第19話「古の記憶と、森に隠された約束」
霧が、森の奥を包んでいた。
その日は朝から曇り空で、しとしとと細かな雨が葉を濡らしていた。地面はやわらかく、足音が吸い込まれるように消えていく。ノアとポルンと一緒に、僕は森の深部へと向かっていた。
足元の苔を踏むたびに、森が息をしているように感じられる。
「……空気、変わったね」 ノアがぽつりとつぶやいた。
「うん。このあたりは、森の中でも特に古い領域だと思う。木々の並び方が違う。風の通り方も」
まるで誰かが手を入れたような整然とした並び。それでいて、何世代も自然の中にあったような風合い。
僕たちが進んでいくと、木々のあいだから、苔むした石の壁が姿を現した。
「……建物?」
いや、建物ではない。正確には、何かの“門”だった。 土に埋もれていたが、かつてはしっかりとした石組みでできたアーチ。中央には風化した紋章のような刻印がある。
「これ、見たことある……学院の図書室の古文書に、似た印があったかも」 ノアが記憶を探るように眉を寄せた。
「魔瘴が発生する以前、この森は“聖域”として守られていた……っていう記述もあったはず」
「聖域?」
僕はその言葉の響きを反芻する。 この森に入ってから、感じ続けてきたぬくもりと静けさ。それが、何かの意思に守られていたとするなら──
「この“門”の奥が、たぶん……その中心地だったんじゃないかな」
◇ ◇ ◇
門をくぐると、さらに深い霧が待っていた。 足を踏み入れた瞬間、空気の匂いが変わる。 まるで時間が止まっているかのような静けさ。
そこには、大きな樹があった。 ほかの木とは明らかに違う、圧倒的な存在感。
幹は太く、根は大地にしっかりと広がり、葉は一枚一枚が深い緑に透けている。 樹の根元には、いくつかの石板が並んでいた。
ノアがゆっくりとその一つに手を伸ばす。 「……読めない。でも、図形が入ってる。これ、魔導言語っぽい」
「たぶん、森を守るための“結界”とか“封印”に関係するものだと思う」 僕も見覚えのある構造だった。古い魔導具に使われる、基礎的な構成文様の一部が含まれていた。
「じゃあ……この森は、昔から何かを封じていたってこと?」
「それか、“何か”を守っていたのかも」
ふたりの視線が、ゆっくりと大樹の幹へ向く。 樹皮に走るひび割れの中、わずかに光る青白い線が浮かび上がっていた。 それはまるで、心臓の拍動のように、かすかに鼓動している。
◇ ◇ ◇
帰り道、ポルンがやけに静かだった。 いつもは葉っぱに飛びついたり、小枝を咥えて走り回ったりするのに、今日は一歩ずつ、周囲を見回しながら歩いていた。
「ポルンも……何か感じたのかな」
ノアがそっと頭を撫でる。 ポルンは、小さくくぅと鳴いて、彼女の指に顔を寄せた。
森は、変わり始めている。 魔瘴獣の出現は、その前触れだったのかもしれない。 そして、今日見つけた“門”と“石板”──
そこに刻まれていたのは、森がかつて交わした“約束”なのかもしれない。
僕たちはまだ、それを読み解けていない。 けれど、森がこのまま何も語らずにいられるとは、もう思えなかった。
「戻ったら、もう一度文献を探してみる」 ノアがきっぱりと声に出す。
「うん。僕はあの石板の構成を写してみる。似たものを探せば、手がかりになるかもしれない」
小さな霧の奥に残された、古の痕跡。 そこに込められた“誰かの想い”が、少しずつ、輪郭を帯びはじめていた。