急落 ― 參 ―
麒麟は、なにものも傷つけはしない。傷つけることを厭う。
それ以上に、傷つけることが適わない。だから雑草一つたりとて蹄で踏みしきることも適わないし、甘い果実を思う様に頬張ることも出来ない。
あの時、確かに主様は私に手を上げようとしたはずだ。けれどそれをしなかった。
それは厭う心故なのか、それとも我が身に降りかかる穢れを忌避するためか。
理由がどうあれ、あの時私はそれを望んでいた。打ちのめして欲しかった。救いようの無い呪詛を吐く前に、これでもかと打ちのめして欲しかった。
目の前のこの世で最も清らかな生き物を、麒麟を、罵れば罵るほど、自分が落ちて行くような気がした。
あくる朝から、主様は私の前に滅多に姿を現さなくなった。
私が、じゃない。主様こそが、私を避けていた。
元々平素からそうそう顔を合わせることも少なかったけれど、私が井戸を使い始めたことによりいっそう接触する機会が減り、彼の方を目にすることも適わなくなった。
唯一沐浴場で接する機会も時間をずらしているのか主様の顔は見当たらず、些細な機会でさえすれ違うことすらない。
主様は望むところへと飛ぶ力をお持ちだから、私がどこを駆けずり回っていてもかち合うことは無いのだろう。それにどこかほっとしつつも、心のどこかで奇妙な焦燥感を感じていた。
井戸を使うことによって随分と楽になったのに、常に陰鬱とした気分が晴れない。虜囚のような罪悪感を抱えながら、余計なことを考えまいと仕事にのみ徹した。
一日の唯一の食事の時間であり、自由時間でもある時間は、外に出て主様に呼びかけると主様の姿も無く視界が巡り、峠どころか落合の場所に飛んでいた。帰りも然りだ。
嬉しくなかった。格段に楽になったと言うのに、何も嬉しくなかった。
私は本当に何を望んでいたのか、本当にわからなかった。そしてそれこそが最も辛く、得体の知れない不安感として私を苛んでいた。
「もういい? なんで。君はあんなに望んでいたじゃないか」
キッコさんには次の落ち合いのときに、すぐに断りを入れた。昨日の今日で主張を覆した私に、案の定寝耳に水とばかりに驚愕の声を返してくる。
そんな彼の様子すらどこか白々しく見え、けれどそれ以上何を思うでも訴えるでもなく、私はただ首を横に振った。
「いいんです。お手数をおかけして申し訳ありませんでした」
「あの方に何か言われたの? それとも承諾してくださらなかった? だから諦めるの?」
「いいえ。違うんです。どこに行っても同じだって、解ったから。だからもう、いいんです」
心配げに顔を覗き込もうとするキッコさんから目を逸らし、半ば投げやりな気持ちでそう言った。
けれど自分で口にしてみて、確かにその通りだと思えた。主様も言っていた。
『貴様に行く当てなどない。この世のどこにも、貴様の居場所など此処以外あろうはずも無いわ』、と。
その通りだ。落人である私が、元々この世界の住人ですらなかった私が、この世のどこに居座ろうと言うのか。
主様のお傍でさえ仮初めに他ならない。どこに移ろうと、どこに逃れようと、私の居場所など無い。この世界に、私の居場所なんか無いんだ。
望みを抱くことすら馬鹿馬鹿しい。希望なんて履いて捨てるほどあっても、それが叶わなければこんなに虚しいことはない。
それきり黙りこんだ私の頭にキッコさんの手が慰めようとするかのように伸びたけれど、私は一歩後退してそれを避けた。
その時哀しそうに揺らいだキッコさんの眼差しを見たとき、漸く知った。
ああ、あの時、あの崖で私が主様に縋り、避けられたとき、私もこんな顔をしていたんだ。こんな頼りない顔をして、主様を見上げていたんだ。そう、思い知った。
それを思うとなんだかどうしようもやるせなく、同時に笑い出したくなった。
ちっとも可笑しくなんてない。全身が凍るように、血の流れが冷たい。
だと言うのに哂いたくてたまらなくなり、その日は逃れるようにしてキッコさんに別れを告げた。哀しそうなキッコさんの目が頭にこびりついて離れなくて、いっそう私の心を苛んだ。
「てんさい?」
「そう。天の采配。それが天采。麒麟に課せられた使命」
聞いた途端某バカボンのパパを思い浮かべた私は紛れもなく日本人だと妙にほっとした今日この頃。
私が断りを入れたあくる日、キッコさんは聞いてもいないのにそんな話をし始めた。
「僕達の住まう下界ではね、そう言われているんだ。空が曇り雷鳴が轟いた時、五色の雷を見たものは天采が下ると」
五色の雷。
私の脳裏に、あの色が蘇る。どの麒麟の背にも萌ゆるように波打つ、五色に輝く鬣。見事な色彩を放つあれには幾度と前にしても目を奪われ、触れることすら躊躇われる美しさを誇っていた。
私がそれを思い浮かべていることに気付いているかのようにキッコさんは軽く頷き、話を続けた。
「麒麟はね、罰を司る生き物なんだって。この世で誰かが天すらも大罪だと見做す罰を犯したとき、または罰せられるべきにも拘らずそれを逃れた大罪人がいるとき。そういうときに、麒麟は現れる」
「それは……」
なんというか、私のイメージとかけ離れすぎて、キッコさんが突飛なことを言っているようにしか思えない。
と言うか信じられない。矜持だけは馬鹿みたいに高くてその癖潔癖で臆病で無駄に居丈高な見た目くらいしか取り柄のない精神的に百害あって一利なしのあの生き物が、罰を司る?
おいおい、冗談はぷにぷにの角だけにしてくれ。あいつら角すら毛皮に覆われてるんだぜ。
まさに信じられないと愕然とした顔を隠しもしない私に、キッコさんは苦笑を返した。
「勿論、僕も長から聞いた話だから、真相は解らないけれど。けれどそう言い伝えられている。なにものも傷つけない麒麟が何かを傷つけるとき、それはそのものが罪を犯したから。けれどそれがどういう意味か、解る? チトセ」
「えっと、罪を憎んで麒麟を憎まず? みたいな?」
テメーが罰せられるのは俺のせいじゃねえから、そこんとこヨロシク。
みたいな麒麟のアピール的言い伝えなんだろうか。まさに麒麟らしい。うん、そうに違いない、と確信を持って首を縦に振る。
けれどキッコさんは、首を横に振った。いやに冷めた眼差しを私に向けると、言った。
「麒麟はその性質上何も傷つけないし、傷つけることは出来ない。死を厭い、死者どころか死臭を纏う生者にすら、つまり死が確定している生き物すら避ける。そういう生き物なんだ。一滴の穢れすら、麒麟には毒ってこと」
穢れとは、血のことだろうか。
ふいに、また蘇るあのときのこと。あの時私は、なりふり構わず山を駆け上った。足がもつれて、何度か転びもした。葉や草で、手足や頬を切ったせいで、後々身を清めたときよく染みたものだ。
あの時主様は、私の血を避けたんだろうか。でも、それだけ厭うものならどうして私の呼びかけに馬鹿正直に応じて――。
「キッコさん、麒麟は……」
「うん、だからね」
麒麟が罰を与えるとき、それは――。
「大罪人は、天の遣いであり代理人である麒麟の雷で罰せられる。その時麒麟の角は本来の姿を取り戻し、大罪人を貫き罰するんだ。雷は天の聖なる炎とも言われている。あらゆるものを清め、滅する。故に麒麟はその時最も厭う行為を行い、大罪人の穢れを浴び、また共に聖なる炎をその身に受けて、そして……」
「――……滅ぶ」
コクリ、と無言でキッコさんが頷いた。そんな眉唾物の話、とは、もう言えなかった。ただ、どうして麒麟が自分らを誇り高い生き物だと吹聴するのか、その理由がわかった、気がした。
でも、だからと言っても。
「おかしいじゃないですか。罪人を罰するのに、麒麟まで一緒に死ぬなんて。そんなことあの人たちがするわけ……」
信じられない。穢れを厭う生き物だからこそ。
穢れそのものとすらとれる大罪人を殺して、一緒に死んでしまうなんて。それこそ死んでもそんなことはやらないはずだ。あの潔癖な生き物ならば。
「だからだよ」
「え?」
何故か、キッコさんは切なそうに目を伏せる。まだ解っていない私を哀れむように、その先を告げた。
「麒麟が最も清らかだと言われているのは、そういうこと。神の雷は例外なく全てを滅する。罪人も、その魂も、穢れも、その罪すらも。罰とはそれそのものだけではなく、救済を意味することでもあるんだ。だから麒麟は己の命を賭して穢れを、罪を、罪人を、そして世界を清める。それが使命だから。だから麒麟は最も清らかであり、清らかでなくてはいけない。そういう生き物なんだよ」
――その後も、キッコさんは麒麟の話ばかりを私に話して聞かせた。
その日は終始その話に徹しいつの間にかその時間も終え、あっという間に一日が過ぎ、気付いた頃には床についていた。その夜はずっと何かを考え続けた。
そのせいだろうか。あくる日には見事に身体がだるくなり、私の身体は緩い熱を発し始めていた。