救済 ― 參 ―
「あの、ですね。うん、そう……主様の仰るとおり私、あの子らには鬱憤が溜まっているって言いました。それは、まあ、私があの子らに嫌われているからああやっておちょくられていたのも、ありますけど。でもやっぱり、それだけじゃないと感じたからなんです」
言うと、何故だか主様は私から目を逸らし再び背を向けた。やっぱり主様としてはあまり信じられない、受け入れがたいことなのかもしれない。
それもそうだ。主様は本当によくやっている。長のお仕事も夜遅くまでこなしてお忙しそうなのに、子らとの時間もきちんと守って、よく見て、よく話して、それはそれは丁寧に接している。
私に対しての態度なんかそりゃあ酷いものだったけれど、それは私に対してだけであってそれも理由があったし、私以外に対する主様の態度はむしろ穏和と呼べるものだった。
子らの呼びかけには無視したりおざなりにしたりせずどんな時もきちんと向き合っていたし、忙しさを理由に放り出したりせず、寧ろあの子らを優先していた。
その目にあるのはいつも子らを思う慈愛で満ちていて、子らもそれが解っているのかよく主様に懐いていた。傍から見ても解るくらい仲がよくて、信頼されていて、そして羨ましかった。どっちがと言えば、どっちもと言えるくらい。
その輪の中に入れない自分がどうしても惨めに思えて、虚しくて、悲しくて、だから余計に一人よがりになってしまった。
子供みたいな話だけれど、でもやっぱり人間って所詮そんなものなんじゃあないかって思う。
どうしたって一人じゃいられない。寄り添うものがあれば、それに心を傾けたくなる。それが手に入らなければ、益々孤独に陥る。
根本的なところはどうしても単純なのだろう。なんだかんだ言ったところで、人間だって同じ動物なのだから。
まあ、そんな私の僻みはともかく、主様は出来うる限りのことをして、一生懸命子らを守っていた。それだけは絶対に、嘘じゃないと言える。
でも――。
「主様は、充分あの子らに尽くしていると思います。充分なほど、守っておられた。でも、やっぱりそれが充分すぎるように思えたのも、また事実です」
「充分すぎる?」
「はい。言うなれば、過保護……とでも、言いましょうか。ああ、怒らないでください。それだけ主様があの子らにかける情が深い、ということでもあるのですから」
振り返った主様に慌てて言うと、主様は怒ってなどいないと言わんばかりに憤然と前を向く。
おやおや忙しいこと。矛盾しまくりですねえ。まあ、主様らしいと言えば、らしい。そういうところは、見ていたはずなのに。僻みや妬みもあったんだろう。
ああ、私ってどんだけ病んでたんだか。まあついさっきまでリアルで病んでたんですけど。
ぷぷ、ウケるー。ってウケねー笑い事じゃねー死亡診断書提出フラグ直前でしたー。
とまあ、それはおいといて。
「はあ……まあ、はい、それでですね。私の元いた世界、の話に、なるんですけど」
「地球、とやらか」
「うわあ知っておられる。怖い怖い。っと睨まないでください」
まあ主様相当長生きしてるらしいから知っているのも不思議じゃないだろうけど、しっかり言い当てられるとあれじゃん? ちゃんと知りすぎてて怖いっつーか。説明省けていいけどさ。
「まあ、それでですね。その世界の中でも、私の国にですはね、ことわざっつーありがたーい教訓の言葉が多く存在するんです」
「呪いか」
「いやあ、寧ろおばあちゃんの知恵に近いかな。格言、っていうか、知っておくとちょっと得する言葉、みたいな」
一瞬怪訝な表情を浮かべたけれど、すぐにしたり顔で頷き返してくる主様。本当にわかってんのかな。まあ、いいけど。
「ともかく、まあそれで一つこんなことわざが御座いまして。『可愛い子には旅をさせよ』と」
「なに?」
ぴくっと目じりが吊り上る。あかんモンスターペアレントの地雷を踏んだ気がする。
そんなことあんな幼い子らにさせられるか! という叫びが聞こえてきそうだ。というか今にも叫びだしそう五秒前。
歯をギリッギリ食いしばってこちらを睨んでくる始末。ひいい。
ていうか可愛い子と思ってる自覚あるんだ。第三者のこっちとしちゃそっちのほうが色んな意味で『なに?』なんですけど。
「いやいや、比喩ですよ比喩。ものの例えですから。そんなマジで旅をさせろとか、そういう意味じゃなくてですね」
「ではなんだというのだ」
もう血の気が多いと言うか沸点低いというか、この態度だけでも充分あの子らへの過保護さを垣間見れるわ。言わんこっちゃないですよ。愛情だけでなく人様の子を預かっている責任や長という立場も、それに累乗されているんだろう。
それを思えばもう少し肩の力を抜けばいいのにとも思うけれど、それがこの人だからしょうがない。嫌がらせだろうが保護だろうが徹底的にする完璧主義者、みたいなね。
でも、度が過ぎればいい迷惑だ。私も、そして子供も。
「庇護することだけが愛情なのではない、ということです。守られ隠され囲われているだけでは、子供は子供のまま、碌に育つこともままならなくなる。どうあっても一人で立つときが来るのです。ならばそう出来るようその手を離し見守ることも、親の努めなのではないでしょうか」
「知った風な口を」
「ええ、まあ、はいスミマセン。でも、私だってそうだったから。なんにも知らずにただ時間の過ぎるまま過ごしているだけだと、事実は見えても本質は掴めないんです。主様の考えていることも解らず、されていることもただ理不尽にしか思えなくて、でも鳥族のキッコさんにお話を聞いて漸く自分で考えることができました。つまり、そういうことなんです」
押し黙ったままでいる主様の背中を見つめていても、その表情は伺えない。
ついこの間までの私はこんな風だった。背中に向かって罵って詰って憤って、主様のことなんかちっとも見ようとしなかった。ただただ、自分ばかりが辛かった。
けれどなんだってそう。事実は一つでも、真実は一つじゃない。私に真実があるように、主様にも真実がある。それが、ものを知るってことなんだ。
一歩、踏み出す。今、距離を縮める。知りたいと思うから。解りたいと思うから。それこそ望む真実を見つけられる、一番の近道だから。
「知るということは、良くも悪くもあることです。けれどそれを恐れて何も知らず解ろうともせずただ自分の世界に閉じこもっていることなんて、できない。できたとしてもいずれ瓦解する。だったら、知ればいい。知って、理解して、それを自分の肥やしにすればいい。それができないなら、そうできる強さを手に入れればいい。まず望むことが外へ向かうための大きな力になるんです。そういうものを、人は、希望って呼ぶんですよ、主様」
横に立って、主様の顔を仰ぎ見る。こうして見れば、背中を見つめているよりもずっと有意義だと感じる。
そこにあるものが例え良くないものであったとしても、またそれを挽回するためにはどうしたらいいのかって考えるための原動力になる。
だから人は足元を見て歩くよりも真っ直ぐ前を向いて歩くし、そうしたほうが下を向くよりずっと心が豊かになる。そうすることで、下を見つめるよりも沢山のものが目に映るからだ。
沢山の色や形、もののあり方や有様を、その目に移すことができる。そうやって周りを知って、それによって自分も知って、世界が広がっていく。自由が、広がっていく。
主様の横に立ち見る眼前の光景は、広く険しく、そして雄大だ。途方もない大きさで圧倒されそうなのに、何故か揺ぎ無い安心感が持てる。時に恐ろしくさえあるけれど、竦むほどではない。
それはきっと、この人の隣にいるから。この人の、傍にいるから。だったらそれが、この人の務めなのだ。
――貴方の、使命なんですよ。主様。
「いずれあの子らも、この悠久を駆けることになるでしょう。けれどあの狭い枠に収まったままで、果たしてそのときを恐れず悠然と立ち向かうことが出来ましょうか。濃い霧に阻まれ霞に囲われ、その広さをまともに感じることすら出来ない。きっと山岳に吹く風の強さや冷たささえ、今のあの子らには想像もできないでしょう。空の飲み込まれるような青さや心を照らし尽くす太陽の色もよく知らない。でもずっとそのままではいられないはずです。だったらそれを知ればいい。知って、自分の肥やしにして、強さにすればいい。それはきっといずれ来るあの子らの旅立ちを大いに助けることでしょう。恐れに負けず立ち向かう、あの子ら自身を守る大きな盾となるはずです」
こちらを見ずに、ただただ悠久を見下ろす主様を見上げる。
この人は今、何を感じているだろう。感じてくれて、いるだろう。どうかどうか私の心が届いていますようにと願いながら、彼自身に語りかけた。
「主様。あの子らに、もっと自由を与えてください。木々の狭間を歩く心地よさや、木漏れ日を見上げる喜びを与えてください。春夏秋冬顔色を変える山岳の有様を、この世の理と生き様を見せてあげてください。周囲を知り世界を知れば、自ずと己のことも理解することができましょう。己に課せられた使命――天采のことも、きっと」
ぴく、と主様の纏う気配が変わる。その時漸く眼前の光景から目を離し、傍らに立つ私に目を向けた。――何故、知っているのかと。
「鳥族の方にお聞きしました。天采は麒麟の使命であると。それに、もう一つ。空を翔る麒麟を見るということは、下界では凶兆の証なんだって」
麒麟はこの世で最も清らかな生き物であり、その存在は天のためのもので、何人たりとも手を出すことはかなわない。麒麟自体も滅多に一族以外の者の前には姿を現さないため、殆ど幻の存在なのだと。
そしてそんな麒麟の使命が示すことこそ、この世の生き物が厭う麒麟の死。何よりも清らかなその存在が、死に穢れ堕ちるという不吉なこと。
だからもしも万が一空に麒麟を見たときは、凶兆の証だと誰もが恐れおののく。麒麟落命とも言われ、凶兆そのものを指す言葉にもなっているという。
この世で最も清らかな生き物は、同時に最も不吉な存在でもあり、そして最もその存在自体を恐れられている。麒麟は、孤高の一族なのだ。
「それが、なんだと言うのだ」
主様が、ぽつりと言った。その声には少しだけ苦いものが含まれていて、まるでその現状こそ嫌悪しているように目を細め、指摘した私をじっと見下ろしてくる。
その底知れない瞳の輝きに圧倒され身の内に震えが呼び起こされそうになり、けれど身体にぐっと力を込めてそれを押し留める。
恐れちゃいけない。ここからが、本当に私が言いたかったこと。
負けじと主様を見上げ、真正面から私も見つめた。
「だって勿体ないじゃありませんか。麒麟が、凶兆の証だなんて。麒麟は、この世でもっとも清らかな、誇り高い一族なのでしょう? あまねく全てのものに慈愛を注ぎ、傷つけることを厭い、そして常に生きとし生けるものを見守っている。そういう崇高な生き物なのでしょう。そうではありませんか、主様」
「お前……」
息を呑むように主様が目を見張ったけれど、止まらなかった。
なんだか自分で言っているうちに悔しくなってきて、それを主様にぶつけるように畳み掛けてしまう。
「麒麟は凶兆の証なんかじゃないんです。天の采配たる、何より綺麗な生き物なんです。それをみんなが解っていないなんて悔しい。悲しすぎる。でもそれもこれも落人のせいなんでしょう? 落人のせいで麒麟は俗世を避け、前人未到の地に身を隠した。せっかく綺麗なその姿を、霞む霧の奥深くにしまいこんでしまった」
大昔はそれでも、麒麟の姿を見ることも今よりは多かったらしい。大空を自由に駆け、どこまでもどこまでも行く麒麟の姿が描かれた絵を、キッコさんは見せてくれた。
そんな風に望む世界へ足を伸ばすことができなくなったのも、落人のせい。人が麒麟を、誰の目も届かない山奥にまで追い込んでしまった。
そのことが今じゃ自分のことのように悲しくて、悔しくて、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。この人たちから自由を奪ったのは、他でもない私たち人なんだ。
目を剥き見下ろしてくる主様の前で、私はゆっくりと腰を下ろす。その草の上に両膝をつき手を重ね、主様を見上げた。
「落人が憎いなら、どうか今まで通り私にぶつけてくださって構いません。それ以上のことも、きっとお応えしてみせます。だからどうかあの子らにはその遺恨を残さず、自由にしてあげてください。貴方様が麒麟の長というならばその威光で皆を照らし、また誇りに見合う強さをお示しください。そしてどうかその自由ごと、彼らを守ってあげてください。身体だけではなく、心も。貴方の持つ、その気高い魂こそで」
どうせ帰れないなら、とことんこの一族に尽くしてやる。
そしていつか見てやるんだ。麒麟が大空を臨み太陽の光を浴び、堂々と世界を駆ける様を。その美しい光景を絵物語ではなく自分の目で、いつか見てやる。
それこそ人生をかけるに値するほどの大事じゃないかと私は思う。先の落人がやり損ねた償い、私自身の償い、そして生きるものに真っ向から向き合うことそのものでもある。
だったら私はやる。絶対にやってやる。今度はもう、どんな扱いをされても逃げない。立ち向かって、笑って乗り越えてやる。
そうやって私の強さも示してやるんだ。あの子らに、麒麟に。そして目の前に佇む、私の主に。
うんって言うまでうごかねーぞっとばかりに主様を見つめ続ける。先に根を上げたのは、主様のほうだった。
呆れたように肩を下げ、空を仰ぎ大きなため息を吐いた。
「落人風情がよくもぬけぬけとまあ言ってくれたものだ。性懲りもなく我に指図しようとは」
いや指図って程では。お願いですよお願いっ。可愛い召使からの些細なお願いっ。
慌てる私に、次いで主様は言った。
「そこまで申せば覚悟もできておろう。心せよ」
――は? とか、思った刹那に聞こえてきた。
音。音、っていうか、騒音? ドトトトトトみたいな若干控えめの怒号というか。
なに、うそ、やだ、近付いてくる。
何事かと膝をついたまま振り向いた途端、視界が真っ暗になった。