部が訊いた。
「いろいろ考えたが、解けていない。描かれている絵に何か隠されているのかもしれないと思って、拡大鏡を使って、細かい部分を調べたり、逆に離れて観察してみたり、ひっくり返してみたりしたが、だめだった。構図に何か秘密がありはしないかとも思った。森のはるか向こうに、大きな山が描かれてあるんだが、その山が実在するものかどうかとか、子供達が手に握っているものに秘密があるかもしれないとか、母親が子供達に差し出している右手に暗号が隠されているのではないかとか、他にも調べたが、構図からは何も出てこなかった。あと私が考えついたのは、絵の裏側に暗号がひそませてあるのかもしれないということだった。それでちょっと調べてもらおうと思ってな。ここではできないから、ある場所で見てもらおうとしたのだ。それも私が絵を『盗み出そうとした』理由の1つだ」
雄大の告白は終わった。しばらく部屋には、時計が針を刻む音だけがしていた。雄大の隣に座っていた雄大の妻は、
「私にも内緒で、そんなことをしていらしたんですか。最近どこか様子がおかしいとは思ってましたけど。その絵の暗号と春馬の事件と何か関係があるんでしょうかねぇ」と誰に質問するでもなく言った。
氷室はメモ帳をポケットに入れながら立ち上がった。
「これから春馬さんが襲われた現場を見に行こうと思います。何か発見があるかもしれません。水沼さん、案内してもらえますか」
雄大は、こくりと頷いて立ち上がった。滝元父子も立って、一同が廊下に通じるドアに向かおうとした時、一同が座っていたソファーの奥の辺りから、何かの声がした。滝元は、その声があまりにもダミ声だったため、猫の鳴き声かと勘違いした。実際には、それは人間の声だった。一同が振り返ると、部屋の奥から、車椅子に乗った老婆が現れた。
「母さん、寝てなきゃだめだよ」雄大は老婆に向かってやさしく話しかけた。
「数は偉大なり。お若いの、数に注目することだ。京の助様もそうおっしゃっておった。ところで由美さん、ご飯はまだかね」
「さっき、食べましたよ。お昼はまだですよ」
雄大は車椅子の老婆のもとに歩いていって、耳もとに何事かささやいた。すると、老婆は車椅子を回転させ、部屋の奥に戻っていった。
「私の母親です。もう89になるんですが、見ての通りです。気にしないでください。さあ行きましょうか」
滝元父子があっけにとられた顔で、雄大の母親を眺めている一方、氷室の眼差しは鋭かった。
4
リビングルームから廊下に出て、すぐ右隣に階段がある。階段を上がり、3階に来ると、そこには廊下をはさんで手前に5部屋、向かいに3部屋の計8部屋あった。雄大は廊下を左に進み、右奥の部屋の前で止まった。
「ここだ」
ドアの前には立ち入り禁止のテープが貼られている。滝元警部が前に出て、そのテープを外していった。
『まるで刑事ドラマみたいだな』滝元はそう思いながら部屋に入っていった。室内は階下のリビングルームよりも、一回り大きく、30畳以上はありそうだった。正面の壁には、雄大のコレクションと思われる絵画が展示されている。部屋の中央付近と左右の壁よりに、4、5人は座れそうな長椅子が置いてある。部屋の左壁には、窓があるが、高い位置にあるため、直射日光は入らないようになっていた。それよりも、氷室と滝元父子が、真っ先に気になったのは、部屋の中に充満しているアロマの香りだった。それが、部屋に独特の雰囲気を醸し出している。雄大は部屋の右側にある長椅子の方に歩いて行った。長椅子は右の壁に向かって置かれている。その椅子の前に、被害者の春馬が倒れていたことを示す人型の白いテープが床に貼られていた。
「ここで、春馬は倒れていた」
春馬は頭を壁の方に向けて倒れていたらしい。それを見ていた滝元は、
「春馬さんは、この椅子に座っていたところを襲われたのかな。確か、背後から殴られたようだけど、そうすると、犯人の利き手が分かるんじゃないか。右側頭部を殴られていたんだから、犯人は右利きか」と氷室に向かって、考えを話す。氷室は白いテープをよく観察してから、滝元の方を向いた。
「確かに右利きという可能性は高いけど、左手に凶器を持って、右から左に向かって、振り下ろせば、似たような傷を負わせることはできるだろう。それに、被害者は事件前後の記憶がないということだから、もしかしたら犯人と正面を向いていたのかもしれない。背後からという警察の見解は、憶測が含まれているんだろう。そうなると、逆に左利きという可能性が高くなる。要は、これだけじゃ、利き手を特定するのは難しいということだね」
「そうか」と残念そうに言った。
「ところで警部、ここの捜索で、何か発見はありましたか?」
滝元警部は、正面の雄大コレクションを眺めていた。
「犯人は邸内をよく知っていたんでしょうか、ここの警報ブザーを、あらかじめ解除していたんです。窓ガラスに異常があった時になるものなんですが」
氷室の目が鋭くなった。
「窓ガラスですか、すると犯人はあの窓から侵入してきたんですか?僕はてっきりドアからとばかり思っていました」
「あの窓から入ってきたんです。犯人は窓を鈍器状のもので壊しました。室内に入った犯人は、そのまま、この長椅子付近までやって来ると、被害者を襲ったんです。それは犯人が残した泥の跡で分かりました。事件の日は、前日まで降っていた雨で、この邸の周りの土はぬかるんでいましたから。ただ室内には、その泥の跡が残っていただけで、靴跡までは分かりませんでした」
「そうですか、ここは3階ですが、犯人はここまで、どうやって登ってきたんですか?」
「さっき私が車を停めたガレージに家庭用の梯子があるんですが、犯人はそれを使って、二階のバルコニーまで登り、そこからロープのようなものを使ってここまで登ったようです」
「なかなかアクロバティックですね」
「犯人は体が利くようですね。あとはこれといった発見はありませんでした」
氷室は、水沼雄大の方を向いた。
「水沼さん、もう一度お聞きしますが、この部屋や邸内で、なくなったものや、いたずらされたものはなかったんですね」
「ないな。春馬を襲ったやつは、ここから邸内には入っておらんからな」
「どうして、そう言い切れます?」
雄大はドアを指差した。
「犯人が残した泥の跡は、ドア付近や廊下には全くなかったから、廊下には出ていないと考えられる」
『犯人がそこで靴を脱いで、廊下に行ったら、話は別だけどな』と滝元は思ったが、こっけいなので、黙っていた。
「なるほど、そうであれば、犯人は邸内には入らなかったんでしょう」
そう言うと、氷室は雄大コレクションの方へ歩いて行った。滝元も後に続く。
「あっ、あれは!」
正面の壁に向かって歩いていた2人は同時に声を発した。壁に13枚ほど展示されている絵の中に、雄大が話していた暗号が隠されているとされる柳生の絵があったのだ。それは左端のかなり高い場所に展示されていた。すぐ左の壁の窓よりも高い位置にある。柳生の絵は、他の絵よりも、縦も横も2倍以上はあると思われる。絵の下にネームプレートがあり、『午後のひと時』と書かれている。
「あれは柳生清司の絵ですね。ずっと、ここにあったんですか?」
雄大は、暗号が解けないからか、柳生の絵をいまいましそうに眺めた。
「あれは、私があの騒動を起こした翌日に、地下の保管室から、ここに持ってきたんだ。あの絵に暗号が隠されていることは、近々皆に話そうとしていたところだったから、しまっておいてもしようがないと思ってな」
氷室の顔は、何かを必死に捕まえようとしているように、あごに力が入っていた。
「翌日というと、春馬さんの事件があった時には、絵はここにあったわけか。犯人は、絵に隠されている暗号の謎を解こうとして、ここに侵入したんだろうか、水沼さん、しつこいようですが、この絵に暗号が隠されていることは、水沼さん以外で知る人はいないんでしょうか?」
「いないな」雄大はきっぱりと言い切った。
「何か文書で暗号について書きとめたりはしていませんか?」
「簡単なメモ書きは書いた覚えはあるが」
「そのメモ書きはどこにありますか?」
雄大は、宙を見上げた。
「どこだったか、たぶん、私の書斎のどこかにあると思うが」
「後で、書斎を調べさせて下さい」
柳生の絵を眺めていた滝元が、雄大の方に向き直った。
「ちょっと、この絵を近くで見たいんですが」
「かまわんが、暗号を見つけようとしているんなら、無駄骨に終わるぞ」
「お願いします」
「わかった」
雄大は、上着の胸ポケットから、携帯電話を取り出して、電話をした。5分ほどで、部屋に、大柄な雄大よりも年上と思われる男が入ってきた。
「堀さん、よろしく」
使用人の堀伸弘と紹介された男は、持ってきた梯子を壁に立てかけ、手際よく絵を外し、一同の前に運んできた。氷室と滝元父子は、それから、しばらく絵に隠されているという暗号を探した。
「だめだ、分からない」滝元が疲れて床に座り込んだ。警部はすでに、あきらめて煙草を吸いに廊下に出ていた。
「戻してもらって結構です」
使用人は、軽々と絵を抱え、梯子に登り、元の場所に戻した。氷室は、その動作を何気なく見ていたが、男が梯子から降りてくると、その近くにある、花瓶がのっている細長い台に向かって歩いていった。台は底部にすき間がある。氷室はそのすき間に手を入れた。手を出した時、手には何かが握られていた。氷室が一同のもとに戻ってくると、それを皆に見せた。それはクリームタイプのスキンケアだった。
「これは、この家のものでしょうか?」
雄大は、眼鏡をかけて、それを手に取った。
「そうだな、見覚えがある」
「誰のものですか?」
「誰のということはない。皆で共有してるものだ。私は使わんが」
「そうですか。警部、これの指紋検査をしてもらえますか、できるだけ速く」
と言って、滝元警部にそれを渡した。
「分かりました」
その後、氷室は部屋の隅々まで調べていったが、収穫はなかった。
「ここはこのくらいでいいでしょう」
廊下に出ると、雄大は用事があるからと言い残して階段を降りて行った。『安らぎの間』の隣の部屋の前に来た氷室は、ドアの正面に立った。
「誰かいるかな」
ノックすると、女性の声で『はい』と返事があった。出てきたのは、三十路手前の女性で、いくぶん警戒ぎみの目で、氷室を見つめている。氷室は自己紹介をしてから、今までの経緯を話した。女性は、雄大の長女で、春香と名乗った。
「少し、お話を訊きたいんですが」
「そういうことでしたら、どうぞお入りください」
氷室が部屋に入ると、滝元父子も後に続く。部屋に入って、まず目に飛び込んできたのは、部屋中に置かれている観葉植物だった。あまりにも多いので、どこに座ったらいいか、迷うほどだった。『ジャングルかよ』と滝元は心の中で、つっこんだ。窓側に、長椅子が置いてあったので、3人はそこに座ることにした。
「それにしても、すごい部屋ですね。お手入れも大変でしょう?」氷室はそれとなく部屋の中を観察しながら言った。
「植物なので、水と日光さえやってれば、かってに育ってくれます。動物を飼うよりも楽ですよ」
しばらく世間話をした後に、氷室は本題に入った。
「ところで、春馬さんが襲われた5月21日の深夜11頃は、どちらにいらしてましたか?」
「ここで眠っていました」記憶をたどるような表情をすることもなく答えた。
「隣の部屋で、何か物音がしたのを聞いたりはしませんでしたか?」
「何も聞きませんでした」
「朝まで一度も目を覚まさなかったんですか?」
「夜中に堀さんが薬を持ってきてくれたので、一度目を覚ましました。頼んでおいたんです」
「そうですか。では、春馬さんのことについて、お訊きします。春馬さんに、うらみを持ったり、憎んでいた人物に心当たりはありませんか?」
氷室がそう尋ねると、雄大の長女は鼻で笑った。
「まったくないですね。父からも聞いたかもしれませんが、春馬はもうずっと引きこもった生活をしてるんです。たまに1人で、海外に旅をしにいったりしますけど、この間もトルコに行って来たようです。でも普段は家にこもっていて社会と接点はありません」
「ネットで、世間とつながってたりはしませんか?」滝元が訊いた。
「さあ、どうでしょうか、ひょっとしたら、やりとりをしてるかもしれません」
「次に、お父さんの件ですが、何か意見はありますか?」
春香は、そこで初めて悩んだような表情になった。
「父はたまに、突拍子もないことをすることがあるんです。私も話を聞いた時は、また父の悪習が始まったと思いました。父はあのように説明したようですけど、本当かどうか分かりません」
「なるほど」
その後も、事件について2、3質問したが、参考になる情報は得られなかった。
「それでは、これで失礼します」
3人が部屋から廊下に出ようとすると、廊下側で、騒々しい物音が聞こえてきた。それから氷室も滝元も見たことがない大型の犬が、開いているドアから、部屋の中に勢いよく入ろうとした。すると、部屋の中から、『きゃっ』という短い叫び声がした。春香の声だった。
「あっちに行きなさい。秋奈、早く連れて行きなさい」部屋の中では、逃げ回るような音がしている。
「わかったよ」3人の前には、いつの間にか、1人の女性が立っていた。秋奈と呼ばれたその女性は、学校帰りなのか、制服姿だった。ただ髪は茶髪で、肩にかけているバッグには、ゲームセンターの景品のようなキーホルダーがじゃらじゃら付いていて、あまり真面目そうには見えない。
「ムック!おいで」
女が部屋に向かって声をかけると、大型の犬は勢いよく部屋から飛び出してきた。
「姉さんの部屋には入らないようにって言ってるじゃない。姉さんも、植物ばっかりじゃなく、動物とも触れあえばいいのにね」と言って、秋奈と呼ばれた女は、犬の頭を撫でた。犬は、3人の部外者に興味を持っているようだ。鼻をクンクンさせながら近寄ろうとしている。
「もしかして、君たちが探偵さん?」
氷室は犬に注意を向けながら、うなずいた。警部は、
「私は警察の者です」と威厳を込めて言った。
「探偵にしては、らしくないな。探偵って、なんか変なひげを生やしてて、山高帽を被ってて、ステッキを持ってるイメージだもん。君たちフツーじゃん」
『どんなイメージを持ってるんだよ、この時代に』(滝元の心の声)
氷室は簡単に自己紹介した。
「ふーん、まあせいぜい頑張ってね。春馬兄さんは、かわいそうだけど、運が悪かったのかな」秋奈は、感情を込めずに言った。大型の犬は、階下で物音がすると、また駆け出していった。
「じゃあ、またね」秋奈も階段を降りて行った。
「それにしても、でかい犬だったな。春香さんの部屋の観葉植物といい、あんな大きな犬といい、金持ちはやっぱり違うなあ」
「今の秋奈って娘、君のタイプじゃないか、童顔で、目がおっきくて」
「嫌いじゃないな」
滝元警部が前に出てきて、
「これからどうします?氷室君」と本題に戻した。
「そうですね、僕も、犯人と同じように…」と氷室が言いかけたところで、今度は、誰かが階段を上ってくる音が聞こえた。水沼雄大と妻の由美だった。
「だから、たまたま置いておいただけで、いつもそうしてるわけじゃない」
雄大は、3人に気づいた。
「どうかしましたか?」滝元警部が、雄大の口調から何事かを嗅ぎ取って質問した。
「それがな、二階にある私の書斎から、現金で13万円盗まれてな」雄大は、廊下を右奥に進みながら話した。
「それはいつですか?」
「それが、はっきりしないんだ。その金は、へそくりみたいなものだったからな。でも盗まれたのは、春馬の事件よりも後であるのは確かだ。あの時に、一度、盗まれたものはなかったか家中調べたからな」雄大は廊下の突き当たりまで来ると、右側にあるドアを開けた。雄大がドアを開けた瞬間に何か、小さいものが、ドアから勢いよく飛び出し、一同の足元をすり抜けていった。
「こら、チビ!こっちに来なさい」
小さいものは、雄大に声をかけられると、くるりと向きを変え、雄大のいる方に向かって歩いてきた。それから、滝元の近くまで来ると、顔を見上げて、首をかしげた後、足に絡みついてきた。
「わあ、何ですかこれは」
「ははは、これは私が飼っているリスザルだ」
雄大はそう言って、滝元の足に絡みついている生き物を抱きかかえた。雄大に抱かれると、その生き物はおとなしくなった。
「いろいろな動物を飼っていらっしゃいますね」滝元はズボンの汚れを気にしながら言った。
「この中には、まだまだいるぞ」雄大は書斎に入っていった。氷室たちも続く。
中は書斎というだけあって、他の部屋よりもすっきりと片付いている。本棚や仕事用のデスク、パソコンにプリンター、書類を収納するケース、大型のテレビがある。それだけではなく、窓際には鳥かごがあり、中にはセキセイインコが3匹いるし、ドアのすぐ左のテーブルの上には、小さなケースがあり、その中には亀がいる。雄大のデスクの椅子には、猫が長くなって寝ているし、右隅にある水槽には、色鮮やかな熱帯魚が泳いでいる。
「私の道楽でな。他にもいっぱいいるんだが、堀さんのところに預けてある」
『今度は動物園か』(滝元の心の声)
3人は警戒しながら、部屋に入っていく。リスザルは雄大から離れた。雄大はデスクの横に整然と並べられている収納ケースの1つを前に出した。それは縦、横約20センチ、高さ約30センチほどで、5段の引き出しになっている。
「この中に入れておいたんだ」雄大はそう言って、真ん中の引き出しを開けた。今は引き出しには何も入っていなかった。
「他にもへそくりがあるんじゃないでしょうね?」雄大の妻は残りの収納ケースを調べている。
「へそくりはもうない」
氷室が前に進み出た。
「ちょっといいですか」
氷室はそう言うと、引き出しを下から調べていった。一番下には雄大のものと思われる指輪やネクタイを留めるピン、どこの国のものか分からない硬貨などがあった。下から2番目にはメモ帳の切れ端がいくつか置いてある。その一番上に柳生の絵についてというメモ書きがされている紙切れがあった。氷室はそれを取り出した。
「ああ、それだよ、私があの絵の暗号について書き留めていたのは」
氷室はメモ書きを読んだ。それには、雄大が『安らぎの間』で話したことが書かれていた。
「このメモ書きは誰にも見せてないんですね?」
「見せていない」雄大は断言した。
氷室は紙切れを元の場所に戻した。それから上から2番目の引き出しを開けた。そこにはレストランやコンビニのレシートが乱雑に入れられていた。氷室がパラパラと見ると、雄大はどうやらコンビニの中華まんが好きらしい。1番上の引き出しには家族や友人と撮ったと思われる写真が何枚も入っていた。氷室は引き出しを閉めながら雄大の方に向き直った。
「13万円は真ん中の引き出しに入れていたそうですが、いつもここにお金を入れていたんですか?」
雄大は背後にいる妻の視線を感じながら、
「いや」と言ったが、聞き取れないくらいの声だった。
「今までにも、お金がなくなることはありましたか?」
「ないな」
「この書斎のドアは普段、鍵はしているんでしょうか?」
「鍵はしたことがない」
「それじゃ、誰でも出入り自由ってわけですね」
「そうだな。13万を盗んだやつは、ここに何度も来ていたに違いない。他のものには目もくれず、この収納ケースだけ荒らしていったからな」
氷室の口もとに力が入った。何かを考えているサインだ。
「ちなみに、水沼さんが見つけた時、このケースはどういう状態でしたか?」
雄大はケースの1番下と下から2番目と真ん中の引き出しを目一杯開けた。
「こうなっていた」
「なるほど、分かりました。滝元君、何か質問はある?」
「特にはないな、早くここを出たい。あの猿がずっとこっちを見てるんだ」
滝元がリスザルに視線を向けると、リスザルは遊んでもらえるものと思ったのか、滝元の方に近寄ってきた。
「また来たー」
滝元は廊下に逃げ出した。
「チビは彼が気に入ったようだな」
「水沼さん、お邪魔しました。また明日おうかがいしたいんですが、よろしいでしょうか」
「それは構わんが、何か分かったのかね?」
「いろいろ分かりましたが、かんじんの暗号がさっぱりで。明日、もう一度トライしてみようと思います」
5
翌日の10時15分には、氷室と滝元は、水沼邸の高級車が何台も停まっているガレージにいた。氷室はガレージにある梯子を、高級車に注意しながら、外に運び出した。その梯子を、庭園を通り抜けて、水沼邸の1階にあるゲストルームのテラス近くに持って行った。ゲストルームの上は、昨日、雄大の話を聞いた部屋があり、その上には『安らぎの間』がある。梯子の高さは、2階までしかなく、『安らぎの間』がある3階に行くには、2階のリビングルームのバルコニーの手すりを登って3階の窓枠にしがみつくしかない。
「それじゃ、これから、春馬さんを襲った犯人と同じように、梯子を使って『安らぎの間』に入ってみる」
「気を付けて」滝元は、ここに来る途中で、なぜこんなことをするのか、氷室に尋ねたが、氷室は『やってみないと、なんとも言えない』と言葉を濁すだけだった。氷室は梯子を壁に立てかけた。氷室が一段ずつ慎重に昇っていくのを、滝元は梯子を支えながら見守る。氷室は2階のバルコニーにたどり着いた。
「ここからが大変だな」
氷室はそこから周囲を観察してから、手すりに足を載せて、開いている窓に手を伸ばした。そのまま、腕の力で体を持ち上げていく。なんとか、窓枠に足を載せることができた。氷室がそのままの状態で、しばらくいたので、滝元が下から、
「何か見つかったのか?」と声をかけた。氷室は応えない。滝元がもう一度、呼びかけた。
「たっ滝元君、助けてくれ、僕は高所恐怖症だったんだ」
「はっ?」
それから、滝元は、昨日会った堀さんを呼びに行った。水沼家の使用人は、梯子を『安らぎの間』に持っていき、窓がある壁に立てかけ、氷室を救出した。梯子から降りてきた氷室は、しばらく深呼吸をして、その場に座り込んでいたが、滝元たちの方を向くと、
「絵の暗号を見つけたよ」と言った。
「見つけた?」
「君は高いところは平気だったっけ?」
「大丈夫だけど」
「じゃあ、ここから梯子を登って、僕がいた窓から絵を眺めてみてくれ」
滝元は言われた通り、梯子を登り、窓枠に立った。
「そしたら、そこから『午後のひと時』を眺めてごらん」
滝元は足元に気をつけながら、正面の壁にかけられている絵を見た。
「見てるけど、変わったものはないな」
「もっと壁に沿って見るんだよ」
滝元は壁に接近してもう一度、絵を観察した。
「あっ!これは」
滝元が梯子を降りてくると、
「何があった?」と氷室が聞く。
「なんか、数字の列があった。確か、0、1,1,2,3,5,8,13,21,34,55だったような」
「そうだね」
その数字は絵の中に描かれている、うっそうと茂った森の一部に現れていた。左から順番に0,1,1、2,3…と右端まで続いている。
「でも、おかしいな。昨日調べた時は、全然こんな数字なんて気づかなかった」
「そりゃ、そうさ。あれらの数字は、あの角度から絵を眺めないと、見えないんだ。確か、専門的にはアナモルフォーズと言うらしい。一定の規則で、ゆがませた絵をある方向から見ると、正しい形になるっていうものだ。『午後のひと時』の絵も、あの奇妙に斜めに描かれている森が、アナモルフォーズってわけさ」
氷室と滝元が話していると、『安らぎの間』のドアが開き、水沼雄大の長女、春香が現れた。春香は、壁に立てかけられている梯子を見ると、
「何かあったんですか?部屋にいたら、隣で物音がしたものですから」と部屋の中に視線を走らせながら尋ねた。
「何でもありません、昨日の捜査の続きをしてました」
「それで、何か発見がありました?」
「これといったものはありません。ところで、お聞きしたいことがあるんですが」と言って、氷室は昨日、この部屋の床で見つけたスキンケアについて聞いた。
「そうですか、ではそのスキンケアはこの邸のもので、普段は1階にあるキッチンの流しの引き出しに閉まってあるんですね。ちなみに、そこにスキンケアがあることは皆さん、知っているんでしょうか?」
春香は、ちょっと考えてから、
「どうでしょうか、そこで料理をする人は知ってるんでしょうけど」と言った。
「誰が料理をしますか?」
「女の人なら皆します。皆、料理が好きなんです。私の得意料理は和食で、妹の夏希はイタリアに留学していたことがあって、イタリア料理を作らせたら、その辺のシェフも顔負けですわ。それから…」
氷室たちが春香と世間話をした後、『安らぎの間』を出ようと、ドアを開けて廊下に出ると、春香の部屋の右隣の部屋の前に、若い男女の姿があった。男女は、何事かを真剣に話し合っているようだ。氷室たちが向かってくるのに気づくと、話を中断して、
「もしかして、君たちが春馬の事件を捜査してる『探偵』さん?」と声をかけてきた。
「はい」氷室は簡単に自己紹介をした。女性も氷室たちに自己紹介した。女性は水沼夏希。水沼雄大の次女で、高校で数学の教師をしている。年齢は、滝元の得意の年齢当てによると、だいたい30手前くらい。話すスピードが速く、聞いている人に、せっかちな印象を与える。スーツを着ているから、これから外出するのかもしれない。男性の方は水沼遼。夏希の夫で、高校で化学を教えている。
「じゃあ、君たちに捜してもらおうかな」
「何かなくしたんですか?」
「それがね、私の部屋から数学の本がなくなったの」
「数学の本?」氷室は意外なものだと思いながら言った。
「正確に言うと、数列に関する本なんだけど、授業で使おうと思って本棚を捜したらなくなってるの」
「いつ気づいたんですか?」
「ちょっと前よ。春馬のことがあって、5月21日に、父さんから何か盗まれているものはないか、自分の持ち物を調べるように言われたの。その時には、ちゃんとあったの。だから21日以降に盗まれたのよ」
「本の他に、盗まれたものは?」
「本だけよ」
「まったく、数学の本を盗むなんて、変わったやつだな」夏希の夫が独り言のようにつぶやいた。氷室は、事件について尋ねたが、新しい情報は得られなかった。
「じゃあ、私たちは外出するから。がんばってね、探偵さん」2人は階段を降りて行った。氷室は、その場に立ったまま、何事かを考えている。
「本がなくなったことを考えてるのか?」滝元の問いかけにも、ただ『うーん』と言うだけで、廊下を行ったり、来たりしている。やがて、
「ひょっとしたら、そうかもしれない。そうすると犯人は…」
「分かったのか?」
「滝元君、君の携帯はネットにつながるよな、ちょっと調べてほしいんだけど」
「何を?」
「柳生清司のプロフィールさ。それと水沼さんに、春馬さんが襲われた5月21日のここの住人のアリバイを聞いてきてほしい。僕は警部に聞きたいことがあるから電話してくる。頼んだよ」氷室はそう言うと、階段を駆け下りていった。
それから十数分後、2人は合流した。
「どうだった?」
「柳生のプロフィールは1855年、5月3日、岡山県生まれ。3人兄弟の末っ子。2人の兄は銀行員と寿司職人だったらしい。父清作は漁師。母キミは農家の娘。1910年1月21日没。享年55才。中学卒業後、17才の時に絵を勉強するため、フランスに留学。美術学校で学ぶ。20才で帰国後、本格的に絵の制作に取り組む。有名画家の模写をしていた20代前半は、ほとんど絵も売れず、極貧生活だったが、独自の技法を確立すると、少しずつ注目を集めるようになる。28才の時に結婚。2男、1女をもうける」
まだ続くようだったが、氷室は、
「そのくらいでいいよ、それからアリバイの方は?」
滝元は、せっかく調べたのにと思いながら、
「5月21日は、水沼由美さんが、学生時代の同級生と会うために外出していて、その日は同級生の家に泊まっていたということだ。邸内の他の家族は皆、ここにいたようだ」
氷室は、それを聞くと満足した表情を浮かべた。
「それで、君の方は親父に何を聞いたんだ?」
「水沼さんが、柳生清司の個人美術館があるって言ってたろ。そこで5月21日以降、不審なことが起きていないかどうか聞いたんだ」
「どういうこと?」
「僕の推理が正しければ、春馬さんを襲った犯人がそこに現れるはずなんだが、警部の話によると、まだ何も起きていないようだ」
「説明してもらわないと分からないな」
「説明は実際に犯人が現れたらするよ。まだ何も起きてないとすると、これから起こるかもしれない。というわけで、そこに行って張り込むとしようか」
水沼邸を出てから、1時間後に素人探偵とその助手は、東京駅から歩いて十数分のところにある、ビルの前に立っていた。そのビルの8階とその上の階が、柳生清司の個人美術館になっている。他の階は企業が入っていたり、ファーストフード店や雑貨屋が入っている。氷室と滝元はエレベーターに乗り、8階へ向かった。エレベーターのドアが開くと、目の前に大きな両開きのドアがあり、それが美術館の入口のようだ。入口はそのドアしかないらしい。
「よし、ここで張り込むとしよう」氷室は、来る途中にコンビニで買ってきたパンと牛乳を袋から取り出した。滝元にも同じものを渡した。
「昔の刑事ドラマかよ。ところで、張り込むって言っても、犯人の顔が分からないんじゃないの?」
氷室は、パンをむさぼりながら、
「まあ、僕にまかせてくれ」と言った後は、ひたすら入口に視線を向けている。2人はエレベーターの横にある階段の陰に身を隠して、美術館に出入りする人間をチェックしていく。そうやって3時間近く経ち、閉館時間が迫ってきた。その間に、不審な人間は現れなかった。
「とうとう現れなかったな」と言って、滝元が立ち上がり、帰ろうとすると、氷室が腕をつかんで押し戻した。
「帰るのはまだ早い。犯人が現れる可能性があるのは、これからだよ」
「だって、もう閉まっちゃうじゃないか」
「犯人にとってはその方が都合がいいんだよ。人の目を気にする必要がないからね」
滝元は、がっかりしながら氷室の隣に座り込んだ。
動きがあったのは、それから5時間後のことだった。8階のエレベーターのドアが開き、清掃業者が4人現れた。どうやら床の掃除をするらしい。業者たちは清掃道具を室内に運び入れている。1時間ほどで、作業は終了し、入口から出てくる。彼らはそこで立ち話をした後、エレベーターに乗っていった。
「あれ、1人足りなくないか」滝元がささやいて、入口へ向かおうとするのを、氷室は止めた。3人の業者が帰ってから10分後に、ドア付近に人影が現れた。その人影は顔にマスクとサングラス、上着のフードを被っているので、人相が分からない。脇に何か平らなものを持っている。その人物が、入口で辺りをうかがい、エレベーターに乗ろうとするところを、氷室が走っていき、
「ちょっと、待ってください」と声をかけた。
声をかけられたその人物は、体をびくっと震わせると、階段の方に逃げていこうとした。階段の陰から滝元が出てきて、2人にはさまれると、あきらめたのか、その場に座り込んだ。氷室がゆっくりと近づいていき、声をかけた。
「水沼秋奈さんですね」
その人物は、やや間をおいてから、ふてくされるような声で、
「そうだよ」と言った。
6
翌日、氷室と滝元は、水沼邸のリビングルームにいた。そこには水沼邸の住人が集まっている。氷室は、あれから警察に通報し、水沼家の三女、秋奈は美術品窃盗の容疑で現行犯逮捕された。秋奈は動機などについて、一切話そうとしないということだった。それで、氷室が説明するために呼ばれたのだ。一同が集まると、氷室が席を立って、口を開いた。
「この事件は、僕にとっていろいろと興味深いものでした。それは、犯人の目的がなんだったのか、それがなかなか分からなかったからです。その説明の前に、春馬さんが襲われた事件以降にあった2つの盗難について、考えてみましょう。1つは、水沼さんの書斎から現金で13万円がなくなりました。その13万円は、収納ケースに入れてありました。水沼さんの話によると、収納ケースは1番下と下から2番目と真ん中の引き出しが目一杯開けられていたそうです。そして、収納ケース以外はどこも荒らされていなかった。そうですね」
雄大は大きくうなずいた。
「ここから分かることは、13万円を持ち出した人物は、金が収納ケースにあることは知っていた。それで、そのケースを下から、引き出して調べていった。もし、上から調べていったとしたら、いちいちケースを戻さないと、その下のケースを調べることができないですから。その場合には、水沼さんが発見したような状態にはならないでしょう。ところで、1番下には、指輪などの小物が入っていて、ここからは何もなくなってはいませんでした。下から2番目には、柳生の絵にある暗号について記したメモ書きがあり、真ん中には13万円が入れられていた。そうすると、その人物は、メモ書きを見つけ、『午後のひと時』に暗号が隠されていることを知り、また目的の13万円も見つけて、それで満足した。もし、金を盗むことが目的ではなければ、その上のケースも調べるだろうし、他のところも荒らされているはずです」
「それで、それは誰なんだ?」雄大がじれったそうに訊いた。
「誰なのかは、話が進むにつれて明らかになります。また夏希さんの部屋から数学の本がなくなっていることが分かりました。これらの一見、無関係に見える盗難が、実は春馬さんの事件と関係していたんです。話を春馬さんの事件に戻しますと、この犯人が『安らぎの間』に侵入した目的は、春馬さんを襲うことではなかったのは、春馬さんの最近の生活を考えると、明らかでしょう。春馬さんは、家族も含めて、他人とのつきあいがほとんどなかったそうですから、彼に恨みや憎しみを持つ人間もいないだろう。だから春馬さんがあの部屋で襲われたのは偶然に違いない。たまたま部屋にいたところを犯人とはちあわせて、犯行に遭ってしまったんです」
「でも、どうして春馬は『安らぎの間』なんかにいたのかしら?」雄大の妻が言った。
「それは本人に聞かないと分かりませんが、たぶん、水沼さんが『午後のひと時』を邸内から持ち出したんで、興味を持ったのかもしれません。いずれにしろ、春馬さんを襲うことが目的ではなかった。また盗難目的でもなかった。『安らぎの間』にある絵は1つもなくなったり、傷つけられたりしたものはなかったし、犯人はドアから廊下に出ることはなかった。実際、邸内で盗難されたものはなかった。そうすると、わざわざ窓から侵入するという危険を冒してまで、犯人が部屋に入った目的は、『午後のひと時』に隠されている暗号を見つけ出すことだったに違いないんです」
「ちょっと待ってくれ。もし、絵の暗号を捜すことであれば、危険な思いをして窓から来なくても、普通にドアから入ってくればいいじゃないか」夏希の夫が疑問を口にした。
「犯人は当然そう考えたでしょうが、犯人にしてみれば、暗号を捜すのは、ひそかに行いたかった。ドアから入るには、堀愛子さんが持っている鍵を借りなければならない。そこから話が広がってしまうことを恐れたんでしょう。犯人の目的が暗号捜しだとすると、暗号について知っているのは誰でしょうか?ここで、さっきの水沼さんの部屋の盗難事件を思い出して下さい。水沼さんによると、『午後のひと時』に暗号が隠されていることは、水沼さんを含めて、ごく少数の人間しか知らなかった。つまり、一般の人が知ろうとすれば、水沼さんの書いたメモを読むしかない。13万円を盗んだ犯人は、そのメモを読んでいる。したがって、『安らぎの間』に侵入して、春馬さんを襲った人物と13万円を盗んだ人物は同一人物です」氷室は椅子から立ち上がって、内庭を一望できる窓の方を向いた。
「同じ人物だとなると、どうなるのかね?」雄大が訊いた。
氷室は内庭から、一同の方に向き直った。
「おかしいじゃないですか、その人物は、春馬さんを襲った時は、ここにある金目のものには全く興味を示していないのに、13万円を盗むために、水沼さんの部屋に入っている。実は、これはきちんと説明がつくんです」
「ちょっといいかな」長女の夏希だった。
「さっきから聞いてると、なんかこの家の住人が犯人みたいな感じで話しているみたいだけど」
「それをさきに話しておくべきでした。僕は、犯人はこの邸の誰かだと、かなり早い段階から思っていました。まず、犯人が窓から侵入したことですが、犯人がなぜそうしたのか、これは外部の者の犯行と思わせようとしたというのもあるんでしょうが、最大の理由は、あの部屋に入るには、堀さんが持っている鍵を手に入れなければならないということでしょう。また、犯人が事前に警報ブザーを切っていたこと。これは外部の人間では、なかなか難しい。それに窓から侵入するのに梯子を使ってますが、それは、この邸のものだったこと。それと、13万円がどこにあるか知っていたこと。これらを合わせて考えると、犯人はこの邸の住人とみて間違いないと思っていました」
「暗号は何だったんだ?私はそれが一番聞きたいんだ」雄大が子供のような声で言った。
「絵に隠されていた暗号は、アナモルフォーズという、ある規則に従って歪ませた絵を、ある方向から見ると、正しい形になるというもので、『午後のひと時』で言えば、絵を左下から、かなり真横に近い状態で眺めると、描かれている森の一部に数字の列が現れるんです。僕たちが初日に、絵を外して観察した時は、その角度から見なかったので、見えなかったんです。トリックアートを開拓した画家らしいものじゃないですか。その数字の列は、左から、0,1,1,2,3,5,8,13,21,34,55,89、144となっていました」
「それはフィボナッチ数列ですね」数学教師の夏希だった。
「そうです。この数字の列は、前の2つの数字を足したものが、次の数字になっている、そういう数列です。0と1を足して1。1と1を足して2。1と2を足して3。2と3を足して5というふうに続いていきます。では、柳生清司は、フィボナッチ数列を暗号にして何を示したかったんでしょう。それで、柳生のプロフィールを調べてみたところ、彼は学生時代に数学の専門的な教育は受けていないし、彼の身内でもそういう人物はいないことが分かりました。そうであれば、柳生はフィボナッチ数列に関しては、僕たちと同じ程度の認識しかなかったはずです。ところで、フィボナッチ数列と聞いて皆さんは何を思い浮かべるでしょう?」
「まず、そんなのがあることが初耳だ」堀伸弘が答えた。
「そうでしょうね。数学の易しめの読み物なんかでは、フィボナッチ数列は自然界に現れる数字として、よく紹介されるんです。多いのは、ひまわりの種の数をらせん状に数えていくと、フィボナッチ数列が現れるというものです。おそらく柳生も、フィボナッチ数列で、ひまわりを示したかったに違いない。柳生の周囲で、何かひまわりに関したものがあったか?ありました。彼が若い時に描いたとされるゴッホのひまわりの模写です」
「模写というと、秋奈が盗もうとしたあれか?じゃあ、秋奈が春馬をやったのか?」雄大が声を荒げた。
「その通りです。柳生は暗号で、自分が描いたひまわりを示し、春馬さんは、秋奈さんに襲われました」
「柳生清司の描いたひまわりは、それは価値があるかもしれないけれど、本物じゃないからねえ」雄大の妻がつぶやいた。
「あれが、ゴッホが描いたものだとしたらどうでしょう?」
「えっ?」一同は声をそろえた。
「これは推測ですが、柳生が自分の財産の一部を与えるというほどの価値のあるものとして、『ひまわり』を示したんであれば、それはとても価値のあるものでしょう。展示されていた『ひまわり』は本物かもしれません」
氷室がそう言うと、雄大は、
「すぐ調べさせる」と言って、携帯を取り出し、誰かと話し出した。雄大以外の水沼家の住人は、絵の暗号よりも、家族の中に犯人がいたことの方にショックを受けているようだ。
「秋奈があんなことをしたなんて信じられない」次女の夏希が涙声で言った。
雄大が携帯で話し終えるのを待って、氷室が口を開いた。
「僕は、柳生清司の美術館に秋奈さんが現れる前から、5月21日の事件の犯人は、彼女だと推理していました」
「本当かね?」雄大は携帯をしまいながら言った。
「それでは、消去法を使って、犯人が秋奈さんであることを示してみましょう。まず、犯人がこの邸の住人であるのは、さっき話した通りです。まず1つ目の条件は、犯人は女性であるということです。これは『安らぎの間』の床に落ちていたクリームタイプのスキンケアから出てきたものです。このスキンケアは普段、キッチンの引き出しにしまってあり、それを知っているのはキッチンで料理をする女性だけだということでした。そうであれば、それを持ち出すことができるのも女性だけということになります。犯人は、事件の日、窓から入ってきた時にそれを落としたのでしょう。というわけで、男性である水沼さんと水沼遼さんと堀伸弘さんは除外されます」
雄大は、自分を疑っていたのかという苦い表情をしたが、氷室は続ける。
「それから、犯人は窓から梯子を使って、『安らぎの間』に入ってきていますから、梯子を登ることができない水沼さんのお母さんは除外されます」
部屋の奥から、何か声のようなものがしたが、氷室は続ける。
「3つ目の条件は、事件の日にアリバイがないことです。水沼さんの奥さんは唯一アリバイがあるので除外されます」
「まあ!」雄大の妻が叫んだが、氷室は続ける。
「4つ目の条件は、犯人は水沼さんの部屋に入って13万円を盗んでいますが、あの部屋には動物がたくさんいて、とても動物嫌いには耐えられないところでしょう。というわけで、動物よりも植物が好きな春香さんは除外されます」
「もちろんよ」と春香が言うのを聞いて、氷室は続ける。
「5つ目の条件は、犯人が暗号として数字の列を発見したが、その数字の並びが何を意味するかを知らなかったために、夏希さんの部屋から数列の本を盗み出したことで、犯人には、フィボナッチ数列の知識がなかったことが分かります。数学教師をされている夏希さんは当然知っているでしょうから、除外されます」
「自分の本を盗んだりしません」と夏希は言った。氷室は続ける。
「6つ目の条件は、犯人が部屋の鍵を使えなかったことで、鍵を持っている堀愛子さんは除外されます」
「私が、春馬君を襲うはずがねえ」
「というわけで、残ったのは秋奈さんでした」
後日、それまで黙秘を貫いていた秋奈が重い口を開いた。父、雄大に話した内容は、氷室の推理通りだった。動機は金だった。雄大がなぜそんなに金が必要だったのか訊いたところ、『彼氏のため』とだけ答えた。父はそれ以上訊かなかった。また柳生の『ひまわり』は専門家の鑑定の結果、ゴッホが描いたものであるのが判明した。その『ひまわり』のネームプレートを取り外すと、そこに柳生のメッセージが隠されていた。真相を探り当てた者には、この『ひまわり』を授けると。雄大は、氷室と相談して、そのままにしておくことに決めた。雄大は帰り際につぶやいた。
「独り占めするもんじゃない」
ありがとうございました