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0.04秒ボタン

作者: 平田智剛
掲載日:2026/08/18

浩介がそのボタンを手に入れたのは、病院からの帰りだった。


駅前でもらった怪しげなチラシには、QRコードと一文だけがあった。


「1,000万円が必要な方へ。0.04秒だけ勇気を貸してください」


半信半疑で申し込むと、翌日、小さな黒い箱が届いた。


説明は単純だった。


押せば、1,000万円がもらえる。

ただし、ランダムな方向へ光の速度で0.04秒間移動する。


母の手術費は、1,000万円だった。


浩介は電卓を叩いた。


「光速は秒速約30万キロ。0.04秒なら……12,000キロ」


一里を約4キロとすれば、およそ三千里。


地中へ飛ぶかもしれない。宇宙へ飛び出すかもしれない。それでも、たった0.04秒だ。


何もしなければ、母は助からない。


「押さないで」


病室で母が言った。


「これなら手術できる」


「あなたが死ぬかもしれないお金で、生きたくない」


母は泣いていた。


浩介も怖かった。


それでも、ボタンに親指を置いた。


「12,000キロ。だいたい三千里」


「浩介、お願い」


浩介は無理に笑った。


「母を訪ねて三千里だな」


「やめて!」


「行ってきます」


押した。


浩介は消えた。


0.01秒。


0.02秒。


0.03秒。


0.04秒。


戻らなかった。


一秒。十秒。一分。


母は息子の名前を叫び続けた。


そのころ、運営会社では異常が検知されていた。


技術者が仕様書を開き、顔色を失った。


移動時間:押下者の固有時間において0.04秒。


光速で進むものに、固有時間は流れない。


浩介は0.04秒後に帰還する。


だが、浩介にとっての「0.04秒後」は、永遠に訪れない。


病室でスマートフォンが鳴った。


入金 10,000,000円


母は画面を見て絶叫した。


「いらない! 返すから、浩介を返して!」


そして、本当に手術を拒んだ。


医師にも、親戚にも、何度説得されても首を縦には振らなかった。


数か月後。


痩せ細った母は、病室の天井を見ながら静かに笑った。


「浩介……もうすぐだからね」


傍らの看護師が、その手を握った。


母は最後に、ほんの少し嬉しそうな顔をした。


「やっと、浩介に会える」


それが最期の言葉になった。


母は死んだ。


そして天国で、息子を探した。


けれど、どれほど探しても浩介はいなかった。


当然だった。


浩介は死んでいない。


死ぬことさえできない。


母が息を引き取ったときも。


母の墓が苔むしたときも。


人類が滅びたときも。


太陽が燃え尽きたときも。


浩介はただ、光の速度で宇宙を進み続けていた。


彼自身の時計は、まだ一ミリ秒も進んでいない。


帰還まで、あと0.04秒。


永遠に、あと0.04秒。

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― 新着の感想 ―
最後まで読んで、たった0.04秒という短さがこれほど残酷になるのかと驚きました。母親とのやり取りが切なく、最後の一文までぞっとする余韻がありました。
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