0.04秒ボタン
浩介がそのボタンを手に入れたのは、病院からの帰りだった。
駅前でもらった怪しげなチラシには、QRコードと一文だけがあった。
「1,000万円が必要な方へ。0.04秒だけ勇気を貸してください」
半信半疑で申し込むと、翌日、小さな黒い箱が届いた。
説明は単純だった。
押せば、1,000万円がもらえる。
ただし、ランダムな方向へ光の速度で0.04秒間移動する。
母の手術費は、1,000万円だった。
浩介は電卓を叩いた。
「光速は秒速約30万キロ。0.04秒なら……12,000キロ」
一里を約4キロとすれば、およそ三千里。
地中へ飛ぶかもしれない。宇宙へ飛び出すかもしれない。それでも、たった0.04秒だ。
何もしなければ、母は助からない。
「押さないで」
病室で母が言った。
「これなら手術できる」
「あなたが死ぬかもしれないお金で、生きたくない」
母は泣いていた。
浩介も怖かった。
それでも、ボタンに親指を置いた。
「12,000キロ。だいたい三千里」
「浩介、お願い」
浩介は無理に笑った。
「母を訪ねて三千里だな」
「やめて!」
「行ってきます」
押した。
浩介は消えた。
0.01秒。
0.02秒。
0.03秒。
0.04秒。
戻らなかった。
一秒。十秒。一分。
母は息子の名前を叫び続けた。
そのころ、運営会社では異常が検知されていた。
技術者が仕様書を開き、顔色を失った。
移動時間:押下者の固有時間において0.04秒。
光速で進むものに、固有時間は流れない。
浩介は0.04秒後に帰還する。
だが、浩介にとっての「0.04秒後」は、永遠に訪れない。
病室でスマートフォンが鳴った。
入金 10,000,000円
母は画面を見て絶叫した。
「いらない! 返すから、浩介を返して!」
そして、本当に手術を拒んだ。
医師にも、親戚にも、何度説得されても首を縦には振らなかった。
数か月後。
痩せ細った母は、病室の天井を見ながら静かに笑った。
「浩介……もうすぐだからね」
傍らの看護師が、その手を握った。
母は最後に、ほんの少し嬉しそうな顔をした。
「やっと、浩介に会える」
それが最期の言葉になった。
母は死んだ。
そして天国で、息子を探した。
けれど、どれほど探しても浩介はいなかった。
当然だった。
浩介は死んでいない。
死ぬことさえできない。
母が息を引き取ったときも。
母の墓が苔むしたときも。
人類が滅びたときも。
太陽が燃え尽きたときも。
浩介はただ、光の速度で宇宙を進み続けていた。
彼自身の時計は、まだ一ミリ秒も進んでいない。
帰還まで、あと0.04秒。
永遠に、あと0.04秒。




