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「やあ、カミュ、元気かな?」

 開け放たれた病室の引き戸を軽くノックすると、私はそうやって、いつものように彼女を呼んだ。

 しかしカミュ(個室の病室がぴったりと似合う、いかにも儚げで、指の先で触れようものなら、トランプのタワーのようにばらばらと崩れてしまいそうなほど繊細な女の子)は、いつものようにこちらを一瞥すらしなかった。代わりにただ一心不乱に窓の外の青空を見ている。

 苦笑をすると、私はそんな窓際の方まで歩み寄り、白く清潔に磨かれた硝子を、こんこんと再びノックした。

 するとカミュはハッと驚いたように目を剥き、悲鳴すらも上げて、ベッドの上で飛び上がってしまった。柳の梢でも削ったように細く、病的なほど生白い手足が露わになる。持病の欠石病だ。体が上手く鉱石から栄養を取り入れられず、定期的に点滴をしなければ死んでしまう重い病である。

「いつ来たんだよ、ニコチアナ?」

「たった今だよ、元気?」

「元気に見えるか?」

 私の問いに、彼女は自身の病弱な体を晒し、皮肉っぽくそう答えた。まだ十三だというのに、カミュはとても頭が良いのだ。それはベッドの枕元に山のように積まれた図書が示す如く。生まれてこの方、長く入院をしている彼女は、途轍もなく本が好きであるのだ。否、好きというよりも、それはもう呼吸に近いと言った方が良いかもしれない。彼女が心を許すのは本の中の世界だけで、それを示すように、数千万の文字を常に自身の周りに壁のように並べて、病院の中でさえ、引き籠っているのだ。

 そして偶に、そんな閉じられた世界から、ふと外を見上げる。そこにはどこか見覚えのある……そう、イズリーが、絵描きスイッチが入った時にする、あの空想的というには現実味を帯び過ぎていて、超然として、世界の裏側が見えているような、遠い目をするのだ。

 だから私は、何の偽りもない微笑みを浮かべて頷いた。

「見えるよ。きっと気に入ってくれると思ったんだ、この本」

 彼女を囲う本の断崖絶壁の一番上、紺色の装丁がなされた文庫本を目で示すと、図星を言い当てられたカミュは、拗ねたように顔を逸らした。彼女は皮肉屋で利口であるが、しかしやはり、まだ十三の子供であるのだ。

「お前のそういうところ、本ッ当に嫌い。無駄に自信ばっかあんだよ。幸薄そうな、冴えない顔してさ」

「ふふ、別に私のことはいくらでも嫌いになっていいよ。でも、お薬は嫌いでもちゃんと飲まなきゃダメでしょ? 看護師さんたち困ってたよ」

「不味いもんは不味いんだよ」

 私がパイプ椅子に腰かけて言うと、カミュはけっと鼻を鳴らして寝転がった。両の手を頭の後ろで組み、足を高く組んで、いかにも不機嫌ですという様子だ。

 そして口を尖らせると、そんな粗野な態度のまま、しかし、やはり繊細そうな、儚げな相を頬の辺りに浮かべる。

「それに薬飲んだって、どうせ、長く生きられないんだろ」

 その自暴自棄を幼いと見るか、成熟していると見るかは、きっと人それぞれだ。実際看護師や、他の石医師の間でも煙たがられているほどの彼女。主に彼女の悪態のせいで家族との仲も良くなく、また、入院続きも相まって、同世代の友人など一人もいない、孤独な少女がカミュである。

 そんなカミュの一言で、私は思わず口を閉ざしてしまい、目を伏せてしまった。医者なら、ここは否定するべきなのだろうか。カミュと話していて、毎回思うことだ。

 だから私は、ぽつりと口を開いた。

「……ごめんね」

 カミュの表情がどんなものであるかは、私が目を伏せているからわからない。そうして沈黙が、私たちの間に流れる。

 すると、ぽつりとカミュが口を開いた。

「なんであんたは、私に生きろって言わねえんだよ」

 その言葉に顔をあげると、そこには先ほどまでと同じ体勢で、けれどもあのどこか遠い目をしたカミュが居た。口が悪く、皮肉屋で、しかし聡明な少女。そんな彼女が、初めて、私にものを尋ねたのだ。

「だって、生きたくないんでしょ」

「……それを説得するのが医者じゃねえのかよ」

「どうだろうね」

 口にすれば、なんだか体から力が抜けていくようだった。思わず染み一つない天井を見上げてしまう。

「少なくとも私は、ただ生きることが幸せだとは思わないからさ。生きることが、ひたすらに苦しいだけってこともあるって、知ってるから。だから誰かに生きろなんて、言えないよ。ましてや、それが頑張って生きてる最中の人にさ……途方もないもんね、みんなが言う生きるって」

 そこで私は、白衣の懐へと手を忍ばせた。

 一冊の本を取り出せば、それをカミュに差し出す。先日私が持ってきたものの続編だ。子供のころ読んでいたものであり、一度は捨ててしまったが、大人になって買い戻した冒険小説。

 少年海賊団が太陽に誘惑され、青空を駆けまわり、雨や嵐と戦って、時には白雲で休んで。そんな途方もなく幻想的で、子供らしく、美しい物語だ。

「続き、読む?」

「……おう」

「じゃあ少なくとも、あと数日は生きなきゃね」

 伝えると、カミュは小説を受け取り、口を尖らせた。

「変な奴」

 言われると、私は思わず苦笑してしまった。それほどまでにつっけんどんで、投げやりな悪態をカミュが吐いたのだ。

 故に私は仕返しの如く、肩を竦めて見せた。

「どうも。ちなみにその小説、シリーズ物であと十冊以上あるから。全部読むんなら、一か月は生きなきゃ。じゃあ、せめてその間はお薬飲まないとだね?」

「わぁったよ、飲むよ、うるせぇな」

 そう言った彼女を一瞥すると、私は席を立った。そうして病室を後にしようと歩き出し、しかし、扉の所に行くと、後ろでカミュが口を開いた。

「ニコチアナ」

「何?」

 振り返ると、彼女は手元の小説へと目を落としていた。

「私は、やっぱりお前が嫌いだ。世界で、一番嫌いだ」

 頑なな言霊。彼女はもう、あの高い本の、知識の壁の、空想の世界の中へと籠もっている。しかしそれでも、私の名を呼ぶ。そうして、創作という鏡と一心不乱に向き合い、言葉を紡ぐ。

 その瞳には何が見えているのだろう。これがイズリーなら、きっと絵にして書き出してくれるのだろうが、カミュはそうではない。あくまでも彼女は、見たものを吐き出すのではなく、己の中で燃焼させ、生きるためのエネルギーを生み出しているのだ。

「ねえ、カミュ」

 言葉を投げると、彼女は返事をせずに黙り込んでいた。だがしかし、私は続けた。

「私”も”、私のこと嫌いだよ。でもね、そんな私のことを好きって言ってくれる人もいるんだ」

 そうして私は、目を細めた。すると、カミュに昔の自分が重なる。

 それは入院をしていた六つの頃ではなく、もっと後だ。周りを意識しすぎて、聖母か道化のような仮面を被り続け、自分の世界に閉じこもっていた、高校生の時の私。自信が無くて、世界の全てが大きく見えて、ひたすらに怖かった。

 だから私は、カミュの気持ちが、良くわかるのだ。

「大丈夫だよ、カミュ。怖いと思ってた人や物が、案外そうでもないことって、沢山あるから」

 言い残して、私はカミュの病室を出ると、そのまま廊下を歩いた。

 人気のない廊下だ。普段なら看護師や他の医師が忙しない足取りで歩いていたり、対照的に、患者がゆっくりとした足取りで歩いていたりと、基本的には人の気というものがするのだが、生憎と廊下には誰もいなかった。

 磨き上げられた近い色同士のタイルカーペットが、ずうっと奥の方まで伸びており、ガラス窓から差し込む陽光が空白を照らしつける。目に見える暗闇とでも言うべきだろう。私はイズリーやカミュのように、そこに世界を見出すことはできず、ただ何もないということを自覚することしかできなかった。

 本当に、あれでよかったのだろうか。独りで長い廊下を歩いていると、私はそうやって考えてしまう。

 カミュに対する自分の接し方が、一人の医師として、また、一人の大人として正解だとは、どうしたって思えない。カミュは言動こそ粗野であるが、その実私よりも繊細な子なのだ。それはあれだけの瞳、否、感性を持っているのならば当然のこと。きっとカミュは、世界の全てを鋭敏なる感性で認識してしまうため、私なんて想像も及ばないほど、それぞれがとても大きく、恐ろしく、途方もなく感じるのだろう。

 その点、創作鑑賞とは良いものだ。なんせ、その感性への”跳ね返り”がないのである。あくまでも一方的に世界を俯瞰していられる感覚。これが現実なら、常に何かしら、自身へ直接影響する事象を警戒しなくてはならない。だが、それは臆病であり、感性が豊かであればあるほど、多大な労力を必要とする行為だ。だから時と場合が噛み合った時、そういう人は耐え切れなくなって、孤独の道へと逃げ込んでしまう。

 実際、小学生の頃の私が、きっと、同じような状況であったから。

 もちろん私にイズリーやカミュのような鋭い感性はない。ただ代わりに、恐ろしく厳しい環境があった。彼女たちが、常人が一と認識することを十と認識する能力を持っていたとしても、私には、常人が十と認識する環境があっただけの話だ。この場合、もし私にも彼女たちと同じ感性があったとしたら、一体どんな行動を起こしていたかは想像もつかない。

「ニコチアナ先生」

 そうして廊下を歩いていると、ふと、後ろから呼び止められた。

 振り返れば、そこには長く、色褪せたような細い金髪をした看護婦が立っていた。いかにも人が良さそうで、愛くるしい小さな丸顔の輪郭から、今にも溢れ出さんばかりの溌溂と、健気さが浮かんでいる。制服の着こなしも折り目正しく、まさに、それこそ私とは比べ物にならないほど、根っからの”優等生”という印象だ。

「ああ、シャーリィ、どうしたの」

 尋ねると、シャーリィはどこか高揚したように頬を赤くさせ、真夏の波打ち際のような、透き通るような蒼い瞳を輝かせた。そしてあろうことか、それこそ波が白砂を掴むように強く、私の手をとったのだ。彼女はそういう風に、清らかであれど、強引で、誰にでも分け隔てのない、善良な人であった。

「そ、その、先生、すごいです! 私、えっと、びっくりしちゃって!」

「あー……えっと、何が?」

「カミュちゃんですよ! 私、どれだけ頑張っても、ちゃんとお話しできなくて……でもさっき、ニコチアナ先生、あんなにちゃんとお話しできてて、すごいなって」

 どうやらシャーリィには、先ほどの一室での出来事を見られていたらしい。そして彼女は、えらく感銘を受けている様子である。迫りくる熱気や圧力というものに、気を抜けば押しつぶされてしまいそうだ。

「あ、あはは……まあ、少し独特な子だからね」

 故に、得意の愛想笑いで半歩下がってみれば、更に一歩詰められる始末。シャーリィは医院の中でも、特に私に懐いてくれているのだが、しかし、私は別に特別彼女に何かをしてやったわけでもないため、身に覚えのない信頼を獲得しているようで、少しだけ彼女のことが苦手なのだ。

 だが、そんな私のポーズさえも、シャーリィには素晴らしき謙遜として見えてしまうようで、世界で一番眩しい夏の砂浜のような彼女は、曇りというものも知らず、疑いというものをもたず、見えるものだけを妄信していた。

「コツ、教えてくださいよ、ニコチアナ先生。私もカミュちゃんと仲良くなりたいですし、他の看護師の先輩方も、そう言ってましたから!」

 本当に、疑う余地もないくらい純粋な瞳だ。昨年学校を卒業したばかりの若い活力が全身からなみなみと溢れてきて、その情熱が何かの弾みに大火事に発展してしまいそうな危うさはあるが、しかし暖かく、明るくて、本当に”良い子”である。

 ただ、私は気付いていた。シャーリィはきっと、純粋にカミュと仲良くなりたいと言っているのだろうが、他の看護師たちは違うのだろう。それこそ私がオーランさんと接するため、孫のデイジーを演じた時のように、ただ仕事を円滑に進めたいというだけの思いで、みんなカミュと仲良くなりたいのだ。

 これはきっと、大人として間違いでも何でもないだろう。ただやっぱり、私は何処か、そんな人のスタンスに抵抗を覚えてしまうのだ。

 仲が良いというのは、本当にそういう間柄のことを指しているのだろうか。愛想だけを振りまいて、言うことを聞いて、邪魔にならないようにして、それで人に近づいたとして、しかし、近づいたのは自分ではなく、自分に似た誰かなのではないだろうか。

 そこまでして誰かに認められ、誰かと共に居ることが、本当に善き事なのだろうか。

 高校時代の自分を思い出せば、なおさら答えに迷う。私が委員長や生徒会長であった時の友達とは、高校を卒業してから数年が経ち、もう誰とも連絡を取り合っていない。

 だからと言ってあの時の友人たちを忘れた、というわけでもないが、もし会える機会があったとして、私は躊躇うだろう。

「私はさ、別に、カミュと仲がいいわけじゃないよ。ただ、趣味とか考え方が、互いに理解できるってだけさ。似てるんだよ、私と、カミュは」

「似てる……本が好きな所とか、ですか?」

「少し違う、かな。本は好きなんだけれど、それ以前に、本以外が怖いし、鬱陶しいし、めんどくさくて、本を好きになった過程が似てると思うんだ」

 私たちは連れ立って廊下を歩いた。シャーリィは顔も小さければ、背も低く、彼女と話していると、不思議と心の棘というものが失われ、対人的な警戒心の壁が粘土のように柔らかくなってしまう。

 もし学生時代、否、それ以前の幼少期含め、私の二十数年の人生の中で、彼女のような人がいれば、私ももう少し、人に対して信頼感というものを得れていただろう。

「うーん、じゃあ、とりあえず私も、本を好きになる所から始めてみたほうがいいんですかね」

 唸るシャーリィに向けて、思わず苦笑してしまった。

「その必要はないと思うよ。あくまでも似てるっていうのは感性の問題だし、無理して合わせると、どっちも疲れちゃうから」

「じゃあ、私はカミュちゃんと仲良くなれないんですか?」

「どうしてそうなるのさ」

 肩を落とす彼女に苦笑して、私は、背を丸めるシャーリィの頭を軽く撫でてやった。

「きっと仲良くなれるよ。だって私、貴女のことはとても親しみやすくて、話してて楽しいし、好きだと思ってるから。そんな私に似てるカミュが相手なんだから、自信をもって。私からもお願いね、シャーリィ。あの子には、貴女みたいな人が必要だから」

 伝えると、シャーリィは先ほどまでの悲しげな顔を一転させ、弾けるように笑顔を花開かせる。彼女が来てから、この医院は明るくなったのだ。対人関係に限って言えば、シャーリィという看護婦は劇薬並みの効力を持ち、一つの病院という、大きく、また慢性的に痛みや苦しみが充満している場所でさえ、その蒼い瞳から輝きを一滴垂らすだけで、コミュニティの色というものを、見違えるほど変えてしまう。

 私はそんな劇薬、人の心を変えてしまうものの成分について一番大きいものは、やはり自信であると思うのだ。

 シャーリィの笑顔には曇りというものが一切ない。眩いほどの快晴。以前彼女と話した時、家族は皆仲良く、幼少期から毎年のように旅行に行っていたり、マメに連絡を取り合っていたり等、そんな”普通の環境”で育ったのだと言っていた。

 それが彼女の人生であり、それが彼女の価値観であり、それが彼女の常識である。そしてシャーリィは持ち前の、波のような強引さで、まわりのものをそんな常識の懐の中に引き摺り込んでくれるのだ。

 なんせ、彼女にとってはそれが普通なのだから。故に何の迷いもなく、シャーリィは、私やカミュのような人間でさえ、”同じ”だと認めてくれる。それがどれだけ幸いなことであるか、心に歪を持っている人間ならば、大なり小なり理解はできるだろう。

 彼女の心は、まさに海のように広く、深いのだ。全く以て爽やかで、周りの人間を照らすという”明るい”という言葉の本来の意味を正しく体現する、稀有な人である。

「ね? だからさ、それからその看護師さん、シャーリィって言うんだけどね? 『私もう一回行ってきます!』って言って、カミュの病室まで戻って行っちゃったんだよ。だから気になって追ってみると、もちろんカミュは口悪くて、なんだかんだって言い返してたけど、シャーリィも負けずに笑顔で答えててさ。最終的には、あのカミュの方が折れてて、驚いたよ」

「驚いたって、ニコチアナがそう言ったんでしょ?」

 私が嬉々として、先日の医院での出来事を語ると、イズリーは気怠そうにビールを啜った。

 もう外も暗く、明日は休日であるため、互いに夜更かしをしているのだ。

 会場は私の家で、お供には多くの酒類やつまみがある。私は酒に弱い方ではあるが、この日ばかりは、多くアルコールを摂取してしまっていた。

 だからこそ、弁にも熱が籠もると言うものだ。

 人の声とは不思議なもので、そこには色がある、というのが私の持論である。

 俗に言う声色というものだ。

 例えば、イズリーの声色は神秘的な、深く濃い紺色であると、私は思う。彼女の人間性の核たる部分は常に謎めいていて、深海の巌の輪郭のように未知であり、また、そこに外の世界とは相いれないような独自の世界が発展しているから、イズリーという独特な生態系の権化が育ち、それは端から見れば奇形とも言えるかもしれないが、確かに、造形美として君臨しているのだ。実際彼女の声はとても低く、落ち着いていて、夜のような印象である。

 逆に、私の声は淡い檸檬のような色であろう。大人になってもまだどこか背伸びをしている感じが抜け切れず、何者にでもあう調味料としてありながら、単体では、到底口に入れられないほど、まだ青い檸檬の色合いである。

 だからか、酒を飲めば、私は決まってイズリーに甘えてしまうのであった。

 彼女の包容力というのはすさまじいもので、特に酒が入れば、仄かに朱に染まったイズリーの頬は、どんな化粧よりも目を引いてしまう。そんな大人びた顔で微笑まれれば、私は常に被っている真面目な殻すらも脱ぎ捨て、医院での背伸びした振る舞いなど忘れ、この身の全てをイズリーに預けてしまいたくなるのだ。

「ねえ、イズリー」

「何?」

「愛してる」

 彼女の胸の中で言えば、イズリーはほとほと呆れたようにしながらも、けれども満更でもなさそうに頷いた。

 それを見て、やはり私は嬉しくなるのだ。イズリーが居なければ今の私が存在しないように、私が居なければ、今のイズリーは存在しないのだと確信できる。運命の相手というものが存在するなんて、イズリーと結ばれるまでの不幸主義な価値観では想像さえできなかったが、逆に今では、イズリーなしの人生など一切考えられない。

「ずっと、ずっと一緒に居ようね、イズリー」

 溢れてしまいそうな愛情をそのまま言葉に置き換えると、幸福感で一杯だった。

 このまま夢幻の中に溺れてしまえたらどれだけ心地よいだろう。自室のベッドの上で抱き合い、愛を確認し合って、またそれを深めていくと言う行為が、私にとっての全てであったのだ。私はもう、イズリーさえいれば、飲まず食わずでも生きていけるのではないかしら、と思ってしまうほどに、彼女を愛していた。

 だが、最近、イズリーからおかしな様子を感じ取っていた。私がいつものように愛を口にすると、なんとも微妙な表情をするのだ。

 その顔に一番近い言葉は、緊張であろうか。人生の山場に差し掛かったとでも言いたげに神妙な顔つきで、それこそ、高校時代、イズリーが私に告白した時のような一世一代の大勝負も間近という顔をするのだ。

 だが、私にはそれがなんなのか、てんでわからなかった。むしろ愛を囁いても快い返しが帰ってこないことに、一抹の不安さえも覚えていたのだ。

 だからその日、普段よりも深酒をした私は、調子に乗って、イズリーを押し倒してしまった。

「ねえ、イズリー。最近どうしたの? 何か、私に不満でもあるの?」

 口にしてしまえば、途端に切ない気持ちに襲われた。

 そう、切なさだ。私の人生において、痛覚を表現する際、最高位に位置する表現だ。

 私は実際身に降りかかる痛みよりも、未来を憂い、想像した痛みの方が、何倍も痛いと感じるのだ。

「ああ、いや、不満なんてないわよ。突然どうしたのよ、ニコチアナ」

「だって最近、イズリーってば、様子がおかしいから」

 いよいよ酔いも回り切り、視界さえも、色んなものが曲がって見えるようになるくらいだ。

 私は近頃溜まっていた鬱憤を叩きつけるようにイズリーの唇を奪った。

 すると彼女は呆れたように笑い、私の首へと手を回した。

「本当、心配性ね、貴女」

 その指摘はまさに的確であっただろう。

 そう、私は心配性なのだ。常に心の奥底にはネガティブを飼っており、酔いが回ると、それが否応なしに膨れ上がる。

 だからこそ安堵を求め、イズリーに甘えてしまうのだ。

 これが、私が普段、外では酒を飲まない理由である。イズリーが居なければ、きっと、酔った私は大変なことになってしまうだろうから。

 そうして抱き合えば、私はやはり安心した。

 これほどまでに何かを愛することなどなかった人生だ。

 むしろ、イズリーと結ばれるまでは、それこそ高校の頃無趣味であったように、何かを愛することに対して、抵抗、いや、”生理的な拒否感”さえも感じていた私だ。

 ならば、どうして私はそこまで、何かを愛することに不安を覚えるようになったのか。

 イズリーに対して、安心感を求めてしまうのか。また、偶にふと、そんなイズリーとの幸福さえ疑い、血迷ったようなことを言ってしまうのか。

 その根底は、第二の喪失体験、小学生の頃の出来事に起因するだろう。

 私は当時、とてもロマンティックな子供であった。

 家では父が横暴に振る舞い、学校には上手く馴染めず、空想の世界に耽ることでしか逃げ道がなかったのだ。

 だから詩や文学を好んだ。絵や歌と違い、文学はとにかく、他者に気付かれにくいのである。

 何せ、文学とは空想する創作物であるからだ。

 絵や歌は、創っている側の感性を前面に押し出され、それを突き付けられているようで、受動的な創作であるが、文学は文字を読み、それを想像力の骨組みとし、いわば作品に触れる人が創作をしなくてはならない、稀有なものであるのだ。

 だから私は、小学生の頃、とにかく文字を読んだ。現実から逃げるためにただ黒い線の羅列に虹色を見出し、様々な人物や性格を見出し、彼らの表情を頭の中で作り出しては、独りでにやついてしまうような子供であった。

 特に、そんな小学生の時の私を象徴するエピソードとしては、独り言が癖であった、というものがあげられる。

 とにかく私は、空想癖が酷かったのだ。

 例えば一人きりの通学路では、常に、頭の中では隣にいた友達に話しかけ続けていた。

 彼女の名前は、トロイメライといった。家は私と同じくらい貧乏ではあるが、代わりに、私とは対照的に、愛を受けて育った少女だ。髪型は清楚な黒い長髪で、八人姉妹の下から二番目の子供であり、家族を敬愛しているような人物だ。

 また、彼女は何物にもさん付けをする女の子でもあった。滑り台さん、サッカーボールさん、ぬいぐるみさん。特に小説に登場するキャラクターについても例外なくさん付けで呼び、私が好きだった少年海賊団の全ての人物に対しても、さんをつけていた。

 だが、私はそれがどこか寂しかった。なんせ、トロイメライは私にもさんをつけるのだ。「ニコチアナさん、おはよう、今日もいい天気だね」という具合。私は登校中、何度も彼女に呼び捨てにしてと頼んだが、一切聞き入れてもらえなかった。

 けれども、それを諦めなかったのが私だ。私は何としてもトロイメライと仲良くなりたかった。何せ、私には友達がトロイメライしかいなかったのだ。そもそも父の仕事の影響で転勤族であり、毎年のように引っ越しをしていたため、友達というものがなかなかできず、できたとしてもすぐ別れてしまい、そのたびに私の心はすり減って、一生離れない友達として、トロイメライを生み出したのだから。

 だが、小学生の高学年の時、転機が訪れた。

「いつも、誰と話してるの?」

 転校続きで友達ができず、次第に、どうせ別れるから、と誰ともつるまなくなっていた私に、声をかけてきた子が居たのだ。

 彼女の名はペチカといい、私と同じく、日陰に生きる少女であった。常に教室の端の方で活字を読み漁り、授業や学校行事では一言も発さず、その声を覚えているものは、誰もいないと言った具合だ。

 けれども、彼女から私に話しかけてきたのだ。それはとある昼休みで、きっと毎日のように互いに図書室に居て、私が本を選ぶ際、いつも独り言を言っていたのが気になったのだろう。

「トロイメライだよ。私の友達なんだ」

 答えると、ペチカは眉をひそめた。

「その子は、どんな子なの?」

 故に尋ねられれば、私はすらすらと答えた。

「トロイメライはね、とっても綺麗な子なの。目はとても大きくて、黒い髪はさらさらしてて、唇は柔らかそうにふっくらしてるの。きっと数年後には、モデルさんみたいになってるよ。そして綺麗なのは見た目だけじゃなくて、中身だって、とても清らかなんだ。だって、この世の全てのものにさん付けをするんだよ」

 この時の私はとにかく歪んだ奔放さを持っており、家族以外の誰に対しても、”どうせ私の前からいなくなるから”という見方をし、故に怖いものなしといった振る舞いをしていた。

 きっと、それがペチカの目に留まったのだろう。彼女はとにかく恥ずかしがり屋で、引っ込み思案で、自分に自信がない子だった。

「ふふ、面白いね」

 彼女はいつもそうやって、私の突飛な空想話を楽しんでくれた。彼女は頭が良く優しい子であり、私の空想があまりにも現実味を帯び過ぎていたため、それをエンターテイメントの一つと捉えてくれたのだ。

 そして、私はそんなペチカに対して、何も思っていなかった。

 私は本当に、小学生の時は、そういう子供であったのだ。高校時代の、人の眼ばかり気にし、ひいては聖母か道化か、といった題名の仮面を自作してしまうほど人目に怯えていた私からは、考えられない子だ。

 だが、逆説的に物事を考えれば、それほどまでに、百八十度、私の価値観が変わってしまう出来事があったのだ。

 それが、”父の不倫と失踪”である。

 私がどうして人を寄せ付けなくなったか。それは父の仕事のせいで、すぐに引っ越しをしてしまい、関係性の継続が見込めないため、どうせ別れの悲しみを叩きつけられる未来が見えているなら、仲良くなる労力なんて捨ててしまった方が良いという、無意識的な自己防衛の発想であった。

 だが、ある時父が居なくなり、その”すぐにみんな居なくなる”という前提条件が瓦解してしまった。

 その時、あろうことか、私の胸には穴が空いたような感覚がしたのだ。父が居なくなれば、と何度考えたかはわからなかったが、いざ居なくなると、私は目の前が真っ暗になったような感覚に襲われた。

 父は、本当にあっさりと、何の前触れもなく居なくなったのだ。前日の夜に殴られ、次の朝起きると、家からは父の私物がなくなっていた。ただそれだけだ。そこに劇的に凄惨なことも、絢爛なことも一つもなく、ただ張り詰めていた糸が引き裂かれるみたいに(切れるのではなく、引き裂かれるのである。なんの予兆もなく、誰かが手を加えたのではなく、これまでの蓄積によって、ぷつんと左右に糸が引き裂かれるのだ)、父は居なくなった。

 そのことに対し、姉は喜び、母は安堵していた。呆然としているのは、私だけだった。

 むしろその時、私はなぜか、寂しささえも感じていたのだ。胸の中にあった痛みが綺麗に消えてしまい、ただただ、何をすればいいかがわからなかった。

 そして、もう一つ、私はその時絶望したのだ。

 この絶望こそが、第二の喪失体験を語る上で最も根幹な所である。

 私は、父が不倫をしたという事実と、それを受けて安堵している母の姿に、言葉では言い表せないような、大きな、大きなショックを受けたのだ。

 だって、二人の間には愛があったはずなのだ。結婚とはそういうものだと思っていた。勿論、全て御伽噺の中の受け売りだ。百年経っても変わらなくて、二人の形が変わっても、どれだけ距離が遠くても心で繋がりあっていて、時にはそれが悲しい結末に繋がったとしても、その悲しさが愛であるというのが、本に書かれていたことだ。

 実際に、さしもの父でも、ごく偶に機嫌が良い日があった。その日は普段が嘘のように笑顔を浮かべていたし、それを見て、姉は陰で悪態を吐いたが、母は”愛おしそう”にしていた。

 そう、私の両親の間には、確かに愛はあったのだ。私はそれを小学生の頃の、空想的で、ロマンチックな純情な眼差しで見つけており、だから今、私はここに居るんだと理解していた。

 だから、愛は不滅で、普遍的なものであるとさえ思っていた。いくら今がどうあろうとも、昔二人は愛し合い、そして、今でも心の奥底にはその愛の痕跡が残っているのだと信じていた。こんな思考の大幅な部分は、まさしく現実逃避である。

 私は愛に救いを求めていたのだ。どれだけ毎日が苦しくても、どれだけ嫌なことがあろうとも、何を失おうとも、私は、たった一つだけ、普遍的で、変わらず、目の前のものが全て卑劣なる不幸の大波に攫われ、私の前に何も残らなかったとしても、人の心のどこかには絶対に愛があり、それは深く打ち込まれた楔のようになって自身というものを固定でき、自分だけは決して、自分が何かに向けていた愛だけは、決して失われないものだと思っていた。 

 だが、現実は違った。

愛は失われるもので、風化するものであった。

 それをまざまざと見せつけられ、私は考えてしまったのだ。

 私はどうして、ここにいるんだろう。

 私はその時、自身の空想が、紛れもなく”空想”であることを自覚した。父が居なくなり、引っ越すことがなくなり、友達を作ってもよくなったため、これまでずっと私といてくれて、これからもずっと一緒にいるのだと思っていたトロイメライが、居なくなってもいいものになっていたのだ。

 私はその現実を受け入れられなかった。私はトロイメライが大好きだったのだ。心の底から彼女を愛し、魂の友人として認識し、生涯を共にするのだと思っていた。私はずっと、トロイメライを好きでいたかった。

 けれども、現実がそれを許してくれなかった。次第に私の、頭のおかしい、空想的な独り言は、学校で煙たがられるようになった。これはいつものことで、でもこうなるくらいにはいつも転校していたから、私はトロイメライと一緒に居る道を選んでいたのだ。

 だが、状況は悪化していった。父が居なくなったため、転校という逃げ道がなくなっていたのだ。故にあの子は頭がおかしいと言われ、からかわれ、靴を隠され、挙句の果てには、トロイメライを馬鹿にされても、学校に行かなければいけなかった。

 私はそれがなによりも辛かった。ぼろくそに言われて、何度も泣いた。もう放っておいてほしかったが、みんなが私を囲んだ。

 そんな日々が続けば、私は次第に、空想を口にするのが怖くなった。自分を面に出すのが嫌になった。”私”はおかしい人間で、口を開いてはいけないのだと思うようになった。

 そうすれば、次第に、トロイメライは遠くに行ってしまった。あれだけ愛おしかった最愛の友が、私の中では、居なくなってもいいものではなく、”居ない方がいいもの”になってしまっていた。

 その時、私は自分が消えていくことと、この世界には一つとして、変わらないものなどないのだということを、魂で理解した。父という人生最大の不幸さえ、神の気まぐれのようなたったの一瞬で、綺麗になくなったのだ。だから自分が何を欲し、そのために例え全てのものをかなぐり捨てたとしても、どうせ全てなくなってしまうのだということを考えた。

 そして、それを受け止めるには、私は幼過ぎた。

 そうなると私は、もう、何を希望にして生きていけばいいかわからなかった。そう、私はこの第二の喪失体験で、父という不幸を失い、同時に、生まれて初めて、”幸福を失った”のだ。

 それは現実逃避が作り出したただの空想ではあったが、私はそれを信じ込み、ひたすらに愛していたのだ。それだけは私の”中”にあるもので、私がどこに居ようと、絶対になくてはならないのだと思っていたから。

 そこで、私は閉じ込められていることに気が付いた。この私を閉じ込めるものは、狭い壁なんてちんけなものではなく、見渡す限りの世界だ。ただただ広く、ただただ高く、私の手も届かないような、扉や窓なんて一切ないような、世界という密室に、私は閉じ込められていたのだ。

 それがひたすらに怖かった。私は、他者に与えられるものではなく、”自分で生み出す”幸福さえも失われるものだと理解してしまったから、じゃあこの世界で生きるために、何を指標にして生きていけばいいのかがわからなかった。

 これが、私の絶望である。

 私は普通の子になり、友達ができても、その幸福を受け入れられなくなった。結局、なにをしても、みんな居なくなるんだという強い孤独感ばかりが、彼らと笑いあうたびに胸を突き刺し、穿り回し、何度もばらばらにして、押しつぶして、打ち砕いて、搾り上げて、引き千切って、かき回して、縊り殺して、壮絶なる、未来への”どうせ”という切ない痛みを植え付けた。

 だから私は馬鹿らしくなって、持っていた本を全て捨てた。

 それまでは、自分で創作をしなければいけない小説というものを溺愛し、黒い文字列の中に虹色さえ見出し、想像の世界へと身を沈ませていたが、それが全部無駄に思えてしまい、騙されていたようなショックと、憎しみすら湧いてきて、大好きだった少年海賊団の小説さえ、ページを一枚一枚引き千切り、何度も殴りつけてぺしゃんこにした。

 そうして、これまでの自分というものが消えていくのが、ただただ痛かった。

 それは、まさしく”死”であった。だって、これまでの私は、”見て分かる通り”、居なくなったのだ。心臓の活動が止まるなんてちんけなものではなく、自身というものが消えてしまうことが、死であるのだ。

 また、ただ自分が消えてしまうのではなく、新しい己を受け入れなければならないというのが、最も苦痛であった。これまで好きだったものを嫌いになった私なんて、きっと昔の私は大嫌いだろう。それがわかっていたから、後ろ髪を引き千切られるような痛みを感じ、特に、偶に思い出すトロイメライに、亡霊に似た怨嗟を感じ取ってしまって、発狂したくなるような恐怖を覚えた。

 そして、私にそんな最大の苦痛を与えてくる人物が、ペチカであった。

「ねえ、最近どうしちゃったの」

 帰り道、ペチカは話しかけてきた。暮れなずむ、茜色の坂の途中だ。私は振り返ると、ペチカと目を合わせた。

「何?」

「最近さ、全然、変わっちゃったよ、ニコチアナ。全然楽しそうじゃないよ。トロイメライとか、どうしたの」

 その言葉で、私の体の中には怪物が現れた。得体のしれない化け物だ。心に負った絶望の傷に沸き、私の幸福を喰いつくしてしまった蛆だ。

 だが、ペチカはそれに気付いていなかった。

「やめてよ、そんな子供みたいなこと、もう忘れたの」

「そんなこと言わないでよ。私、ニコチアナのお話好きだったよ。すごく楽しかったの。だって、お話聞けば聞くほど、ニコチアナがどれだけ素敵かっていうのが、わかったから」

「やめてよ」

「ねえ、何かあったの? みんなにからかわれちゃうから? じゃあさ、二人で隅っこに隠れて、誰にも気づかれないようにしていよう? そんな、今、ニコチアナ、全然楽しそうじゃないよ。私、ニコチアナが楽しかったらどんな風に笑うか、知ってるもん」

「やめてってば」

「ねえ、ニコチアナ」

「やめてって言ってるでしょ!!」

 その日、私は人生で初めて、人を殴ってしまった。

 しかも、それだけでは終わらなかったのだ。それまで押し殺していた様々なものがあふれ出して、頭の中で感情が破裂してしまって、ペチカを傷付けた。彼女が好きだった”本”というものをさんざん馬鹿にし、お前に私の何がわかるんだと不幸を振りかざし、彼女の人格を否定した。

 もう自分を抑えられなかった。どうすればいいかもわからなかったから、ただ、したいことをした結果、そうなった。ただただ自分を叩きつけた。発狂でもしたように金切声をあげ、怒鳴り、乱暴な言葉づかいをし、錯乱したように怒りを叩きつけた。

 それは少しして近所の人に見つかり、そう長くは続かなかったが、しかし、全てを終わらせるには十分であった。

 翌日、私は親と共に学校に呼び出され、ペチカの親に謝った。そこに彼女はいなかった。彼女は唯一心を開いていた私という存在に全てを否定され、心に深い傷を負ってしまったのだ。

 それから、私は最後の引っ越しをした。行先は、遠方にある、母方の祖母の家だ。

 私は空っぽだった。全てを吐き出してしまって、もう残りかすもなかった。それが態度に現れ、余計にペチカの両親の神経を逆撫でしたのだろう。

 私はそうして、幸福を完全に喪失したのである。

 だが、やはり”喪失”というものは、私にとって、渦巻きやブラックホールのような、巨大な引力を生むものであった。

 その時私は、とあるものを得たのだ。

「ごめんね、ごめんね、ニコチアナ。貴女は誰よりも繊細な子なのに、私は、何にも、気付いてあげられなかった」

 それは、家族であった。私の奇行を、姉も母も、受け入れてくれた。むしろ彼女たちは私の分まで悲しみ、泣いてくれた。

 そんな二人を見て、私の心には、ぽつりと、第二の私が芽生えた。

 私は、ただ、彼女たちに笑ってもらいたくなったのだ。

 自分は幸福を受け入れられなかった。だから、他人の幸福を眺めていたかった。そのためだけに、生きたくなった。

 だから自然と、転校した先の学校では、私は人を喜ばせるように振る舞った。人の為に尽くすようになった。人の中に自身の価値を見出した。

 だから中学三年の頃にもなれば、私は誰からも親しまれる、人気者になった。

 私は周りで笑うみんなをみて、これで良いのだと、ぼんやりと考えた。

 もちろんそんな振る舞いがエスカレートし、第三の喪失体験を経て、自身の許容量を超えてしまったのが高校時代ではあるのだが、逆に言えば、この中学生の時は最も丁度良い塩梅であり、だからこそ、イズリーと結ばれた後の大学時代のように、中学時代は、私の人生では、なんの苦痛もない、静かな時だった。

 そうして私は、私を失い、私を得たのだ。


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