救済 ― 貳 ―
ぱふっ。
ふと、顔に何かが被さった。口元と鼻にふわりと乗せられたそれは、とても軽くて、よくお日様に干した枯れ草のような、暖かい匂いがした。
なんだろう。若干ムズムズするからどけてくんないかな。そうは思えど、一向にそれがどいてくれる気配がない。
重くないしいい匂いで触れ心地もいいし辛いわけじゃないんだけど、このまま行くと鼻腔を刺激されてオヤジ張りのくしゃみが飛び出てきそうだ。乙女としてそれは洒落にならんとプライドが勝り、眠気を気合で吹き飛ばして瞼をこじ開ける。
――あ。
なーんか見覚えのある白。白布がオーロラのように波うち天井から吊り下げられている、らしい。
それはともかくもまずはとばかりに、顔に乗っているそれを摘み上げた。
「け?」
け。毛、だ。
小筆ほどの太さのそれは先っぽがまさに筆の先のようにぽわっとしていて、しかもそれはつまみ具合からしてなにやら柔らかくてしかも暖かい。基本白いんだけど光沢を放っていて見ようによっては色とりどりの色彩を放っている。
なにこれ、と思う間もなくそれはひゅっと私の手から弾けるようにして上に逃れた。かと思えば、ぽたり、と意思を失ったように今度は私の鎖骨の上に落ちる。
何がなんだかわからずに、それに辿るようにして視線を遡らせるとそこには、というか私の顔の真横に、両手で持つほどの大きさのまあるいカボチャのような塊があった。
それにもふさふさと金にも似た光沢のある黄色い毛が生えていて、その中央を分かつように尻尾と同じ色彩を放つ長めの毛がもえもえ波打っている。おいおい、見ちゃいけない秘境まで見えてんぜ。
そこまで目を通して漸く目の前のものに合点がいって、小さく息をつき私はそっと起き上がった。
傍らにいるその存在に気取られないよう、その尻尾は丁重に持ち主にお返ししてから。
「なんじゃこりゃ」
呆然、っていうか珍妙?
何この牧場物語。白い絹に纏われ腰を落ち着けている私の周囲に侍るように、子獣子獣子獣。
しかもまあ、どいつもこいつもお休み中真っ盛りのようで、無防備ぶち抜き手足をぽーんと投げ打って気持ち良さそうに眠っている。
中には絶えず尻尾をぴくっ、ぱたり、ぴくっ、ぱたりと先っぽだけ上げ下げしている子がいたり、かと思えば何を嗅いでいるのか鼻先をすんすんすんすんすんすんと絶えず小刻みに動かしている子もいる。
やだ、なにこれ、可愛い。普段腸煮えくり返るほどクソ生意気な餓鬼共だというのに、今はなんだかとんでもない癒しフェロモンを放っている。
うわ、もう、悔しいけど萌えるっ萌えてしまうっ。いつもその横をさささっと通り過ぎるだけだったからじっくり見たことなんてなかったけれど、こいつら、なんて可愛い生き物なんだろう。
ああ、ここにデジカメがあればっ。クソッ、身一つで落ちてきた我が身が憎い。
――て違うがな。
はたと我に返る。危うく殺人的な可愛さに全てを忘却の彼方へとデリートしそうになってしまったけれど、そうじゃないって。
なんでこの子らがここに。てか、ここどこ。
いやに質のいい掛布といい、眩暈がするほど眩いばかりの白に包まれたこの部屋といい、どうにも見慣れない。見慣れないけれど、この病的なまでの白さ、どっかで見たことがある。
折り重ねられた天蓋みたいなこの趣味といい、なーんか思い出したくないものを思い出しそうだ。
コレでもかと眉間に皺を寄せ考え込み、突如あっと思い出した。あっと思い出し顔を上げたその先には、グッドなタイミングでこれでもかとバッドな表情のあのお方のお姿があった。
部屋の入り口の、奥。
その方、いや私の主はすいっと顎を滑らせ『さっさと来んか鈍間がァ』と詰らんばかりに一瞥を向けてくると、そのまま物も言わずさっと消えてしまった。
そこでようやっと、確信するわけです。――ああここ、主様の部屋じゃん、と。
「一刻だと我は聞いたのだがな。よもや一昼夜寝入ろうとは思わなんだ。お前の怠惰さには呆れてものも言えん。心底お前が鈍間だということが件によって証明されたな」
言ってんじゃん。今その口で一から十まで包み隠さず言ってんじゃん。赤裸々にも程があるよ。
毎度同じく心の中ではつっこみつつも、余計なことは口に出さない。ただ嫌味を言いながら前を行く主様の後を、黙ってついていく。
あの後私もあの子らを起こさないように床を立ち、主様の後に続いて部屋を出た。主様は特に私に何も言わず思うままにずんずん先を歩いている次第だ。
どうせ私がついていくと知っているからだろう。一瞬このまま止まって見送ってやろうかとも思ったけれど、そんなことしたら後が怖いのでやめておいた。
そしてそんなことをぐだぐだ考えている間に、視界が開ける。
どうやらぼーっと後をついていくうちに玄関に向かっていたようで、目の前に夥しい霞に覆われる山岳地帯が悠々と私の前へと姿を現す。
そして道半ばまでいったところで、主様の歩みが止んだ。自然、私の歩みも主様から数歩離れたところでぴたりと止まる。微かな間のあと、主様が先に口を開いた。
「約束だ。話せ」
ひゅうっと突き抜けるような風が、私たちを煽る。主様の燃えるような髪がそれこそ舞い上がる炎のように一瞬巻き上げられ、けれどすぐに納まった。
まあ、主様が何を言いたいかは、わかっている。解っている、けれど。
「解りました。でもその前に一つ、お聞きしたいことが」
「我の話が先だ。御託は要らん、疾く申せ」
っかー、このワンマン野郎がァ。
とは思っても口には以下略だチキンで悪いかべらぼうめ。
私だって私だって聞きたいこと山ほどあるんですからね。
なんで生きてんのかとかなんでこんなぴんぴんしてるっていうか今にも駆け出したいほど活力に溢れてるのかとかなんであの子らが私の周りで寝ていたのかっつーかそもそも私なんであんなところに寝かされていたの絶対主様潔癖だから嫌がるでしょどんな企み練ってんのとかそれ以前にあの時私確かに火放ったじゃん真っ赤な誓いいぃぃとばかりに燃え上がってたじゃんとかもう本当に色々。いろっいろ。
でも、まあ、この人に言っても無駄だわな。つーか言えんわ。聞く気もなさそうだし。
ともなればあれか、主様が言ってるのは十中八九話の続きってやつ、ね。
全く病み上がりだっつーのになんなのこの人。部下を労えない上司は大成しないよ。精々課長か部長補佐止まりだよ。
そこんとこ解ってんのっつーかこの人が一族内最高権力の持ち主でしたーはいアウトー。麒麟の一族の皆様終了のお知らせー。ってそんな主直属の部下の私が一番アウトー。人生オワター。
「はいぃっ。お話しますしますしますからっ」
いきなりナニ? ってばかりに飛び上がっちゃったけど主様がギンッて睨んできたからさ。ギンッて。
ああもうぎすぎすしやがって職場環境は大事なんだぞーこのやろー。
とかもうまた考えてると怒られるので、しかたなーく、私も覚悟を決めた。