天采 ― 貳 ―
「あの、ですね。何から話せば、いいのやらですけど。あ、そう。まずね、お仕事下さり、ありがとう、ございました」
「……何を言っている」
なんだか疑わしそうに、見るねえ。
そりゃそうだ。私がこの人の前でこんな殊勝な態度取ったことなんか、一度もないもん。
まあホラ、こういうときは誰でも弱気になる、っていうか。繕う余裕もないのよ。うん。
えほえほ咳をしていると、主様はじっと黙っていた。待っていてくれるのか。殊勝はお互い様じゃん、ねえ。
「私、考えたんです。昨日の夜が特に一番考えました、よ。主様のしたこと、そりゃあ、腹たった、です。腸煮えくり返って、ぼこぼこに、殴ってやりたいくらい。でも、ね。そうじゃあないって、考えたん、です、よ」
「なんだ」
「うん、あのねえ。キッコさんに、聞きました。麒麟の乱獲、の、はなし」
空気が、すっと一段冷めた気がした。それでも私に辞めるつもりはなくって、返事を待たずに話す。
「その、大昔の話。原因が、落人だった、て。私、知らなかった。なんで自分が、見下されるのかとか、虐げられるのか、とか。理不尽だ、って。ひどい、って。思い、ました」
キッコさんは言っていた。麒麟は世界で一二を争う足の速さで、この世の果てまで駆けていく事ができるって。だから本来、そんな麒麟が誰かに捕まるなんて、ましてや乱獲されるなんてありえないことなんだ、って。
その、原因を作ったのが、ただ人だったそうだ。そしてそれは落人だったんじゃないかって。
詳しい理由や経緯までは伝わっていないらしいけれど、麒麟が仲良くなった人が麒麟を騙して、売ったって。
そんな話、聞いたこともなかった。ただただ理由もなく辛く当たられてるだけだって、思ってた。
「まあ、でも、ね。そんな理由聞いても、私からして、みると、私関係ないじゃん、って、思いましたね、正直」
そりゃあそうだ。私やってないし。麒麟が『落人テメエー』ってがなるのもわかるけど、それ私にぶつけられても、お門違い、っていうか。
ただ、でも、それを聞いて、考えが変わった。ううん、変わったって言うより、考えるようになった。
どうして、主様は、わたしを――。
「ねえ、主様。主様が、真実私を憎いと、思ったならば、あそこに置いてけぼりにしていけば、良かったんじゃあ、ないでしょうか」
「それは」
「うん、聞きましたよ? 秘泉の場所を、て。でも、あの時の私、今ほど土地勘なかったし。山奥に、置いてけぼりにされれば、野垂れ死にする確立の方が高かったん、じゃあないか、て、思い、ました」
はあ、目を開けてるのもしんどい。この人無駄にキラキラしてるから、視界に入れると今はきつい。
視界に入れたくない美形って、ウケる。うぷぷ。
内心笑いつつ、仕方がないので目を閉じた。
主様は、『人と話すときに目も開けてられないのか、戯けが』とか言わなかった。言いそうなのに。
「主様、井戸があるのに、私に外へ汲みに、いかせました、よね。それで私、怒って、泣いて」
今思うと、あんなに泣き怒りするほどのことでもなかったんじゃあないかと、我ながら恥ずかしくなってくる。
ただ、まあ、あんまりにも衝撃的だったんで興奮したというか。それなりにショックだったわけだ。騙されていたことが。
そう。外に汲みに行く辛さもそうだけど、それ以上に、騙されていたということが、とても辛かった。悲しかったんだ。
「私がお前を謀った。当然のことだ」
「またまた、とぼけちゃって。私、気付きました、よ。ちゃあんと、ね」
主様、初めてだなあ。こんなに長い間話を聞いてくれるなんて。いつもだったら二言目には『去ね』だったのに。麒麟も病人には優しいのか。
それとも。それとも、なんだろう。なんだって、いうんだろう。解んないけどね、主様の尊いお考えなんざ、さ。
「主様。わざと、私にそうさせましたね。麒麟の間じゃあ、落人なんて、憎い敵も同然だし。保護なんて、問題外でしょ。あの場で私を見殺しにせず、保護するために、わざと、そうした。わざと、辛い仕事を、与えた。そうしないと、私を保護することも、認めてもらえない、から」
麒麟の長が一族の敵とも言える存在を保護するなんて、もってのほかだ、きっと。
でも、秘泉の場所を知ってしまった私を他の一族に移らせることもできない。そうしたら保護か見捨てるかの二択だ。当然麒麟の普通の感覚で言えば、十中八九見捨てるだろう。
でも主様は、私を拾った。どういう気まぐれか、拾ってくださった。主様に、私の主に、なってくれた。
「主様。あの時、拾ってくださり、ありがとう、ございました。仕事を下さり、ありがとうございました。私を生かし、主になってくださり、ありがとうございました。主様は、正真正銘、私の恩人、です」
私は、馬鹿だ。馬鹿だった。
私も、私こそ、正真正銘の、恩知らずだった。
この人は私を生かそうとしてくれた。見殺しにせず、きちんと拾ってくれた。
それなのに私は主様を恨み、麒麟を憎み、終いには獣人そのものすら嫌悪した。私はなんて不運なんだろう。そんな風に、自分だけ罪がないように、振舞っていた。
でも、それこそ、お門違いだった。身の程知らずの、恥知らず。主様や他の麒麟、幼獣たちは、ちゃあんと見抜いていた。
「申し訳、ないです。本当に、何度謝っても、足りない。主様たちは、気付いていましたね。私、が……」
懺悔とは、こうも苦しいものなのだろうか。吐き出してすっきりするものなのでは、なかっただろうか。
寧ろ今はそれを口にするのが、ひどく恐ろしい。喉が震えそうになるのを一呼吸置いて押しとどめ、なんとかそれを絞り出す。
「私、は、見下して、いました。貴方方、を。獣ごときが、て。獣には、私の気持ちなんて解らない、って。頭を下げる振りをして、ずっと、心のどこかで、貴方方を下に見ていました。貴方方を、貴方方が私にする以上に貶し、見下し、貶めていました」
目じりから、熱いものがこみ上げる。熱のせいか、それとも感情が高ぶったからか。
悲しい。申し訳ない。けれどそれと同時に、悔しい。
誰よりも落ちていたのは、私だ。私は紛れもない、墜人、だ。とっくの昔に、私は穢れていた。とっくの昔に、奈落の底にたどり着いていたんだ。
多分、出会ったあのときから。もしくは、出会う前から。
「自分でも、よく捨てられなかったなあ、って、思いますよ。子獣らにも、もれなく、嫌われてましたし。私、一度あの子らの尻尾捕まえて、ふ、振り回してやろうか、って思ったこと、あったんです。サイッテー、ですよね」
「無理だな」
「はは。ですよね。やる前に、私が主様に、捨てられる。……でも、しなくて、良かった。本当に、よかった。今はそう、思う」
あの子らを、傷つけずにすんで良かった。不必要に怯えさせずにすんで、良かった。
あ、いやでもさっき怯えてたか。怖がってた。悪いことしたなあ。こんなことならさっさとひっこんどきゃ良かった。なんかどうしてもお世話したかったから、ついムキになってしまった。
はいはい馬鹿ですとも。知っておりますよ。嫌というほどね。
「はあ……。まあ、そういう、わけでして。どうか今までのご無礼、お許しくださいっと、そんな感じ、です」
なんとか言い切った。随分体力を使ったような気がして、深いため息が漏れる。
がっかりしただろうなあ。やっぱりそうかって、益々失望されたかもなあ。
ああ、やだなあ。今更だけど、すごく、いやだ。私、主様たちに、嫌われたくない。本当は嫌われたくなかった。仲良くして欲しかったんだ。
馬鹿みたい。友達作れない小学生かよ。いい年した女が情けない。親が見たら泣くね、きっと。馬鹿弟は笑うだろうけど。
ああ落人でよかった、なんて本末転倒なことまで思う始末。
イカン、脳みそやられてるな、これ。自覚すると、いつのまにか治まりかけていたはずの震えが蘇る。身体がぽっぽしているのに、ぞくぞくして芯から底冷えしている。
もう額の手ぬぐいだって温いを通り越して熱い。完璧体温共有してんじゃねーか。濡れホッカイロかい。
とかなんとか思っているとき、そんな考えを読み取ったかのように、すっとその手ぬぐいが離れた。代わりに、ひんやりと冷たい感触が額を滑る。
驚いて目を開けると、案の定だった。慌ててもぞもぞと身を捩らせる。
うう、しんどいっつーのに。
「ちょ、ちょっと、マジ、止してください。ほんと、汚い、んで」
汗だくだくで汚いっつーのになんであえて触るかなあ、もう。ほんにこの人の考えていることはよー解らん。
何とか力を振り絞って、額に添えられた主様の心地いい指先を払い、顔を背ける。
かと思えば、今度はその手を掴まれた。何があっても滅多に私に触れるどころか近寄らなかった、あの主様が。
何が起きたんだとばかりに顔を主様の方へ向けると、思いのほか近いところにその無駄に美麗なお顔があった。
なんと。主様が、膝をついていらっしゃる! このみすぼらしい東屋で(自他共に確認済み)。
「何故だ」
ん? 何故だって、何が。
見ると、主様は怒っているわけでもない、不機嫌なわけでもない、感情の見えない不思議な顔で、私を見つめていた。
「お前は何故、子らが憂いていると言った。あれもあの場の勢いか」
憂いている? そんなこと言ったっけ。どうにも結びつかなくて思い起こすと、鬱憤が溜まっている云々は言ったなあと思い至る。
なんでそんなアンニュイな表現に摩り替わってるんですかね。語感までいちいちお耽美にしなくてもいいでしょうに。
ただ、急かすようにぎゅ、と主様の手が私の指先を握るものだから、そんなつっこみはすぐに放った。
一応、気にしてくれていたのか。案外素直なのかもしれない、この人。もっと早くにこういう一面を知っていれば何か違ったのかと思うけれど、考えたところでせん無いことだ。
「あの、まあ、あれは、嘘でも勢いでも、ないです。……でも」
ちらりと主様を見る。一目で解ってしまった。
ああ、もう時間切れだ。これ以上はもう、無理。
すっと手を引くと、案外すんなりと主様の手から抜け出せた。その刹那までずっと、主様の指先は冷たいままだった。
観念して私も目を閉じる。
おしまいだ。
「ちょっと、疲れたんで、眠らせてください、な。少し寝たら、お話、しますの、で」
「ならん」
間髪いれず、不機嫌な声が遮った。
ふふ、せっかちなお方だなあ。いつもいつも鈍間といわれていたけれど、主様だって相当せっかちじゃないか。人のこと、言えないよ。
かすかに笑って主様の頬に手を伸ばす。熱のためか指先まで震えそうになり、触れる直前で結局やめた。
「顔、真っ青ですよ……ね? お願い、ですから。暫し、お休みを」
ぐっと、いつもの白磁のような肌を青ざめさせたその人は口を噤む。相当辛いだろうに大した根性だ。それとも、意地だろうか。どっちにしろ私には真似できそうにない。
手を引き下げ目を閉じ、とうとう完全に主様も遮断する。
「休んだら、お話します、から」
「偽りではなかろうな」
「まさか。主様に、そんな、恐れ多い」
大丈夫です。
私が逐一主様にお話しなくとも、こうして私の声に耳を傾けてくれたあなたならばきっと、自ずと答えは見つかります。もしくはもう、解っていらっしゃるか。どうであれ大丈夫だろう。大丈夫。
それきり口を閉ざすと、傍らにいる主様が立ち上がるような気配を感じた。す、すとやわらかな衣擦れの音が徐々に離れていく。
顔だけこてんと横を向かせて、そのすっと伸びた背筋を見つめた。
「主様」
ひたり、とその歩みが扉の直前で止まる。
振り返らないその人に、できるだけきちんと聞こえるよう声を振り絞って告げた。
「私、主様に拾われてよかったです。主様が、私の主様で、よかった」
嘘ではない。誇張でもない。心からそう思える。
主様。
主様、主様、ぬしさま。
私の、主様。
さようなら、主様。
「――……一刻後まだのうのうと寝こけておろうものならたたき起こしてくれるわ。覚悟しておけ、鈍間め」
憎まれ口が聞こえたかと思うと、瞬く間に主様の姿はどこにも見えなくなっていた。