5
時刻は深夜の三時頃であった。私は、大人になってもまだ無趣味っぽい所が治せておらず、暗く、極端に物が少ない自室の窓辺にて、一人で月の光を浴びていた。
外はとても綺麗だった。黒というよりも青味がかった濃ゆい紺色が空を丸く塗りつぶし、その上に大小様々な星たちが、竜胆の花のように方々で身を寄せあって瞬いていた。彼らが巻き散らす鱗粉のような星明かりは儚くも輝かしく、紺の夜空に、あちらは明るく、こちらは暗くと言ったグラデーションを波のように描かいており、長く夜空を見上げているとその星海の潮の満ち引きさえも見えてくるようだった。
夜は暖かいものだ。私は、ふとそんなことを思った。何せこんな風に星明りが優しいのだ。今、窓硝子の向こうより招かれた月光は光沢さえ帯びるほど上品で、柔らかい銀の炎みたいに私を抱いてきて、溶けてしまいたくなるような心地を与えてくれる。
だから私は何かを考えたいとき、いつも自然の明かりと見つめ合うのだ。反面、私は人工的な照明というものが苦手なタチであり、家でも極力電気をつけず、カーテンを開けて夜明かりを招いたり、つけたとしても、デスクライトを天井に向けて灯らせているだけの生活をしている。
その差は何かといえば、やはり光に表情があるか否かだ。
人工的な明かりというものは往々にして、ひたすらに無表情なのである。それもただの無表情ではなく、売れないコメディアンや、素人の営業人や、不細工なピエロのように、過剰で恐ろしいまでの笑顔を張り付けているような、生気なんて感じないほどに生白く、硬そうで、感情が無いように思えて仕方がない、明るすぎる笑顔の無表情なのだ。
だが自然の明かりは違う。今、夜空を見上げていればわかるように、星には波のように満ち引きがあり、これが火ならば風に踊って、影で笑いも泣きもしてくれるだろう。太陽だってそうだ。一日を通して薄白より濃くなり、最終的には荘厳なる茜となって消えていく。陽の角度は同じであると言うのに、夜明けと日没では陽の色合いが全く異なるところなんかも、私にしてみれば面白くて仕方なかった。
「……ニコチアナ?」
そうしていると、背後のベッドから声がした。イズリーが目覚めたのだ。あくびをし、首を鳴らして眠気を拭っている。
「寝ないの? 明日も仕事なんでしょ?」
言われて、私はため息を吐いた。
「眠れないんだ」
自分でも驚くほど静かな返事だった。するとイズリーはアメジスト色の美しい髪を指で巻き、ふうん、と口を尖らせた。
そしてベッドから降りると、椅子を一つ抱え、私の隣に持ってきて腰を下ろした。
「じゃあ私も寝ない」
「どうして?」
「悲しんでいる貴女を一人にするはずがないでしょう」
言われて私は苦笑した。今日仕事から帰ってきてから、努めて平静を装っていたつもりであったが、イズリーには全て見破られていたのだ。
そこで観念するようにまた窓の外の夜空を見上げて、私は口を開いた。
「ねえイズリー、死ぬってなんだろうね」
ぼやけば、私の胸にはぽっかりと穴が空いたような気持ちになった。
「心臓が止まれば、それが死なのかな。自分ってものがなくなれば、それが死なのかな。誰からも忘れられれば、それが死なのかな」
「……さあ、全部じゃない?」
イズリーは、じっと私のことを見つめていた。淡々とした言葉の字列を、その特異な瞳を持って精読し、私のことを探っている。
彼女は、私をわかろうとしてくれている。
だから、私も続けた。
「じゃあさ、これまで死んでいった人たちはどこに行ったんだろうね。心臓も止まって、思考も止まって、誰からも忘れられて。この世界からみんな残さず消えちゃって。そうしたら、次はどこかに行くのかな。それとも本当に消えちゃうのかな」
つらつらとゆっくりそこまで語ると、胸にまで思いが溢れ、私はようやくぽろりと口にした。
「今日ね、オーランさんが亡くなったんだ」
胸の辺りが酷く痛んだ。なんだか苦しくて、息がし辛くて、これがなくなるならどんなに苦い薬だって飲めそうだった。
「あの、結構前に咳が酷くなったって言ってたおばあさん?」
「うん」
目を細めれば、星の明かりがぼやけて見える。あくまでも点同士の集合体であったのが、液体が滲むように光が繋がり、乳白色に夜空が染まる。
「昨日会ったんだ。最期まで私のこと、お孫さんだと思ってた」
「……そう」
相槌を打ち、イズリーは続けた。
「良かったじゃない。最期まで幸せなままで」
「……でも、本当にあれで良かったのかな。騙してたみたいで、胸の所がずっと辛いんだ。あれがオーランさんにとって、本当の幸せだったのかなって」
堪え切れなくなって俯いてしまった。すると頬に涙が垂れ、膝の上で震えるほど握りこんだ拳の上に、ぽつりとそれが落ちた。星明りの銀の光芒が、艶めいたシルクの布みたいにしてそんな涙を拭ってくれた。本当はその優しい光を握り、手繰り寄せてしまいたかったが、私にはそんな権利さえもないような気がした。
私は、私を責めていた。
私は人の笑顔が好きなのだ。第二の喪失体験により得たこの感性は、高校の時とは別の理由で私を苦しめていた。
それは、笑顔という美しい花を咲かせる養分の中で、最も優れているものは善意でも、幸福でもなく、”嘘”であると気付いてしまったからだ。
嘘とは水のようなものである。それはいくらでも自在に形を変えられ、また、それがないと人は生きていけない。だがそれだけでも生きていけるというわけではなく、また、そればかりでは溺れて死んでしまうことだってある。
こんな風に、嘘には凄い力がある。使い方を誤れば悪にこそなるが、完全に使いこなせれば、それは人を”より”笑わせ、”より”幸せにすることができるのだ。
だがそうなると、それは”真実の”愛や、本当の幸福とは呼べなくなるのではないだろうか。
そうして思い悩んでいると、イズリーがそっと私の肩を抱いた。
「ねえニコチアナ、貴女は優しすぎるの。考え過ぎよ。オーランは貴女に最後、なんて言ったの?」
「……『こんな孫がいて、私は幸せだ』って」
「なら答えは出てるじゃない。簡単なことよ。空想と違って、嘘を吐いたってことは事実なの。それは根も葉もないただの絵空事じゃなくて、なんで嘘を吐いたかって人の心が混じり、それを聞いた人がいる、紛れもない真実なの。だからオーランのその言葉も、幻想なんかじゃないわ」
イズリーは私の手の甲を、上から包むように握ってくれた。なんて優しい温もりだろう。彼女の言葉や、熱や、善意を浴びれば、私はすっかり弱くなってしまう。するともう涙が止まらなかった。
「……そっか」
頷けば、私は手のひらを返してイズリーの手を握り返した。それは先ほど、月明かりを手繰り寄せたくなった時、それを我慢した反動だ。私は強く、イズリーの手を握った。
「ねえ、イズリーはさ」
言いかけて、しかし私は口をつぐんだ。今尋ねようとしたことはただの甘えであるような気がしたのだ。だって聞けば、きっとイズリーは、私の全てを見通して、私が言ってほしいことを言ってくれるのだから。それがわかっていてものを尋ねるのは、安心や安堵を脅迫して迫っているような、酷いことである気がした。
だが、イズリーはそれすらも見通していた。
「私は幸せよ、ニコチアナ」
その声がひたすらに優しくて、私は、だが、途轍もなく申し訳ない気持ちに襲われた。彼女の誠実で真っすぐな言葉と視線と愛に晒されるたび、偶にこうして心が酷く痛むのだ。
私の胸の中には、まだあの幸福を喰らい続ける、怪物とも、蛆とも言えるような奴らが巣くっているのだ。彼女との精神的な、尊く、美しい愛さえも、いつかはぼろぼろに風化し、穴だらけになって、可燃ごみの袋に入れてしまって、そこらへんの屑たちと一緒に焼却炉に入れられるようなものにまで成り下がってしまうのではないかと考えると、ものすごく怖くなるのだ。
イズリーのおかげでこの幸福に対する恐怖は以前に比べると幾分収まってはいるかもしれないが、しかし、こういう風に何か身近な不幸があったり、または過去を強く思い出すようなことがあると、古傷が疼くように痛みだして、この痛みは永遠に、生涯、死ぬまで私を苦しめるのではないかという切なさに襲われるのだ。
たまらなくなって、私はかぶりを振った。イズリーの顔を見ていられなかった。私なんかが彼女のように美しく優しい、善なる人間の傍にいて良いのだろうかと思ってしまう。
きっと私からは悪魔が大好きな不幸の香りが強く匂い立っているのだ。それをイズリーに移してしまうと考えると、私は、どうしても彼女の傍に居られないと考えてしまう。
そして今夜、とうとう、そうしてこれまで私の中に蓄積されてきた幸福への恐怖が至りに達し、私の口からは、ぽろりと言葉が溢れてきた。
「ねえイズリー、別れよう」
返事を待つ。彼女の顔も見らず、ただ下ばかりを見て、肩を小さくする。
永遠にも似た時間が、着実に過ぎていく。気が遠くなるような沈黙だ。彼女との静寂はあんなにも愛おしかったのに、今はとてつもなく痛かった。
すると、イズリーはそっと言葉を放った。
「どうして?」
その声にびくりと震えてしまう。もちろんイズリーは、怒ってなどいなかった。むしろ悲しんですらいないようで、ただ慈愛的に、私を包み込むように、子供の我儘を受け止める母のように、優しく言ったのだ。
「私のこと、もう嫌いになった?」
だからそう続けられて、私は勢いよく、前のめりになって返した。
「違う! イズリーのことは本当に、心の底から愛してる。大好きだよ。でも、でもね、違うの、だからなの」
一度切り出してしまえば、胸の内にあった思いが怒涛のように押し寄せた。こんな一つの口では吐き出せ切れない量だ。だからたどたどしく、つっかえながら、私は捲し立てた。
「イズリーを愛してるから、もっと幸せになってほしいの。ずっと幸せでいてほしいの。でもそう考えるとさ、相手はきっと、私じゃないって思うんだ。私なんかより良い人なんて沢山いるし、きっとそういう人と付き合った方が、イズリーはもっと幸せになれるって思っちゃうんだ。私みたいな、私みたいな奴なんかより、きっと!」
言えば言うほど、胸が切なさの痛みにかき回された。言葉の全てに強烈な毒が塗られ、鋭利なる棘が生えているようで、それらが体の底から喉を通り、舌の上から外に出るまで、ひたすらにぐるぐると回り続けているみたいで、次々と涙が溢れた。
私は、本当にイズリーにもっと幸せになってほしいし、ずっと幸せでいてほしいと思っている。だが私にそれが出来るかと問われれば、頭を抱えてしまう。私はそもそも幸福とは何かがわからないような不幸主義者だ。常に世界に懐疑の視線を向け、あれは幸福ではないと否定ばかりして、つい「生まれてこの方、私は幸福な人っていうのを見たことがないんだ」と斜に構えたことを口走る愚者であり、ひどい馬鹿なのだ。
だから私は、考えれば考えるほどイズリーと共に居ることが考えられなくなっていた。イズリーは本当に素晴らしい人だからこそ、私なんかより別の人と一緒の方が彼女の為になるのではないかと考えてしまうのだ。
そんなネガティブに傾倒し過ぎた思い込みで言葉を発し、震えていると、イズリーはそっと私の肩を抱いてくれた。
「ねえ、ニコチアナ。貴女、幸せってなんだと思う?」
尋ねられて、私は首を振った。
「わかんないよ」
「本当に? もう一回だけ考えてみて」
「……わかんないよ」
答えると、イズリーは月の光を全身に浴びながら、清廉なる雰囲気さえ漂わせ、聡く、優しく、暖かく、まるで夜のように告げた。
「それはね、きっと貴女が明日のことばかり考えているからよ」
「……どういうこと?」
「簡単な話よ。貴女はとても優しいから、誰かの、例えばオーランや私の未来のことばかり考えているの。二人が幸せになるにはどうすればいいだろうってね」
イズリーの柔らかい言葉が耳朶に沈むたび、私の胸からは安堵の気持ちが溢れてくる。心が落ち着き、するすると彼女の言葉が流れ込んでくる。だが、一度爆発してしまった幸福への恐怖も未だ健在だ。私の中では、もう胸だけではなく、腕や脚や腹でも局所的に戦争が行われているみたいだった。
「だからね、貴女は幸福とは何かって考えるの。でもね、それは答えの出ない悩みよ。何故かと言うとね、それが幸福であるかどうかは、過去になってみないとわからないからなの。勿論貴女の過去に酷いことがあったって言うのも私は知ってるし、そのせいで貴女がたくさん傷ついてしまったっていうのも、私は知ってるわ。だからきっと貴女は過去を振り返ることについて、強い抵抗があるんでしょう? だから、未来ばかり見てしまうんでしょう?」
そこでイズリーは私の肩を抱いていた手を離すと、そっとこちらの顎に手を添えた。そしてゆっくりと、優しく私の顔を上げた。私は恐る恐るそれに従うと、視線の先には、あのアメジストの瞳があった。
神秘的で、少しだけ悪戯っぽい、独特な色合いだ。きらきらと光る紫色は、けれども一色ではなく、それこそ宝石のように光沢じみたものがあって、長年蓄積されてきた智慧とでも言うべきものの結晶のようであり、ダイヤモンドよりも強固な、否、そんな石なんかとは比べ物にならない、天に瞬く煌びやかな意志を持ち、塵が集まった山ではなく、山が集まった星のような美しさを持っていた。
そして何より重要なことは、彼女は太陽ではなく、あくまでも星の一つであるということだ。イズリー自身が輝きを放つのではなく、むしろその視線の先にあるものの光を反射し、初めて輝くような、そんな色合いをしているのだ。
だから私は、そんな彼女の瞳の中に、幸薄そうな赤髪の女が居ることに、目を奪われた。
そして、彼女は告げた。
「でもね、確かに過去っていうものは変えられないかもしれないけれど、過去の意味ってやつなら、その後の行動でいくらでも変えられるの。だから怖がらないで、幸福とは何かって未来のことだけじゃなくて、何が幸福だったかって、過去を振り返ってみて。貴女はずっと頑張ってきたんだから、そんな自分を認めてあげて」
イズリーの微笑みは、もう目だけではなく、身も心も、私の全てを奪うような、暴力的なまでの美しさを湛えていた。
「そうしたらわかるはずよ。さっきの別れるかどうかなんて貴女の言葉には、私の幸福しか含まれていなかったけれど、私が幸福を感じる時、いつも隣には幸せそうな貴女が居たわ。だから私にとっての幸福を考えるなら、二人が幸せになれることを考えるべきよ。例えば、こういう風に」
その時、ふと私の左の薬指に、何かが触れる感触がする。
視線を落としてみると、そこには天の川のようにきらきらとダイヤモンドが散りばめられた指輪が嵌められていた。
「結婚しましょう、ニコチアナ。二人で幸せになるの。そんなに私のことを愛してるなら、何も問題ないわよね?」
途端に、私は思わず更に涙を溢れさせてしまった。体の内側が燃えるように熱くなる。頭ではなく、心がものを考えていた。何かをするべきかより、何をしたいかが私を動かし、イズリーと唇を合わせた。
それは長く、永いキスだ。体が溶け合って、まじりあって、一つになってしまいそうだ。彼女を貪りたくて、また、彼女に貪ってほしかった。彼女の全てを知りたくて、彼女に全てを知ってほしかった。口とはものを伝える器官であり、またものを取り入れる器官でもあるのだ。だから必然的に、私はそうして、自身の思いを伝えた。
「ねえ、イズリー」
顔を離し、視線を絡み合わせると、私の胸からは、大きな、大きな幸福感がせりあがってきた。
「ありがとう、私も、幸せだよ。貴女と出会えて、本当に良かった。それと、その……ごめんなさい、私、また……」
するとイズリーは、なんとも照れくさそうにはにかみ、私のことを強く抱きしめた。するとその体が震えており、ようやく、彼女が途轍もない緊張をしていたのだとわかった。
「ええ、ええ、本当にいきなり何言いだすのかと思ったわよ、馬鹿。色々考えてたのに、焦って勢いでプロポーズしちゃったじゃない、全く」
先ほどまでの、神秘的ともいえる雰囲気を弛緩させ、大きなため息をつくイズリー。その姿がこれまでで一番美しく、愛おしく見えて、二度と離さないように、強くその体を抱きしめる。
「ふふ、ごめん。でも、もう、ずっと、ずっと一緒に居ようね、イズリー」
イズリーは、強く頷いた。
「勿論よ、ニコチアナ」
それが、私の二十数年の生涯の中で、文句なしに、最も幸せな夜であった。