天采 ― 參 ―
「……さて、と。よっこいしょういち、っとくらぁ」
じんじんする節々に鞭打ち、じれったくなるほどの緩慢さで肘をうつと、身を起こす。
ここからが、大仕事だ。
寝床から転がりでるようにして下り、角の小さな子棚へと四つんばいで向かう。その子棚の上には火のついていないむき出しの灯篭と、油の小瓶、質素な髪紐に、置きっぱなしの腰紐が置いてある。
そのうちの一つを取ろうと手を伸ばし――。
「あっ……あ~あ。大惨事」
一つどころか手元がくるって全部転がり落ち、二次被害で子棚さえも横倒しになった。
立て付け悪いんだよこのオンボロ棚。まあいいけどさ。どうせみんな不要になるし。不要っつーか、共倒れ?
転がった諸々を無視して、子棚の一番上の引き出しを弄る。思惑通りそれはそこにちゃんとあり、使えないわけではなさそうだった。
それだけを引っつかみ引き出しもしまわず、床に転げた目当てのものも回収して、再び寝床にずるずる向かう。
あーもー、ゾンビみたい。今ならジョヴォビッチさんに狩られる自信あるわ。いや、それはそれで冥途の土産話になりそうだけど。
くだんねー妄想にほくそ笑みつつ、寝床にごとうちゃーく。腰を下ろして、ばったり横に倒れた。
あー、足乗っけんのも面倒くさい。いいや。もうどうでもいい。
さて、ここからが本番。特に居もしない皆々様、得とご覧あれ。
そら。
「ぽーいっとな」
半ば投げやりに、その手の内にあったものを床に叩きつけた。
はじけ飛ぶ硝子。と共に、飛び散り、そして揮発する油の香り。
ご名答。
灯篭に注ぐ予備の油、です。
あーあ、部屋ん中強盗はいられたみたいにしっちゃかめっちゃかになってやんの。まあいいや。どうせみんな消し炭だ。私諸共。後はこの左手に残った火付け石で、火をともすだけ。
人間キャンプファイヤー的な?
「ウケ、るー」
そう、ぽつりと言いながらも手が震えるのは、熱のせい? それとも怖いの?
今更。一時はいつ死んだっていい、なんて思っていたくせに。ちょっと都合がいいんじゃないの。今更死にたくないだなんてそんなの、
「うるせえよ悪いかよこええよ嫌だよ」
ふいに心の声に反して口汚い言葉が出て、火打石に縋るみたいにぎゅっと、握る手に力が篭もる。
「……だって死にたく、ないんだもん」
怖い。
怖くてたまらない。死にたくない。死ぬのが怖い。
火も嫌だ。そんな死にかた嫌だ。火なんてつけたくない。
逃げたい。助かりたい。
――独りで死にたくない。
「……っう、うーっ……ふ、う、ぇえっ」
ぼろぼろ、ぼろぼろ、涙が止まらない。
汗も出てくる。冷や汗なのかなんなのかも解らない。怖くてたまらない。怖すぎて死にそうだ。
気付けば、寝床にぴったり張り付いていた頬が異様に濡れていた。顔を僅かにずらすと、血の匂い。赤い、染み溜。鼻血まで、出てきた。
嫌だ。嫌だ!
頭の中がパニック過ぎて、もうどうしたらいいのか解らない。
頭が痛い。身体が寒い。皮膚が痛い。震えが止まらない。気持ち悪い。
誰か。
誰か、誰か、誰か誰か誰か誰か誰かっ。
誰か、助けて。
「お、かあ……さん……っ」
お父さん。おじいちゃん。勇輝。叔父さん。
助けて。ヤダよ。死にたくない。独りは嫌だ。助けて。助けに来て。
誰でもいい。キッコさん。主様。
――ぬし、さま。
「だ、駄目っ。駄目だ。ダメダメダメ!」
目をぎゅっと閉じた。迸る涙が千切れるようにぼろっと落ちた。瞑る瞼の裏側に、主様の顔が浮かぶ。
主様、顔が真っ青だった。私のこと臭いって言ったくせに、手が冷たくなるまで、真っ青になるまで傍にいてくれた。
『麒麟はその性質上何も傷つけないし、傷つけることは出来ない。死を厭い、死者どころか死臭を纏う生者にすら、つまり死が確定している生き物すら避ける。そういう生き物なんだ。一滴の穢れすら、麒麟には毒ってこと』
キッコさんは、そう言っていた。主様は私を臭いと言った。
死臭が、するからだ。もう私は、死が確定している、ってことだ。
逃れられない。もう私は死ぬ。死んでしまうんだ。
怖い。
怖い、けど、だって主様が。
普通、一族の長っていうのは一番強い人か、それなりに強い人、なんだと思う。子らを守っていたのだって主様だ。一番強いに決まっている。
てことは、血が濃い、ってことでもあり、つまり一番影響を受けやすいってことでもあるんじゃあないだろうか。まだ生きている私の死臭だけでもあんなに真っ青になった主様の顔。
もしここで私がただ野垂れ死にしたら、どうなってしまうんだろう。主様だけじゃない。あんなに怯えていたあの子らも、他の麒麟たちも。
もし私が死んで死体になってしまったとしたら、ううん、そうなる。そしてそうなったら、彼らがどうなってしまうのか予測がつかない。
『一滴の穢れすら、麒麟には毒』
ここを、追われてしまうんじゃあないだろうか。もしくはそれ以前に、毒されてしまうかもしれない。死体の私に。まだ幼いあの子らが。麒麟たちが。主様が。
そんなのは嫌だ。絶対に嫌だ。この世で最も清らかな生き物を私が穢すなんて、そんなこと、それこそ死んだって御免だ。
――だから火を、点けるしかない。燃やすしかない。死臭も、死体も、何もかも、私ごと。
雷ではないけれど、消し炭になるのだったら結果は同じだ。私の世界でだって炎は浄化を示していたし、あながち間違いでもないはず。どうせ死ぬんだ、死に方なんて構っていられない。
だから、火を、点けなきゃ。なにもかも燃やし尽くすんだ。私ごと、全てを。麒麟を穢す、墜人を。
震える手で、火打石を構えた。一度、弱い力で打ち失敗し、またもう一度試して、失敗。
涙も鼻血も垂れ流した悲惨な状態で残る力を振り絞り、手に力を込め二度目よりももっと力を込めもう一度叩きつける。
今度は見事に、火花が散った。
床の上に小さな雷が降りかかる。私の天采。私の、この世で最も清らかな――。
「貴様如きが我を謀りきれると本気で思うてか。だから貴様は戯けだというのだ、このうつけがッ」
「……え、えっ……ちょっ」
目の前でそれが油に引火し一気に燃え上がったかと思うと、突如視界が大きなもので阻まれる。
伸ばしていた手を痛烈なほどに握り締められ痛みに呻き見上げれば、烈火を背に佇む主様の怒りに満ちた形相がそこにあった。
あっと驚く間もなく眼前を染めていたはずの茜色の猛火が視界から消し飛び、目まぐるしく光景が反転する。ぐるんと意識が傾き眩暈に思考を奪われ、全てがそこで暗転した。
まるであの時落ちた穴のそこのような、途方も無い世界へと、全ての意識が放り出されてしまった。
――――音が聴こえた。
元の世界にいたあの頃テレビで聴いた、海中をどこまでも澄み渡りつきぬけるイルカの鳴き声のような、透き通った音。
けれど同時にそれは、ささやかに細やかに鳴る小さな鈴のような、凛と愛らしく心を奮わせる、そんな音でもある。
それらがまるで空から絶えず降りしきる小雨のように、私の上に降り注ぐ。
歌のようで、けれど歌ではなく、曲のようで、けれど曲ではない。
なんの方向性もなくまとまってすらいなく、一つ一つがただの音でしかなく、なのにそれはどうしてかどこかで聞いたことのあるような調べにも聞こえた。
色とりどりの音が絶え間なく降り注ぎ、それらが合わさって大きな虹彩を描くようでもあった。
それはまるで、虹。果てまでも伸び、世界を繋ぎ、彩り、広がり続ける虹色の輪。
ひとつ違っていたのは、それが七色ではなく五色だったということ。
音に色など無いのかもしれない。けれど私に、慈雨の如く降り注ぐそれは確かに色鮮やかな五色の輝きを放っていた。私にはそう聞こえた。私には確かに、そう見えたのだ。
輝けるどこまでも清らかな五色の光が、私の全てを包み込むところを。