第一章 - Repeating days.
千九百三十八年、一月一日。
神聖なエデンという都市に新年が訪れていた。
「ほら、そこの坊ちゃん。アプリコットパイ食べていきなよ」
新年に聖なる果実を食べる風習があるこの都市では、アプリコットパイやアプリコットを使用した商品が各店舗で販売され、家族で食べるという慣習があった。
エドガーは通り過ぎようとしたパン屋の店主に呼び止められ、ガラス越しに見える店内を一瞥した。店内には家族連れやカップルが多くいて賑わっている様子で、皆それぞれアプリコットを使用した商品を手に取っていた。
何回目だろう、この会話は。
「悪い、食欲ないんだ」
「そうかい?」
不思議そうに返事をする店主を無視し、また歩き出す。
石橋に差し掛かったところで新聞を配る若者がいた。エドガーは他の住人に混じり、新聞を一部もらい、ニュースに目を通した。
〈来る新年、“北の巨兵”完全無力化か〉、〈夜明け派、聖都に根を張る〉。
新年の初めというめでたい日でありながら、不穏で汚い大人たちの裏話が多く載っている。そしてこれを読むのもおそらく数回目。いや、それ以上かもしれない。
新聞を持つ手に力が籠り、力で圧縮された新聞紙がぐしゃ、と音を立てた。道に置いてあるくずかごに新聞紙を投げ入れた。
今日が七日目。だから一月一日に戻った。昨日は何日だっけ、また一月二日が来て、一月三日が来て、一週間でまた元に戻る。
おかしくなりそうだ。
また同じ場所で同じことを聞かれるのか、同じ新聞を読み、同じ騒がしく耳障りな女子供の声を聞かなければならないのか、同じ言葉を繰り返す奴らは、何も気がついていないのか。
おかしくなりそうだ。
「エドガーくん」
聞き馴染みのない声が聞こえてきた。繰り返す日々の中で、全く無関係の声だ。知らない人間の声が頭の中で反芻する。鼓動が脈打つ。
やっとループが終わるのか?
振り向くと、白いローブに身を包んだ男が立っていた。口元しか見えないその顔に、にこりと笑みが貼り付いている。正直気持ちが悪い。
「エドガーくんだね?」
何も言わずただ睨みつけている。それでも相手はにこりと笑う。
「私は『ゼレウス=ゴフェル』の使いだよ。君のような子を探していたんだ」
新手の宗教勧誘か何かだと思った。聞いたこともない言葉を口にしていた。人の名前なのか団体名なのかすらわからない。「ゼレウス=ゴフェル」ってなんだ?
「君は、ループの中を生きているね?」
その言葉が一番頭に響いてきた。“それ”をわかる奴がいるのか? 自分の他にも。
「我々はループに気がつく子供を探していた。君には才能がある。我々と共に来て欲しい。君にとって、きっと良い学びとなるだろうさ」
そう言って手を伸ばしてきた。にこりと笑みを張り付けながら、とても不気味な奴だと思った。
適当に相手が欲しそうな言葉を並べ、自分は仲間だと主張をし手を差し伸べる。まるで詐欺のような、誘拐犯がやりそうな手口だと思った。しかし、自分の頭はどうにかなっていたようだ。
「ほぅら、エドガーくん。こっちへおいで」
こっちへおいで、頭の中で反芻する。ずっと鳴り響いている。仲間、同じ境遇で、ループから抜け出せる何かがあるかもしれない。
なんだ、この違和感は。
本当に仲間か?
そう思った直後、少女の声が聞こえてきた。
「待って! それから離れて!!」
空から降ってきたように見えた少女は、フードの男とエドガーの間に鋭い蹴りを入れた。その衝撃で石のタイルは砕かれていた。
なんだこいつ、と思った矢先、少女はエドガーを庇うように前へ出る。対してフードの男は距離をとりつつも、相変わらず笑みを張り付けている。
「おお、これはこれは。君はサーマンくんだね、光の能力者だ。ああ、こんなところにいたのか。君のことも追っていたんだよ」
まるで演劇の舞台にでも立っているかのように身振り手振りを交えながら揚々と喋り出す。
「君、あたしが合図したら走るよ!」
サーマンという少女は何か打開策でもあるのか、自身ありげな表情で言う。
「君の弱点は知っているし、武器となる強みも分かっている。あとは、エドガーくん。君だけだね」
両者は睨み合っている。このままではこの場所が戦場になるような気がしていた。まずい、どうするべきだ。エドガーは状況が理解できず、ただ自分の身を守れるかそれだけが心配だった。
先に動き出したのはサーマンだった。男に向かって思い切り走り込み、そして何もない腰の方へ手をやり、まるで鞘から剣を抜くような動作をした。そこには何も無かったが、確かにその手には光の刃が見えた。それは下向きのまま男へ向かい、そして切っ先は宙を舞った。男は避けて上を向いた。サーマンは「今!」と叫び、エドガーの手を引いて走り出した。
「ああ、そうだろうね。そうだろう。人を傷つけられない哀れな小娘だ」
そんな言葉が背後から聞こえてきた。早く走らなければ。
訳が分からない。
前を走るサーマンは冷や汗をかいている。手もどことなく震えているような気がする。人に剣を振るったのだ、慣れていなければ怖いのだろう。
「ごめんね! あとで色々話すから! 今はついてきて!」
自分も怖いだろうに、他人を気遣う余裕があるのか。変な奴だと思った。
まっすぐ走り、更に大通りを右へ走る。この祝日の雰囲気の中、ずっと地に足がつかない感じがする。お祭り騒ぎの喧騒が遠くに聞こえるような感覚になる。どっちが夢で現実だろうか。
そう思っていたその時、下から声が聞こえてきた。
「こっち! こっち!」
また別の少女の声だ。マンホールから顔を出した大人しそうな少女は、こちらを手招いている。背後には追っ手がいるだろう、さっさと切り抜けなければならない。
サーマンの仲間かと思ったが、表情を見るに仲間ではなさそうだ。サーマンの後を追ってマンホールを降りた。
ひた、ひたと水が滴る音がする。様々な匂いが充満する下水道にはエドガーとサーマン、二人の前を歩く少女の三人の気配しか存在しない。
この少女は誰だろう。やけに人懐っこそうだった。
「ごめんねぇ、びっくりしたよね?」
ふわふわとしていて、バカっぽい声だと思った。
「ううん、助けてくれてありがとう! えっと、」
サーマンは特に気にした様子もなく、元気よく礼を言っていた。
「わたしはミルティ! よろしくね〜」
名前もバカっぽいと思った。
「あたしはサーマンで、えっと、名前なんだっけ?」
「……エドガー」
そう言えば名乗っていなかったか、と思ったが正直この二人のノリにはついていけないかもしれないとも思う。
「エドガーくんとーサーマンちゃんね〜よろしくー」
イライラしてきた。この間延びした声、まるで花畑を駆け回ってそうなふわふわ女という感じだ。さっきからずっと訳が分からない。
「二人は知り合い〜?」
「違う」とサーマンより先にはっきり答えたのはエドガーだった。
「知らねえ奴に絡まれてて、そこにこいつが来た」
「そうだったんだ〜、サーマンちゃんが助けてあげたんだねー」
少しイラついた風に答えてしまったが、全く気にしていないようにミルティは受け流した。慣れているのだろうか、人の扱いに。
サーマンは褒められたと受け取ったのかなぜか誇らしそうに照れている。
「なあ、さっきのやつってなんなんだ? なんで俺の名前を知ってた? お前は何者なんだ?」
流石に待ちきれなかった。だが質問攻めにもミルティは依然とした態度を崩さず、「ちゃんと説明するよー」と笑った。
「先に船に着いてからね〜」
「船?」
サーマンと声が被った。サーマンも知らないらしい。
「船はねー、フーちゃんが動かしてる沈没船で〜、んー。行けばわかるよ〜」
この女、頭の中に砂糖菓子でも詰まってるんじゃないか?
ミルティは特に汗ひとつかいていないが、サーマンは先程の諍いで消耗しているのか、それともただ不安なだけなのか冷や汗がずっと流れている。やはり手は震えているようにも見える。
「エドガーくんって結構冷静な方〜?」
ミルティは不意にそんなことを聞いてきた。
「冷静? この状況でか?」
「だってずっとじーって周り見てるし、もしかしてただ無口くんなだけー?」
俺を怒らせたいのか? ……とも思うが自分が一番冷静になった方がいい。今の状況がわからず、ただ暗くて臭い下水道を歩いているだけなのだ。早く説明しろ、とも思ってしまう。ただずっとふわふわとしているこの女に呆れているだけなのだ。
「そろそろだよ〜」
ミルティが指を差した前方に少しずつ光が漏れているのに気がついた。
道の途中、壁には階段があり、その上から何やら光が漏れている。先を行くミルティは階段を登り、扉を開けた。
それに続いてサーマン、エドガーが扉をくぐった。
扉から出た先は薄暗い通路のような場所。扉の先は外かと思ったが外ではないようだ。先ほど感じた光は、ガス灯のようだ。しかし潮の匂いがする上に、波の音も聞こえてくる。
「ここは?」
「船の漂着場所っていうのかなー、屋根があってぇ、落ち着ける場所だよー」
港とは違うようだ。しかし、船と言っていた。見上げると薄暗いせいか細部まで見えないが、明らかに外装が壊れたように見えるオンボロ船があった。まるで幽霊でも出てきそうな見た目、サーマンもエドガーに続いて見上げたようだがすぐに目を逸らしていた。
ミルティはまた先導して歩く。船の扉を開き、二人を手招く。促されるままに船の中へ入っていった。
「ようこそ、ノド=オプスへ。逸れ者の為の場所、君たちの新しい家だ」
落ち着いた女の声が聞こえてきた。
中は明るい。外はまるで壊れているようだったのに、中は豪華客船の中のような広さと明るさをしている。
調度品があるわけではないが、ラウンジのようなスペースがあり、その横には黒板と船の模型、黒板には貴重な紙がびっしりと貼ってある。
ソファから背の低いローブを被った少女が二人を出迎えた。ミルティはその少女に連れてきたよーと明るく話している。
「俺たちが来ることを分かっていたのか?」
「正確には違うが、まあそういうことだな」
大人びた口調の少女は頭を下げたあと、エドガーとサーマンを交互に見た。
「私はこの船のマスター、フーだ。よろしく頼む。君たちはきっと何も状況が掴めていないことだろう。私から説明させてもらおう」
そう言って、ソファへ二人を案内した。奥の部屋から長身の男がワゴンを押して入ってきた。
「おお、二人も加わるのか! こりゃあ賑やかになりそうだなフーちゃん」
蛇の骨のような髪飾りをつけ、腕や首やらに刺青を入れまくった見た目の治安が悪い男が軽快に笑っていた。腰にエプロンをつけているためなんだか異様な雰囲気にしか見えないが、ティーセットを載せたワゴンを押しているのを見るに、船の中のシェフのような役割なのだろうかと勘繰る。
ミルティは子供のように足音を立てながらソファにどっかりと音を立てて座った。
「はしたないよ、ミルティ」
「えー? えへへー」
正直こいつは嫌いかもしれない、と思った。
男が洒落たカップをテーブルに並べ、洒落たティーポットで香り立つ茶を淹れ、茶菓子をそれぞれの手元に置いていた。準備が終わったのを合図に、フーは静かに語り出した。
「君たちが巻き込まれている、そして私たちが探している最大の敵について、これから話そう。君たちには知る権利がある。」