救済 ― 肆 ―
「ぎゃっ」
ふもっと柔らかい感覚が顔全体にのしかかったかと思うと、その勢いに負け後ろに思いっきり倒れこんでしまう。何事かと思う間もなく、それは聞こえた。
「ちとせぇっ」
――は?
二度目の、はてな。
顔に乗った暖かくて柔らかいそれはもぞもぞ動くと私の上からさっとどいて、反転した。
呆ける私を真逆から見下ろす、一頭の子麒麟。
息を弾ませながら琥珀色に輝く瞳を爛々と輝かせ、その瞳は私を映した。
「ちとせっ。もうげんきかっ」
――はいぃ? はい、三度目はてな入りました。
ていうか何。何事。なんかすんごい嘗てないほど馴れ馴れしいしっ。
ていうかそうじゃなくて、その、今――。
呆然とする間にも、どんどんどんどん私を覗き込む存在が増えていく。
「ちとせー」
「ちーとーせーっ」
「しろしぇっしろしぇっ」
いや一匹惜しい。タ行を頑張ろう。
いや、じゃなくてだね。
「名前……」
私の、名前を呼んでいる、の? 知って、いたの? いつから?
どうして。どうして、こんな、急に。
さっきだって――。
困惑する私の言葉にならない声にこたえるように、主様の声が降りかかる。
「お前が倒れた後喧しくて敵わなかったわ。ぴいぴい泣き喚き、それで起きぬお前も大した器よ」
「え……」
じゃあ、あの時聞こえた音はこの子らの鳴き声?
あんなに綺麗な鳴き声してたんだ、麒麟って。まともに聞いたことなかったからわからなかった。
て言うかそれ以前にこの子らが泣き喚くって、そんな馬鹿なこと。
だって、だって私。
「わたし、この子らに……き、嫌われて」
「うつけめ。麒麟が己の厭う存在を三年も傍に置くと思うか。それしきも解せず仕えようとは、どの口が言う。聞いて呆れるわ戯けが」
――え?
じゃあ、それって、そんな。
ってことは。
「嫌ってなどおらぬ」
うそ。
嘘。嘘、うそ、嘘。
――本当、なの?
本当、なんだ。
私、嫌われてなかった。
嫌われて、ないんだ。
「――……よかっ、たあぁ~……っ」
見る見る涙が盛り上がる。寝たまま顔を覆い隠しても、目尻からは絶えず熱い涙が零れ落ちた。
そんな私を気遣ってか、やいのやいのと子獣らが喚きたてる。
「あ、ないたのだ」
「ちとせないた」
「よわむしめー」
「けむしがー」
「へっぽこー」
「へたれー」
「うん「おおっとだがそこまでだクソ餓鬼共」
暫く感動に浸っていたものの、幼稚な言葉の羅列と危うく出かけた放送禁止用語にすぐさま涙を拭い飛び起きる。
皆してわくわくしたように期待に満ちた眼差しを私に向けるその様子は、いつもと変わりなかった。
――ああ、そうか。
この子らは何も変わっていなかった。前も今も、同じ眼差しを私に向けてくる。私はそれを、穿って見つめていただけなんだ。
この子らはいつも私にぶつかってくれていた。心を閉ざし閉じこもる私の心の扉を、叩いてくれていた。
改めて、主様にだけじゃなくこの子らにも、感謝の意が芽生える。
私は麒麟に出会えて、良かったのかもしれない。麒麟のところに落ちて、正解だったのだ。
「ちとせはうんこー」
「うんこちとせー」
「うんちー」
「うんちっ」
「うーんちうんち!」
「うんちとせ!!」
前言撤回。
放送禁止用語と人の名前を絶妙にドッキングさせんな。
つーかこんな言葉遣いどこで覚えたの。清らかな生き物が口汚さ全開なんですけど。フルスロットルもいいとこなんですけど。
憤然と立ち上がり子らのやっすい挑発に乗ってやろうかと意気を高めたとき、ふと思い出した。振り返り、明後日の方向を眺めている主様に詰め寄る。
「あの、まだもう一つ教えてもらってないんですけど。私なんで生きてるんですかね? っつーかなんで主様のお部屋で寝てたんですか? 後で迷惑料請求されても困りますからね? あと」
「一つではないではないか戯け」
だって主様が最初にはぐらかしたんだからしょうがないじゃん。
答えろーっとばかりに見つめると、ものっそい不機嫌な眼差しで睨み返された。
うっ。流石に元祖は貫禄がある。
「秘泉の水を飲ませた。……それだけだ」
「……はあ」
秘泉の、水? ああ、なるほど。
いやでも最初飲んだとき利かなかったし、私もあの時飲んでたはずなんだけど。
しかも夢かどうかも微妙なんだけど、飲ませたってあの時の話だよね? あの顕現してたときの。
あの杯、妙にきらっきらしてた気がするんですけど。しかもなんか喉越しがお酒みたいだったし。
本当に秘泉の水? 本当は何飲ませたの?
思わず疑いの眼差しで見つめると、主様はますます眉間の皺を濃くさせた。
「麒麟は偽りなどという汚らわしい真似はせん。お前と違ってな」
「はあ? 汚らわしいって失礼な」
「そうであろう。我は違えぬ。初見の言とてそうだ。偽りもなければ覆しもせん」
初見の、言? どういうこと?
首を捻る私を一瞥する主様。暫しの間のあと、にっと口角を上げた。
笑った。
主様が。
「お前に言われずとも最初からお前は一生我のものだ。生かさず殺さず、とくと飼い殺しにしてくれる。どこにも逃さぬ、我が落人よ」
言うが早いか、身を翻す。情熱の炎のような髪がさらりと視界を舞い、主様は屋敷に戻っていった。
後に残るはきゃいきゃい騒ぎ立てる子獣らと、取り残された私一人。
真っ赤になって暫く呆然としてしまった私は後々我に返り、あんな言葉で赤面した自分の不可解さに悶絶することとなってしまった。
その後、結局私が生還した謎は明かされぬまま時が経った。
いつまで経っても老いない我が身に疑問を抱き始めた頃に漸く、私があの時飲まされたものが秘泉の水に麒麟の角の欠片を砕いて溶いたものだということを知らされた。
それは伝説上の、奇跡の薬宝。時の人こそが追い求めた、無病息災不老長寿の妙薬、そのものだった。
しかもそれが長であり一族最強でもある長寿の中の長寿の主様ご自身の角から削り取ったものだというから、とんでもない大事件だ。
またそのことでやいのやいのと私と主様がやりあったかどうかは、誰も知らない。
ただその頃には稀に、婚儀や祭典の日に見事な五色の虹がかかり、大空を悠々と麒麟が駆けることがあったという。人々はそれを見て、吉兆の兆しだと大いに笑ったそうだ。
それを私が目にするようになるのは、子らが成獣になる約百年後。それからどうやら落人ブームなるものが、世界を駆け巡ったのだそう――。
ともあれ未来はともかく、今日も今日とて主様にどやされる日々。
明日をも知れぬ日々を生きる私は、それでも今か今かと明日を思い、五色の燐光を空に夢見た。