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私が「生まれてこの方、幸福な人っていうのを見たことがないんだ」と言った時、イズリーはベッドの上で、なんともつまらなそうに温くなった缶ビールを啜った。
「でしょうね。だって貴女、幸福がなんなのか、まるっきりわかっていなさそうなんだもの」
つっけんどんな彼女の物言いに、私は心臓を撃ち抜かれたような衝撃を覚えた。
まるで世界のなんたるかを知った神様のような数秒前の自身の言葉が急に恥ずかしくなり、胸の内側まで見透かしてきたようなイズリーの視線から隠れたくなる。
「ごめん、その、そんなつもりじゃなかったんだ」
眠った電灯、濡れたような暗闇。レースのカーテンが引かれた窓の向こうからは、偶に自動車が通る音と、ネオンの明かりがぼやけて滲んできて、それが私たちにとっての夜だった。
自動車の駆動音が寝息で、ネオンの明かりが夢なのだ。私たちは互いの蜜を舐め合った後、服すらも着ずにベッドに並んで座って、毎晩のように同じ夢を見ていた。
「ニコチアナ、貴女って本当に可愛いわね」
「か、からかわないでよイズリー」
隣から伸びる愛しい魔の手から、身をよじって逃げようとする。もちろん本気で嫌がってなんかない。だから、私は長く細く、柔らかくて、暖かいイズリーの手にすぐに捕まってしまった。
「ねえニコチアナ、明日は仕事だったっけ?」
「う、うん。オーランさんの所にパールを届けに行くんだ。少し前から咳が酷くて」
「それいつから?」
「朝からだよ」
「じゃあ午後は空いてるの?」
「……う、うん」
首や耳にキスをされながら尋ねられると、私はいつもしどろもどろになってしまう。
それがわかっていて毎日そうするのだから、イズリーは本当に悪い奴だ。彼女は舌が蛇という化け物のように長いし、アメジストみたいに綺麗な紫色の髪も瞳も、毒々しくて、狡猾そうで、だから何よりも強烈に甘そうなのだ。もしかしたら、彼女のこの世で一番好きな食べ物は私なのではないかと思ってしまうくらい、イズリーは時間をかけて私を噛むのだ。
「じゃあ出かけましょうよ。三百番台のチューキー・ブロックに花畑を見に行きましょ」
「でも、イズリーもバイトなんじゃないの?」
「いいのよ、サボるから。今日店長と喧嘩したの。お客と楽しく飲んでたら、酔っぱらって、私のことを逃げた奥さんと勘違いして、『この色狂いが!』ってカラオケのマイクを投げつけてきたの。マジであり得ない。思わず豚みたいなほっぺ張り倒して、出てきちゃったの」
「あ、あはは……大変だったね」
思えば、確かに今日のイズリーは変だった。いつもよりも乱暴というか、むしゃくしゃして、神秘的で聡明そうな紫の瞳に、珍しく私の髪色と同じような、燃え上がる炎のような、情熱的で激烈な赤い感情を宿していたのだ。
「あーあ、私も石医師になろうかなぁ」
こちらの首元に顔をうずめながらイズリーは言った。心の底からそう思っているような声音だ。いつもは私を茶化してばかりで、飄々としているイズリーだが、どうやら今日は本当に色々と参っているらしい。
そのため、私は両手を持ち上げると彼女を抱きしめてやった。ふわふわな綿毛のような濃ゆい紫の髪を手櫛で梳いてやり、逆の手では滑らかな背筋を軽くとんとんと叩いてやる。暖かくて心地が良かった。なんだかんだと言っても、やはり彼女も人間なのだ。
「そっか。じゃあ、絵を描くのと同じくらい、勉強頑張らないとね。悪い子のイズリーも、ようやく真面目になる?」
先ほどの仕返しも込めて子供をあやすように言ってやると、イズリーは更に不機嫌そうに眼を尖らせてしまった。
「もう、ニコチアナ、よしてよ、愚痴って悪かったから」
「悪かったのは、私をからかったこと。愚痴はいくらでも言ってくれて構わないよ。それでイズリーが楽になるなら、恋人としても、医者としても、嬉しいし」
イズリーに対しての愛情をそのまま口にすると、彼女は、今度は口を尖らせた。そしてそのままするりと私の腕を抜け出すと、そそくさとシーツを被ってしまった。
「やめやめ、ニコチアナったら今日はおかしいわ。優等生にハクシャがかかってる。まともなことばかり言うから、うんざり」
拗ねたように恥ずかしがる彼女を見て、本当に子供みたいだと思いはしたが、流石にそれを口にはしなかった。イズリーはそこら辺がひどく神経質なのだ。
いつだって誰かを自分のペースに巻き込みたくて、逆に、思いもよらないことをされるとびっくりしてしまう。
「じゃあ明日、チューキー・ブロックの西武駅に一時に集合ね。朝は起こさないで。おやすみ」
「はーい、おやすみ」
答えれば、私もベッドに潜り込んだ。隣からイズリーの暖かさが伝わってきて安心する。そしてその暖かさはいつも通りにゆっくりと私を溶かしていき、心が融解していくと、溢れ出した愛情に溺れるようにして、私の意識は深いシーツの海の中へと沈んでいく。
心地良くて、楽しくて、なんて満たされているのだろう。
しかしそう思う反面、私はやっぱり、こう思うのだ。
この幸福は、いつまで続くんだろう。