急落 ― 壹 ―
恩知らず、とよく罵られた。恩など知るか、と心の中で罵り返した。
日を増すごとに彼らはつけあがり、そして私はこの世で最も清らかだと言う生き物を嫌悪した。
前人未到の秘境の地。そこは幻の桃源郷などではなく、霞んだ牢獄でしかなかった。
それを聞いたのは、この世界で落人として過ごして三年余り過ぎた頃。三年と言えば千年生きる長命の麒麟の一族からすればさほどの長さでもないけれど、私にしてみればそれなりの歳月だ。
二十五歳から二十八歳、お肌の曲がり角など当に過ぎた。当時売れ頃ともてはやされた結婚適齢期も過ぎ、老化を恐れる日々の始まりでもあった。
そんな頃、馴染みの鳥族となったキッコさんから、その事実を明かされた。
『知らなかったの?』
ひどく驚いたように返したその表情には、どこか罪悪感交じりの戸惑いさえも見て取れた。
それが誰に向けて浮かべた感情かなんて、どうでもいい。
私は、走った。一日に一度の唯一まともな食事さえ放り出し、癒しと湛えたキッコさんとのお喋りもおざなりに終わらせ、何もかも放り投げ、とにかく走った。衣が汚れようが、葉で頬を手を切ろうが、そんなことかまいやしなかった。
――――どうして。どうして。どうして!
そればかりを思い、己で作り上げた獣道を駆け上り、汗だくになって煤まみれになりながらそれでも一息に崖の先端まで上り詰めた。
転げ出るようにそこにつくと、すぐさま私は声を張り上げた。あの、紅い屋根を悠々と誇る屋敷に向かって。
「ぬし、さまっ、主様ァ! お聞きください、お応えください主様!」
『喧しいわうつけが。叫ばずとも聞こえておるというに』
すぐに声が答え、それと同時に仄かな風が後ろからふわりと私の髪を撫ぜる。振り返ると、そこには目を顰め口元を押さえ不快げに這い蹲る私を見下ろす主様がいた。
「なんぞ、その為りは。まるで泥鼠ではないか。羞愧も省みず斯様な姿を我が前に晒すとは。恥を知れ」
なりふり構わず走りぼろぼろな体になった私に苦言を呈するが、今の私にはそんなことに構っている余裕も無い。にじり寄ると、主様もまた一歩、避けるように後退した。
「主、様っ。……お聞きしたいことが、あります」
「大きな声を上げて喚き散らすな。聞こえておると言っておろうが」
汚らわしいものを見るような目だ。迷惑そうに顔を背けている。そんなことどうでもいい。もう慣れた。かまってられない。そんなことより、私は。――私は。
震えそうになる喉を抑えて、主様を見上げた。
「主様。井戸があるというのは、本当ですか」
問いかけた途端に、キッコさんの声が蘇る。いつものように過酷な水汲みの愚痴を零している私に、彼は言った。
『あのお方も人が悪い。屋敷には秘泉の地下水脈から井戸を引いてあるから、ご自身でも滅多に源泉には向かわれないというのに』
――井戸?
問い返した私に、彼は怪訝な顔を浮かべた。そうして言ったのだ。『知らなかったの?』と。
私の言葉を聞いた途端、主様はいっそう眉根を顰め、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「鳥族のうつけか。全く、余計な知恵をつけおってからに」
動揺も見せず、なんのことはないとばかりに淡々と言う。
「主様!」
うそだ。
信じられない私に追い込みをかけるように、無感情な声が告げる。
「確かに、我が屋敷には井戸がある。思い至らなんだか。まこと、貴様はうつけだな。貴様を拾う以前から我らが態々水汲みを往復するなど、しているはずもなかろう」
「……だって、冬、も。そう! 私、冬も通って、氷を割って、汲んで……それで、」
そう。冬も、雪を掻き分けて山を登って、降りて、凍った泉を槌で叩いて砕いて、冷たい水を何往復もして、汲んでいたのだ。そうしなければ、折檻されるから。叩き出されてしまうから。
そうなれば、行くあてもない。必死な思いで、冬も夏も春も秋も、そうして過ごしてきた。来る日も来る日も。
そんな私に苛立ったような眼差しを向け、主様は言い放った。
「だから、斯様に大儀な真似をどうして負わねばならん。今頃になって知ろうとはな。少しは頭を巡らせろ、うつけめ」
「騙したんですか私を!」
「馬鹿め。貴様が問わねば答えようもないではないか。騙すなどとあてつけも甚だしい」
うそだ。
そんな、嘘だ。
嘘、だ。
「主様、主様ッ。どうしてですか! どうして三年もっ……だって、ずっと。……私、お仕えしましたよね?! 一生懸命、文句も言わず、きちんとお仕えしましたよね! 同じことを毎日毎日ッ。それを……それ、が、これが、貴方様の仕打ちですか! 三年貴方様にお仕えした私に対する、これがその仕打ちですか!」
高潮した頬に、汗ではない雫が零れ落ちる。千切れるように熱いそれを拭いもせずなおもにじり寄ると、主様は煩わしげに舌打ちした。
「寄るな、穢れる。下らぬ文句を垂れる前にさっさと仕事を済ませろ鈍間が」
そう言い放つと、袖を振る。愕然とする私の視界が巡り、元の見慣れた屋敷が眼前に孤立していた。
主様はそれ以上何も言わず、ただ呆けて這い蹲る私に一瞥もくれずにその場を後にした。
私は、ずっと、そこに這い蹲っていた。声も漏らさず、ただただ涙を垂れ流すのみ、孤立無援のようにしばらくの間固まっていた。
――もう、嫌だ。
もう嫌だ。冗談じゃない。冗談じゃないこんなところ。出てってやる。逃げてやる。鳥族の人に泣きついて、土下座してでも、外の世界に連れて行ってもらう。
聞いた話では本当かどうかは定かではないものの、落人は本来保護の対象になるらしい。見つけた一族の保護下に置かれるらしいが、例外として他の一族に移ることも可能なのだと言う。
だったらそうしよう。そうしてもらおう。こんな扱い、到底保護とは言えないもの。
最初からそうしていればよかった。こんな所にみっともなくしがみついていないで、さっさと見切りをつけて、もっと優しい一族の元で暮らしていればよかった。
主様に比べれば、誰の元であっても天国に違いない。こんなところよりはどこだってマシな扱いをしてくれるはずだ。
馬鹿だった。意味もなく身を寄せて、拾ってもらった恩があるからと馬鹿の一つ覚えで我慢して、プライドもあったもんじゃないほど麒麟たちに阿って。
もう知ったことか。どうだっていい。あんな奴ら、こっちから見切りをつけてやる。自由になってやる。捨ててやる、こんな牢獄。
「そうか。辛かったね。……ごめんね、チトセ」
事の顛末を私の口から聞いたキッコさんは、今度こそ本当に申し訳なさそうにそう言うと、私の頭をそっとひと撫ぜした。
今は人の姿だから見えないが、その背には畳まれた銅色の翼が生えている。私の憧憬。自由の象徴だ。首を振ってそれへの切望を振り払う。
「いえ。キッコさんが謝ることはありませんから。それもこれも全てあの性悪獣が悪いんです」
「そんなこと言って」
キッコさんは恐れ多いと苦笑するが、私は本当に本気でそう思う。
何が拾ってやっただ、世話してやってるだ。世話してんのは一から十まで私の方だろう。
身の程知らずはお前らのほうだ。口ばかり居丈高の癖して臆病で引きこもりの弱虫共め。ちったあ自分を見つめなおして弁えろってんだ。今日び自分探しなんか子供でさえ小学生のうちにあらかた済ませてるっつーの。
「まあ、チトセの言いたいことも良くわかった。僕も首長に聞いてみるし、叶うなら望む一族の長に掛け合ってみるのも手だと思う」
キッコさんが安心させるように微笑みかけてくれる。
ホラ、この笑顔一つで違う。長に笑顔を向けられたことなんか、拾われてから一度もなかった。それが全てを指し示しているような気さえしてくる。
なんにせよ、色よい返事が期待できそうだ。自然私の表情にも笑顔が戻る。
「じゃあ」
「でもチトセ。落人の移籍はそれぞれの責任者、両者間の同意が無ければ認証は降りない。つまり他の一族の長が許しても、君の主である麒麟の長の許しを得ることができなければ意味が無いんだ」
「そんな……」
そんなことって。
私の意思は? 私が出て行きたいから出て行くんじゃ、ダメなの?
なんなの長って。落人一人の意思すら無視できるほど、そんなに偉いの? それとも落人には自分の行く先を選ぶ権利も無いって?
そんな馬鹿なことがあってたまるか。冗談じゃない。絶対出て行くって決めたんだ。何がなんでも出て行ってやる。抜け出してやる! そして話に聞いた真のもふもふ帝国に、私も仲間入りするんだ!
燃え上がった私の闘志に気圧されたのか、キッコさんが若干のけぞりながら言った。
「まあ、なんにせよあの方にもう一度話を聞いてもらうといい。そんなに君を虐げているなら、案外すんなり解放してくれるかもしれないし。頑張って。僕もちゃんと、できるだけのことはするから。もう少しの辛抱だよ」
「はい。ありがとうございますキッコさん! 私、必ずや、必ずや自由を勝ち取って見せます!」
見てろよ性悪馬もどき共め。さっさと出てってやる。風の如く、立つ鳥跡を濁さず、華麗に出て行ってやる。
そして私は今度こそ、もふもふに囲まれてまともな生活を手にしてやるんだ。誰に見下されることも無い、強制されることも無い、まともな世界で。
みなぎるやる気に眼を爛々と輝かせ、私は笑顔でキッコさんと別れを告げた。
皮肉なことに、このときが一番、私の中に希望が溢れていたんだと思う。何の根拠も無い、確かな希望が。