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 その日は良く晴れていた。

 まさに真夏日という言葉がぴったりな昼間である。照り付ける熱視線は立ち並ぶ墓石を力任せに殴りつけるようで、わなわなと陽炎を揺らめかせて戦慄く彼らは、一様に不平不満を捲し立てそうな面持ちである。

「熱いわね、ニコチアナ」

 だから私も顎に滴る汗を拭い、愛すべき人へと呼びかけた。背中にべっとりと張り付くシャツが何とも不快である。周囲の墓石はいくつかちらほらと、盆らしく手入れされ、水をかけられた痕跡があるが、あの染み跡も五分もせずに乾いてしまうだろう。墓石に刻まれた名前の溝に溜まった苔さえも干からびるはずだ。何せ、本当にそれほど暑いのだ。

「昔さ、こんなにも暑かったら外に行きたくないって私が言って、夏の間は全然デートしなかったわよね。本当、私ってば暑いの苦手だから。でも貴女が海に行こうって連れ出してくれた時……確か、貴女が大学二年の頃だったかしら。あれは、十年近くたった今でも思い出すくらい楽しかった。そして、あの時に夏の海の絵を描いて、それが美術館に初めて買ってもらえてさ、それからようやく、私もぼちぼち絵で稼げるようになったのよね」

 空の中で、空蝉たちが声を使って相撲をしている。西の蝉が鳴けば負けじと東も鳴き、どっぷり組み合い、押したり引いたりを飽きもせず、ずうっと繰り返しているのだ。

 そんな彼らの足元、地に足をつけ、しゃがみ込み、私はただのろのろと口を動かしていた。やはり暑い。とかく暑い。顎から滴る汗は滝のようで、息をするのも苦しくなるくらい、噎せ返るような暑さが、じりじりと私を窒息させようとする。

「懐かしいわね。それから、丁度貴女にプロポーズをする少し前から、とうとう絵一つで食べていけるくらい稼げるようになって。逆に言えば、本当にぎりぎりだったのよ。貴女があの日、まさか別れようと言い出すなんて思ってなかったから咄嗟にプロポーズしちゃったけれど、本当はまだレストランとか探してたくらいだったし、絵でもう少し稼げるようになってからとだって思ってたし、全然心の準備とかできてなくて、緊張したんだから」

 言えば、当時の記憶が蘇ってきた。まさにあの晩だ。ニコチアナが幸福に対する恐怖を増幅させ、衝動的に錯乱したみたいになり、全てを投げ捨てようとした日。そして、それはニコチアナが不幸主義であった最期の日でもあるのが、また面白いところである。

 ニコチアナはあの日以来、本当に人が変わったようになったのだ。勿論彼女は仮面の使い方が非常に上手であったため、端から見ていれば些細な変化だったり、もしくは変化に気付かれなかったかもしれないが、彼女の性根の部分というか、劣悪な家庭環境で育ったせいで不安定だった魂の根底がきっぱりと固められ、誰の前でも快く笑うようになった。

 無論だからといって、それ以来彼女に辛いことがなかったわけではない。例えば聞いた話だと、病院に入院していたカミュという少女が亡くなった時なんかも強く傷つき、実に一週間近くも”遠い目”をしていた。

 そんな風にニコチアナはとても繊細で優しい人だった。彼女はきっと、精神的な痛覚というものが人一倍敏感なのだ。何でもない他人の痛みにさえ過剰に反応し、その苦しさをひとたび想像すれば、頭の中でそれを増幅してしまい、居てもたってもいられなくなるのだ。

 故にニコチアナはとても危うい人であった。特に付き合い始める前、高校の一、二年生の頃なんかは明らかに無理をしていて、何度か熱を出して倒れそうになることだってあった。そしてそれは全部人の為に働いた結果であった。

 でも、だからこそみんなが彼女を愛していた。あの他人の痛みに関しては過剰なほどに敏感であり、代わりに他人からの好意に関してはあり得ないほど鈍感な彼女は、もしかしたら気付いていなかったのかもしれないが、彼女の周りに集まっていた人間は皆、そんな儚げで、幸が薄そうで、硝子細工のように繊細で、だからこそ支えたくなる人徳を持った彼女に、確かに惹かれていたのだ。

 ニコチアナとはそういう人であった。彼女が使いこなす巧みな面に加え、そもそもニコチアナという一人の人間が、一目見るだけで放っておけなくなるような、不思議な雰囲気を醸していたのである。

 故に彼女が亡くなった時、その葬式には多くの人が訪れた。本当にたくさんの人が来たのだ。高校を卒業してから一切会ってすらいなかったような人が、人聞きを伝って山のように押し寄せ(もちろん同学年だけではなく、上級生や下級生、中には近所の高校の人間や、中学生の時の学友や先輩後輩、同じように大学時代の学徒たちから、これまでのニコチアナの患者等)、私と義姉は、あまりの人の多さに対応しきれず目を回してしまった。

 そして皆、口を揃えて言うのだ。実はニコチアナのことをずっと忘れられなかったと。

 ひたすらに身を粉にし、自己完結的な奉仕の精神で人に寄り添う彼女はある意味では完璧であり、付け入る隙などなく、それがどこか一つ線を引いているように思えて、皆彼女の内面まで踏み込めなかっただけで、気にかけられてはいたのだ。

 そんな葬式を経て思うのは、やはり、彼女は素晴らしい人であったと言うことだ。

 ニコチアナが眠る墓石は、墓地の中でも最も端の辺りにあった。またこの墓地というのは太古の城塞跡に作られており、足元に石垣があるとおり、とても高い所にあって景観が良いのである。澄み切った青空の向こうの方に見える山々はなだらかに波打つようにして空を支えており、いかにもニコチアナが好きそうな光景だ。

 だから、その景色が私も好きだった。私たちは基本的に高い所が好きだったのだ。傍らの石垣に腰掛け、ポケットから煙草を取り出し、咥えると、目を細めて煙を啜った。

 それは甘い煙であった。味がしっかりとしており、重たく、気体というよりは液体を口に含んでいるような具合で、それを頬袋に溜めたり、噛んだり、喉奥に流し込んだりすると、胸の辺りに湧いてくる懐かしさに影がついたみたいで、過去を想起すると言う行為に強いリアリティが生じる。

 まるで全てが昨日のことのようだ。初めてニコチアナに会ったのも、彼女の看病をしたのも、彼女と結ばれたのも、彼女と共に暮らしたことも、全て振り返ればすぐそこにあるような気がする。

 だが、ああ、やっぱりそれは全て幻だ。私は心のどこかで気付いていた。煙を吸い、思い出す度に彼女の顔が少しずつ色褪せてきて、水面に沸いた泡が弾けるみたいに、いつかは消えてしまうものなのだろうと言う実感が、私の心にはあった。

 しかし、私はそれを恐れはしなかった。もちろん彼女のこと、特に出会いやプロポーズと言った重要な場面ではなく、本当に何気ない日常の一つ一つをいつの間にか忘れてしまうことは悲しい。

 けれども、そもそも永遠に在り続けるものなんてないというのが絵描きとしての私の持論であるため、私はそんな時の淘汰というものを素直に受け止めていた。

「いつかはこうしてここにきても、もう昔のことは何も話せなくなるんでしょうね」

 呟く。しかし、私の口元には笑みが浮かぶ。

「でも大丈夫よ、ニコチアナ。その時は新しい過去のことを話してあげるから。ふふ、あの子、リオったら毎日とても元気なの。遊びに行けば服は泥だらけにしてくるし、食卓につけば食べ物をこぼしてばかりだけど、少しずつ背も伸びてきてるの。顔は完全に貴女似よ。髪の毛も鮮やかな紅色で、どれだけ遠くに居ても一目で見つけられるわ」

 言葉を紡いでいく。私とニコチアナの子、リオは難産であり、彼女を産み落とすのと引き換えにニコチアナは命を落としたのだ。それからもう五年近くが経ち、リオも順調に育っている。今は義姉に連れられ、近所の劇場に演劇を見に行っているのだ。それは義姉の計らいである。彼女は言動こそ粗野ではあるが、やはりニコチアナと同じように思慮深く、私がこうしてゆっくりと彼女と話せるように、子供の相手をしてくれているのだ。

 粛々と紫煙を立ち上らせながら、それを眺め、ふと口を閉ざすと、そんな煙が花のように見えた。煙草の花だ。それはたった一瞬、まさに燃え上がる火のような勢いで産声を上げると、最初こそ細長い貧弱な茎であるものの、先端の煙が花開くようにふわりと空に広がり、甘い匂いを振りまくのである。

 まさに本当に華のようだ。一瞬の命、一瞬の全盛、一瞬の衰退。生まれれば死ぬという、イコールで繋がれた方程式を、こんなにも美しく色付てしまう。

 私は遠い、遠い空を見上げる。

「ねえ、そっちから見ても、そうでしょう?」

 言った時、墓地の入口の辺りから元気のよい声が聞こえる。続いて低く張りのある、強かそうな女性の声だ。リオと義姉だろう。演劇が終わったため墓参りに来たのだ。

 そうして私はもう一度煙草の煙を見た。ニコチアナが居なくなり、リオの頬や額くらいにしかキスをすることがなくなり、口寂しくなって吸い始めた煙草であるが、やはり子供の前で吸うのは気が引ける。

 耳を澄ませる。リオの足音が近づいてくる。

 再び、空に去っていく煙を眺める。

 近づいてくる。

 消えていく。

「あ、お父さん!」

 向こうの方の通路から顔を出したリオが、やはりニコチアナに似た優しそうな顔で、けれども”彼女らしく”、元気いっぱいに笑う。

 それを見て、私は煙草を携帯灰皿に押し込んだ。そうして空いた手のひらを振れば、リオは「わぁ!」と叫びながら駆けてくる。

 世界は廻る。生まれては死に、死んでは生まれる。

 でもそれは同じところを回り、同じことを繰り返すのではなく、螺旋階段のように、巡りながら、昇っていくのだ。

 だから、ニコチアナが死んだという過去は変えられなくても、彼女は自らの命と引き換えに、こんなにも眩しい命を生んだのだと、その過去の意味なら変えられるのだ。

 生きていれば、過去を振り返った時、その景色は必ず変わるのだ。

「ねえ、ニコチアナ」

 小さく呟けば、私はすうっと、目を細める。

「必ず貴女を幸せにするわ」

 その時、空に溶けていった煙の花が、蒼い風に攫われた。


 ニコチアナが枯れていく。

 そしてまた新しい、花が咲く。


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