表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/7

 街を歩いていて、いつももう少し道を綺麗にできないものかと思う。きっとこれは、この百番台リジュベンダリ―・ブロックに住む人間なら誰しも思うことだろう。この街はとかく歩きにくく、上下左右に複雑怪奇な道は毛糸の玉を一度全部解き、ぐしゃぐしゃに丸めたような具合で、道が古今東西に好き勝手伸びており、やれ日照権がどうだ、やれナビの更新がどうだ、やれ渋滞がどうだなんて問題が一年中騒がれていて、日増しに複雑化する道に区長さえもわけがわからなくなり、月ごとの議会に毎度遅刻するのだから、笑いごとにもならない。

「ごめんください、石医師のニコチアナです。オーランさん、いらっしゃいますか?」

 そんな街を朝早くから歩いてきて、私は三十七階建ての老人ホームの、二二四九号室のインターホンを押した。

 しかし、いつまで待っても返事は帰ってこない。インターホンを押すのもこれで三回目だ。

「とうとう耳が聞こえなくなっちゃった?」

 ため息を吐くと、私は少々乱暴に扉を叩いてみた。

「オーランさん! オーランさん? ニコチアナです! パールを届けに来ました。いらっしゃらないんですか?」

 だが、相変わらず返事は帰ってこない。もう一度ため息を吐くと、試しにドアノブを捻ってみた。すると、案の定鍵はかかっていなかった。オーランさんはボケ過ぎて、いつも鍵をかけ忘れるのだ。

「入りますよ!」

 もう一度大声を投げ入れれば、私は気軽く玄関を跨いだ。そのまま石医師としての白い制服とブーツでつかつかと歩き、リビングへの扉を開ける。

 するとオーランさんは窓際の揺り椅子に腰かけ、老眼鏡をかけて、手元にある本を熱心に読んでいた。

「オーランさん、咳の具合はどうですか?」

 肩を叩いてやると、オーランさんはびっくりしたように顔を上げた。そして私を見ると、すぐににこにこと頬を緩めた。

「デイジー、良くきたねえ。あれ、今日はママは一緒じゃないのかい?」

「私はニコチアナですよ、オーランさん。お孫さんじゃありません」

「あらぁ、それはすまないねぇ。それでデイジー、ママは一緒じゃないのかい?」

 ため息をついてかぶりを振ると、私はいつも通りに対応した。

「一緒じゃないよ」

「なんだ、しょうがないねえ」

「それよりもお婆ちゃん、お薬はちゃんと飲んでる?」

「お薬?」

「パールだよ。咳のお薬。石医師さんが毎週来てくれるでしょ? 私、手配してあげたんだから」

 一度会ったことがあるオーランさんのお孫さんを、努めて演じた。もちろん舞台になど立てないほどぐずぐずで、棒読みばかりな散々な演技だ。しかし、それでも彼女は私をデイジーだと思った。

「ああ、ああ、覚えているさ。あれだろう、あのきらきらしたやつだろう」

 はきはきした受け答えを聞き、薬はちゃんと飲んでいるのだろうと推測する。一か月前なんかは、口を開けるたびに咳き込んで大変だったのだ。

「じゃあ、今日も石医師さんがパールを持ってきてくれたから、それ置いとくね。ちゃんと飲むんだよ?」

「あい、わかった、わかったよ」

「じゃあ、私仕事があるから、もう行くね。パールはいつものところに入れておくから」

「うん、頑張っておいでよ」

 いつも通り、オーランさんは人が良さそうににこにこと答えた。私は踵を返し、戸棚にパールを置くと、家に戻るために踏み出した。昨日はイズリーの家に泊まっており、そのまま医院に出勤したため、一度家に戻って着替えなければならないのだ。そして昼には雑務も処理し、三百番台のチューキー・ブロックの西武駅に行く。

 しかしその時、オーランさんはぽつりと言葉を吐いた。

「こんなに良い孫に恵まれて、私は幸せ者だねぇ」

 その言葉を聞いて、私は凍り付いたように足を止めてしまった。なんだか胸のところに罪悪感というべきか、悶々とした苦しさ、申し訳なさが炭酸が噴き出すように溢れてきて、押さえつけようのないその感情に俯いてしまう。

 私は彼女の孫、デイジーではないのだ。ただデイジーを演じなければ、オーランさんとはまともに話すらできない。彼女にとって、人間は全てデイジーなのだ。オーランさんはそれほどデイジーを溺愛していた。だって、彼女の娘、デイジーのママは何年も前に亡くなっており、そんなママにそっくりな孫なのだから。

 そしてデイジーもまた、こんなになったオーランさんを老人ホームに捨てて、自分は遊びまわり、私にだって「適当になんか薬届けて」と老人ホームからの要請で投げやるように依頼した人間なのだ。いわゆる、良い孫なんかではないのである。

 だから私の演技は、ただ口調を真似ただけで、デイジーが言いもしないことをつらつらと並べるずさんなものだ。しかし、それでもオーランさんは満足して、否、それこそがオーランさんの理想であって、彼女はそれを現実だと思い込み、今、あんなことを言ってしまったのだ。

 振り返ると、しかし、私は何も言えなかった。オーランさんがとても美しく、幸せそうな顔でこちらを眺めているのだ。人生という山を登り切り、果てのなく荘厳なご来光を前にして、暖かくて、気持ちよさそうで、本当に幸せそうな顔をしているのだ。

だから、私は余計に苦しくなった。

「どうしたんだい? 急がないと、仕事に遅れるよ。私のことは、心配しないでいいんだよ」

 告げられると、私は思わず下唇を噛んだ。どうしようもなく申し訳なくなり、ただ仕事を円滑に進めるために嘘をついて偽のデイジーを演じていることが、途轍もなく低俗で、情に薄く、非人道的な犯罪行為のように思えた。

「あの、オーランさん、だから私、お孫さんじゃなくって……」

 言っても、彼女はきょとんとするばかりだ。幸福に盲目になってしまったオーランさんは、もう幸せなことしか見えないようになっていた。

 だからより罪を犯したような、老人というより、守らなければいけない幼子を騙しているような感情を覚えて、私は彼女に背を向けることしかできなかった。

「いってきます」

「はい、気を付けてね」

 そうして二二〇九号室を後にすれば、私は深く重いため息をついてしまった。まさかあんなことを言われるとは思わなかった。

 自分は正しいのだろうか。これでいいのだろうか。ぐるぐると頭の中で繰り返される言葉は、鎖のようになって私を縛り上げた。

 幸福とは、一体なんだろう。

 生まれてこの方、永く私を蝕む疑問だ。

”それ”が全くの嘘であり、創作的で、事実とは大きくかけ離れていたとしても。

また、”それ”がいつか終わると分かっていながら、それでも求め続けたとしても。

また、これらを知って、幸福というものがわからなくなって、昨晩の私みたいに子供らしく、知ったかぶりをしてしまったとしても。

 ”それ”が間違い、”これ”は幸福ではないと分かったとしても、「じゃあ幸福とは何か」という答えだけは、てんでわからないのだ。

「……帰ろ」

 帰路を辿り始めれば、私は頭を抱えるようにしていた。何度もため息をついて、ひどく思いつめたような顔を晒していたことだろう。

 幸福ってなんだろう。私は、このままオーランさんに夢を見せ続ければいいのだろうか。それが彼女にとって、真実の幸福なのだろうか。

 思っていたからこそ、昼頃、イズリーと三百番台のチューキー・ブロックの西部駅で落ち合った時、私は思わず口を開いてしまった。

「ねえイズリー、幸せってなんだろうね」

「どしたの、突然」

「ごめん、私、やっぱりご老人って苦手だなって思って」

 造花のようにたっぷりとめかしこんだイズリーとは対照的に、私は何とも質素でお洒落のおの字も知らないような恰好をしていた。花というよりは雑草と言った方が近いかもしれない。

「なんか言われたの?」

 ぷるんとした赤いリップでジェットの棒付きキャンディをしゃぶりながら、イズリーは歩き出した。足を繰るごとに、その背中で画材を詰め込んだ古臭い鞄ががちゃがちゃと揺れた。

良く晴れた午後だ。チューキー・ブロックは私たちが住むリジュベンダリー・ブロックとは違い、のどかな田舎で、いつも晴れていた。だのに干ばつとは無縁で、四季折々の花々がずうっと咲いており、大小さまざまな丘がのんびりと続いている。曇って汚れているものなんて、本当に私の心持ちくらいだろう。

「こんなに良い孫に恵まれて、私は幸せ者だねぇ、って。どうにも、私がお孫さんに見えちゃうっぽくて」

「ん? それの何がショックだったの。老人がボケてるなんて当たり前じゃん。むしろ、そのボケ方は可愛い方でしょ」

「いやぁ、でもなんか騙してる気がしてさ」

「私のニコチアナは真面目ちゃんだねぇ。酔っ払いとボケ老人の言うことなんて、まともに取り合っちゃダメよ。こっちが疲れるだけなんだから」

「でも」

「でももだってもないの。それで貴女が疲れていたんじゃ私が心配になる」

 ため息を吐いた私の口に、イズリーはそう言いながら、しゃぶっていたジェットの棒付きキャンディを押し込んだ。黒くて、宝石らしいきらきらとした表面に、ぬるりとした唾液の暖かさがあった。

「結構甘いね、これ」

「ソフトのやつだもの。私、甘いのしか食べないから」

「私甘いのそんななんだけど」

「だるいこと忘れるなら甘いのでしょ」

 イズリーはポケットから新しいキャンディを取り出して口に咥えた。そのまま二人でのんびりと花畑を歩いた。特に目立った建物や珍しい花があるわけでもないが、代わりに沢山の花と暇があって、人もいなくて、私たちにとってはここが定番のデートスポットだった。

 また、私もイズリーも会話を至上とするような人でもなかったため、歩くごとに口数は減っていった。むしろ私たちは、一緒に居ても、圧倒的に無言の時間が多いのだ。それは私の家に居れば、私が宝石の加工の仕事で忙しくしていて、イズリーの家に居れば、彼女はアトリエにばっかり籠っているからだ。

 そしてこうしてデートに出たとしても、あくまでもデートとは名ばかりで、イズリーが絵を描くスポット探しに私が付いて行っているだけに過ぎない。私たちにとってここが定番のデートスポットなのは、イズリーが花を描くのが好きだからという理由があった。

 だから私たちはやがて小高い丘の上で足を止め、イズリーがイーゼルを立て、パレットに油壺を取り付ける間に私は二人分の椅子を用意し、チューキー・ブロック特有の、なだらかな丘を撫で上げながら吹く微風を浴びた。

 それから私は用意した椅子に腰かけ、イズリーが一つ一つ丁寧に、パレットに油絵具を、油壺に溶き油を、イーゼルにキャンパスを、傍らの小台に絵筆やペインティングナイフを並べていくのを眺めた。私は、イズリーが油絵を描くところも好きだが、描くための準備と片づけをしているところも好きなのだ。私生活はだらしなさを極めたような具合なのに、絵のこととなると途端に几帳面で繊細になり、道具の手入れも絵筆の毛の一つ一つに至るまで、モデルのヘアケアみたいに注意して行い、意地悪さなんて微塵もない優しい手つきで道具を扱うのだ。

 そしてじっとそんなイズリーを見ていると、彼女はいつも振り返って聞いてくる。

「いつも熱心に見てるけど、いい加減飽きない?」

「飽きないよ」

「ふうん」

 どこか嬉しそうに頷き、イズリーはキャンパスに向き直った。そこからはもう、この世が彼女の世界と、それを包括する彼女を眺める私だけの世界へと一変した。花畑は微風に波打ち、まるで泡が弾けるようにして色とりどりの花弁がひらひらと噴き上がる。イズリーはその様をアメジスト色の瞳の中にしかと落とし込み、それに惚れ込んだような、いつもベッドの上でふと私に向けるような、慈愛的な表情をする。辺り一面には、そんな風に生命の輝きが彩色豊かに充満していて、この場の命を閉じ込めるには、この程度の青天井では低すぎて、息苦しさすら感じそうなほどだ。

 そしてイズリーの絵は、そんな私の想いを見事に表現していた。巧みな色遣いで(正直私には油絵師が最初に、古代の活動写真の中の料理人のように、パンにバターでもぬるみたく画材に塗り込む原色の色たちが、どういった理由で採用されているかがてんでわからない。しかし眺めていれば、油絵師はその上にジャムや卵やレタスやハムを乗っけるように様々に何色も重ねていって、気付けば唯一無二の独特な、油絵でしか描けないような彩が出来上がるのだ)、絵の半分くらいまでをなだらかな花丘が埋め尽くし、空は限りなく低く描かれていた。そんな風にイズリーの油絵を見るたびに、ああ、やっぱり私とイズリーの感性というべきか、思考の母体としての心の根底、魂の子宮の構造がすごく似ているのだと再認識するのだ。

 もうどれだけの時間、こうして彼女と共に時を過ごしたかはわからない。

出会いは、高校一年の冬頃だった。秋に晴れて入学を果たしても、私とイズリーは、実に一つの季節の間、一切言葉を交わさなかったのだ。

 ただある時、発掘祭(毎年、年の瀬に一番台のタイタン・ブロックで行われる巨大な祭りのこと。老若男女がそれぞれタイタン山に赴き、”巨人のはらわた”という洞窟で宝石を掘る祭り)の時だ。私は友達数人と巨人のはらわたに行っていたのだが、そこで絵を描くイズリーを発見した。

 まさに一目惚れであった。丁度そこは鍾乳洞の部分で、虹色に輝く氷柱がいくつも、何メートルも頭上から伸びてきて、イズリーはそれを描いていた。氷柱はそれぞれ自分たちで光を放ち、また、その鋭利な形の中にはダイヤモンドやエメラルドやアレキサンドライトがみちみちと詰め込まれてあって、まさに数千年前、このタイタンなる山が食らったものが、宝石となってその腹の中に残っているようだった。そんな天然物の化石に、イズリーは見惚れて、またやっぱり私も見惚れていたから、イズリーとその絵からも目が離せなくなった。

「ねえ、貴女、イズリー?」

 だからその時、私は思わず声をかけてしまった。丁度友達とも逸れていたのが、声のかけやすさに繋がったのだ。。

「誰?」

 イズリーは振り返るなり、不機嫌そうに言った。今でもそうだ。彼女は、絵を描いてるときに話しかけると、例え一番の大好物であるヒデナイトの特性ソース蒸しを用意したところで、「後にして」と怒ってしまうのだ。

 しかし当時、私はそんなことを知る由もなく、そのまま声をかけ続けてしまった。

「ニコチアナだよ、ほら、同じクラスの。ニコチアナ・ミル・タァレン」

「ああ、思い出した。”委員長”?」

「そうそう」

 頷くと、イズリーは心底うざったらしげに顔をしかめた。

「何の用? こんな夜中に一人じゃ危ないって、憲兵の真似事?」

「違うよ、その、絵、上手いなぁって思って」

 言うと、イズリーは目に見えてぴくんと瞳孔を開かせた。事実、彼女は学校ではいつも一人で、誰ともつるんでいるところを見たことがなく、また、絵を描いているところなども見たことがなかったのだ。いわゆる不良学生だ。しかし最低限授業に出席し、遅刻もせず、提出物の期限なども守る等はこなしていたため、意外にも不良というのは周りのイメージなだけであり、近寄る必要もなかったのだ。

 それらを思い出し、その時、私はイズリーは別に不良でもなんでもないのだと理解したのだ。ただ彼女は彼女の道を歩んでいるだけで、でもちゃんと最低限周りには合わせていて、というよりも、誰よりも周りのことを見ている節があるのだ。イズリーは本当に、絵を描くくらい目がいいのだ。イズリーは、凡百の人が見えない世界の裏側とでも言うべきか、ごく自然なものを見抜ける力を持っていて、だから機械的なことばかり考える人のことがあまり好きではなかったのである。

「これ、油絵っていうやつ?」

「うん」

「私始めて見た。ねえ、描く所、もう少しだけ見てていい?」

「気が散るんだけど」

「静かにしてるから」

「誰かと一緒に来てるんじゃないの?」

「逸れちゃったの。もう一時間も探してるのに、見つからないから」

「じゃあ、好きにすれば」

 それから、私は少し後ろの方にある岩に腰掛けて、イズリーが筆を運ぶさまを眺めていた。その光景は、きっと世界で一番神秘的なものだっただろう。この世界を少しの絵具と筆とナイフだけで更に美しく磨き上げ、また正確に、岩の皺一つだって見逃さないようにしてイズリーは絵を描いていくのだ。そうして、彼女の前にはまた一つ世界ができて、それはもう絵というより、この場と非常に似通っている別世界を覗き込む窓のように思えた。顔を入れて覗き込めば、右にも左にも世界が続いていて、伝説にあるような、蝙蝠や熊といった、人間以外の動物が出てきそうだった。

「完成?」

 尋ねると、イズリーは驚いたように振り返った。

「まだ居たの」

「見てたら、楽しくなっちゃって」

 言うと、イズリーはどこか少女らしく照れくさそうに、アメジスト色の髪をくるくると指でもてあそんだ。頭のてっぺんから毛先まで、艶めくような濃淡がグラデーションのようになる、綺麗な紫髪だ。

「完成だよ」

 イズリーの言葉に、私はこれまでのたっぷりとした時間で心に決めていた言葉を、ついと口にした。

「じゃあ、画家さん、この絵はいくらですか」

「え?」

「買いたいの、これ」

 イズリーは目を丸くしていた。(後日談ではあるが、イズリーはこの時、それまでの人生で一番驚いたそうだ。彼女は元々祖母の手で育てられ、その際、祖母の油絵に惚れ込んで、幼少のころからその道を邁進してきたそうだが、祖母は画家というわけでもなく、あくまでも一個人の趣味として絵を描いていたため、イズリーもまた画家になろうなんて考えておらず、つまり絵を家族以外に見せたことなどなかったのだ)

「なんで」

「なんでって……なんで?」

 咄嗟に出てきた彼女の言葉をそのまま繰り返す。するとイズリーは濃ゆいアイラインが引かれた美形な瞼を、何度も瞬かせた。

「別に、売り物になんてならないでしょう。巨人のはらわたの油絵なんて、いくらでも売ってるわよ。それも、こんな奴よりもっと大きかったり、上等なやつが」

「でも、私が描いてるところを知ってるのも、私が見ていた景色を描いたのも、これしかないし。それにね、今うち、お母さんが病気なんだ。もうね、治らないんだって。だから今日も家族で来れなくて、友達と来てるの。お姉ちゃんとおばあちゃんが看病してるから、お前は、みんなと遊んできなさいって。でもさ、やっぱり楽しめなくて、お母さんのことばかり考えちゃってさ。だからこれ、今日私が見たものを、お母さんにも見てもらいたいなって思って」

 言うと、私は気付かずに空っぽな笑い方をした。そして、ポケットから財布を取り出すと、中のものを全部出した。百バル硬貨が四つに、十マノン硬貨が八つに、一ピノ玉が九つ。平均的な学生のお小遣いより僅かに少ない額だ。

「これで足りる? 足りなかったら、年明けに新聞配達のお給料が出るから、生活費以外、それも全部出すよ。多分千ケチャ札も何枚かあるはず」

 私は嘆願するようにじっとイズリーの目を見た。自然と、するすると、溢れるようにして胸の内から言葉が溢れた。(再び後日談ではあるが、イズリーはこの時私に惚れたそうだ。それまでただ凡百としか見ていなかった私という存在が、機械的な人間の一人だと思っていた存在が、儚げな生命力を漂わせ、されど誰かだけを想って力強く、相反する弱さと強さをたった一つの顔というパレットの中に両立させていて、初めて、風景ではなく人に見惚れてしまったそうだ)

「どう?」

 尋ねると、イズリーははっとしたようにした。そして私の手元を見れば、顔をしかめて、何が何だかわからないような顔をわざとらしくしながら、私の手の上にある硬貨ごと、私の手を握った。

「お金、要らないから。代わりに貴女が欲しい」

「え?」

「友達になろ」

 突然の言葉にどきりとしたが、しかし、続く言葉になるほどと納得した。(みたび後日談だが、この時の不器用で、人慣れしていないイズリーの天然口説き文句を、私は今でもたまに、彼女を弄るために使う。そのたびに恥ずかしそうに「なんて言ったらいいのかわかんなかったのよ」と口にするイズリーを見て、私の胸には愛情が芽生えるのだ)

「でも、悪いよ。油絵ってお金かかるんでしょ?」

「いいよ、友達のお母さんのためなら、絵は譲るよ」

「でも」

「もう、聞き分けが悪いわね。じゃあ、こうしましょう。友達にならなくて、これを譲られるんじゃなくて買おうとするなら、これから働けるようになるまで、貴女が貰うお小遣いを全部もらう。それで半分くらいの値段ね、この絵」

 そっぽを向きながら言ったイズリーに、私は呆気にとられてしまった。まずこの時点では彼女に好意を寄せられているなんて微塵も思っておらず、私自身もイズリーに対してはまだ、信頼はあったが恋慕といったものは覚えておらず、不機嫌だった印象ばかりが頭に残っていて、いきなりの優しさに面食らってしまったのだ。

「どうなのよ」

 今度は私が急かされるように言われて、思わず頷いてしまった。すると契約は結ばれ、イズリーは手を離すと、絵を包むための準備をしだした。

 そしてそんな光景が、今、花畑で描いた絵を包み始めたイズリーの背中に重なった。もうあの時、一体何年前だろうか。まだ少女であった私たちが女性となり、イズリーは高校を卒業するなり働き始めて、私は死んでしまった母のような人を救う石医師になると決意して大学に進み、互いに様々な人生の荒波に揉まれながら、しかし、こうして今へとたどり着いた。

 きっとこれまでの人生、イズリーが居なければ、私はこんなにも穏やかな精神ではいられなかっただろう。特に私の人生は、今思い返してみても出会いと別れの連続であり、特に四つの巨大な喪失体験が、私という人間を頭からつま先まで構成している。そしてそんな中、私の胸の奥に植え付けられた、なんとも凄惨な幸福に対する懐疑の目は、今でもこの身を絶えず束縛している。

 しかしイズリーだけは、私に定められた乖離と孤独の運命に抗い、その荒波をふざけるなと踏破して、この手を握り続けてくれているのだ。

「ちょっと、なににやにやしてんのよ」

 花畑のど真ん中で指摘されて、私は思わずにやにやを深くしてしまった。

「いや、私は、幸せなんだろうなって」

「何寝ぼけたこと言ってんの」

 言って、イズリーは粗方の片づけを終えると、椅子を私の隣に並べた。そして広い花畑の中で所狭しと身を寄せ合い、彼女は私の手を掴んだ。

「幸せなんだろうな、じゃなくて、幸せなの。本当に、貴女はそこらへんお馬鹿。何もわかっちゃいない」

 いつもイズリーが口を尖らせて言うことだ。昨晩もベットの上で指摘されて、顔を赤くしたのを覚えている。

「ありがと、イズリー」

 答えて、私は手を握り返し、瞳を瞑った。

「少し眠ろう」

「ええ」

 暖かくて、花の匂いを漂わせる微風に包まれながら、私たちは眠りに落ちた。

 こうして安堵と信頼の暖かさの中、ゆっくりと瞼を下ろせるのも、イズリーのおかげであると言えるだろう。

 例えば十数年前、まだ家に父親が居た時は、こんな風に眠れるなんて夢にも思わなかった。父親は本当に酷い奴であったのだ。毎晩のように大酒をくらって、口癖は、テレビを見ながらの「死ねばいいのに」や、「私なら」といった言葉だ。母も、姉も、妹も、私も、みんながあのぶすくれた父親に気を遣って生きていた。

 特にさらに夜が深くなり、酒が回ると、父はとかく乱暴になったのだ。彼女の仕事は、古代に存在した男性というものの研究であり、実際にそんなことをしていたから、頭の中までもその男性とやらの悪い部分に犯されてしまったのだろう。口だけではなく拳を握りしめ、それを四畳半の真ん中に置かれたテーブルに叩きつけ、家中を揺らした。

そして母に向かって怒鳴り散らし、母が少しでも口答え(口答えとは言うが、それは反論をするという意味ではなく、口を開くと言う意味。また、涙を流すという意味でもある。本当の意味なんて知ったことではない。うちでは、父がそれらを口答えと言っていたのだから)すれば、父は遮二無二家具に当たり、母をひっぱたいて、何度もものを壊した。私は襖一枚隔てた狭い押し入れの中(そこが姉妹の寝床であった。もちろん上下ではなく、下段に詰め込まれるようにして三人で寝て、上の段には、狭い家の中では収納しきれない服やらなんやらが詰め込まれていた)で、姉と共に震える妹を必死に抱きしめ、衣擦れ程度の音も出さないようにしながら、三人で涙を流していた。

 勿論、父がひどいエピソードは、こんな風に日常の夜に限った話ではない。それは、母は仕事に行き、姉は学校に行っていなかった、とある平日の昼のことだった。

「おい、そこの(私たち姉妹の家での名前は、”そこの”であった)」

「はい」

「酒買ってこい」

 まだ私でさえ十にも満たない年であるというのに、父は平気でそんなことを言い渡し、母の貯金をひっくり返して、銭を投げつけてきた。それを受け取れずに地面にばらまいてしまうと、その音で、また父は苛々としたのだ。我が家には常に爆弾があるみたいであった。

 それから私と妹は、手を繋いで外に出かけた。そして少し歩くと、公園があり、そこで同い年の子供たちが楽しそうに凧揚げをして遊んで、それを父や母と同じくらいの親たちが、微笑まし気に眺めていた。彼らを見ると、私と妹は、耐えきれなくなって泣きだしてしまった。

 どうしてこんなに苦しいんだろう。どうしてこんなに誰かに気ばかり遣って生きなければいけないんだろう。どうしてこんなに涙が出るんだろう。

 公園の子供たちが羨ましくて仕方なくて、私たちはすぐに顔を背けると、駆けだした。

 そして駆けだしたから、私たちは事故にあい、妹だけが死んだ。

 病院で目覚め、その事実を聞かされた時、私は私でいられなくなった。あの時涙で前が見えていなければ、私がしっかりしていれば、きっと妹は死ななかった。

 それが私の人生で四度訪れる喪失体験の、一つ目のものだった。その時、私は四六時中涙を流し、叫び、頭が割れそうになるくらいの罪悪感と虚無感と喪失感に、精神をかつて存在した狼という化け物に食い荒らされたみたいになって、石医師や看護婦や同室の患者をひどく困惑させ、すぐに個人の病室に移されたのを覚えている。

 しかしそうして独りになると、私はますます激しく泣くのであった。もう心が壊れてしまっていた。私にとっては世界の全てが濁っているように見えてしまった。妹を失い、ぽっかりと空いた心を塞ぐには、私は身も心も貧しく育ち過ぎていた。

 そして父は、そんな私の見舞いになど一度も来なかったのだ。むしろ、頻繁に見舞いに来てくれる母や姉が伝えるによると、そもそも私や妹のことを家で話題にすら出さないようで、その時、それがいつも通りであると私は気付いてしまった。なんせ、父は私たち姉妹を”そこの”と呼んでいたくらいなのだ。

 それを聞いて、とうとう、私の涙は枯れてしまった。そう、枯れてしまったのだ。魂の全てが干からびて、自分という存在の希薄さと無力感に打ちひしがれ、この体が世界に唯一生じた亀裂のような、夢や幸福できらきらして一杯の風船のような世界に空いた穴のように思えて、だから不幸や苦しさがみんな私のところに、空気が抜けるみたいにして集まってくるのだと、本能で理解してしまった。。

 この第一の喪失体験により、私は、有体に言えばトラウマを植え付けられたのだろう。このトラウマは現在でも色濃く私の魂の根底に刻み付けられたままであり、だからこそ、私は幸福というものをどうしたって素直に受け取れなくなってしまったのだ。

 また、もちろんこの第一の喪失体験、妹の死に関しては続きがある。それは私がそうして泣き疲れ、空っぽになった時に、手を差し伸べてくれた人がいたからだ。

 それは、一人の石医師であった。なんとも冴えない黒ぶち眼鏡が印象的で、しかしだからこそ接しやすく、限りなく善良な人であった。彼女の名前はトオルと言って、私の担当医であった。そして、私が母が死んだ時、石医師になろうと思ったきっかけの人でもあった。私はトオルと出会っていたから、幼少期よりずっと石医師になりたいと胸の内に秘めており、勉強も頑張っていて、母の死をきっかけに、そんな胸の内を周りに明かしたのだ。

「やあ、ニコチアナ、元気かな?」

 トオルは部屋に入ってくる時、決まったようにそう口にした。だから、私も医院で入院している患者の病室に入るときは、必ず同じようなことを言って入室する。

 ただ、そうして言う側になったからこそわかることだが、当時の私はとてつもなく扱いにくい子供であったことだろう。なんせ、十にも満たない年齢にして、既に人生の絶望というものにぶち当たってしまっていたのだ。だから、トオルの呼びかけには全く答えなかった。

「アハハ! 順調に怪我も治ってきてるみたいで、私も嬉しいよ」

 窓際の方の、ベッド隣のパイプ椅子に座ると、トオルは長い足を遠いところで組んだ。そうしてサイズの合っていない黒ぶち眼鏡をずり上げて、冴えない顔だが、どこか変に自信がある表情で私を見た。

「薬もちゃんと飲んでくれてるみたいだね。偉い子だ。粉薬は苦くて嫌って子が多いんだよ。特に、隣の病室の子たちなんて、みんな泣いてしまうんだ。君は本当に偉い」

 トオルはそうやって、いつも私を褒めた。また、他の病室の子たちの話をした。きっと私が本質的な寂しさ、満たされない飢えに苛まれているのを見抜いていたからだろう。あくまでもトオルは冴えない眼鏡と顔と振る舞いなだけで、ちゃんと賢いのだ。しかし、当時の私はそれに気が付けなかった。

「口答え、しちゃいけないから」

「口答え?」

 トオルは面食らったように言葉を失った。彼女が冴えないのはこういう時だ。変に自信満々なせいで、自分のペースで話している分には聡いのだが、それを乱され、相手のペースに呑まれると弱い人だった。

 それからトオルは、何度か呻くように「あー」だの「えっと」だのと口に出し、腫れ物に触るみたいにして、口を開いた。

「ニコチアナ、君がとても、その、厳しい教育を受けてきたのは、よくわかった」

 いかにも言葉を選んだような言い方だ。そこで、しかしまたトオルが会話の主導権を握った。

「でも、それが全部間違いだって、私は自信を持って言えるよ」

 その言葉を聞いた時、私は思わずトオルを見つめてしまった。こんなに真正面から自己否定をされたのに、それが頼もしかったからだ。目を合わせると、トオルはあの意味もなく自信あり気な顔で続けた。

「ニコチアナ、私は、君の力になりたい。石医師である前に、一人の人間として、君の力になりたいんだ。君の傷はとても深くて大きい。これは、その骨折のことを言ってるんじゃないよ。これはね、心のことを言っているんだ」

 そこでトオルは、パイプ椅子からベッドに座りなおして、私の手をそっと握った。それは、とても暖かかった。

「苦しいことは、苦しいって言わなきゃいけないよ、ニコチアナ。それはね、君にしかわからないことなんだ。私も医師になってしばらく経つけど、骨折なんてしたことないから、君が骨折しているとはわかるけど、君がどれだけ痛い思いをしているかは、まるで想像がつかないんだ」

 トオルはその時、初めて私に弱い顔を見せた。いつも自信ばかりの顔にひどく申し訳なさそうで、やるせなさそうな表情を浮かべたのだ。

 しかし、だからと言って彼女が口を閉じることはなかった。そこで「だから」と言い、トオルは私を見たのだ。その時私は、今思えば、トオルに惹かれていたのだと思う。きっとイズリーが私に惚れたのと同じ理由だろう。だって、私とイズリーは感性というものがとても似ているのだ。

私はその時、母を除く全ての大人に対して、父の影響により途轍もない恐怖を感じており、彼らの発言には絶対服従しなければと強迫観念じみたものさえ感じていたのだが、しかし、冴えなく、また弱そうな顔を見せる大人には初めて会い(母でさえ、私たち姉妹の前では空元気に振る舞っていた)、同時にされど賢く優しく、頼もしいトオルの言葉に、途轍もない誠実さと真摯さを感じたのだ。

「だから、君の言葉で、私に痛みを教えてほしい。もちろんそれでもっと痛むようなら、無理はしないで。あくまでも話したいと思ったこと、これを話せば、誰かに打ち明けられたら、君の痛みが半分こになりそうなことを、聞かせておくれ」

 その言葉を皮切りに、私は堰を切ったようにして全てを吐き出した。心の中に満ちていた虚ろを、余すことなく、たどたどしくもかみ砕いて、必死にトオルに伝えようとした。

 するとトオルは、一緒になって泣いてくれたのだ。手の甲に落ちた彼女の涙は、火傷してしまいそうなくらい熱かった。そしてトオルは力一杯に私を抱きしめた。

 その抱擁に、私は、人生で初めて安堵というものを覚えたのだ。妹と公園を通りかかった時に感じた世界からの疎外感とでも言うべきか、幸福で夢見がちで、自分とは隔絶した世界にいたような気さえした家族以外の人間でも、これほど暖かく、自分たちと変わらない、生きている存在であるのだと、初めて実感が得られたのだ。

 こうして気付かず自閉していた価値観に、ものの見事に風穴を開けられて、私は救われたのだ。特に多感で柔軟な幼児期に、こうして世界観を広げる行為というのは、私は、教育において最も重要で優先すべきことであると、この時を振り返れば毎回そう思うのだった。

「痛いよ、トオル」

 するりと言葉が口から出て、自分でも驚いた。それまで大人に対して”口答え”できなかった私が、なんの抵抗もなく、そう言えたのだ。

 そしてトオルもまた、笑顔でその言葉を受け止めてくれた。

「ごめんよ、ニコチアナ」

 体を離すと、私たちはそれから、毎日語り合い、友人のようになった。否、本当に友人であったかもしれない。歳は二十以上離れていたが、それでも、互いに笑いあい、人生を共有して、多くのことを教え合い、そこに親しみを覚えたのだ。

 それからしばらくして、交通事故の怪我も治り、私は退院することとなった。

 以来、トオルとは会っていない。退院すると同時に、毎年のようにしている引っ越しがあったからだ。

 その別れもまた、私の中では大きなものであった。しかし、私はそれを喪失体験とは数えない。

 なんせ、私はトオルに夢と希望を貰ったのだ。もちろん退院するときは悲しくて泣いてしまったが、彼女と出会ったおかげで、私は今石医師になることができて、本当の優しさというものを知れて、第一の喪失体験によるトラウマも和らげられて、イズリーを受け入れることができているのだ。彼女は、世界で最高の医者だと今でも思う。だって、私の人生の傷を、今でも癒してくれているのだから。

「ニコチアナ?」

 声がして目が覚める、そこにはイズリーの顔があった。物凄く近い。鼻と鼻がキスをしてしまうくらいで、向こうにある青空も、花畑も、全て見えなくなっていた。

 けれども、寝ぼけた私のまなこには、そんなこと気にもかからなかった。なんせ、イズリーに見惚れてしまっていたのだ。やはり彼女は世界で一番美しい。これほどまでに眺めていて心が穏やかになり、同時に、すすき野が嵐に煽られるように心が騒いでしまうものは、この世界で彼女の顔くらいだろう。

「あ、ああ、うん、どうしたの」

 そのため、胸の内に生まれた喜びのカオスに茹でられて赤面すると、イズリーは悪戯っぽく笑った。

「んー、どうだったかな」

 そしてためらいもなく、こんな屋外、花も太陽も見つめているのに、そんな周囲の視線など一切気にせず、否、むしろ全てを遮るように更にぐいと私の上に覆いかぶさると、イズリーはぷるんとした柔らかく、仄かに甘い香りがする唇を、私の上にそっと落とした。

 それから、またじっくりと永い時が過ぎた。イズリーはあろうことか、羞恥による混乱でもがき苦しむ私をその何とも蠱惑的な唇で拘束したまま、実に十数秒にもわたり、視姦でもするように私を見つめていたのだ。そのアメジストの瞳といえば、いかにも快楽的な悪魔のようであり、私はよく古代彫刻にあるような、蛇という怪物が様々な動物の首元に食らいつき、その牙の強烈な毒が回るまでじっくりと離さない、あの悍ましくも美しい、捕食という芸術の場面を思い出した。

 それから十数秒以上が経ち(私がイズリーの毒牙に当てられ、とうとう思考すらも蕩けてしまい、何も考えられなくなったため、正確な時間はわからない)、ふっと彼女が身を離すと、私ははしたなくも寂しささえ感じた。

 しかし流石にそれを億面に出すのは憚られ、抗議するように瞳を尖らせると、イズリーを睨んだ。

「い、いきなり何するのさ」

 気を張って取り繕うようにしながら責めると、イズリーはくつくつと喉を震わせて笑い、尖った私のまなじりを、その細く美しい造形の指先でそっと掬った。するとその白い指の腹には、数滴の雫が乗っていた。

「そりゃ、恋人が寝ながら泣いてたら、心配するわよ。だって、恋人なんだから」

 言うと、イズリーは隣の椅子にかけなおした。そしていつの間に淹れていたのか、白いマグにたっぷりと注がれたコーヒーを差し出してきた。

「これでも飲んで落ち着きな」

 これがイズリーである。私は格好だけ拗ねて怒ったようにしていたが、内心、彼女への愛というものが留まるところを知らずに噴き出していた。きっとこの感情の昂りが涙や血のように現実に表れたなら、この広い花畑はとっくに海になってしまっていただろう。

 礼を言ってコーヒーを受け取ると、私はそっとそれに口をつけた。苦く、熱く、旨いコーヒーだ。イズリーは私とは違い、高校を出て様々なアルバイトを経験しているため、こうした日常生活の些細なことがとにかく器用なのだ。このコーヒーも、数年前に彼女が働いていたカフェの、とても人気の味で、しかも彼女は苦いものは嫌いなはずなのに、甘いものが得意ではない私の為に、いつもこうしてコーヒーを淹れてくれるのだ。

「ありがと」

「うん」

 それから、私たちの間には沈黙が満ちた。心地よい、心の対話の時間だ。私たちは花丘が少しずつ送り届けてくれる暖風に身をゆだね、その碧い流れの中で、草木よりも穏やかに時を過ごした。

「落ち着いた?」

 私がコーヒーを飲み終えると、ぽつりと、イズリーが口を開いた。

「うん」

「そう。もう大丈夫かしら?」

「うん、ありがと、イズリー」

「どういたしまして、眠り姫様」

 いわゆるお調子者らしくというか、彼女なりのサービス精神からなるおどけた口調で言われて、私は思わず吹き出してしまった。

「もう、イズリーってばおかしいよ」

 そうして笑う私を、彼女はなんとも慈愛的な眼差しで、椅子の手置きに肘をつきながら、ゆっくりと眺めているのだった。

 こんなところも、私がイズリーを好きな所だ。私は贔屓目なしに見ても、あんな育ち方をしたからか、人生の立ち上がり方が普通の人とは違い、積み重なっていく記憶の一番下の基盤がどうしても不安定なため、気を抜くと、不意に情けなくも迷ったような言動を、無意識的にしてしまうのだ。

 特に、イズリーの前では、いとも容易く意識の結び目が解れてしまう。昨日の晩の、「生まれてこの方、幸福な人っていうのを見たことがないんだ」という子供みたいな発言も、チューキー・ブロックの西部駅で会った時に、オーランさんのことを話したときもそうだ。きっと医院の同僚が、私がイズリーと一緒にいるところを見ると、私を研修生か何かと勘違いしてしまうかもしれない。

 しかしイズリーは、それを全て受け止めてくれるのだ。頭ごなしに否定したり、また考えなしに肯定するのではなく、時としては聡く切り返してきたり、わからないところは理解しようと掘り下げてくれたり、わからなくたって、今のように何も聞かず、ただ思慮深く受け入れてくれる。

「そろそろ帰ろっか」

「そうね」

 椅子から立ち上がると伸びをし、私とイズリーは撤収作業を始めた。もう数えきれないほどこうして共にデートをしているため、二人とも手慣れたものであった。

 それから連れ立って歩き、また心地よい沈黙を楽しみながら、私たちはゆっくりと帰路を辿った。次第に空も暮れなずんでいき、伸びていく影を二人で楽しんだ。

「晩御飯どうする? どっかで食べて帰る?」

 チューキー・ブロックの西部駅につくなり、私は尋ねてみた。

「あー……迷うわ」

 言われて、私は駅向かいに連なるフードショップを眺めた。花の香りがここまで漂う中、夕陽を受けてきらきらと輝く宝石たちはどれも美味しそうだ。どこの店もそれぞれ虹から発掘でもしてきたような品物ばかりを取り揃えている。そんな宝石たちの一つ一つに、のっぺりと広く、まばらにタクシーが留まっているU字のロータリーや、こじんまりとした西部駅がきらきらと反射して、あの宝石たちで作った眼鏡をかければ、世界はあんなにも綺麗に見えるのだろうかという疑問さえ浮かんできた。

 しかし、そうして私がフードショップに興味を引かれていても、イズリーはあえてというように私の手を引いた。

「久しぶりに、ニコチアナの手料理食べたい」

「え、でも私、料理そんなに得意じゃないし」

「手伝うからさ。一緒に作りましょ」

「うーん、イズリーがそう言うなら、まあ」

「決まりね」

 歩き出すイズリーに連れられ、私たちは連なるフードショップを横切った。しかしその際、ふと並ぶ看板の一つに学生割引と書かれたものを見つける。その対象メニューとしてでかでかと広告されていたのが、イズリーが一番好きで、また私が、高校を出てしばらく売れない画家時代があったイズリーによく振る舞ってあげていた、ヒデナイトの特性ソース蒸しであった。

 それを一瞥して、イズリーが突然私の手料理を食べたいと言いだしたことに、ようやく合点がいった。きっと、まだ貧乏で、料理もできず、殆ど私に養われていた数年前を思い出したのだろう。あの時から考えると、イズリーも随分と自立ができるようになった。

 特にそのイズリーヒモ時代を語るには、まず、高校の最終学年にまでさかのぼらなければならないだろう。 それは私にとって四つ目の喪失体験があった時代であり、また、イズリーと結ばれた、人生で最大の分岐点だ。だがそこを語るとなると、今度はまず、高校生の私とはどういう人間であったかを知るため、もうひとつ前の、三つ目の喪失体験から語らなければならない。

 ゆっくりとその時のことを想起し始めながら、思わず、私は駅へと向かうイズリーの手を強く握ってしまった。

「ニコチアナ?」

 訝しむイズリーの隣に並んで、私は夕陽を見上げた。

「大人になったね、私たち」

 するとイズリーは、一拍置いて、くつくつと喉を震わせて笑った。

「そうね。あっという間なようで、でもやっぱり、長かった」

「うん」

 告げた彼女の手を、今度は私が引いて歩き出す。一瞥振り返れば、しんみりとしながらも笑顔な彼女の頬が陽に焼き上げられて、きらきらと光って見える。それは夕空に瞬き始めた一等星よりも明るくて、たとえどんな暗闇が来ようと、私の周りを照らしてくれる。

 そんな限りない幸福の中、それを離さないようもっと強くイズリーの手を握り、私は言った。

「これからもきっとあっという間で、きっと、沢山のことがあるよ」

 そして、私は微笑んだ。

「いつもありがとう、イズリー」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ