王子付きメイドの私を犬と呼んだ悪役令嬢は、第三王子に婚約破棄されました
第三王子のロラン殿下は、いつも周りを気にかける方だ。
王族らしくない、と言えば不敬かもしれない。
殿下は大広間で挨拶を待つ貴族より、廊下の端で重い花瓶を抱えている下働きの少年に「重くないか、無理はするなよ」と、声を掛ける。
誰か目が少し窪んでいれば「昨日はちゃんと眠れたのか」と問い、誰かの声が少し掠れていれば「今日は早めに休め」と言う。
だから私は殿下の前ではなるべく、いつも通りにする。
殿下は朝の紅茶は少し薄めが好きだ。外出用の手袋は右から、雨の予報がある日は誰よりも早く替えの外套を用意する。
王子付きのメイドとして仕えてから七年、そうした仕事はもう染み付いていたし、これからもそれが続くと信じていた。
「ソシエ」
「何でしょう、殿下」
「今日は顔色が悪いみたいだ」
殿下の襟元に飾り紐を通しながら、いつもと同じ声を作る。昨夜あまり眠れなかったのです、などとは言えなかった。この人はきっと私を気遣ってくださる。今の私にはそれが何より辛かった。
「ご心配には及びません」
「またそう言う。たまには僕のことも頼ってくれ」
殿下が笑うと、柔らかな銀色の髪が朝の光を受け、白い礼服の肩に淡く影を落とした。私はその笑みから目を逸らして、留め具を一つずつ整えた。
優しい人だ。だからこそ余計な負担を掛けないまま、ここから去らなくてはいけない。
前日の昼、私は王宮の回廊でコレッタ・ヴァルニエ公爵令嬢に呼び止められた。
「あなた、ソシエと言ったかしら」
コレッタ様はロラン様の婚約者で、今は春の陽に透けるような菫色のドレスをまとっていた。華やかで、近づくと甘い香水の匂いがした。
「恐れ入ります。殿下のメイドを務めております」
「知っていますわ」
コレッタ様は扇で口元を隠しながら笑った。
「最近、よくロラン様のお口からあなたの名を聞きますもの。ソシエを呼んで。ソシエはどこだ。ソシエ、ソシエ、まるでよく懐いた犬を呼ぶみたいに」
後ろにつく侍女が小さく笑う。嫌な感じだ。明らかにこちらを見下している。
「恐れ多いことでございます」
「本当にそう思っているの?」
頭を下げると、コレッタ様の靴先が私に近づくのが見えた。私は顔を上げることができなかった。
「主人に撫でられた犬は、よく自分を人間と勘違いするらしいわ」
扇の先が、私の顎に触れ上を向かされる。
「でも犬は犬。いくら良い首輪をつけてベッドに転がっても血は変わらない」
「お言葉ですが、私にそのようなつもりは」
「でしょうね。あなたにそんなに知恵があるようには見えないもの」
美しい顔のまま笑った。冷たい声だった。
「でも迷惑なの。王子に呼ばれ、衣服に触れ、命じられればすぐ傍へ行く。下賤な娘ほど、それを愛情と勘違いするのでしょう?」
違うと言いたかった。けれどここで楯突くと殿下を辱めてしまう。
「地方にご家族がいらっしゃるのよね。お父様は庭師。お母様は針仕事。弟と妹もまだ小さいとか」
「なぜ、それを」
「あなたと違って私には友人がたくさんいるもの。少し人を使えばすぐに分かることよ」
コレッタ様はようやく扇を離した。
「ソシエ、ロラン様から離れなさい」
「それは……殿下のご命令がなければ」
「頭が悪いのね。選ぶ余地があると思っているの?」
声は笑っているのに、顔は氷のように冷たい。
「ご存知かしら? 王都の南部には下賤なものたちのお店がありますのよ。王宮より余程、あなたに相応しい場所ですわ」
娼館のことだ。言わなくても分かる。コレッタ様が気に入らない下女をあそこに送るという話はメイドの中でも有名な話だ。
まるで舞踏会の招待状でも渡すような声で続ける。
「大丈夫。あなたが素直に言うことを聞けば家族には何もしませんわ。お父様もお母様も、可愛い弟妹も。悪くない話でしょう?」
「……どうして、どうしてそのようなことをなさるのですか」
絞り出した声が震えた。
「私の殿下に、その汚れた手で触れたからです」
身体中の血が引いた。殿下の外套を預かった手。手袋を差し出した手。三年間、仕事として当たり前に使ってきた手が、ひどく汚いものに思えた。
「ロラン様に泣きついても無駄よ。あの方はあなたを庇おうとなさるでしょう。でもそうなったら、ご家族は無事では済まないでしょうね」
「コレッタ様、至らぬところがあったなら謝ります。どうかお許しを」
「賢い犬なら、謝るより先に自分から出ていくものでしょう?」
コレッタ様は最後に扇の端を布で拭いた。まるで、私の肌に触れた部分が汚いとでもいうように。
「週末までに支度をなさい。店には話を通しておきます」
そのまま彼女は踵を返し、侍女と話す笑い声が遠ざかる。
私はしばらくの間、回廊の端に立っていた。膝が震えていることに気づいたのは、誰もいなくなってからだった。
泣けば殿下に気づかれる。そうすれば私の家族は本当に壊されるだろう。
だからこの涙は飲み込まなければいけない。
王都南区の娼館から契約書が届いたのは、その日の夜のことだった。
私の父は、地方領主の屋敷で庭師をしていた。母は同じ屋敷で針仕事を請けていた。豊かとは言えなかったが、私の給金を送れば暮らしていけた。
だが契約書にはその仕事がなくなった旨の記載と、来月から王都南区の店へ来ればまとまった金を先に払うと書かれていた。
父と母と弟妹が冬を越せる額だった。
拒絶することはできなかった。
手紙を一晩中見つめた後、私は契約書に名前を書いた。
だから今から、殿下にお暇を願い出なければならない。
「ロラン様、お願いがございます」
私が仕事中に願いことを口にするのは珍しい。殿下は手を止めて椅子に腰を下ろし、急かすでもなく私を見た。
「なんだ?」
「お暇を、いただきとうございます」
声は思ったより震えなかった。
七年仕えた部屋。見慣れた窓辺。磨き上げた銀の燭台。殿下の寝台。何もかもが急に遠い場所に感じる。
殿下は少し目を開いた後、静かに聞いた。
「なぜだ?」
「父と母が仕事を失いました。弟と妹もおります。私がどうにかしなければなりません」
「どうするつもりだ?」
コレッタ様の名を出してはいけない。あの方に脅されたなどと言えば、家族は今より酷い目に遭う。
「王都の娼館で働きたく思います」
殿下はしばらく黙っていた。その沈黙が怖くて、私は頭を下げた。けれどすぐ、殿下の声が落ちてきた。
「ソシエ」
「はい」
「誰に言われた?」
「……え」
突然の質問に私は何も答えられなかった。
けれど私が黙った瞬間、殿下は小さく目を細めた。いつもの、殿下が何かを見落とさなかった時の顔だった。
「顔を上げろ。どうして一人で私に相談しなかった?」
「殿下に、ご迷惑をおかけできません」
「迷惑?」
言葉の意味を考えるように繰り返す。
「君に相談されることを僕が迷惑に感じると思うのか」
「私はただの使用人です」
「違う」
初めて少しだけ声が強くなった。殿下は黙ったまま額に手を当てた。まるで自分への怒りを押し殺しているかのように。
「君は七年間、傍にいてくれた。僕が王太子になるために支えてくれた。その君が何も言わず消えようとしている。何か理由があるなら君の力にならせて欲しい」
涙が落ちた。こんなところで泣いてはいけないのに、もう止められなかった。
「どうして、そこまで」
「今さら聞くのか」
その笑い方が優しくて、私はもう自分を誤魔化せなかった。
「今日は休んで。君はもう誰とも何も約束してはいけない。後のことは僕に任せておけ」
殿下は机の上の呼び鈴を鳴らした。
「ソシエを休ませて。今日は誰にも会わせるな」
侍従にそう告げる声は、いつもと変わらないほど穏やかだった。けれど殿下の指先が一度だけ固く握られるのを見た。
その日から、私の周りは急に動き始めた。
父と母と弟妹は、ロラン殿下の後ろ盾となっているアルヴェール伯爵家へ保護された。
娼館との契約は無効になったと聞かされた。
どういった顛末なのか私には分からなかったが、殿下はただ「君は知らなくていい」とだけ言った。
普段は何でも丁寧に説明してくださる方が、その件だけは頑なに話さなかった。
そして三日後、コレッタ様が王宮へ呼ばれた。
場所は王宮の小広間だった。殿下と婚約者の話し合いに使われるには十分すぎるほど格式のある場所である。
ヴァルニエ公爵とその夫人、アルヴェール伯爵夫妻、数名の王宮付きの者、そして私もそこにいた。
本来、私はこの場にいるべき身分ではない。
それでも殿下は自分の少し後ろに立たせた。
コレッタ様が入ってきた時、真っ先に私を見た。
「なぜ、その娘がここにおりますの」
怒りに頬を染めても彼女は美しかった。乱れたところなど少しもない。淡い菫色のドレスも、首元の真珠も、令嬢としての完璧な形を保っていた。
「コレッタ。君に聞きたいことがある」
「何のことでしょう。私には分かりかねます」
ロラン殿下の声は穏やかだった。
「彼女の実家に圧力をかけたのは、君の意思か」
「下々の家の事情まで私が知るはずもございません」
「彼女の父母が先日職を失った。君が懇意にしている領主の屋敷で、どちらも同じ日にだ」
「偶然では?」
「では、南区の店との契約も知らないと言うのか?」
コレッタ様の唇がわずかに動いた。
「この娘……ソシエは来月からそこへ行くことになっていた。家族を養うために」
「その娘が自分で選んだことでしょう」
小広間の空気が変わった。
私は思わず手を握りしめた。確かに名前を書いたのは私だ。けれどそこへ向かう道しか残らないよう、先に橋を落としたのは誰だったのか。
そう言った瞬間、ロラン殿下の目から光が消えた。七年間、見たこともないような冷たい目だった。
「申開きはそれだけか」
「ロラン様! 私はただ、殿下の御身を案じておりました。この娘は殿下に近すぎます。身分を弁えず殿下の私室に入り、殿下のお身体に触れることを当然のように」
「ソシエは私の王子付きだ」
「だからこそですわ! 主人に尻尾を振る犬を、王子妃になるわたくしが躾けただけです」
コレッタ様の声が、少しずつ崩れていく。
淑女の薄絹が剥がれるようだった。
「犬だと?」
「ええ。あの娘はただのメイドです。ロラン様に名前を呼ばれたくらいで、自分も人間になれたと勘違いしたのでしょう?」
その言葉を聞いた時、ロラン殿下はつかつかとコレッタ様に歩み寄った。
「……そうか。お前はソシエを人として見ていなかったのだな」
コレッタ様は返事をしなかった。
返事をする代わりに私を睨んだ。
「以前からずっと気になっていた。なぜお前がソシエを悪くいうのか。なぜ王子付きのメイドに、これほど望まぬ縁談話が舞い込んでくるのか。今回の件で色々と合点がいった。よくも今まで、回りくどい嫌がらせをしてくれたものだな」
コレッタ様は唇を青くしたまま震えていた。
「婚約は白紙だ。そのような下賤な考えを持つものは、王家に不要だ」
その一言で、コレッタ様の最後の支えが折れたのだと思う。彼女は父を見た。ロラン殿下を見た。それから私を見た。青い目が憎しみで濁っていた。
「あなたのせいよ」
私は動けなかった。
「あなたが、殿下の側にいたから。あなたが、殿下に名前を呼ばれていたから。あなたが、あなたみたいな卑しい女が。ソシエ、あなたが」
「口を閉じろ」
ロラン殿下が静かに言ったが、コレッタ様はもう聞いていなかった。
衝動的に近くの卓にあった果物用のナイフを掴もうとしたが、殿下が先にその腕を掴んだ。
誰かが悲鳴を上げた。殿下は構わず、逃げ場のない力でコレッタの指を離さなかった。
「ロラン様! 違うのです! 私は、私はただ」
「……連れて行け」
殿下の声は冷たかった。
「その女を連れて行け。そして二度と僕たちの前に顔を見せるな」
それは私の知っている殿下ではなかった。いつも人々に、私に向けて下さる優しさは、今一欠片もコレッタ様へ向けられていなかった。
ヴァルニエ公爵の顔は、もう青を通り越して灰色になっていた。
「コレッタ」
「お父様! 助けてください! 私は本当に、ロラン様のために」
「お前は王家との信頼を壊し、我が家の信用を踏みにじったのだ。残念だが……」
「待ってください、お父様! ロラン様!」
コレッタ様は殿下の名を呼び、父に助けを求めた。
けれど誰も動かなかった。ヴァルニエ公爵ですら、娘から目を逸らしていた。
そして、兵に連れられて広間から出ていったこの時を境にコレッタ・ヴァルニエの名は社交界から消えた。
彼女はグラストン公爵家へ送られたと聞いた。
華やかな嫁入りではなかった。
王都の社交界から遠く離れた、冬の長い土地。侯爵は高齢で、前妻を亡くして久しいと聞く。華やかな王子妃の未来とは、似ても似つかない場所だった。
ナイフを握ろうとしたことで、彼女に残されていた最低限の名誉すら失われた。王家の不興を買い、婚約を壊し、王宮で刃を向けようとした罪人を、北方の古い家が預かることになっただけだった。
「これを王家の慈悲と思え」
嫁ぎ先に向かう前、実の父親であるヴァルニエ公爵からコレッタ様はそう言われたと言う。結局、愛も名誉も地位も、彼女の手には残らなかった。
伯爵家の客間で、アルヴェール伯爵夫人はそう私に告げた。
事件のあと、私はアルヴェール伯爵家に身を寄せていた。父と母は同じ屋敷内で働き、弟と妹は伯爵夫人の手配で学校へ通っている。
伯爵夫人は、私を使用人として置くつもりはないと言った。
「我が家には娘がおりません。あなたさえよければ、ソシエさん、私たちはあなたを養女に迎えたいと思っています」
最初、私は断ろうとした。あまりにも分不相応だと思ったからだ。けれど伯爵夫人は、私が口を開く前に首を横に振った。
「娘の代わりにしたいのではありません。私たちには子供がいません。だから小さい時から、ロラン王子を我が子のように思っておりました。その王子が心からあなたを大切に思っていると聞いております」
そう言った伯爵夫人の目は、どこか昔を懐かしむようだった。
「だからこそ、あなたには王子に相応しい地位に立っていただかないといけません。もちろん、ご家族を引き離すつもりはありません。あなたの家族が居場所を失うようなことは決してありません」
夫人の言葉に涙が溢れた。
養女縁組が正式に認められたのは、春の終わりだった。
王宮の小さな応接室で、殿下はいつもと変わらない顔で私を見ていた。
私は淡い灰青色のドレスを着せられ、まだ手袋の指先を何度も気にしていた。メイド服でない自分の姿は落ち着かなかったが、それを見て殿下は笑っていた。
「似合っているよ、ソシエ」
「殿下、お戯れを」
「君は令嬢になってもそれを言うのか」
「そんなに急には変われません」
「変わらなくていい」
殿下はそう言って、当たり前のように私の向かいへ座った。窓の外では庭師が春の花を植え替えているのが見えた。
殿下は紅茶を一口飲んでから、ごく普通の話の続きのように言った。
「ソシエ。僕と結婚してくれ」
「……今、何とおっしゃいましたか」
「結婚してくれと言った」
「そのようなこと、そんな何でもない話のように」
「大切な話だ。だが、僕にとってはずいぶん前から決まっていたことだ」
殿下は困ったように笑った。
「君がいなくなるかもしれないと思った時、分かった。僕は君に仕えてもらっていたんじゃない。君に支えられていた。そしてこれからも支えて欲しいと思っている」
救われたからではない。
守られたからでもない。
殿下の中で、私が知らない間にそんな場所にいたことが、信じられないほど嬉しかった。
「私はまだ殿下にお仕えする癖が抜けません」
「なら少しずつやめればいい。僕も君に命じる癖を直す」
「殿下にそんな癖はございません」
「あるよ。君が何でも聞いてくれるから甘えていただけだ」
その言葉に私は目を伏せた。
以前なら、そんなことはありませんと否定していたと思う。
けれど今は少しだけ違った。
「では、お互いに直すことがございますね」
「そうだな」
ロラン殿下は、嬉しそうに笑った。
私は手袋の指先を握り直した。もう誰かの後ろに控えるためではなく、誰かに命じられるためでもなく、自分の返事をするために。
「殿下。喜んでお受けいたします」
殿下は私の手を取った。かつて仕事として殿下に触れた手を、大事そうに握りながら。
私はまだ、伯爵令嬢になった自分に慣れていない。メイドだった頃の癖も、頭を下げる早さも、誰かの顔色を伺う習慣も、簡単には消えないだろう。
それでももう私は自分を売ったりはしない。誰かの嫉妬で家族を奪われることも、誰かの都合で汚されることもない。
ロラン殿下が、私の名を守ってくださったから。そしてこれからも殿下を支えられるように、その名で殿下の隣に立つ。
ソシエ・アルヴェールとして。




