宏の周囲
社長の遠藤は、カスミと言い合いした日の夜、これからの事を考えていた。カスミに別れる気持ちがないとなると、男の方を説得して手を引かせるしかないと、思っていた。しかし、ただ説得しただけでは、無理だろうから、カネを用意することにした。後で、男は一般人で年収も普通だと分かったので、五百万用意した。時間は、日付が変わろうとしている。宏は、久し振りに飲みに行った。飲める方ではないのだが、雰囲気が好きだ。
「いらっしゃいませ!」
入り口のドアを開けるのと同時ぐらいに声がする。
「よぉ!」
宏は、軽く手を上げて言った。
「あらっ、珍しい人が来たわね。」
「悪かったな、珍しくて。」
店には客がボックス席に三人いて、店の女の子が一人相手をしている。ボックス席といっても、一つしかなく、後はカウンターに八人が座れる程の広さだ。ここのママは、宏の中学の同級生だ。名前は、山崎香。
「ヒマそうだな。」
「何言ってんの。ヒロほどヒマじゃないわよ。」
「バカ、忙しいんだって、俺だって。」
「そう?女の子と遊ぶのが忙しいのかな?はい、お待たせ。」
「サンキュー。ばぁか、仕事が忙しいんだよ。人をプレイボーイみたいに言うな。」
香はニヤニヤしている。
「何だよ。おまえこそ、彼氏が出来たのか?そろそろ見付けて収まった方がいいんじゃねえの?」
「余計なお世話ですぅ〜!」
香は、ベェ〜をした。
久し振りに飲みに来て、香と色々話をしていた。すると香が、
「あっ、そうそう。ヒロさぁ、カスミっていうアーティスト知ってる?」
知ってるも何も、一晩中一緒にいたよと思いながら、答えた。
「あぁ、知ってるよ。ラジオで良く流れてるしな。人気あるみたいだな。」
「へぇ、ヒロでも知ってんだぁ。かなり人気出てきて、人気上昇中よ。」
「へぇ、そうなんだ。ラジオで良く流れてるけど、今流行りなんだぐらいにしか、思わなかったな。でも、何でカオリがそんな事気にしてんだ?」
「いやね、デビューした時にたまたまテレビで見た時に、彼女の曲が良くてファンになったのよ。」
「ふぅん。で、彼女がどうかしたのか?」
「それがさ、今日テレビで見たんだけど、彼氏がいたのがバレたらしいのよ。まぁ、彼女可愛いから彼氏がいてもおかしくないんだけどさ。で、彼女、記者達にはっきり言ったのよ、大事な人って。あんなに、はっきり言う新人も珍しいわよね。そう思わない、ヒロ。」
「ん、そうだなぁ…」
「何よ、今、何か別の事考えてたでしょ?」
「いや、別に、何も…」
宏は、カスミのことを考えていた為、中途半端な返事になって香に突っ込まれた。
「まぁ、いいわ。どうせ、どこかの女の子のこと考えてたんでしょ。」
「違うよ、ばぁか。」
「でも、どんな男だろうね。イケメンだろうね、ねぇ、ヒロ。」
「そうだなぁ、イケメンだろうな。」
宏は、言いながら、俺のことだよと思っていた。幸いにも、公表されなかったし、写真にも顔はモザイクがかかって分からなかった。服は、あの日カスミが宏のためにコーディネートして買った服だった。宏を知っている人間が見ても、初めて見る服だから、分からない。現に、香も気付いていない。「いいなぁ、イケメンの彼氏。」
「そんなもんかぁ。別にイケメンじゃなくても、良くないか?」
「何言ってんのよ。ヒロだって、彼女は可愛い方がいいんじゃないの?」
「まぁ、そりゃそうなんだけどね。」
「でしょ。それと同じよ。」
「まぁ、イケメンじゃない俺には、関係ない話だな。」
「けど、ヒロみたいにイケメンじゃなくても、いい男はいるからね。」
「どうせイケメンじゃないよ、俺は。」
「そうじゃなくて、見た目じゃなくて、それ以外がいい男なのよ、ヒロは。」
「何だよ、それ?わけわからんな。」
「簡単に言えば、スルメよ。」
「何だよ、噛めば噛むほど味が出るってか?」
「そっ。付き合っていくほどに、ヒロの良さが分かるのよ。」
「ふぅん…自分じゃわかんないからな。」「分かんなくて、いいのよ。ヒロは今のままで。」
「そうかぁ?」
「そうよ。あっ、そうそう、今度休みがある時に買い物付き合ってくれない?ヒロ。」
「はぁ!?何で俺だよ?友達と行けばいいだろ?」
「ヒロも友達じゃない。それに、荷物が多くなりそうだから、男の人がいないとダメなのよ。」
「だから、俺以外にいるだろ?」
「いることは、いるんだけどさ、みんな下心見え見えで…」
「じゃあ、俺は下心が無いってか?」
「そっ。長い付き合いだけど、そんな事一度もないし。何より安心だからね、ヒロは。」
「そんな事、分かんないだろ?」
「大丈夫よ。っていうか、私もだけど、ヒロもそんな目で見たことないでしょ?」
「まぁな。まぁ、安全パイなわけだ。俺は。」
「そっ。だから、お願い!付き合って!」
香は、体の前で、お願いっていうように、手を合わせている。
「分かったよ。付き合うよ。けど、休みがいつか分かんないけど、いいのか?急ぎじゃないのか?」
「大丈夫。ヒロの休みに合わせるから。」
「そうか。じゃあ、休みの前に電話するわ。」
「ありがと。助かるわぁ、ヒロ。」宏は、香や店の女の子と世間話を、ひとしきりして帰った。帰って、寝ようと思っていたら、電話が鳴った。知らない番号だったが、宏はためらいながらも、電話に出た。
「もし、もし。」
「夜分遅くすいません。上杉さんですか?」
「そうですが、あなたは?」
「失礼しました。私、カスミの事務所の社長の遠藤といいます。お話ししたい事があって、お電話差し上げたのですが。」
「そうですか。で、話しというのは?」
「はい、電話では長くなると思いますので、直接お伺いしてお話ししたいのですが、ご都合の方はいかがですか?勿論、上杉さんの予定に合わせますので。」
「急にそう言われても…休みの日がはっきり分かりませんが…」
「分かるのは、いつぐらいですか?その頃、もう一度お電話いたしますが?」
「そうですね、二、三日中には分かると思いますけどね。」
「そうですか、分かりました。その頃に、もう一度お電話させて頂きますので、よろしくお願いします。夜分遅くに、失礼しました。」
「はい、分かりました。では、失礼します。」
宏は、電話を握りしめたまま、考えていた。どうせ、別れてくれという話だろう。宏は、まだ付き合っているという感じではないが、カスミのことは好きだ。自分のことを大切な人と、言ってくれたカスミの気持ちには、応えなければと思うが、なにぶん、住む世界が違うため、戸惑いが無いわけではない。自分の気持ちに正直になればいいのだろうが、この年になるとやっぱり色々考えてしまう。宏は、寝られずにしばらく考えていた。宏は、電話を受けてから二日後に、遠藤に電話した。四日後の土曜日の午後一時に会えると。




