プロローグ
俺は人間という種族の雄らしい。
それを知ったのは二年ほど前、八歳になってからのことだった。なんで俺の背中にはいつまでたっても翼が生えないのかなーって聞いたら、魔王のじっちゃんが教えてくれたのだ。
俺は今、魔王城というところに住んでいる。
その名の通り魔王のじっちゃんが治めている巨大な城で、人間は俺以外には誰一人として住んでいない。代わりに背中に黒い翼の生えた魔族や、その他多種多様な魔物たちが城の住民として暮らしている。皆それぞれに強大な力を持った存在だが、気のいい連中だ。今から思えば人間の俺が珍しいだけかもしれないが、しょっちゅう構ってくれる。
どうして俺がこんな城に住んでいるのかというと、簡単にいえば捨てられていたかららしい。
ある日、城の前に広がる荒野にでっかい穴ぼこができていて、その底で俺が泣いていたんだそうだ。物知りの宰相さんはこれについて「伝承に伝わる勇者降臨の時と状況が極めて酷似していて……」などと難しい事を話してくれたが、難しすぎて俺にはよーわからん。
とにかく、俺はたった一人で泣いていた。
それを拾って育ててくれたのが、誰あろうこの城の主である魔王のじっちゃんだ。見た目は痩せ形でひょろっと背の高い老人にしか見えないが、その実、強大な力を持つこの城の魔族や魔物の中でもぶっちぎりに強い人である。この間も、身体の大きなドラゴンさんですら開けられなかった缶詰を、その骨と皮しかなさそうに見える腕でいともたやすく開けていた。
宰相さんや他のみんなが言うには、魔王のじっちゃんはとても怖い人だそうだ。
けど、俺にはただの優しいおじいちゃんにしか思えない。今までだって、俺に手を上げるどころか声を荒げたことすらなかった。俺が何をやっても、じっちゃんはいつも平然と笑っている。かといって俺に興味や愛情がないわけではなく、俺が新しい魔法や技を覚えたりすると一番に祝ってくれた。
そんなじっちゃんや城のみんなのもとで十年。すくすく育ってそれなりに大きくなった俺は、最近ではひたすら魔法と剣の訓練を積んでいる。みんなはこれを言うと笑うけど、大人になる頃にはじっちゃんを超えることが目標だ。最強は男のロマンだからな!
「次は左足を一気に踏み込んで、剣に魔力を込めろ!」
「はいッ!」
ある日の昼下がり。俺は城の中庭で休憩中の騎士団長さんに剣の訓練をつけて貰っていた。
団長さんことダークスケルトンナイトのベルト・アインハイゼンさんは、剣の腕だけならじっちゃんをも上回ると言う凄腕だ。その稲妻を思わせる剣を何とか避けながら、彼の指示に従って剣を振るう。その動きはとてもハードで、まだ訓練が始まってから五分もしていないのに、体中が水浴びしたように汗でぐっしょりだ。
カーン、カーン。
訓練を初めてから小一時間ほど後。南塔から鐘の音が二つ響いてきた。昼休みが終わる合図だ。団長さんは素早く身体を止めると、気をつけの姿勢を取る。
「実践訓練終わり! また明日!」
「ありがとう、団長さん」
「うむ、明日に備えて基礎訓練をしっかりとしておくように」
団長さんは骨の腕で俺の肩をぽんぽんと叩くと、すぐにマントを翻して門の方へと向かって行った。ガシャガシャという音が少しずつ遠ざかっていく。やがてすっかり姿が見えなくなった彼と入れ替わるようにして、紅いローブのお姉さんが近づいてきた。
「はいはーい、ディーノ君おひさー!」
「ルキーナ姉ちゃん!」
「魔王さまから久々に呼び出しくらっちゃってさー。ついでにディーノ君の様子を見に来ちゃった」
ルキーナ姉ちゃんは背中をかがめると胸を寄せ、俺の顔の前で思いっきり揺らした。たぽんたぽんッと、水の入った袋のように胸が弾む。揺れとともに歪む谷間の深さは、俺の顔がすっぽり埋もれてなおあまりある深さだ。
「姉ちゃん、どこ見てんのさ」
「ディーノ君がエッチできるようになったかなーって」
姉ちゃんは胸を揺らしながら、俺の股のあたりをじーっと見ていた。けど、そこが特に変化しない事を確認すると、途端に視線を俺の顔の方に戻してつまらなさそうな表情をする。
「……なーんだ、残念。おっきくなってたからできるって思ったのに」
「できるようになっても、姉ちゃんとはやらないからな」
エッチがどういうことなのかはまだ良く知らないけど、姉ちゃんとだけはしちゃいけないってじいちゃんが言ってた。若いころ、姉ちゃんのばあちゃんとエッチして死にかけたそうだ。姉ちゃんの種族はサキュバスと言って、エッチをするときに相手のエネルギーを吸い取ってしまう特性を持っているらしい。
「ふふ、そんなこと言っちゃって。そのうちディーノ君の方からエッチしてーとか挟んでーって言うに決まってるんだから。それじゃ、私は呼ばれてるからまたあとでねー」
「ばいばーい!」
姉ちゃんはひらひらと手を振りながら立ち去って行った。その背中が見えなくなったところで、俺は剣を手にする。団長さんに教わったことを、今の内にしっかりと復習しなきゃ。俺は誰もいない中庭で、先ほどの団長さんの指示を思い出しながら、ひたすら剣を振るった。
そうしていると、いつの間にか夕方になっていた。
魔王城のあたりは一年中暗いのだけど、夜と昼とでは慣れればわかる程度には明るさが違う。空の暗さが少し増してきていたから、今は夕方だ。くたくたになって地面に大の字になっていた俺は、よろよろと身体を起こす。そろそろご飯の時間だ。
ちょうどその時、中庭の脇の廊下を背の低い老人がこちらに向かって歩いてきた。身長より頭一つ分ぐらい長い杖を握り、脇に本を抱え込んだこの人は宰相さんだ。彼は大の字になっていた俺の姿を見つけると、ふうと息をつく。
「こんなところにおったか。ディーノ、陛下がお呼びだぞ。すぐに玉座の間へ行け」
「えー、ご飯じゃないか」
「つべこべ言うでない。陛下のご命令は絶対なのだ」
手にした杖で地面をトンッと突いた宰相さん。こうなってしまうと、逆らうことは不可能だ。じっちゃんですら、怒った宰相さんにはビビるからな。
「ちぇ、なんだってじっちゃんはこんな時に……」
「じっちゃんじゃない! 陛下、もしくは魔王さまと呼べ!」
「はいはい、わかったよう!」
顔を真っ赤にした宰相さんに急かされるようにして、俺はじっちゃんの居る玉座の間へと急いだ。バタバタバタっと慌ただしい足音が魔王城に響き渡ったのであった――。