第16話 静かな森で、初めての対峙
それは、朝霧の深い日だった。 木々の隙間から差し込む光はぼんやりとにじみ、まるで森全体が夢の中に沈んでいるようだった。
ポルンが、ぴたりと動きを止める。 そのしっぽがゆっくりと、警戒するように左右に揺れた。
「……レト」
ノアの声が、いつもより小さい。 息をひそめて、ぼくも周囲に気を配る。
風が止んでいた。 草が揺れず、葉が落ちる音すらしない。 森が――呼吸を止めている。
「来るよ」
その言葉と同時に、木々の間から、黒い影が現れた。
濃い瘴気をまとった、それは獣のようで獣でなく、歪な輪郭をしていた。 四肢の位置が不自然で、毛並みはもつれ、目は深い紫色に濁っていた。
魔瘴獣。 記録にしか残っていなかった、かつての災厄の残滓。
ぼくはそっと腰のポーチから、対魔瘴用に調整したスモークパックを取り出す。 ノアが準備した試作品――魔瘴を中和する粉末を霧状にして放出する、小さな錬金ギミック。
「ノア、任せるよ」
「うんっ!」
ノアが装置のスイッチをひねる。 しゅうっ、と霧が広がり、魔瘴獣の動きがわずかに鈍る。 その隙に、ぼくは素早く足を動かして位置を変え、周囲の地形を利用する。
森の起伏、小石の露出、湿った倒木。 ぼくの足は、森に慣れている。森は、ぼくに優しい。
魔瘴獣が吠える。 その声は、どこか濁っていて、痛みを帯びていた。
「ノア、追加いける?」
「次の霧、起動まで十秒!」
「了解。じゃあ、ぼくが引きつける!」
ポルンが低く唸る。 けれど、飛びかかろうとはしない。 彼もわかっている。この敵は、ただの獣ではない。
ぼくは手元のスリングを握る。 革のポーチから、硬化した種子をひとつ取り出し、重さを確かめる。
すっ、と森の空気が張りつめた。 魔瘴獣が地を蹴った。
来る。
ぼくは身を沈め、スリングを振り抜く。 種子が、狙い通りに魔瘴獣の目元すれすれをかすめる。 注意が逸れた隙に、ノアの霧が再び散布される。
魔瘴獣の足が止まった。 瘴気が薄らぎ、体表の色がわずかに変わる。
「今だ……!」
ぼくは素早く接近し、ポルンと連携して相手の足を崩す。 ノアが準備していた、封印符を投げ渡す。
「貼るよっ!」
符が魔瘴獣の額に触れた瞬間、淡い光が瞬き、闇がじわりと後退する。
ぐらり、と魔瘴獣が揺れ、崩れるように倒れた。
呼吸をひとつ、吐く。 ようやく、森の風が戻ってきた。
◇ ◇ ◇
倒した、とはいえなかった。 あれは、あくまで一時的な抑え込み。 魔瘴獣の本体は、もっと奥にいるのかもしれない。
「でも……効いたね」
「うん、ノアの装備、ばっちりだったよ」
ノアは照れたように笑った。 けれど、その目の奥には緊張が残っている。
この森が、静かなままでいてくれたらいい。 けれど、きっとこれは、始まりだ。
ぼくたちは森の静けさの中、次に備えて深呼吸をした。 風はやさしくなったけれど、奥底にはまだ、ざらついた気配が残っていた。