97_オキタの長い1日 昼~夜の巻
午後の執務は予定通りに始まり、表面上は何事もなく進んでいた。
執務室には二人しかおらず、規則正しい静けさだけがあった。
空調の低い駆動音と、端末を操作する電子音。それと、紙にペンが触れるかすかな音。
俺は自席に腰を下ろし、端末を起動する。
表示されたのは警備部門の評価データ、それを順に確認していく。
数値は正確で、冷静なものだった。部隊の移動経路、反応速度、損耗率はどれも理論通りで過不足は見当たらない。
悪くない、それどころか平均より上だ。正直、あの時の彼らを見るにこれは想像してなかった。
クレアは彼らを少し頼りなく見ていたがそんなことは無い、むしろ期待値が高すぎるだけだ。少なくとも”使えない”なんて評価にはならない。平均的な練度を持つ一端の軍事部門。問題点はあるが、致命的な欠陥はない。
こうしていると、帝国軍に居た頃を思い出す。
書類仕事は相変わらず好きじゃないし、得意でもない。それでもあの頃からこうしてやって来たし、これで食ってきた自負もある。
だから、本来なら集中できない理由はない。
……だと言うのに。
思考のどこかが、常に余白という邪念を残している。考えが散るというより、最初から全力で集中することを避けている感覚に近い。
理由は一つしかない。分かっているからこそ考えないようにしている。
その理由の原因、紙にペンが走る音が一定のリズムで聞こえてくる。
クレアの机からだ。
電子化が進んだこのご時世に何故。そう思うだけでこの音が強調される。書く度に僅かに空く間は、考えてながら書いている音だ。
(このご時世に紙……いや、珍しくもないのか?)
馬鹿みたいな感想を浮かべ、直ぐに打ち消す。
自分の仕事に集中しろ、集中だ。俺は視線を画面に固定し、シミュレーション映像を追う。
どれも理解できるし、判断も間違っているようには思えない。同時に自分ならどう動くか、部隊をどう動かせば効率的かを頭の中で組み立てる。教えるとしたらこの辺りだろうか。
ちゃんとやっている。やっているのだが、頭の中では別の情報が並走している。
距離、気配、空気の張り。
何が、とは分からないが、何かが静かに近く感じる。
俺は顔を上げない。何が原因かは分かっているし、斜め前に落ちる影で位置は分かっている。
クレアの姿勢が変わった。
ペンを持つ手が止まり、背筋が伸びる。
(何でこんなに見られるんだ……?)
数秒遅れた後に感じる視線。もちろん敵意はない。昨日のような評価でもない。
ただの確認。俺がそこに居るかどうかを確かめるような視線だ。
俺が一瞬だけ視線を上げると目が合った。
クレアは微笑んだ。仕事用の笑みじゃない。公的な場で人に向ける、無難な曲線でもない。
ほんの少しだけ角度が違うことに気付けたのは、俺だからだろうか。それに気付いてしまうのは、彼女との昼の休憩を知っているからだろう。
(やめやめ、仕事だ仕事)
視線を切って端末に戻す。
再度集中しようとするが、その動作が合図だったかのように音が止まった。
ペンの音が消える。その沈黙はやけに大きい。
「オキタ様」
普段よりも低い声。
「どうした?」
努めて感情を抑えた返答。もはや普段通りの自分を守るためだ。たぶん、エリーなんかは今の俺を見ると腹を抱えて笑い転げる。
「いいえ……ただ。ちゃんと居るな、と思いまして」
瞬間、その言葉に少し間抜けな顔を晒してしまう。
だって、これは何の意味もない言葉だ。
けれど無意味ではない。
俺が護衛としているか、ではない。まるで、存在そのものを確かめるような言い方だ。
「此処にいる、当たり前だ」
事実だけを返した。それ以上でも以下でもない。
仕事だから、とはもう言わなかった。
「ええ」
クレアは、それで納得したように頷いた。
再びペンの音が戻る。だが、今度は明らかにそれが遅い。まるで一画一画を確かめるようなわざとらしい速度。俺の意識が削がれているのが分かっている仕草だ。
(こいつ、完全に分かってやってやがる……いいぜ、ならこっちは仕事に集中だ)
言い聞かせるが、画面の数字が頭に残らない。
俺は椅子の背に体重を預け、視界を限定する。それで距離が取れると思っていたのだが、それは甘かった。
気配が動く。
足音は静かだが、隠す気はない。
影が、机に落ちる。
「ここ、少し見て頂けますか?」
クレアが横に立つ。
近い。昼よりも、はっきりと。
俺は立ち上がらず、座ったまま書類を受け取る。その方が距離を保てるはずだと思ったから。
―――指先が振れる。
書類を支えるという名目がある以上、離す理由がない。
俺は書類に視線を落とす。顔は上げられない。
「……ここ、誤字だぞ」
声は努めて平静だ。少なくとも自分ではそう思っている。
「あら、本当ですわね」
クレアは答えるが、手は動かない。先程から重なった指がそのままだ。
偶然にも見えるよう計算された距離だ。拒絶すれば、こちらが不自然になる。
(早く離れてくれ……)
どうせ聞いているだろうと、心の中でそう呟く。
仕事中に許される距離を、ほんの僅かに超えているだろう。
「午後は……長いですね」
「ああ……そうだな」
先に動いたのはクレアだった。
何事もなかったように手を放し、微笑を残して席へ戻る。
俺の手元に残ったのは、書類と、指先に残る温度だけ。
(完っ全に、遊ばれてる……!)
分かっていても拒めない。拒む理由が見つからない。
そして何度も同じ考えに辿り着く
(この距離で2週間は……長すぎる)
午後の執務は、そのまま終業時間まで続いた。
終業を告げる時刻は正確だった。クレアの端末が静かに通知を鳴らし、彼女はそれを一瞥する。
「今日はここまでにしましょうか」
「了解」
俺は端末を落とし、椅子から立ち上がる。
身体が僅かに重い。戦闘では感じられない疲労、神経を張り詰め続けた結果のそれだ。
クレアも立ち上がる。
机越しに見ていた距離が、自然と縮まる。
書類をまとめ、秘書に軽く指示を出す横顔は完全に“専務”の顔だ。
だが、最後に俺へ向けられた視線だけは違った。
「お疲れ様でした、オキタ様」
「……ああ」
それ以上の言葉はない。
だが、互いに“続き”を意識している。
エレベータへ向かう廊下は昼よりも静かだった。業務を終えた社員たちは既にフロアを離れているのだろう。靴音が二つ分、規則正しく重なる。
俺は半歩前、それが護衛の位置だ。
だだ、背後の気配が近い。
昼と違い隠す理由もない。仕事は終わったのだから。
エレベータに乗り込むと、直ぐに扉が閉まってから気付く。二人だけの密室、朝の不覚に続けてもう一度だ。
操作パネルに伸ばした俺の腕とクレアの腕が交差するが、必要な動作だからどちらも引かない。
小さく、金属音。
下降が始まる。
「今日は……疲れましたか?」
不意に、クレアが尋ねる。
「疲れない仕事は無いな」
「そうですね」
それだけで会話は終わる。案外、この沈黙も居心地悪くない。
エレベータが止まり、扉が開く。
車寄せへ向かう通路は、既にコロニーが創り出す夜の空気を含んでいた。
外はすっかり暗い。コロニーの照明が、人工的な星のように浮かんでいる。
用意されていた車へと乗り込む。
先にクレアを通した後、俺も隣に座る。
ドアが閉まり、音が遮断される。車内は広いが、二人で座ると不思議と狭く感じる。
車が走り出すと、僅かな振動が伝わってくる。
車内は静かだった。いや、正確には静かすぎた。
防音性能が高すぎるのが悪い。車に搭載されているENG音も外界からの気配も遮断されると、人間は余計な事を考える生き物になってしまう。
(護衛任務中だぞ、俺。集中しろ! ……って、誰に言い訳してるんだ俺は!?)
そう自分に言い聞かせた直後、車が僅かに揺れた。
たったそれだけで肩が触れた。
偶然だ。そもそもタイヤがない車だ、路面の凹凸を感じさせないはず。重力制御の僅かなズレが引き起こした僅かな揺れ。そう言い訳できる程度の接触。
だが、肩に柔らかい重みを感じる。
(揺れたな。うん、揺れた。これは完全に車両側の問題だ)
そうやって理屈を組み立てている間に、クレアの頭が俺の肩に預けられていた。
(―――早い。展開が早すぎる……!)
距離感の詰め方がえぐい。昼間なんて比じゃない。もう「偶然ですわ」で済ませるには接触時間が長すぎる。だが、どちらも離れない。
「……護衛としては、問題ですか?」
低く、控えめな声。
その問い方自体がズルいことを自覚して聞いている。
本当に問題があるなら、最初からこうはしない。
逃げ道を残した確認、それが一番俺に刺さる。反則だろ。
「……今は移動中だ。問題は無い」
(問題はない。ないが……ないだけで、絶対に正解じゃない)
「良かったです」
安堵したようにいって、クレアはそのまま動かない。
いや、正確には―――さらに体重を預けてきた。
(おい、増えたぞ。比重が。明らかに増えた)
肩越しに伝わる体温は昼間よりも分かりやすい。仕事着越しでもハッキリと分かる。
(……なんで、クレアはこんなに安心しきってるんだ)
表情を見て独りごちる。拒む理由は幾らでも思い付くが、実行に移す理由は一つも無かった。
俺は前を向いたまま、深く息を吐く。
車窓の外を人工の夜景が流れていく。光の帯がやけにゆっくり見えた。
クレアは何も言わない。
ただ、そこにいる。
(あぁ……もう、これは完全に俺が折れる流れだ)
覚悟が必要なのかもしれない。
それと僅かな勇気。それを持つ決意さえしてしまえば、後の事は後で考えればいい。
車は静かに減速し、マンションの車寄せに滑り込んだ。
ドアが開き、夜気が流れ込む。
クレアが身体を起こす……かと思ったが、そうはならなかった。
一瞬だけ、名残惜しそうに、肩に重みが残る。
(今の間、絶対わざとだろ)
俺は先に降り、周囲を確認する。異常は……なし。
振り返ると、クレアがこちらを見ていた。
昼間の”専務”の顔ではない。完全に仕事を脱いだ表情だ。
エントランスを抜け、専用エレベータ、無言の上昇。
今夜はもう誰にも会わない。今朝は違和感だった静寂がやけに落ち着く。
(不味いな、慣れ始めた)
部屋のフロアに着き、廊下を進む。カードキーの認証音の後で扉が開く。
柔らかな間接照明と、少しだけ低い室温。
「お帰りなさい」
「ただいま」
(待て。なんで俺、普通に返した?)
自然にそう言ってしまった自分に自分でツッコミを入れたくなるが、もう遅い。これじゃあまるで……。
「シャワー、先に使いますか?」
一瞬だけ、期待を含んだ間。
「……いや、後でいい」
「そうですか」
ほんの一瞬だけ、分かりやすく残念そうな顔をした。
思わず引き寄せられそうになりながら装備を外し、最低限の確認を済ませる。
冷静になれ俺、これは仕事だ。仕事なんだ―――。
「……シャワー、浴びてきますね」
囁くような声。
当然の行動だ。一日の終わりにシャワーを浴びる。それはごく自然で、何一つおかしくない。
なのに。
離れていく感覚がやけに生々しく感じる。
クレアは振り返らず、そのまま浴室へ向かった。
扉が閉まり、静かな音が室内に残った。
数秒後、水の音が聞こえ始める。
シャワーだ。
一定のリズムで落ちる水音。それが逆に、意識をそこへ引き寄せてくる。
(音だ。ただの音だ。映像を付けるな、俺)
音だけで、今でも鮮明に思い出せてしまうあの夜が憎い。
天井を見つめながら、無意味に瞬きを繰り返す。
(……長くないか?)
実際に長いのか、俺の体感がおかしいのか分からない。
ただ、その”長さ”を気にしている時点で精神状態はだいぶ危うい。
シャワーの音が止まった。
(来るなよ……)
俺の理性が全力で警告を発した、その直後だった。
浴室の扉が開く。
「お待たせしました」
薄手の部屋着。湯気の残る空気。濡れた髪をタオルで拭きながら立つクレア。
頬は少し上気していて、目元は柔らかい。
髪から落ちる水滴。
肌に張り付いた布の輪郭。
ほのかに漂う石鹸の香り。
視線を逸らそうとして、逆に意識してしまう。
(情報量が……多い……!)
「次、どうぞ」
「あ、ああ……」
立ち上がる動作が、我ながらぎこちない。
彼女の横を通り過ぎる瞬間、香りが強くなる。
(……っ! 駄目だ、逃げろ)
浴室に入って勢いよく扉を閉める。
深く息を吐いた。
(やらかした……完全に逃げたな、今)
シャワーを浴びながら、頭を冷やそうとする。
だが冷えるどころか、逆にさっきの光景ばかりが鮮明になる。
(無防備すぎるんだよ……自覚しろって)
ようやくシャワーを終え、浴室を出る。
―――そして、即座に後悔した。
「……早かったですね」
クレアはもうベッドに戻っていた。
横向きに寝転び、こちらを見ている。
タオルで髪を拭きながら近づくと、自然と視線が絡む。
「今日は……一緒で、いいですよね」
確認の形をした、ほぼ確定事項。
断る言い訳は山ほど浮かぶ。けどそれらが全部、今の気分には弱すぎた。
「……分かってるだろ」
観念したら、それだけで十分だったらしい。
クレアは小さく笑って寝室へ向かう。
(本当に、俺の扱いが上手くて困る……)
広いベッドだ。逃げ場がない、という意味で。
照明が落ち、薄明かりだけが残る。
最初は、ほんの少し距離がある。
クレアが寝返りを打ち、自然にこちらへ寄ってくる。距離が縮まる。
(自然じゃない。絶対自然じゃない)
背中が胸に触れ、細い呼吸が伝わる。
もう、触れない理由はなかった。
腕を伸ばし、腰に回す。
強くは抱かない。逃げられない程度に抱き寄せる。
クレアが、ほっと息を吐いた。
「今日も、お疲れ様でした」
「クレアも、な」
それ以上は言わない。言ってしまえば全部崩れる。
俺は触れているだけで何もしない。それが今の俺の限界だ。
目を閉じる。
意識が沈む直前、指が絡む。握り返す。
(……これで、十分だ)
そう思いながら、俺は眠りに落ちた。
ベッドに入った。それだけのはずなのに、どうしてこうも落ち着かないのか。
目は閉じている。呼吸も整えている。身体も横になっているし、条件だけ見れば「就寝」は成立している。
―――だが。
腕の中にある重み、背中越しに伝わる体温。布一枚を隔てただけの柔らかさと、一定の呼吸。
それらが、無言で主張してくる。
何度目か分からない自己暗示を繰り返していると、クレアが小さく身じろぎした。
布が擦れる、ほんの僅かな音。
南無阿弥陀仏。供養です、続きは書きません。
主人公の留守番はまだまだ続きますが本章はここまで。
次回はここまでのキャラ設定と備忘録を挟んで留守番会に戻ります。




