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 高校三年生ともなれば、私はとうとう、多忙を極めるようになっていた。

 それは委員長ではなく、生徒会長になってしまっていたからだ。これまではせいぜいクラスに関する雑務ばかりであったのが、学年や、学校行事に関する仕事がいくつも湧いて出てきて、私は常に身を粉にしていた。

 しかし、それでも二年生の時のように潰れたりしなかったのは、適度に息抜きができていたからだろう。

 その息抜きの一つが、昼休みイズリーと一緒にご飯を食べることであった。

「お疲れ、ニコチアナ。今日も忙しそうね」

 旧校舎の裏手にある、非常階段の一番上。そこが私たちの秘密の場所だ。元々はイズリーが一人で使っていたのだが、三年生になり、私とイズリーのクラスが別々になってしまった際、これを機にと私が昼食へと誘ったところ、彼女が案内してくれて、あまりの居心地の良さに私が通うようになったのだ。

 そこから見える景色は素晴らしかった。何よりも学校が丘の上にあったため、街や、その向こうの海を見下ろすことができるのだ。ひたすらに蒼い空がずらりと空を覆い、彼方にある海の青と溶け合うと、その天と地の境目に綺麗な一本の水平線が出来上がる。偶に真っ白い貨物船か、はたまた真っ白い大雲がそんな水平線を綱渡りでもしているみたいにゆっくりと渡っていけば、私達は穏やかにそれを眺めた。

「引継ぎのことでちょっと呼ばれてただけだよ。文化祭の時とかと比べたら全然。もうお役御免さ」

 イズリーの隣のステップに腰掛けると、私は肩を竦めた。穏やかな春の日である。海より出でた麗かな風が、のっぺりと低くも広い街並みを駆け、緑々豊かな森を梳き、私たちの髪に触れるのだ。

「でも、まだあれがあるでしょ?」

「あれ?」

「卒業式の答辞」

「あー……確かに」

 頷くと、自然と眉間に皺が寄った。人前に立つこと自体は慣れてしまったが、しかし心の何処かでは、どうしても抵抗のようなものがあるのだ。

 特にそれが卒業式の答辞ともなればひどいものである。私にとって別れというものは、まさにそれまでの三つの喪失体験の通り、トラウマに近い何かであったのだ。折角の仲間たちと離れ離れになってしまうことを考え、更にまた別の環境に飛び込まなくてはならないと思うと、心には凍土に吹き荒れる寂寥に似た、冷たく、斬りつけるように痛い切なさが巻き起こるのだ。

 そうして頭上を見上げると、私はぽつりと呟いた。

「卒業、しちゃうんだね」

 思い返せば激動の三年間であった。もちろん忙しく、苦しいことは何度だってあった。だが前提として、私は人に尽くすことを至上の喜びとしているため、そんな日常を充実していたとも思っていた。

「ねえイズリー」

「ん?」

「イズリーは、進路はどうするの?」

 寂しくなって尋ねてみると、イズリーは珍しく言い淀んだ。偶に見る歯切れの悪いイズリーだ。高校時代のイズリーは、やはりまだ精神的にも未成熟な部分があった。そもそも私たちの関係は恋人ではなく友人であったため、打ち明けられるものというのが限られていたのだ。

 そして私は、そんな関係をどこかもどかしく思っていた。イズリーにだけは委員長や生徒会長ではなくニコチアナとして唯一接することができていたため、彼女にもまたそれを期待していたのだ。

「言いにくいなら無理に言わなくても良いけど」

 だが私も私で、当時は子供であったため、少しむくれながらそう言い返したのだった。あくまでも持論ではあるが、私にとって反抗期というものは、信頼している相手や甘えられる相手にのみ生じるものであり、それまでの抑圧された人生のせいで、どうにも他人に対して聖母か道化かといった仮面を被り、常に笑顔を浮かべてしまう私としては、そうして素直に拗ねられる(甘えられる)と言う時点で特別なことであったのだが、当時の私はまだそんなことには気付いていなかったのだ。

 だがそんな私の態度を見て、イズリーも考えたのだろう。ため息を吐くと「ここだけの話」と前置きをし、食事の手すらも休めて、彼女は私に向き直った。

「画家になろうと、思うの」

 言われて、私は持っていた箸を取り落とした。からからと転がっていく二対の棒きれが言葉の後を追っていき、ずうっと下の方まで行ってしまったが、この会話を聞いている人がいないように、それを拾う人はどこにもいなかった。

「ちょっと、何か、言いなさいよ」

 緊張したように口を尖らせるイズリーを見て、私はようやく我に返った。

「で、でもイズリー、あれだけ画家にはならないって」

 そう、私が驚いていたのは、偏に彼女が他人に絵を見せることを渋っていたためだ。偶にある美術の時間でさえ授業中には描かず、居残りして、放課後に人目に付かないところで筆を動かす徹底ぶりだ。無論美術の先生にだけは見つかってしまい、毎度の如くしつこく部活やコンクールに勧誘されていたが、結局三年間全て二つ返事で断っていたのがイズリーだ。

 以前彼女にそのことについて尋ねた際、イズリーは当然のこととして、「絵は趣味で描いているから」とだけ答えた。彼女にとっては、それが自分だけの、それこそ小学生の頃の私のトロイメライのような、唯一無二の聖域であったのだろう。だからそれを守るために誰も近づけないようにして、常に一匹狼であったのがイズリーなのだ。

「その、少し考えが変わったのよ」

 美しいアメジストの髪を指で巻きながら、イズリーは告げた。なんだか喉に石が詰め込まれ、舌が頬や顎に引っ付いているようなもごもごとした喋り方だ。ひどく言い難そうで、また、どこか後ろめたそうな態度である。

 だが、否、だから私は知りたくなった。

「どうして?」

「それは……」

 言い淀み、少しすると、イズリーは盗むようにちらりと私の目を見た。

「前さ、一年の発掘祭の時、貴女が私の絵を買って、二人で貴女のお母さんの所に持って行ったでしょう。あの時ね、貴女のお母さんが涙を流して喜んでくれて、褒めてくれて、すごく嬉しかったの。ほら私、家にあんまり両親がいないじゃない。ずっとお婆ちゃんしかいなくて、でもお婆ちゃんも、暇さえあれば絵ばっかり描いてる人で。私に絵を教えてはくれたけど、褒めてくれたことなんて一度もなかったの。だから私の絵が、まさかあんなに誰かに認められるなんて思わなくて」

 言葉を区切って、イズリーは空を見上げた。そこには一面の快晴が広がっており、まるで吸い込まれるようにして彼女は蒼色に見惚れていた。イズリーが偶にする遠い目だ。私はそれを眺めるのが、高校の時から好きだった。

「それからね、いざ漠然と私って何がしたいんだろうって考えると、いつもそればっかり思いだすのよ。元々やりたいことなんてない人生で、ただ絵ばっかり描ければ良いって言って、誰ともつるまないで、ひっそり暮らしてたのに、おかしな話よね」

 紡がれる言葉は、何よりも尊く私の胸を打った。涼やかで、爽やかで、傍にいるだけで心地よい。イズリーの言葉には、不思議な力があった。

「イズリーなら、きっと偉い画家になれるよ」

 答えると、彼女は頬を掻いてはにかんだ。心の底から嬉しそうで、満たされたような顔をしている。そんな笑顔を見て、私もまた嬉しくなった。

「それでニコチアナはどうするの? やっぱり大学進学?」

 だから尋ねられた時、私は思わず一瞬だけ、表情をぎこちなくさせた。それまでの嬉しさから一変、自身のこととなると、当時の私は悩むところがいくつもあったのだ。

 だが、私はそんな悩みを表には出さないと決めていたため、努めて平静に取り繕い、胸の中の疼きすらも噛み殺して答えた。

「ううん、就職しようと思ってる」

 言うと、イズリーは驚いたように眉を上げた。だが、すぐに目を細めて理解を示す。彼女はあばら家である私の家に来たこともあれば、病床に伏す母を見たこともあるし、姉や祖母とも話したことがある。だから私の家に父が居ないということに気付いていて、うちが貧乏であるとも知っているのだ。

 そしてそこからが、イズリーが本当に聡く、優しい人間であることを示す、彼女の人間性溢れる所である。彼女は私が貧乏であることを知り、だから働かなければいけないということを推測し、その上で、私が本当は進学したいということに、たった一瞬の表情の変化で気付いてしまった。だから彼女は頷きつつ、理解を示しながらも私を見つめた。

「ニコチアナ、貴女がとても優しくて人のことを慮っていることは知ってる。そして、その……貴女の家が裕福ではなくて、たくさん苦労してることも知ってる。だからこんなこと、私が言うことじゃないとはわかってるけど、でも、聞いてほしいの」

 私はたっぷりと、それこそ木枝から落ちる葉が、 ゆらり、ゆらりと時間をかけて地に落ちるように頷いた。それはイズリーの思慮深さを知っているからこそだ。だから私は、葉が木から身を投げれば地に落ちるように、自然と頷くことができた。

 そして、イズリーは真っすぐに言ってくれた。

「貴女はもっと家族と話し合った方が良いわ。それ一人で決めたんでしょう?」

 やはり、イズリーは全てを見抜いていた。家が貧乏であるため、当時、私は自分から働かなければいけないのだとひどく思い込み、家では誰にも相談せず(相談すれば姉と喧嘩になることが目に見えていたのだ。それは一年の頃から、私にバイトなんてやめて高校生活を楽しめ、自分のやりたいことをやれと、彼女が言い続けてきたからだ。しかしその本人は友達も恋人も作らず、大学に通いながら毎日遅くまで働き通しているため、私は断固として姉の主張を聞き入れなかった。私が、ただ人のためになりたいという理由だけで委員長や生徒会長をやっている間も彼女はずっと働き通しており、また、私みたく無趣味なわけでもなく、本当は服や音楽が好きで、色んなものが欲しいはずなのに、それを堪えて、姉はずっと働いてくれていたのだ)、一人で就職すると決め、家で進路について聞かれても適当にはぐらかし、教師たちに対しても、得意の聖母か道化の面を使い曖昧に誤魔化していたのだ。

「それは……」

 だから、私は見抜かれてなお、答えを渋った。するとイズリーは少し迷いつつも、私の手を取ったのだ。

 その手は緊張で強張り、少し痛いくらいであった。だが閉ざされ、錆びついた私の心のドアノブを捻るには、それくらいが丁度よかった。

「お願いニコチアナ。お姉さんに話し難いなら、お母さんや、お婆さんでも良いから。私は貴女にもう少しだけ、自分のために生きてほしいの。そう、生きてほしいってだけ。別に、そう生きる”べき”なんてそんな大層なことは言わないから、お願い。私のわがまま、聞いてくれる?」

 尋ねられて、私は目を瞑った。耳から流れ込んでくるイズリーの言葉がそのまま頭の中を掻きまわし、胸の方まで落ちて、じんと暖かくなる。

 そうして、私はゆっくりと瞼と口を開いた。

「わかった」

 夕方、私は学校から帰るその足で母が入院する病院へと向かった。いつになく踵と額が重く、俯きがちにのろのろと歩いていた。なんせ私にとって病院とは、進路を絡めて考えると、ある種憧れの場所でもあったのだ。

 それは幼少期、トオルという世界で一番の名医に人生を救われ、彼女に憧れていたからだ。彼女が居なければ、きっと私はこの世の全ての人が私という人間にとっての背景のような、またその逆、彼らからすれば私はただの背景であるような、世界からの疎外感をありありと感じてしまい、誰も信じられず、表面上人と仲良くすることさえできなくて、イズリーのことも受け入れられなくなっていただろう。

 だから私はずっと、本当は石医師になりたかったのだ。そのために、優等生を演じるためではなく、真剣に勉強には打ち込んでいた。

 だが、だから憂鬱なのだ。母の病気は重く、彼女が入院し、薬を飲み、手術を受けるためにはお金が必要となった。そのためには私も姉も働くしかなく、それを踏まえて、本当は医者になるために大学に行きたいと打ち明けるなら、それは母に「貴女がいなければ」と 強い言葉を叩きつけるようで、心苦しさが内臓を鉄のように重たくさせたのだ。

 だから私は母の病室の前に着いても、持ち上げた腕を所在なく彷徨わせていた。いざ取っ手を掴んでみても、ドアが床や天井に溶接されているようで、重い軽い以前に扉を動かせなくて、私はひたすらに立ち尽くした。

 いくつもの言葉が頭の中で飛び交い、一度構築された文脈が破壊されては再生する。そのたびにまるで緻密に撚り合わせた一本の縄をぶつぎりにし、それぞれ結びなおして繋げたような、でこぼことした結び目のようなものが文脈に発生してしまい、何が言いたいのか、何を言うべきかすらもわからなくなって、思考が毛玉みたいにこんがらがってしまう。

 結局私は居てもたってもいられなくなり、踵を返してしまった。速足で逃げるように廊下を歩き去り、病院を出ると、向かいにあった公園へと踏み入り、ベンチの上にどさりと腰を落とした。するとその衝撃で肺に詰めていた空気が、重いため息となって土に沈んでいった。

 私には自信がなかった。自分が世界の中で一番矮小な人間のように思えてしまい、自分の意見を口に出すと言うことが、とても怖くなっていたのだ。

 私みたいなやつが医者になんてなれるはずがない。そもそも胸の内には、そういったネガティブな感情があった。どうせ大学には受からない、受かったとしても勉強についていけない、ついていけたとしても国家試験には通らない、通ったとしても、医者になればきっとどこかでとんでもない失敗をする。

 塞ぎ込んでいく思考が、視界さえも暗くしていく。俯けば、紅い髪が顔の周りに垂れ、膝の上で組んだ手の平しか見えなくなる。手指はまるで私の思考を体現しているように固く絡み、一向に解ける余地がない。

 イズリーとの約束を破って、このまま帰ってしまおうか。ふと、頭の中にそんな考えが湧いてきた。それが彼女、一番の親友を裏切ることになったとしても、しょうがないのではないだろうか。

 当時の私はそう考えていた。なんせ、私は私だ。貧しい家で恐ろしい父に怯えながら育ち、自分のせいで妹が死に、小学生の頃には暴力沙汰を起こした気狂いだ。だが、それからは自分を殺し、周りに媚びるようにしていれば、多くの人に認められた。

 つまり私、ニコチアナという人間は、きっとこの世には必要がないのだ。

 そう思うと、唐突に胸に切なさがこみ上げてきた。きりきりと痛み、視界が涙でじんわりと滲む。目頭が奥の方から熱くなった。ひたすらに苦しかった。

「私なんて」

 呟くと、隣に誰かが腰を下ろした。

「私なんて、何?」

 驚いて顔を上げると、そこにはイズリーが居た。

「なんでここに……」

 突然彼女が現れた困惑と、約束を破ろうとした罪悪感でパニックになりそうだった。だが、イズリーが返事より先にハンカチを差し出してくれて、私の心は少しだけ落ち着いた。

「まずは顔拭きなさい。ひどい顔だから」

 つっけんどんではあるが、優しさが滲む声音だ。言われるがままに顔を拭うと、その間にイズリーは高く足を組み、ため息をついて遠くの夕陽を見た。まだ色の薄い、若い夕陽だが、寂寥を駆り立てるには十分であった。

「ねえニコチアナ、貴女これまで何があったの?」

 ぽつりとイズリーが告げた。彼女はこの時の私の身辺については知っていたが、あくまでもそれしか知らなかったのだ。きっと三年間、気を遣って聞かないでくれたのだろう。だがとうとう堪え切れないというように彼女は切り出したのだった。

「もちろん、言いたくないなら言わないで良いけれど、でも、私は聞きたい。なんだか貴女ずっと潰れてしまいそうだもの。きっとそれ、一人で抱えきれるものじゃないでしょう」

 その言葉に私は下唇を噛み、再び手指を組んだ。喉元まで言葉が出かかっていたが、それがとにかく怖かったのだ。もしかしたらその言葉は小学生だったあの日、ペチカに叩きつけたような、醜悪で、気味悪く、悍ましいものであるかもしれないのだ。

 そうして訪れた沈黙は長かった。だんだん足元に木の影が伸びてきて、それがゆっくりとつま先から、大きな口を開けて私たちを飲み込んでいく。風が冷たくなり、夜がひたひたと近づいてくる気配がする。しかし、それでも二人とも何も言わなかった。

 私は申し訳なかった。イズリーはその間も、ただじっと待っていてくれていたが、彼女のそんな優しさが、まるで私を火で炙るように苦しめていた。

 だから私は、陽も落ちきり、街灯が眩しい瞳を開いた時、ようやく悲鳴のようにぽつりと口を開いた。

「どうして、そんなに優しいの?」

 それは率直な思いであった。私は当時、イズリーの優しさが理解できなかったのだ。彼女は誰よりも聡明で、思慮深く、確固とした己を持っていたのに、私みたいな人間にここまで親切にしてくれる理由が、どれだけ悩んでも見つからなかった。

「別に優しくなんてないわよ」

 答えられても、私は納得できなかった。彼女の芯にある美しさは、本当に何よりも尊く、私にとっては遠いものであったのだ。そこにはただの友人に向けるものとは違う、一種の憧れのようなものがあった。だからこそ、彼女という人間を知りたくなったのだ。

「優しいよ。ただの友達相手に何も言わずさ、ここまでしてくれるのが優しさじゃなかったら、なんなのさ」

 言い返すと、イズリーはため息を吐き、なんとも微妙な顔をして頬を掻いた。象徴的な造形の顎のラインが細く、しなやかで、私は思わずじっと見つめてしまった。

 だからイズリーは少しすれば、観念したようにもう一度ため息を吐いた。

「友達、じゃないわよ」

 その発言に、私は思わず眉を潜めた。

「……どういうこと?」

 私とイズリーは友達であるはずだ。何せ発掘祭で出会った時、絵を譲ってもらう条件として、私達は”友達”になったのだ。

 訝しむように口と瞳を尖らせていると、イズリーはなんとも思いつめたような、ひどく緊張した顔をした。

「ただの友達相手に、ここまでするはずないでしょう」

「じゃあどうして、」

 言いかけた時、しかしイズリーがそっぽを向いて告げた。

「好きなのよ、貴女のことが。だからほっとけないの」

「……え?」

 予想外の答えに、私は思わず間抜けた声を垂らしてしまった。イズリーは三年間秘めてきた想いを打ち明けたというのに、私はと言えば、そんな風に何も考えられなかった。

 だが、それは考えられなかったというだけで、思考ではなく感情の部分は、どくりと大きく脈を打ったのだ。

 それは初めて体験する感情であった。心臓の裏側辺りから得体のしれない疼きのようなものが湧いてきて、それが何度も何度も、強く心臓を握りつぶしては離し、握りつぶしては離すのだ。

「それは、えっと、どういう……」

「そのままの意味に決まってるでしょ、馬鹿」

 そっぽを向いたまま、イズリーは「だから」と続けた。

「貴女、自分に価値がないみたいな風に言わないでよ。私なんて、なんて、言わないで」

 イズリーの言葉に、頭の芯の辺りが熱くなった。もう体の内側から熱が溢れ出してきて、自分でもどうすればいいかわからなくなる。それが嬉しさなのか、楽しさなのか、はたまた別の何かなのかもわからなくて、私は思わず手指を解いて、右の手の甲で口元を覆ってしまった。するとびっくりするくらい顔が熱かったのだ。自分でも何が何だかわからなくなった。

「わかった? わかったら、もう一回頑張りなさい」

 尋ねられても言葉が出ない。胸の内からせりあがる、なんだかわからない感情が全てを飲み込んでしまうのだ。この世で最も大食いなのは火、ないし熱であるという世界の真理の通り、この情熱というものは力強く、私の全てを引き摺りこもうとした。

「貴女なら、きっとできるから」

 今にして思っても、その感情を何と形容していいかはわからない。それはおそらく恋でもなければ、嬉しさでもなく、されど恋でもあり、嬉しさでもあるのだろうから、難しいものだ。

 だから私はその時、不思議と考えるより早く、反射的に動いた。どんな言葉を言おうか、ではなく、本当に反射的に、例えば熱いやかんに手を触れた時、そう、途轍もなく熱いものに触れた時、つい跳び退ってしまうように、反射的に答えてしまったのだ。

「うん」

 短い返事ではあった。しかし、それでイズリーは納得したように頷いた。

 そしてそれを答えれば、私もまた少しだけ楽になった。胸に灯った火は過剰なほどのエネルギーとなり、これまで孤独感や虚無感、不幸主義に錆びついてしまっていた四肢関節がめきめきと軋みながら動き始めた気がした、まるで機械に人の心が現れたような、そんな力強さを感じたのだ。

 そうしてベンチから立ち上がると、イズリーが見上げてきた。

「ついていった方が良い?」

 彼女は本当に優しい人だ。その時、胸の辺りに慈しみが芽生えた。そしてそれが、私を、私だけを想っているからこそと考えると、なんだか誇らしさまで感じてしまうのであった。

「ううん、今度は、大丈夫」

 伝えると、私はイズリーの返事も聞かずに踵を返した。

 つま先が向かうは病院だ。ただ辺りは暗くなってしまっていて、面会時間を考えると、間に合うかわからなくなる。

 だから私は走り出した。先ほどまでは、あの真っ白な大きい建物を目の当たりにし、母のことを想うと内臓が鉄のように重く感じたはずなのに、今ばかりは同じ鉄でも、体が列車や車や飛行機のようになったのではと思うほどだ。

 そうして硬いゴム床に割れんばかりに強く足裏を叩きつけ、階段を蹴り飛ばすように駆けあがり、息が苦しくても、鳩尾の辺りが痛んでも、頭から前のめりになるようにして走り、母の病室の扉を力任せに押し開いた。

「お母さん!」

 呼ぶと、母はベッドの上で驚いたようにこちらを見た。もちろん、その表情や体の動きは小さなものだ。何せベッドが二つも並べられないほどの病室に押し込まれ、しかも部屋の半分は管やら計測器が繋がったものばかりだ。いわば拡張的な臓器のようなもので埋め尽くされ、散乱とした室内はいかにも不健康な腹の中みたいであった。

 私は努めて息を整えながら、そんな彼女の傍らまで歩いた。パイプ椅子を引っ張り出し、座り込むと、膝の上で指を組む。いざその時になると、途轍もない抵抗感や恐怖に襲われたが、視界の端に、三年前、イズリーから買った巨人のはらわたの絵が飾られているのが見えると、また胸に情熱が沸き上がってきた。

「どうしたの、ニコチアナ」

 ベッドに横たわったまま、ゆっくりと母が口を開く。弱弱しい姿に命の儚さすら覚え、なんだかやるせないほど悲しくなる。しかし私はそんな気持ちを奥歯でぎしりと噛み潰し、答えた。

「私ね、高校卒業したら働こうと思ってるの」

 静寂なる病室の中に、その言葉が、余韻を乗せて響く。恐る恐る母の顔を見つめると、そこには、しかし想定していたような驚きも、納得も、訝しみもなく、ただひたすらに慈愛的な眼差しがあった。

「それは、私のため?」

 尋ねられて、頷いた。きりきりと胸が痛んだ。

「お姉ちゃんには言ったの?」

 今度は首を横に振る。顔を歪める私を見て、母はゆっくりと頷いた。

「ニコチアナ、貴女はやっぱりとても優しい子ね」

「そんなことないよ。お母さん知ってるでしょ。私、小学生の時……」

 後ろ暗くなって俯くと、しかし、母は枯れ枝のように細く、ひんやりとした手を伸ばし、私の指先を握った。

「優しいって言うのはね、痛みを知ってるってことなの。小学生の時、いいえ、貴女はとても繊細な子だから、きっとあの時以外にも何度も傷ついて、痛い思いをしてきた。だから貴女は、人の痛みがわかるの。だから貴女は優しいの」

 母の手は病人らしく肉が薄く、ぶよぶよと皮だけが垂れて冷たかった。しかしそこには確かに温もりもあって、私の目尻にはそんな温もりが伝染してきた。

「お母さん……」

 その手を握り返すと、とうとう堪え切れなくなって涙が溢れてきた。なんだか悲しいとか、切ないとか、そういう気持ちだけではなかった。それは涙というよりも、本音を打ち明けるために勇気を振り絞ったせいで、心がかいた汗のようなものだった。そして繋ぎ、結び合った互いの指先に落ちるその雫が、それこそ縄の結び目に水を垂らしたときのように、この私と母の手を永遠に解けないほど固くしてくれればどれだけ良いだろうと考えた。

「ありがとうね、ニコチアナ。貴女が娘でとても幸せよ」

「……うん」

「でもね、ニコチアナ。そんな私の幸せが、もし貴女の幸せの邪魔をしているなら、私はそんなものいらない」

 言われて、私は洟を啜った。その時、母が私の指先から手を離したからだ。私は思わずその手を掴み返した。しかし目から溢れた雫のせいで、少しずつ、少しずつ滑ってしまう。それが刻一刻と私に現実を突きつけてきて、そのたびに雫の量が増え、また指の上へと落ちていく。

「やりたいことがあるんでしょう?」

 言われたとき、とうとう指が離れ、母の手がベッドのシーツへとゆっくり引き摺り込まれていった。それを見つめ、母の枯れ枝のような手が見えなくなると、私はようやく頷いた。

「うん……私、実は大学に行って、石医師になりたくて。でも、でもさ、違うんだよ。お母さんのこともさ、支えたいのも本当なの。だってこれまでお母さんはずっと私たちの為に頑張ってくれて、そのせいで体壊したんだし、私の大学進学だって、働いてからでも、またやり直せば良いだけの話で、もちろん難しいことだとは思うけど、私はやれるよ、頑張れるよ。だから今の優先順位で言うと、やっぱりお母さんの方が、」

 捲し立てるように打ち明けると、しかし、母はそれすらも慈愛的な瞳で受け止めてくれた。髪の毛は無くなってしまったが、その瞳の色は私と同じ鮮やかな紅色だ。

 そして彼女はあの遠い目をした。イズリーが偶にするものだ。彼女は、首を横に振った。

「私は、もういいわ」

 その言葉に、私は思わず身を乗り出した。シーツの中に手を押し入れ、母の細指を掴み、歯を食いしばる。

「そんなこと、そんなことないよ。嫌だよ、死んじゃ嫌だよ、ずっと、ずっと生きててよ、ねえ、お母さん。痛くて、苦しくてさ、そう思っちゃうかもしれないけど、」

「違うわ、ニコチアナ」

 言葉を遮られ、顔を上げると母と目が合う。

「貴女がこうやってようやく、本音を打ち明けてくれるまで育ってくれたのを見て、私はもう、満足したの。もう、悔いはないの」

 そうして母はシーツの下で、私の手を握り返してくれた。

「貴女なら、きっと良いお医者様になれるわ」

「……そんなことないよ。きっと、どこかで失敗する。大学に受からないかもしれないし、石医師になっても、どうせ」

「いいえ、貴女はできる。だって貴女は人のためならどれだけだって頑張れる、優しい子だもの。少し優しすぎる所があるかもしれないけれど、それは立派な才能で、美徳よ、ニコチアナ」

 その時、胸の疼きにより頭が真っ白になった。自らをそうやって全面的に肯定され、思わず何も考えられなくなったのだ。母のゆっくりとした言葉は、しかし確実に私の心を突き動かし、寄り添ってくれた。それはあの第二の喪失体験の時、私の異変に気付けなかった母の不屈のリベンジなのかもしれない。何せ母は私の顔を見て、とても誇らしげな顔をしたのだ。

「私の幸せは長く生きることじゃないの。私の幸せは、貴女とお姉ちゃんが幸せになることなの」

 この言葉こそ、何とも強烈に私の胸に刻まれた、幸福に対する答えの一つである。私は幸福というものが何かについてはてんでわからないままであるが、少なくとも”長く生きるだけ”が幸福ではないこともあると、母の言葉を以て強く理解したのである。

 それがこれまでの私の人生と絡み合い、一つの哲学となり、カミュという女の子にとっての救いとさえなったのだから、母はまさしくこの時、人の命を守ったのだ。

 それからのことはよく覚えていない。母との間に残された少ない時間を貪るように言葉を交わし、互いに通じ合って、母が眠りにつくまで話あったのだ。

 誰かの為に生き、誰かの為に死ぬことができる人生とは、どれだけ満ち足りたものなのだろうか。そうして母に思いを打ち明け、一月もせず母の葬式が行われた際、煙に乗って空に還っていく彼女を見上げ、私はひたすらにそう思っていた。

 そして次に思ったのが、幸福とはなんだろうというただ漠然とした思いである。

 私はこの第四の喪失体験で母を失った。しかしそれを経て、具体的に何を喪失したのかと問われれば、それがなんであるかは自分でさえよくわからない。

 ただひたすらに、そんな母の死を経て私は少しだけ変われたのだ。自分を心のどこかで認めることができた。それまで優しいという言葉を筆頭に、褒められることに対して体が起こしていたアレルギーのような反応が、不思議と薄れていったのだ。

 だがそれは逆に永遠的な、幸福とは何かという問いを叩きつけられた瞬間でもある。

 母の幸福そうな死に際を見て、私はそれを魂の根底で羨ましく思ったのだ。あれだけ満たされて死ぬことができればどれだけ良いだろう。あれだけ誰かの為に生きることができれば、どれだけ幸福だろう。

 母は、途轍もなく優しかったのだ。幼少の頃、父がどれだけ乱暴をしても、めげずに宥めようとしていた。もちろんそのたびに打たれたりはしたが、それでもやり続けた。

 そして苛烈なる悪逆の騒ぎが収まると、母は父が寝静まったり、他所に出ていったのを確認して、私達姉妹が眠る襖を開けてくれた。そして蝋燭に火を灯し、静かに絵本を読んで、恐ろしさに一杯になっていた私たちを眠らせてくれたのだ。

 その経験があったから、私は人工的な光よりも火や月明かりといった自然的な明かりに親しみを持ち、また、絵本をはじめとして読み物にのめり込んでいったのである。

 まさしく母は、私にとっての優しさの象徴のような人だった。どれだけ自分が辛くとも人の為に慈愛的な笑みを浮かべ、それが幸薄そうではあるのだが、代わりになんとも美しく、羨望さえも抱いてしまったのだ。

 だから第二の喪失体験の時、そんな母を自分が泣かせてしまい、ひたすらに申し訳なくなり、心の底からこの人を笑わせてあげたいと思った。

 そうして私は私を失い、私を得たのである。これもまた、母を想ってのことだ。

 また忘れてはならないのが、もう一人の家族、姉の存在である。

「ニコチアナ、こんなところに居たの?」

 火葬場の裏手の枯れた小山に登り、一人で岩に座っていると、後ろから姉の声がした。今度の秋から就職を控えていて、もう立派に女性らしい強かさを持っているのが姉だった。彼女は父に似ており、髪は黒く、瞳は緑色で、背が高かった。

「見てたくて」

 元々私はこの小山に、親族たちの中から抜け出して登っていた。他の少ない親族の人たちは皆、待機室にて粛々としているのだろうが、私はそんな空気に耐え切れなかった。

 何せ母は満足して、暖かな幸福の中死んだのである。勿論母を亡くして悲しい気持ちはあったが、それを億面に出すことは、あの晩、イズリーに背中を押されて母に全てを打ち明けた日のことを無かったことにしてしまうみたいで嫌だった。

 だから私は一人で輪の中を抜け出し、煙と同じ目線になれる場所を探し、小山を登ったのだ。

「よくここがわかったね」

 口を開くと、姉はため息を吐き、私の隣にどさりと荒く腰を落とした。

「別にあんたを探してたわけじゃないわよ。勿論、そういう口実で出てきた節はあるけど、あの暗い空気から抜け出したかっただけ」

「なるほど、姉妹で考えることは一緒ってわけだ」

 答えると、姉はにわかに頬を緩めた。とてもしめやかで、静かに笑いあう。姉に対してはイズリーとは違った意味で素を見せることができたのだ。いわゆる、安心して背伸びができるような、友というよりは、まさに姉妹という関係である。

 そして姉は、黒い喪服の胸ポケットから煙草の箱とライターを抜き出した。彼女は重度の愛煙家なのである。まさに慣れ親しんだ手つきで箱の底を弾き、煙草を一本咥えると、火をつける。途端にキツイ煙の香りが押し寄せてくるが、私は慣れてしまっていた。

 むしろ、逆に興味深く姉を見つめていたのだ。彼女が煙草のフィルターにディープキスをし、ゆっくりと啜るようにして煙を食む様は、少し野性的な印象の見た目も相まってとても様になっていた。

「何見てんのよ」

 しかし流石に眺め過ぎたのか、彼女は口を尖らせてそう言った。

「煙を見たくてここにいるんだから、少しくらい良いじゃん」

「どんな煙でもいいなら喫煙所にでも籠ってなさいよ」

「やだよ、臭いし」

 軽口を叩きあい、姉がため息とともに吐き出す紫煙を一瞥する。それはまるで木か花のようである。吐き出されればまずは細く幹や茎のようになり、そこからふわりと花開くように膨らんで、すぐに散ってしまう。

 私はただ、そんな様をぼんやりと眺めていた。心が凪いだように静かなのである。いざ母を失ってみて、悲しさはあれど、どこか最善の方法で送ることができたのだと納得し、少しであれ、別れを受け入れられていたのだ。

「あいつ、今何してるんだろうね」

 だがいくら姉妹と言えど姉は違ったようで、彼女の中には怒りややるせなさのようなものが垣間見えた。

「あいつって、お父さん?」

 尋ねると、姉は荒々しく鼻を鳴らした。

「それ以外ないでしょ」

 つっけんどんな口調で、いかにも恨みや辛みが籠もった、怨嗟のような唸りである。青い夏風が吹き流れても清々しさなど一切なく、どろどろとした感情だ。

 姉はこのように、父に対して壮絶なほどの恨みを持っていた。

 そんな彼女の言葉を聞いて、私は、火葬場の黒い煙突から立ち上る煙を、ふと見上げた。

「案外、幸せに暮らしてたりしてね」

 言うと、姉は長くなった吸い殻を落とし、舌打ちをした。

「冗談じゃない」

「どうして?」

「どうしてって、逆にあんたはそれでいいの?」

 尋ねられて、私は空を見上げながら答えた。

「うん。だって誰かが幸せなら、その周りの人も幸せかもしれないし。それでお父さんが誰かを、例え一人だけでも幸せにしてたなら、私はそのまま暮らしてほしいって思う」

 言うと、姉は長く煙を吸い、そして言葉を吐いた。

「やっぱりあんた、お母さんに似てお人好しね。私はそんな風には考えられない。もしあいつが私達のことなんて忘れて、呑気に間抜け面晒してて、それを見せられたとしたら、自分を抑えきる自信がないわ」

「それがもし、お父さんの新しい子供の前でも?」

「……それは……」

 言い淀むと、姉ははぐらかすようにため息を吐いた。それからはまた淡々とした静寂が訪れ、それは姉が一本目の煙草を吸い終わるまで続いた。

 周りには何もない。その時、ふと私は姉とこうして二人きりになるのは久しぶりだと思った。なんだかんだと二人とも、大学や、高校生活や、バイトで忙しくて、何より私がゆっくり対面することを避けていたのだ。

 それから、私はぽつりと口を開いた。

 話すなら今だと思った。

「お姉ちゃん、私、大学に進学して石医師になりたいの」

 するりと打ち明けると、姉は煙を一つ吸った。

「どうして?」

「お母さんみたいな人を助けたくて」

「なるほどね……それ、お母さんには言ったの?」

「うん」

「なんて?」

「良い医者になれるって」

「そう」

 姉は頷いた。私は唾を飲んだ。緊張していたのだ。だがそこに、もう恐怖はなかった。母やイズリーがくれた言葉が私を励ましていた。何より、やっぱり姉のことは好きだったし、信頼していたのだ。

 姉はしばらく考えて答えた。

「でもね、ニコチアナ。私は、あんたは医者には向いてないと思うわ」

「……え?」

「だってあんた優しすぎるもの。患者のことを心配し過ぎて、疲れてしまいそう」

「そう、かな……」

 姉からの言葉にたまらず俯いてしまった。先ほどまで安心していたのに、急に裏切られたみたいで少しだけ困惑した。だが私がそれ以上考えるより早く、姉は言った。

「だから応援するわ。きっと沢山苦労するだろうけど、その時は必ず頼りなさい……お母さんみたいに、絶対に一人で抱え込まないでね」

「……反対するんじゃないの?」

「しないわよ。あんたは医者に向いてなくとも、医者じゃ救えないような人だってこの世にはごまんといるでしょうし、そういう人も病院にはくるでしょ。そういう人にとって、きっとあんたは大切な人になるから」

 この姉の言葉は、私にとって大きなものであった。実際、母の思想を自分なりに落とし込み、カミュと接することができたのも、常識なんて肩身の狭いものから盗み足で抜け出し、この考えを持てていたからだ。

「幸せになりなさいよ、ニコチアナ。幸せが何かわからなければ、諦めずに、探しなさい。私たちは幸せになるべきなんだから」

 言われて、しかし私は遠く煙を見つめた。

「……でも、幸せになるって何すればいいんだろう」

「好きなものを見つけて、好きなことをするのよ」

「でも私無趣味だし、好きなことなんて……」

 ぼやくと、姉は眉を潜めた。

「何言ってんのよ。イズリーがいるじゃない」

「イ、イズリーは今関係ないでしょ」

「むしろ一番関係あるでしょ。あんたが家に連れてきたやつなんてイズリーだけなんだし、しょっちゅう一緒に居るじゃない。多分向こうもあんたのこと好きよ」

 姉の何ともない言葉に、私は思わず倒れそうになった。それは少し前、それこそ母に全てを打ち明けたあの日、イズリーに告白されたことを思い出したためだ。

 あれ以来、イズリーとは少しだけ疎遠になっているのが現状である。もちろんそれは、丁度進路についての書類用意やら面談があり、互いに忙しくなったためでもあるが、こちらから避けていないとも言い切れない状況だ。

 何せ、何故かイズリーを見ると顔が熱くなり、告白されたときのことを思い出して、無性に心が騒ぎだしてしまうのだ。これまで彼女と共に居れば心は落ち着いたはずなのに、その真逆の状態で、心身ともに戸惑いが隠し切れないのである。

「一回も恋愛なんてしたことないのに、適当なこと言わないでよ」

 故に反抗的に言い返すと、姉は不服そうに眉根を寄せた。

「適当なんかじゃないわよ。イズリーといる時のあんたはちゃんと”幸せそう”なんだから」

 そんな姉の言葉が釣り針となり、私の耳に引っかかって、思わず私は彼女の方を振り返ってしまった。

「そう、なの……?」

「そうよ。もう卒業なんだから、いい加減なあなあでつるんでないできっぱり行ったらどうなの?」

「それは、そうかもだけど……でも」

 火照ってしまった顔を隠すように俯くと、姉はため息を吐き、立ち上がった。

「とりあえず私は先戻ってるから、あんたもあんまり遅くならないようにしなさいよ。挨拶とかいろいろあるんだから」

 そうして去っていく姉の背中が、どこかこれまでと違い、すっきりと肩の荷が下りたような具合で、私は思わず目を細めた。

 クマがない姉を見たのなんていつぶりだろう。一人になってしまえばそんな想起が湧いてくる。私にとって姉はある意味で、一般的に言う父親のような存在であり、自らの選択を阻む壁でもあり、自らを見つめなおすきっかけをくれる鏡でもあり、自らを守ってくれる家でもあった。

 そんな彼女もこれから少しずつ、自分の為に生きていくことになるのだろう。互いに大人になり、自立ができるようになり、両親という一種の運命の束縛から解き放たれ、広く深い世界の海原の中で、私達は一体どこを目指すのか。

 もう一度丸い、大きな空を見上げると、これが気持ちが良いほどの快晴であった。雲なんて一つもなく、高い空に消えていく母の煙が幹で、空という大きな葉枝を広げているようだ。夜になればあそこには無限の星が実り、地上を明るく照らしてくれることだろう。

「どう、しようかな」

 そうして一人、広い空の下に居れば、そんな呟きが出る。小学生の時なんかはあの空が固い天井のように見えて、ドアも窓もない世界という密室に閉じ込められたのだと絶望を覚えていたが、今はもう少し世界は小さくても良いんじゃないかとさえ思ってしまう。

 何せ、きっと私は何処にでも行けるのだ。やりたいことができて、欲しいものを掴めるのである。これもきっと幸せだ。これまでの人生で、自分で何かを決めたことなど殆どなく、人にばかり合わせていた私は、いざ自分でしたいことを見つけろと言われてもやはり何も思い浮かばなかった。

 だからやはり、私は人に言われたことを思い出すのだ。それはまさに姉に言われたことである。

 イズリーと共に居ること、ただそれだけだ。

 それから数週間の自由登校を経て、卒業式の日になれば、私は過去一番に緊張した顔つきをしていただろう。

 それは答辞を読むからなんて些末な理由ではない。むしろ卒業式の日、ステージの上に立てば、緊張というよりも感動が溢れ出してきて、私は思わず泣き出してしまった。高校生活は人の為に働きすぎて確かに大変ではあったが、それはあくまでも私のやりたいことであり、ちゃんと楽しかったのだ。大人になってからはつるまなくなった友達もやはり大事ではあったし、そんな彼らが皆、信頼と安心を翳した容貌をずらりと並べ、慕うように私を見上げてくれているのに正対すると、思わず三年間の苦労と思い出が奮えだし、私の魂と共鳴を始めたのだ。

 そんな風にして卒業式は大成功であった。誰もが泣き、笑い、式が終わり、最後のホームルームが終わってもいつまでも学び舎に溜まり、みんなが嫌いだと言っていた先生の周りに集まり、写真を撮って、彼女を泣かせては、全員で彼女の厳しさに礼を述べた。

 真に緑々豊かで、実った青春だ。これから秋になり、きっと皆成熟していくのだ。それを想うと心を虚しさの槍が穿った。

 だから私はそうやって皆から離れると、一人旧校舎の裏手にある、非常階段の一番上へと歩いた。涼やかな夏の風が心地よく、小高い丘の上に建てられた学び舎は空にほど近かったため、ひたすらに清々しさが私を満たした。

 私は先にそこで待っていた彼女へと声をかけた。

「お待たせ、イズリー」

 告げると、彼女は錆びた手すりに手を置いたまま、半身振り返った。紫色の水晶みたいな双眸が相変わらずきらきらとしていて、長いまつげがその眼差しを着飾っている。すらりとした美形な輪郭は鋭利な印象で、ふっくらとした唇が形良く柔らかそうだ。

「呼び出しといて待たせるなんて、流石人気者ね」

「ふふ、ごめんってば」

 軽口を叩きあえば、私は彼女の隣に並んだ。手すりに両肘を置き、もう見ることはないであろう景色に目を細める。なだらかな丘の裾から海岸線に向けて栄える街並みは、空の蒼と、向こうの方に広がる海の青のコントラストで、ひどく小奇麗に見えた。また、そんな街並みにぽつぽつと白雲の影が落ちて風が吹くごとに表情が変われば、ずっとその光景を見ていられた。

「ねえイズリー、あの日はありがと。おかげで秋から大学生だよ」

「ん、どういたしまして」

 イズリーは私とは違い、手すりに背を預けて、ぼんやりと空を見上げていた。そんな私たちの立ち姿はまさしく真逆の性質を持ちながら、しかし根底の感性の部分ではひどく似通い、隣に並ぶ私たちの関係性をよく表していた。

 そうして訪れた沈黙に、私は心地よさと緊張を同時に覚えた。むしろ全くの逆を見ている故、赤くなった顔を見られずに済んだのは幸いだった。(後日談ではあるが、この時イズリーも全く同じように赤くなった顔を隠すために私とは真逆を向いていたのだと知り、その日、私達は声を立てて笑い合った)

 沈黙が訪れれば、脈拍が騒ぎ出す。熟した情熱が胸の辺りで暴れ始める。街を覆っていた入道雲の大きな影がゆっくりとこちらまで滑ってきて、私達の頭の上に被さる。

 その時、私は口を開く。

「私も好きだよ、イズリー」

 言えば、たったの一言で私は不思議と満たされてしまった。何かを心の底から純粋に好きだと思えて、それを口に出せたのは、本当に小学生以来であったのだ。

 そしてその時、頭の中にちらりと浮かんできた黒髪の少女、トロイメライが私に微笑んでくれていた。それが嬉しくて、懐かしくて、六年ほど経ち、ようやく彼女に別れの挨拶ができたような気がして、胸がすっきりとした。

 イズリーを振り返ると、私はつきものが取れたような心持ちで、なんとも自然に笑うことができた。

「待たせてごめん。ようやく自分の中で、色々と余裕が出てきたんだ。そしてそれはイズリーのおかげなんだ。だからこれからも、一緒に居てほしいって思う」

 アメジスト色の、どこか緩い癖のある髪に隠された横顔をじっと見つめる。それだけで胸が熱くなった。彼女といればその時だけ、私は純粋に幸福を貪れた。勿論そうして幸福の暴飲暴食を続けた結果、二十歳の半ば頃、イズリーにプロポーズされた辺りでは幸福肥満な状態になってしまっており、それ以上幸福を摂取するのが怖くなってしまっていたのだが、それもイズリーが励ましてくれた。

 私のたった三十年程度の短い人生において、本当に、イズリーとは唯一無二の存在であるのだ。

「本当、待たせ過ぎなのよ、何もかも」

 答えて、イズリーはようやくこちらを見てくれた。酷く緊張していた顔が程よく弛緩し、そこにあったはにかみ顔は、私の、私だけの記憶の中の宝物だ。

 そしてイズリーは私を抱きしめた。身長差のせいで彼女の肩元に顔を埋めると、落ち着く匂いがした。そんな彼女をもっと近くに感じたくて、私もイズリーの背に手を回した。

「そんなこと言って、急かさないでいてくれたじゃん」

「当たり前でしょう。貴女を急かしたらどこで転ぶかワカンナイんだもの」

「私ってそんなに危なっかしい?」

「危なっかしい」

 即答され、なんだか複雑な心境になると、イズリーが「だから」と強く腕に力を込めてくれた。

「だから、私が支えてあげなきゃいけないの。私がいる限り、もう貴女を独りにはさせてあげないから」

 言われて嬉しくなると同時に、一抹の不安が脳裏を掠める。それはやはり、私の根底に幸福に対する懐疑的な瞳があるからだ。故に漠然と未来の話をされれば、それを養分に、不幸主義が芽を出すのだ。

 また、例えばこれまで、中学から聖母か道化のような面で己を隠してきていたように、私には自分を隠すような秘密主義的な一面もあるのだ。

 けれども、その殻を破れる相手だからこそ、私はイズリーにこれほどの愛を覚えたのだ。

「……嬉しい」

 きっとイズリーなら、私の前からは居なくならない。何があろうともイズリーが一緒なら乗り越えられるだろう。そんな思いが溢れ出し、私は身を離すと、彼女の目を見つめた。

「ねえイズリー、聞いてくれるかな、これまで私がどうやって生きてきたのか」

 公園で尋ねられた時、私は答えられなかった。

 だが、今なら全てをさらけ出せる確信がある。幼少期の恐ろしい父の話も、妹を失った話も、トオルに救われた話も、小学生の時、友人を傷付けた話も、中学生、高校生と、何を思いながら優等生を演じてきたかも。

 だって、母はそうして私自身を打ち明けることを成長と言ったのだ。

 私はようやく、少しだけでも、自分を認められたような気がした。

 そしてそれはきっと、私を好きだと言ってくれる人がいるからだ。

 直後、そんな私の恋人であるイズリーは、優しく微笑んだ。

「ええ、聞かせて頂戴。貴女のことならどんなことでも知りたいの」

 それから私たちは、永く、語り合った。


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