際会 ― 貳 ―
「で、なんでこーなるの」
もはや虫の息で上り詰めたその頂にて、漸く桶を地面に下ろす。一滴たりとも無駄にしてはいけないので、限りなく慎重に、そーっと。
秘泉の水はその清らかさゆえに一滴垂れただけでも麒麟には香るようで、嘘や誤魔化しは通用しない。
っつーか一度喉が渇いて摘み食いならぬ掬い飲みしたのを見破られて、嘘ついたことも含めて折檻と称し倍量汲みなおしに行かされた覚えがあるので、それ以後同じ鉄は踏むまいとこうして敏感すぎるほどに用心して運んでいる次第だ。
ああ、我ながら涙ぐましい。故郷に帰ったら俺……たらふく水をがば飲みしてやるんだ。勿論目一杯高い水を買ってね。
虚しいフラグを立て終え一息つき、重い腰を上げる。
汗を拭い見据えた先には、小高い峰がそこに孤立していた。そこには見事な紅の屋根が映える屋敷がどっしりと居を構え、さながら孤城のように悠々とその風貌を晒している。
私が今眺めている場所はその対角にある山の切り立った崖の先端であり、一寸先はそれこそ見果てぬ奈落の底となっている。
橋は愚か紐すら掛かっておらず、到底地に足が着いた生き物があの孤城に行きたつことは叶わない。
叶うとしたら鳥族であろうが、いかんせんそれも長の張った胡散臭い結界によって道半ばで憚れてしまうだろう。無論私も然り。
万が一にも渡れたところで、主様の許しなくして屋敷は愚か敷地内にも一歩足りとて足を踏み入れることはできない。
ともあれば私に残された道は唯一つ。
当の主様におすがりするほか、道はないのであーる。
「主様、到着いたしました」
『遅い、鈍間め』
声を発すれば主様には通じる。耳がいいのは確かだそうだが、耳ではなく私から発せられる響きを聞いているらしい。
音とどう違うのかは知らないが、知ったところで飯の種になるわけでもなし、社会人スキル、余計なことにはつっこまず詮索せずスルーの構えでことは収束した。
メカニズムとかどうでもええわい。あー腹減ったでございます。
「寄り道をしていたのではあるまいな。鈍間」
「そのような疑惑は事実無根です、主様」
直後、真後ろから声がしたので私も前を向いたままさらっと答えてみる。
今更この程度でビビッてたまるか、甘い甘い。この一年で私がどれだけ辛酸を舐めたと思っているのか。他ならぬ貴方の手によってね。
「さあ、運んでくださいまし。ご用命は果たしましたよ」
「何をぬけぬけと偉そうに。鈍間に指図される耳など持ち合わせておらぬわ、戯け。よもやまだまだ仕事が山積みなのを忘れたわけではあるまい」
「心得ておりますとも。ですから早くお運びくださいと申し上げているのです」
「ふん。いつまで経っても生意気な女よ。この身が虎ならば今にもその戯けた口を利く喉を食いちぎっておるものを」
出来もしないことを憎憎しげに言うと、主様は気だるそうに袖を振った。
途端、景色が逆転したように巡り、瞬く間に屋敷の目の前へと視界が移り変わった。
――でも、え? ちょっと待って。
「……主様、あの」
「どうした。さっさとそれを厨房へ運ばぬか、鈍間。言われねば動けもせなんだか、うすのろが」
あいも変わらず挨拶代わりに憎まれ口を叩くと、主様は私と水桶を置いてさっさと屋敷の中に入って行ってしまわれた。
て、ちょおまてや。
あんな神通力みたいな真似ができるなら普通に厨房に直に飛んでくれればよかっただろ。
あの底意地の悪いクソ親父、今に見てろちくしょうが。
心の中で罵詈雑言、それでもあくまで優しくソフトタッチで桶を担ぎ、私は屋敷の外から壁伝いに厨房へと向かった。
仕事はまだまだある。こんな些細なことでも手間だというのに、全く我が主は手厳しい。
それでも文句を口に出すことは叶わず、私はただ黙って二つの桶を担いでせっせと歩き続けた。
――さて、ここで振り返ってみる。
落人、とは私のような、別の世界からこの世界へ何らかの原因で落ちてきた只人を総称して呼ぶ、この世界での私たちよそ者の純人間を指す呼称。
他にもおちゅうど、らくじん等の呼び方もあるが、それの意味するところに大差はない。
そしてこの世界は人の姿にも獣の姿にもなれる、言わば獣人の統べる世界で、その大半が獣人だという。
その獣人の中にはさらに上位種と呼ばれる転化できる者のうち主たる権力を持つ者がいて、多くはその際たる者の中からなお力を示し一族を統べる者が、長と呼ばれている。
落人の采配は基本落ちた先に住まう各一族の上位種に委ねられる決まりとなっている、らしい。
もっと言えば、保護することを義務付けられている、とか。
――保護?
おいおい、あらら、はっはっは。
情報に齟齬があるらしい。至急データの算出を頼む。
で、君。一つ聞いてもいいかね。
保護って、美味しいの?
まあそんな詐称紛れの情報など置いておくとして、とうの私の仕事は山ほどある。
まず朝は三時起きで夜は十時就寝。
何故そんな老人のような生活をしているかというと、仕事がとんでもなく多いからに決まっている。
まず朝起きてする事といえば前日汲んでおいた水で身を清め、同じく清めてある簡素な衣に身を包み、東屋から出る。
屋敷の裏手にある小さな小さな、物置小屋みたいに小さな、殆ど寝るためだけに使っている私だけの東屋だ。正確には、私が屋敷内で寝泊りすることは許されていないだけの話だけど。
そうして朝一番の清らかな空気の中で、敷地内の草木に溜まる夜露を集める。
これが結構しんどい。一滴一滴が大したものではないし、葉を摘んでもいけないため、夜露を集めるごとに神経を削る。
そうして苦心して集めた夜露をこれまた前夜用意しておいた水瓶に注ぎ、それを小さな壷に組み分け、屋敷内の各部屋に届ける。
これは麒麟の朝ごはんならぬ朝水で、麒麟は俗世の食べ物の変わりにこの水を摂取する。
一番初めに届けるのは主様の部屋だ。それから順次それを各部屋へと届けていき、それが終わったら今度は各部屋を除いた屋敷内の廊下や使っていない部屋、大広間の清掃を始める。
ちなみにこれは夜にも行う行為で、とにかく塵一つ残さず綺麗にしなくてはならない。
それは麒麟が穢れを嫌うためといわれているけれど、実際は主様が人一倍潔癖だからに違いないと踏んでいる。
でなければ昼夜二回も掃除させるなんて酔狂を、このか弱い乙女の私にやらせるはずがない。
あの鬼畜が。覚えとけよ。
そして主様達が起きる前に清掃を終わらせたら、また東屋に戻る。
清掃した身を清めてまた衣を変えなければならない。そうしないと屋敷からはじき出されてしまうからだ。
まったく碌なことをしない主だ。
それからまた清めた身体で屋敷へ向かい、今度は屋敷内の麒麟達が広間に集まって主様と一緒に瞑想している間に、各部屋の掃除を始める。
掃除といっても麒麟は最も清らかな生き物で穢れなんてないけれど、それもまた主様の御意向なため逆らうことは許されない。
そうして各部屋を隅々まで綺麗にし床も拭いて全てを済ましまた東屋へと以下略。
その頃には主様方の瞑想も終えているため、なるべく慎ましく音を立てず気配を殺し己を殺し(これも主様の言いつけ)主様の元へ行き、あの対岸へと飛ばしてもらう。大量の水瓶と、よーく使い込んだマイ水桶二つと共に。
ここから地獄の往復運動が始まる。何せここまででも水を使うため、日に何度か汲みなおさなくてはならない。
しかも麒麟は混じりけのない完全な純度を誇るあの秘泉の水しか受け付けないため、私は山を上り下りしては崖と泉とを往復する。
これだけは何度やっても何日やっても、最終的には汗だくになる。
そりゃあ山を上り下りしてればどんなトライアスロンだってばてるっつーの。
ふくらはぎはパンパンだわ日ごろの強制鍛錬のおかげで度を越した筋肉を手に入れるわ全く誰か何とかして欲しい。女ボディビルダーとか目指してませんから。
これで向こうに帰ってタイトスカートを履こうものなら物々しい筋肉が我を見よとばかりに主張することだろう。周囲の目線が痛くなること必至だ。
そうしてそんな想像に泣く泣く地獄の往復運動をこなすと主様を呼び、また玄関に置いてけぼりに去れて、野山を走り回ったこの身体じゃ屋敷からはじき出されるから仕方なく遠回りで厨房に向かい水を届け、そしてまた東屋略。
日に三度目の着替えを済ましたら今度は麒麟達の沐浴の手伝いに借り出される。
ここで説明が遅れたけれど、麒麟の長であらせられる主様はこの屋敷の主でもあり、そして養い親でもあった。
そう。
この屋敷には成人前の、それもまだ人の姿への顕現(本当は転化というらしいけれど、主様たちはよくこう言っている。いちいち気取りやがって)も叶わない稚児のような幼獣の麒麟達の住まう屋敷でもあるのだ。
麒麟とはそもそも清浄な空気の中で生きる獣らしく、下界へも滅多に姿を現さない稀少な種とされている。
ゆえに数多連なる多種族との交流も必要最低限しか保っておらず、普段の世界ではもはや世界から隔絶されているといってもいい、引きこもりの種族だった。
それというのも昔は昔、大昔、恐れ多くも瑞獣である麒麟を乱獲する不届き者のおかげで、ただでさえ数少ない麒麟の一族は滅亡寸前にまで追いやられ、こうして賊の足の及ばぬところまで忍び隠れたのがことの始まりという。
以来麒麟の一族はめっきり減ってしまい、また長命なためか子を増やすことも難しく、時の長が決まりを作られた。
『飛べぬ稚児は長の庇護の下健やかに暮らすこと』
この崖も越えられないほどの幼獣は、外へ出たところでどんな危険に冒されるかわからない。だから親元を離れ、一番安全な長の庇護の下、暮らすようになったという。
ということは麒麟の一族中の子供がこの館に揃っているわけなんだけど、聞けば大層な話ではあるけれど、数にして言えば二十数頭しか居ない。
つまり一族中の幼獣をかき集めても、それしかいないということだ。
それを思えば子を思うばかりのこの過保護さにも少しは理解できなくはないが、それにしても、いやしかしそれこそが問題であった。