外伝 アスラン 27
「ここに連れてきたのは、喜びを分かち合いたかったのだよ。嬉しいだろう?」
そう尋ねられ、僕は首を横に振った。
「僕は、憎しみなどは抱いていません」
ジル様は驚いたように目を丸くした。
「なんだって……あんなにひどい地獄のような毎日だったのに?」
確かに地獄だったのだろうと今ならばわかるけれど、僕はうなずく。
「僕にとってはあれが日常でしたから……そりゃあ今でこそ思うことはあります。でも、憎いとかそういう気持ちは、ありません」
生きるのに必死で人を憎んでいるような余裕はなかった。
するとジル様の瞳が怯むように揺れ、うつむくとため息をついた。
「そうか」
興味をなくしたように僕を連れてまた階段を上っていくと、侍従達が心配そうにジル様の横について歩く。
「そろそろゆっくりされてはいかがですか?」
「……うるさい」
奴隷商での生活は、ジル様の心を酷く傷つけたのだろう。
僕はあの地下牢に放り込まれるのではないのだなと思っていると、一室へと連れていかれる。
僕をどうするつもりなのだろうかと思っていると、ジル様は侍従達を部屋から追い出すと僕と向かい合った。
「さて、返してもらおうか」
そういうと、僕の腕を押さえつけて洋服を脱がそうとしてくる。
びっくりして、僕は全力で暴れまわった。
「やめろ! ふざけるな! 触るな!」
「大人しくしろ」
何をされるのかが分からず、とにかく逃げなければと思うけれど、上着を脱がされた。
「やめろっ!」
僕は全力で拳をジル様の顔へと向けるがそれを掴まれ、頬を逆に叩かれた。
乾いた音が響き渡る。
「あ、あ……す、すまない。恩人の君に、申し訳ない」
ジル様がそう言ったところで力が弱まり、僕は急いでその腕から逃げ、窓へと向かって走った。
逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ。
転びながら、必死に窓にたどり着き、僕は開け放つとそこから迷うことなく飛び降りようとした。
「待て!」
嫌だ。
他人に体なんて触られたくない。気持ちが悪い。
けれど、首元の服を掴まれ、僕は部屋へと引き摺り戻されると、ジル様が僕に馬乗りになる。
そして、容赦なく洋服を下着まではぎとられ、僕はうつぶせになりながら、恐怖を押し殺して黙る。
すると、僕の背中をじっと見つめながらジル様が言った。
「良かった。ちゃんと残っている」
背中をジル様の大きな手が撫でていくのが分かる。
ざらついた手で触れられて、履きそうなほどに気持ちが悪い。
体が震えそうになるが、ぐっと奥歯を噛んで耐えていると、ジル様が何かを喋り出した。
「§ΛΦΠευ……」
ぶつぶつと呟かれる言葉に、全身の鳥肌がたち、吐き気を催す。
「ぐ……ぐふぅ……」
「すまないねぇ。気持ちが悪いねぇ……だが、後少し、後少しだから」
僕はその時になって、自分の全身の魔力が抜かれ始めていると言う事に気が付いた。
気持ちが悪い。
あぁ……魔力が、体を巡っていたものが、抜かれていく。
目の前がチカチカとし始め、体から力が抜けていく。
力を入れようとすれば痛み、まるで何かに内側から引っ張られているような感覚だった。
「ごふっ……」
口の中から血が溢れる。
次の瞬間、ジル様の声が響いた。
「やった……ふふ……ふふふふ。我らが神の、神器を取り戻した」
朦朧とする意識の中で、ジル様が僕に向かって真っ黒などろりとした粘り気のある何かを見せてきた。
「あぁ、アスラン。ありがとう。君という魔力の塊のような人間がいたから、これを生み出すことが出来た」
意味がわからなかった。ただ、朦朧とする意識の中で、ジル様が奴隷商にいる時、僕の背中を綺麗に拭こうと言って体を清める手伝いをしてくれていたのを思い出す。
『こんな場所であっても、助け合わなければね』
そんな言葉を呟いていた。
その時の僕は人なんて信じていなかったけれど、ジル様の優しさを確かに嬉しいと感じていた。
……あぁ。これだから人なんて信じるべきではないのだ。
人間なんて、どうせ……私利私欲でしか動かないのだから。
―――――ぐふっ……。どろりとした液体が口の中から溢れ、肺に息が入らない。
先生……先生。
人なんて信じるべきではない。そう思いながらも。
貴方からの優しさは、僕にとって、この世に生まれた祝福のようでした。
だから……いい。
目の前が暗くなっていくけれど。
苦しみが消えるのであれば、もう……。
「アスラン!」
名前が呼ばれた。あぁ、幻聴であろうと嬉しい。
「貴様!? なぜここに!」
たくさんの足音が聞こえてきた。
「やめろ! 放せ!」
それと同時に、僕の体が誰かに抱き上げられるのが分かった。
「アスラン! しっかりしろ! アスラン!」
あたたかい。
声が、どこか遠くで響いているようにぼやけて聞こえた。
「……先生」
「しっかりしろ! 生きるのを、諦めるな!」
諦めたら、ダメですか?
この世界は、苦しいことばかりなんてです。
生きていて、幸せだった瞬間なんて、貴方と一緒に暮らした日々しかない。
それ以外は地獄だった。
また地獄が始まるくらいなら、もう、諦めたら駄目ですか。
「これからそなたは幸福に生きるのだ! 仲間もたくさんできる! 家族だっていつかできる! だから、だから諦めるな!」
……ふふふ。うそだぁ……。けど、先生がそう言うなら、信じてみてもいいかな。
僕は生きるために、口の中から溢れるどろりとした血を吐き出した。








