天采 ― 壹 ―
私は、動物が割と好きな方だ。
犬を見れば構いたくなるし、猫を見ればついついじっと見つめてしまう。動物の愛らしい写真や動画を見て頬をにやつかせることだって一度や二度じゃないし、割と動物に対する意識は愛好的な部類に入ると自負していた。
可愛いと思っていた。愛でたいと思っていた。ごく一般的で純粋な好意しか抱いていないと、勝手に思い込んでいた。
さて、その心は。
かの動物、のみぞ知る。
なんだかだるい。いつにも増して身体がだるい。頭にフィルターが掛かっているような、妙なもやもやが拭えない。
風邪かな、とは思ったけれど、仕事を休む訳にも行かない。とりあえずいつものように仕事を黙々とこなし、昼間を過ぎた頃か。
沐浴場に上がると、珍しく主様がいた。そのときはもう頭の中がぼやぼやとしていて気まずいとかどうしようとか考える余裕もなく、私はただいつもの作業に取り掛かろうと海綿を握った。
だというのに、何か様子が違っていた。
子獣らが近寄ってこない。逃げるというより、私を遠巻きにしている。どこか不安がるように身を寄せ合い、不審に満ちた眼差しを私に向けてくる。
一体なんだというのか。新手の嫌がらせだろうか。人を汚れ物扱いするような目で見やがって、全く相変わらず躾のなっていない餓鬼共め。
とにもかくにもこれじゃあ仕事にならない。一匹捕まえてやればどうにかなるだろう。
そう思い一歩踏み出したところで、足がくじけた。膝からかくっと力が抜けたかと思うと、視界が一気に降下する。
あっと思う間もなく、その刹那中途半端にがくっと降下が止んだ。誰かに腕を捕まれたらしく、中途半端にぶら下がっている状態だった。
なんだかやっぱり、身体がおかしいかもしれない。
今更それを自覚しながらのろのろと顔を上げると、私の腕を掴んだ張本人と目が合う。長い衣を惜しげもなく水に浸し佇む主様の、険しい眼差しと目が合った。険しいどころか、睨んでいる。
おお怖い怖い。
揶揄するようにふっと笑ったところで、主様の眉間の皺がぐっと寄る。水も滴るいい男とはこのことだなあ、と呑気に構える私を見下ろし、主様は言った。
「お前、臭いぞ」
乙女に向かってなんちゅー失敬な口を利くのかこの男は。
なんだかショックを受けるよりも妙にウケて、にやっと微笑んだところで、とうとう視界もフェードアウト。曖昧な意識の狭間で、悲鳴の代わりにぱちゃぱちゃと水の跳ねる可愛らしい音が聞こえた。
どうやら、私は病に罹ったらしい。
とうとうか、と半ば諦観交じりにそれを自覚する。いずれはこうなるかもしれない、と想像はしていた。
だって異世界だもん。保障はないし保険も利かないし薬だって早々簡単に手に入らないし医者となったらこの僻地じゃ絶望的、ましてや向こうに存在しない病だったらもう死亡フラグ確定。
もしかしたらただの風邪かもしれないとも思ったけれど、どうも感覚的にその程度では済まない気がしてならない。
頭痛や吐き気、発熱はともかく、あらかた吐いた後には血痰まで出てきやがった。全身震えが収まらないし、腹のそこが冷え切ってしまったような感覚で吐き気が一向におさまらない。
何か別種類の病に罹ったか、風邪に似た病なのか。治るのか治らないのかも、この朦朧とした頭では判断もつきそうにない。地球にはない病なのか、そうでもないのか。落人だけにかかるのか、それともそんな括りはないのか。
どういう病か判断もつかないから、治しようにも対処できない。
それは彼らにとっても同じだったのか、気付けば元の東屋の寝床に寝かされていた。
放置かよ、と一瞬つっこんだけれど、それも致し方のないことだとも納得できる。
どんな病かわからないし、うつされたらあちらだってたまったものではないだろう。それこそ子獣らにうつってしまえばしまったでは済まされない問題となってしまう。
となれば、病人を隔離するのは当然の措置だ。寧ろここまで運んでくれただけありがたいと思ったほうがいいのかもしれない。
確か最後に見たのは主様だった。あの人が、運んだと。私を? まっさかあ。ないないありえない、と枕の上でぶんぶん頭を横に振る。おかげで余計気持ち悪くなった。ちくしょう。
朦朧とする意識の中で、何とか水を用意したり氷嚢の代わりにはならずとも濡らした手ぬぐいを額に乗せたりしてみたけれど、所詮気休めだ。
何か栄養のつくものといってもここには保存食しかないし、大体食べたところですぐ吐いてしまうから意味がない。というか食欲も湧かないしそれを取り出すのに動くのも億劫っていう、日曜のお父さん並みの怠惰振りときた。
だって本当に指一本動かすのもしんどいくらいなんだからしゃーないんですよ。こんなことなら薬の一つや二つ、キッコさんに貰っておけばよかった。なんでそこ押さえとかなかったかなあ。
多分キッコさんのほうは『秘泉の水あるから大丈夫じゃね?』と思って何も言わなかったんだろうし、私としてもなんだかんだで病気知らずだったのですっかり失念していた。
馬鹿だ、馬鹿すぎる。
ちなみにさっきそれも駄目もとで試してみたけれど、駄目なもんはやっぱり駄目でした。普通の水でした。特に熱が下がるとか吐き気がおさまるとか、そういう効能は皆無でした。
思えば日本と違って保障してくれるものなんか何もなかったんだから、口にするもの身にまとうもの、もうちょっと神経質になっても良かったんじゃあなかろうか。
いや、なったところでその如何を証明する術がなくて杞憂になりそうだから早々諦めたんだっけか。
やっぱり馬鹿だ。救いようがないわ。そりゃあ主様もうつけ扱いするはずだわ。だって本当のことだもん。
あははー、ウケるー。馬鹿なのに病気になっちゃったよこの人―。馬鹿だったから病気になったんだよこの人―。ウケるー。
「……みじんこ一匹たりともウケねーですよ」
秘儀自分つっこみ。あ、一人遊びしてる余裕があるならまだ大丈夫かも私。
と、思ったところで頭上に影がさした。
「蛆が一匹たりとも桶にないだと。そんなものどうするつもりだ」
「そんなこと言ってません耳に蛆沸いてんじゃないですか」
出た、ボスキャラ。つーか人が熱で魘されてるときに濃度の濃いボケかまされるとすごい鬱陶しいわ。一つ勉強になった。
胡乱な目で、傍らに立ち私を見下ろしてくる主様を見上げる。私の東屋に入ることに相当抵抗があるのか、彼も普段の倍は眉間の皺を濃くさせたまま私を睨んでくる。
ていうかこの人背が無駄に高いから寝てると目線の高低差が半端ない。何この遠近感、馬鹿じゃないの。あー、なにもかもウゼー。
「これは、これは。このようなみすぼらしいところに、主様がおいでとは」
「まったくだ」
テメエ。
ここはもともとテメーが用意したんだろうがよこんちくしょうが。
熱のせいか些かモノローグにも地が出てくる。口に出す気力もあんまりないから結果オーライ(?)だけど。
「だったら、どうして」
「ここまで運んでやった主に礼の一つも言えぬのかこのうつけは。病になっても恩知らずとは、見上げた根性だ」
うわ、若干久しぶり、その憎まれ口。
ちょっとウケて笑いたくなったけれど、喉から出てくるのはひゅうっというため息にも似た吐息だけだった。
ああ、もう。思い通りに、ならない。
ならない、のか。そうか。
妙に納得して、同時に安心した。何故だろう。
ああ、そうだ。そうか。
もう――。
「ふふ」
「何が可笑しい」
「は。それ、二度目、です。主様、おもしろー、い」
声が、擦れる。目を閉じても、視界がぐるぐるしているようで、どうにも気持ち悪いなあ。
「この期に及んで侮辱する元気があるのか」
「いえいえ、そんな。滅相もありませんとも。あ、そういえば、主様」
思い出したように、言ってみる。
目を開けると相変わらず同じ顔で主様が私を見下ろしていて、『早く言え』と目線だけで脅しをかけてくる。
怖くねーよばーか。ふーんだ。
にんまり笑って、言ってやった。
「こんな私を拾ってくださり、ありがとう、ございました。あと、この間。ごめん、なさい。ひどいこと、言って」
くらえ、ごめんなさい攻撃。
こうかはばつぐんだ。ボスキャラは、目を丸くしている。
あ、初めての表情だ。ヒャッハァー、やったぜ。ゲットだぜ。
笑ったつもりだけど、その感覚ももう朧。
話せるうちに、話しとこうか。