無明悪霊探索奇譚えあろぞる
「んふ〜ふふ〜、ふふふ〜ふふふんふんふ〜」
トラックを走らせる男性はラジオを付けながら鼻歌を口ずさみハンドルを切る。
「今日も残業だるいったらね〜な〜」
時刻は19時を回った所。人気の無い農道を制限速度10キロオーバーで走らせる。これから積荷を下ろして翌日出荷する製品をトラックへ積み明日の準備をしなくてはならない。
「はぁ〜…。今日は何食べようかな…。揚げ物は胃がもたれるしな…。明日も仕事だから酒は呑めねぇし」
男は眉を下げ、誰にも聞かれることのない独り言をぶつくさ呟く。
「…ぶっ!?」
男は大きく目を見開く。トラックの正面に何か現れた。
ドンッ!
「…」
男性は一瞬避けようとしたが、【避けずにそのまま走り抜ける。】制服を着た少女を跳ね飛ばす。
男性の判断は【正しい。】
【音などならなかった。】
【少女など居なかった。】
【男性は誰も跳ねてなどいなかったのだ。】
「…」
男性は何事も無かったように走り続ける。
すると、ひやり…。と背筋を伝うような悪寒が走る。手から背中にかけて鳥肌が立つ。
『ザザザ…』
ラジオにノイズが走る。
『…ねぇ…? 今、ワタシ…轢いた…で…しょ、オオオ!?』
男は一瞬眉を引き上げる。しかし気付かぬフリをしたまま運転を続ける。
「…くそ。疲れるといつもこうだ」
ブーン…。と痺れるような感覚がすれば隣に誰かが乗っている気配がする。真っ黒な影が隣に座っており項垂れているように感じる。
『…はぁ…はぁ…ははは…ふー、ふー、ふん…』
何を口ずさんでいるのか分からないが、笑っているような、深く溜息を吐いているようなそんな雰囲気を感じる。
体の左半身が次第に痺れてくる。
『…ねぇ…ねぇ…ねぇ…』
左耳の横、砂嵐が具現化したかのような存在がボソボソと呟く。
『ふん…ふん…ふぅ…ふぅ。分かるよね…? 見えるよね…?』
ドロドロにトロけた顔が左側から覗き込んでくる。製造途中で溶解したシリコンがまとわりついたような歪な形状の人形の顔。髪の毛はだらりと垂れ下がっており目は窪んで真っ黒になっている。その目の奥に底知れない闇を感じる。
「…」
男は冷や汗をかく。わかっている。わかっているが汗を止めることは出来ない。意識が低下するといつもこうだ。異形の怪物が見え始める。このような常軌を逸した存在と相対するのは自分の宿命であるのだろうが、如何せん慣れるものでは無い。早くしないと【入り込まれてしまう。】
「…ふぅ…ふぅ…」
次第に息が荒くなってくる。心臓の付近に力を込めて意識を集中する。くそ、くそ共が。僕に近付くな。
赤信号。信号が赤ならば車は止まらなければならない。
「…」
沈黙を守ったまま携帯に録音されている音声を鳴らす。
『ノルマコ、サルマンド、グサラデン、ゾンダンアロシャバヨ、ミハタナ…』
女性の声が再生されれば次第に気配が希薄になっていく。
「…ふぅ…ふぅ…。くそ、くそくそ…!」
男性の名前は玉菊輝彦。霊を見ることができる。
「…今日はお忙しい中来ていただきありがとうございます」
輝彦
「いえ、大したことは出来ないかもしれませんが」
「事前にお話しましたが、家で度々変な怪奇現象が起こるんです。リビングで大きな壺が落ちたり、飼ってもいないのに犬の鳴き声が聞こえたり…。見て頂けるだけでも結構です。何もいないのであれば、それはそれで安心出来ますので」
輝彦
「…はい。隈無く拝見させていただきます」
土曜日のお昼すぎ。大きなカバンと籠を手に提げて、輝彦は石階段を中年の女性と共に上がっていく。荘厳な門構えを潜れば、古いながらも立派な家屋が目の前に現れる。
輝彦
「お邪魔します」
中は幾度かリフォームしたのか新しい作りになっている。リビングに中年の男性が椅子に座っている。ソファーには娘であろう中高生程度の年齢の少女が携帯をいじりながら座っている。
「あなた、この方が輝彦さん」
「…初めまして。玉菊輝彦と申します」
「ああ、今日は来ていただきありがとうございます。屯倉鷹緒と申します」
「私は屯倉梟子です」
輝彦
「…」
チラリとソファーの少女の方を見る。
梟子
「ほら、鵤。挨拶なさい」
「…」
鵤と呼ばれた少女は無反応だ。
梟子
「すいません…。あの子ったら」
輝彦
「ああ、お気になさらずに。では作業を始めますね」
籠の中には金糸雀が入っている。口笛を軽く鳴らせば中の金糸雀が元気かどうか確認する。
梟子
「…可愛いですね。何に使われるのですか?」
輝彦
「この子には【霊の臭いを毒と覚えさせています。】ですので霊が近くにいれば忙しなく飛びまわるんです」
梟子
「そうなんですか…。賢いですね」
鷹緒
「霊はその、臭いんですか?」
輝彦
「霊に臭いはありません。【人が臭いと認識して臭うんです】」
鷹緒
「人が認識? なら金糸雀は臭いを感じないのでは?」
輝彦
「金糸雀は昔、鉱山の中でいち早くガス溜まりに気付くために鉱夫が連れて行っていたらしいんです。臭いに関しては特に敏感な生き物ですので、僕は金糸雀を相棒として連れて来ていますね」
鷹緒
「そうなんですか…。でも輝彦さんは見えるんじゃないんですか? 見えたなら金糸雀は必要ないのでは?」
少し訝しげに鷹緒が尋ねる。
輝彦
「まぁ、疑われるのは仕方の無いことです。【僕は普段、霊を見ることは出来ないのですから】」
鷹緒
「え、ええ? じゃあどうやって霊を確認するんですか? この小鳥が反応した所で霊がいるかハッキリ分からないのでは?」
輝彦
「この子には僕の寝ている時の波長を合わせてあります。ですので僕より感覚は鋭いハズです」
鷹緒
「うーん、そ、そうですか…」
梟子
「兎に角輝彦さんにお任せしましょう。それにほら、評判もとても良いみたいですし」
輝彦
「…あはは、とりあえず出来る事はしっかりやるつもりですよ」
輝彦は籠を持って家屋を徘徊する。廊下を一通り歩き回る。
輝彦
「どうだレモン、何かいるか…?」
金糸雀はキョトンとした表情でぴょこぴょこ跳ねている。次は部屋を開けて中に入る。
輝彦
「…」
部屋を開けて中に入るが金糸雀は反応を示さない。部屋を全て開けて中を見たが金糸雀が鳴くことはない。
輝彦
「奥さん。一通り回りましたが、特に何もありませんでしたね」
梟子
「…待ってください。まだ見てもらっていない部屋があります」
輝彦
「え? 何処ですか?」
梟子
「ここです」
輝彦は階段裏の地下へ続く部屋へ招かれる。地下には座敷があり、襖とタンスが存在する。真ん中に机が1つあり、掛け軸には女の人の絵が描かれている。
輝彦
「…」
嫌な気配がした。肌を冷気が触れるような感覚を覚える。
「…ぴちゅ、ぴちゅちゅちゅちゅちゅ…!」
金糸雀が警戒の声をあげる。
輝彦
「…ここか」
梟子
「…やはり、ここでしたか」
輝彦
「ふぅ…。では【解霊】の儀を執り行います。よろしいでしょうか?」
梟子
「解霊…? 除霊とか、浄霊とは違うのでしょうか?」
輝彦
「ええ。人間の魂は七つの構造をしています。細かく分類すると過去、現在、未来、想像、呪、夢、生、そして死。過去、現在、未来に関しては容易に理解できると思います。記憶とそれに伴って行動を決する為の指針だと思って頂ければと。原因と結果、それは人間の行動する理念に伴った因果関係に繋がるものですから、記憶の前後が必要なのです」
梟子
「は、はぁ…。では想像と呪というのは…? 呪に関しては何やら不穏ですけど」
輝彦
「想像は人の思い描く色ですね。色無くして人は考えうる事はできません。ですので想像する事で人は考え行動するのです。呪に関しては想像した結果生み出された想像物ですね」
梟子
「想像物…。魂の中に呪は実際に存在するのですか?」
輝彦
「ええ。呪が無ければ人は霊体として存在出来ません。霊がこの世に形として残せる唯一の手段が呪なんです」
ガタ…。箪笥の中から物音が聞こえた。
梟子
「…え?」
輝彦
「…」
輝彦は箪笥を開いてみる。中には布団が入っている。他に何も見当たらない。
輝彦
「…話を続けましょうか。次は夢です。夢は人の過去、現在、未来を整理する為に必要な絵です。夢を思い描くというでしょう?」
梟子
「ああ、それなら何となく分かります。人間は夢の中で記憶を整理するんだとか」
輝彦
「そうです。夢なくして人間は良好な精神状態を保てません。睡眠は精神と脳の浄化作業。生物にとって必要不可欠な行動なんです。魂にもその浄化機能が備わっているんですよ」
梟子
「…そうですか。では生と死というのは…?」
輝彦
「物事には始まりと終わりがあります。魂はひとつの物語とするならば、生が始まりで死が終わり。生が頭で死が尻尾だと思って頂ければ」
梟子はいまいち釈然としない様子で話を聞いていた。
輝彦
「まぁ、分からなくても無理はありません。それでは解霊を始めますので。お代は後日で結構です」
梟子
「あ、ありがとうございます。何か出来ることがあれば気にせず仰って下さいね」
輝彦
「ありがとうございます。ではレモン、金糸雀を上に持って行って貰っていいですか? ここにいるとかなりストレスだと思うので」
梟子
「分かりました。レモンちゃん、行きましょうね」
そういうと梟子は退室した。部屋を締め切れば部屋の四隅に榊を置いていく。お香を焚いて部屋の真ん中に座椅子を置けばアイマスクをして眠る準備に入る。しばらくすると入口のドアがぎぃ…。と開く音が聞こえる。
輝彦
「…!?」
霊では無い。
輝彦
「鵤ちゃんか…。何してるの?」
鵤
「…何してんだろうと思って」
輝彦
「僕は眠らないと霊と対面出来ないんだ。だからそっとしておいてほしいんだけど」
鵤
「あっそう」
鵤は気にせず入ってきた。そのまま輝彦の傍に座る。
輝彦
「…何するつもり?」
鵤
「一緒に寝ようかなって思って」
輝彦
「それは不味いな…。霊は波長が乱れると会えない可能性がある。鵤ちゃんも退室願いたいな」
鵤
「なら私に霊がいるって信じさせてよ」
輝彦
「霊がいるって? うーん、それは難しいな」
鵤
「霊能者は全部ペテン師って聞いたよ。だからあんたもペテン師でしょ?」
輝彦
「ふーん。そう思いたければ? でも屯倉さん家は霊で困ってるんだよね? ペテン師でも問題を解決出来ればいいんじゃないかな」
鵤
「ふん。霊なんかより人間の方がずっと怖いでしょ。私ならあんたを寝てる間に殺せるよ」
輝彦
「…そうか。なら君を追い出す為に少しお話をしようかな」
鵤
「なんの話をしてくれるっての?」
輝彦
「僕が霊を信じるに至った話さ」
輝彦はアイマスクを外して鵤を見つめる。
輝彦
「ある夜夢を見たんだ。僕は林の中にいてね」
鵤
「…」
輝彦
「何か不穏な雰囲気のその場所で、僕は早くここから脱出しなくちゃいけない気持ちになったんだ。夢の中で何とか歩を進めようと足を動かした。だけど一向に林から出る事が出来ない」
鵤
「ただの夢でしょ?」
輝彦
「まぁ聞きなよ。すると背後に不快な気配を感じるんだ。古い電車が止まる時、金属を引き摺ったような音がするだろ? あんな音が聞こえ始めた。僕は後ろが気になるけど振り向いちゃダメな気がしてさ。何とか堪えてたんだけど、その時姉の声が聞こえたんだ。「輝彦〜」って」
輝彦は腕をまくる。そこには薄らと【歯型が刻まれている。】
輝彦
「ぎぎぎぎぎぃっ!!がぶっ!!って、生首が僕の二の腕を噛んだんだ。目を覚ました僕の二の腕には、生々しい噛み跡があったのさ」
鵤
「…ふーん」
輝彦
「翌日姉に林に行かなかったか聞いたら、地元で有名な心霊スポットに行ったらしいんだ。なんでもむかーしそこは首塚になってた場所らしくってさ。肝試しで友達と行ったらしいんだよ」
鵤
「手の込んだ作り話だね。噛み跡なんてわざわざ作ってさ」
輝彦
「ふふふ、霊は人に害を与えないって君は信じてるんだろうね。だけど人間の行動と思考が魂に作用するものだとしたら、あながち軽視できないんじゃない?」
鵤
「私は霊は見えない。だから霊は信じられないよ」
輝彦
「そっか。鵤ちゃんは霊を見えるようになりたいの?」
鵤
「…見えるもんならね」
輝彦
「確かこの家は深夜2時になると、引き摺るような足音が聞こえるらしいね」
鵤
「…」
輝彦
「ズズ、ズズ…なら二本足で人の物だと理解出来る。だけどまるで大勢の人間が足を引きずるような音が聞こえるらしいじゃないか。…ズズズズ…ズズズズ…っていう風に?」
鵤
「…ふぅ、ふぅ、ふぅ…」
鼻息が荒くなり鵤の目に恐怖が浮かぶ。輝彦は理解した。恐らく依頼主はこの娘なのだろう。
輝彦
「…霊ってのは色んな形があるんだ。必ずしも人の形をしている訳では無い。だからどんな霊がここにいるかは分からない。僕の意識を下げて眠りに入って、夢を見るまでは」
鵤
「…夜眠れないの。恐くて眠れない…」
鵤は震え出した。輝彦は鵤の手を優しく握る。
輝彦
「…ああ、そうだね。霊の本当の恐さは人間に超常の恐怖を与え、精神を摩耗させていくことだ。そして魂に隙が出来た時、その人の中へ入り込もうとする」
鵤
「…霊が見えない癖に、そうハッキリ言いきれるんだ」
輝彦
「僕の先生、日本最強の霊能者、崩柴宝楽先生は【常に脳が眠った状態で覚醒している。】先生は僕と同じ夢を見ることが出来る。その中で霊を確認したことがある。人間は無意識で繋がっているんだ。だから僕は霊を信じられる」
鵤
「…そんなことが、可能なの?」
輝彦
「だけど先生になら出来る。…よし、わかった。君と一緒に夢の中に行こう。きっとその必要があるんだ。だから君はここに来たんだ」
鵤
「…私を信じさせて」
輝彦
「…わかった。君を信じさせる。約束するよ」
布団を敷けば鵤を寝かせる。輝彦はアイマスクをし、座椅子に座りながら鵤の手を握る。そのまま電気を消して眠りに入る。
輝彦
「…」
輝彦は門の前にいる。どうやら夢の中のようだ。ふと背後に人の気配を感じ振り向く。するとさらに幼くなった鵤が輝彦の服の裾を掴んでいる。
輝彦
「鵤ちゃん。夢の中に付いてこれたみたいだね」
鵤
「…私なんで小さくなってるの?」
輝彦
「どうだろう。僕にはよく分からないけど、鵤ちゃんの時間はその年齢で止まってるんじゃないかな?」
鵤
「…そう。私の精神年齢が子供って言いたい訳?」
輝彦
「ある出来事を境に精神的成長を止める人がいる。親が離婚しただとか、大事な友人が死んだとか、大きな事故にあったとか。君はその歳で何か重大な出来事に見舞われた可能性があるね」
鵤
「…」
鵤は答えない。
輝彦
「それじゃあ家に入ろうか」
鵤
「…嫌」
輝彦
「なんで?」
鵤
「恐い」
恐い。家の中に何か恐怖に起因する原因があるようだ。
輝彦
「じゃあ僕1人で行くね」
鵤
「…ダメ! 危ない!」
輝彦
「危ない? それは何故?」
鵤
「アイツがいる…。4本足で髪の長いアイツが…」
4本足の髪の長いアイツ。驚いた。この娘、霊を視認しているではないか。
輝彦
「…霊を視認出来ていたんだね」
鵤
「誰も信じてくれないもん。言えるはずがないよ…」
輝彦
「僕は信じるよ。大丈夫、僕が付いてる」
輝彦は鵤の手を引いて門を潜る。晴れていた空が一瞬で赤黒くなり、家屋はボロボロに崩れ古い屋敷へと変貌した。物々しい雰囲気を漂わせる屋敷からは邪悪な気配を感じる。
輝彦
「…常夜だ」
鵤
「常夜…?」
輝彦
「死後の世界さ。そしてこの空の色と世界は君が恐怖してるヤツの想像の絵の中だ。ここにいたら確実に良くないことが起こる。早く原因になってるヤツを解霊しよう」
鵤
「どうやって解霊するの?」
輝彦
「霊を七つに分解する。過去を知り、現在を定め、未来を見る。そして想像の絵を描き、呪を解し、生が終わり死んだ事を理解せる。そうすることで解霊は完遂されるのさ」
鵤
「…? よく分からないかな…」
輝彦
「まぁ、僕から離れないように付いてきて」
輝彦と鵤は屋敷の中に入る。中は薄暗い。輝彦は懐中電灯を懐から取り出した。
鵤
「…え? どうやって出したの?」
輝彦
「明晰夢って知ってる? 上手く見れるようになればなんでも作れるようになるんだ。あんまり作り過ぎると脳が覚醒し過ぎて夢から覚めちゃうけどね。懐中電灯を【創造したんだよ】」
鵤
「…あっそう」
2人は屋敷の中を探索する。内部は黒く煤けている。
輝彦
「ここは昔屋敷だったのかな?」
鵤
「そうだよ。ウチは名家だったの。だから大きな家を持てるほどの財産があるんだ。何度も改築を繰り返して、残ったのは結局今の家屋だけなの」
輝彦
「何度も改築をしなくちゃいけない理由があったの?」
鵤
「うん。何度か火事があって。母屋の方は不吉だからって更地にして木を植えちゃったらしいよ」
輝彦
「なるほど…」
気になった襖を開けてみる。中は明るく綺麗な状態が保たれている。
輝彦
「…ここは焼けてないな」
鵤
「そうみたいだね」
内部には幾つも日本人形が置かれており人形の一つ一つから視線を感じる。
輝彦
「どうやらここへ招かれたようだ」
鵤
「どういうこと…?」
輝彦
「人形とは本来穢れや厄を移す為に存在するもの。故に人の気を吸収しやすい性質を有している。人型であればそれに【魂が宿るのも理解に難くない】」
鵤
「…うっ!?」
あちこちから日本人形がこちらを覗いている。今しがた入ってきた入口からも襖の間からも無数の日本人形がこちらを覗いている。
輝彦
「…これは相当な数だよ。ここの家主は幾つもの人形を誂えていたんだね」
鵤
「…恐い…! 輝彦さん、この人形…恐ろしい…!」
鵤は輝彦に捕まる。日本人形から引き寄せられるような重力を感じる。
輝彦
「人形に触れちゃダメだよ。穢れを移されてしまうからね」
輝彦は松明を創造すると人形に向ける。すると人形は火を嫌がり遠ざかる。鵤の手を引いて部屋から出る。
鵤
「…火を恐がってた」
輝彦
「人形は処分する際は焚きあげ、お祓いする。だが人形自身がそれを望んでいる訳では無い。火を用いて煙に変えたところで、呪が解呪された訳では無い。呪いは確かに燃え易い。しかし呪そのものがなくなることはないからね」
鵤
「焚き上げても解呪されない…? どうすればいいの?」
輝彦
「呪にも種類があるんだ。種類によっては流水で清める、火で焚きあげる、生贄を捧げその命と共にあの世へ送り込む。例えば火で焚きあげてもいずれ雨となって地上に降り注ぐだろう?」
鵤
「…」
輝彦
「呪いは巡るのさ。水で流しても流した先に呪いは存在するし、火で焚きあげても煙は雨となり地上に降り注ぐし、生贄の命は転生し受肉する。怨みを抱かれるような生き方をすればいずれ報いがくる。呪いから逃れる術はないのさ」
鵤
「じゃあどうすればいいの…? 解呪なんて言葉だけで出来っこないじゃない」
輝彦
「広義的な話をするならば、皆で呪を背負えばいい。そうすれば【死に直結する報いは受けないだろう。】あと、物が累積する所には呪が集積する。ちなみに僕はお金が好きじゃない。金持ち程呪いが集積しやすいからね」
鵤
「…」
鵤は腑に落ちない表情のまま輝彦に付いて行く。
鵤
「…輝彦さんは何を探してるの?」
輝彦
「悪霊」
鵤
「悪霊…? 普通の霊とどう違うの?」
輝彦
「霊には色がある。赤かったり、青かったり。白かったり、くすんだ茶色だったり。そして悪霊は黒い色をしている」
鵤
「…色? 何故悪霊は黒い色をしているの?」
輝彦
「悪霊は他の霊を取り込む。そして色々が混ざり合い黒く変色するんだ。他の霊体を取り込み大きな存在になろうとする」
鵤
「黒い色…。悪霊はやっぱり悪い霊なんだね…」
輝彦
「悪と定義するのはいつだって人間だ。通常の霊は直情的に自身の気持ちを相手に伝えようと自身の過去を見せようとしてくる。しかし悪霊は違う…。生あるものの魂の内側に入り込もうとしてくる」
鵤
「魂に…入り込む」
輝彦
「ああ。入り込まれると厄介なんだ。ちゃんとした霊能者でも気付かない場合がある。魂は混ざり合い易いもの。悪霊と一体化すればその人はどうなると思う?」
鵤
「…悪霊に操られる」
輝彦
「そうだね。1度死を経験した存在だ。自身の内側に残る【業】を晴らそうとしてくるんだ」
鵤
「業を晴らす…?」
輝彦
「例えばの話、屯倉家の先祖が遥か昔戦で沢山の人を殺し、拷問して殺したとしよう。拷問して殺された人達は怨みを晴らすことなく死んでいる訳だ」
鵤はゴクリと固唾を飲む。
輝彦
「怨みが積もり積もった魂は、屯倉家の子供の魂に入り込む。例えばの話…敢えて言葉を濁すけど、正気ではない子が産まれてきたとしよう」
2人は階段を見つける。そして階段裏の地下へ通じる階段を見つければ降りていく。
輝彦
「その正気ではない子が産まれ、屯倉家の先祖はその子を殺害したのだろうか。いいや、きっと違うね」
階段を降りれば日本人形が大量に四散している。
輝彦
「行くよ」
鵤
「…」
通路の先、奥に部屋がある。輝彦は進んでいく。
鵤
「…!?」
鵤の足を人形に掴まれる。カタカタカタカタカタ…! と何かを言いたげな動きを見せるも、輝彦は人形を足で払い除け先へ進んでいく。
輝彦
「…座敷牢だ」
部屋の奥には座敷牢があった。牢の奥には黒ずんだ【肉の塊がある。】大きさは大型犬程で、よく見れば目が身体のあちこちに付いている。
輝彦
「…」
鵤
「な、何あれ…!? 気持ち悪い…!」
肉の塊はこちらに気付けば、のそ…のそ…と寄ってくる。牢の中から鵤の方へ【肉手】を伸ばす。
鵤
「きゃあっ! 近寄らないでっ!」
鵤は足が動かなくなった。抵抗出来ず逃げる事も出来ない。
輝彦
「お前の相手はその子じゃない」
輝彦は肉手を鷲掴みする。
輝彦
「さぁ、お前の過去を見せろ」
輝彦はまるで排水溝へ流れる水のように肉の塊に引き込まれる。
輝彦
「…くそ、これはいつやっても胸糞悪いな」
くすんだ白黒の世界へ招かれれば、恐らくずっと昔の日本であるのだろうと輝彦は理解する。それと同時に、胸に吐き気を催す【ぬるく、気色の悪い感覚を覚える。】
パッパッパと記憶が頭に流れ込んでくる。
屯倉は城の設計をする職人の家柄であった。設計をするのは屯倉家。しかしいざ建設するとなると他国から職人を連れてこさせ城を作らせる。城を建設するとある事柄が懸念される。何処に何があるか、建設した職人を生かしていては、いざ攻められた際に職人の口から情報が漏れる事が懸念される。そして城の脆弱性をつかれて陥落する恐れがある。
並ぶ【首】の映像。
城を【作った】職人は1人残らず処刑された。
時代が移り変わり屯倉家に不具者の子が産まれる。首が肩とくっ付いており、目の焦点が定まらない。城を築いて財をなした屯倉家、陰陽師にその子を見てもらう事にする。
『この幼子は殺さず、座敷牢へ幽閉し人形を宛てがうのがよい。されば屯倉家の業は人形に集積し、家柄の存続が成されるだろう』
陰陽師の言う通り、屯倉家は人形を誂れば不具者の子に宛てがう。宛てがわれた人形は3日と持たず黒ずみ穢れ、首が分かたれる。屯倉家は破壊された人形を庭で焚きあげ続けた。そこで輝彦は元の場所へ引き戻される。
輝彦
「…はっ!」
鵤
「輝彦さん!」
肉の塊は手を引っ込めた。
輝彦
「違うな…」
鵤
「…え?」
輝彦
「この子は【人柱だ。】さっき言っていた呪いをあの世へ送るための生贄として選ばれた人物の魂…。この子は被害者だよ」
鵤
「じゃ、じゃあコレは悪霊じゃないの?」
輝彦
「ああ…。悪霊は…ここにいる」
鵤
「…? え? ここにいる?」
輝彦
「…既に君の、魂の裏側に潜り込んでいる」
鵤
「…う、ぶぶ、ぶご、げへぇ…!」
鵤の目から、口から黒いヘドロが溢れだしてきた。
鵤?
『ふひ、ふひ、ふひひ、ひひ…。よォく、ごぼ、気付いた、ナ。この娘の中に、いるってことニ? ぶご、ごぼ…』
目がぐるぐると回転している。焦点の定まらない目で此方を見据えている。
輝彦
「ああ…。そりゃあ気付くともさ。年頃の女の子が何故わざわざ僕に近付いてくる? 霊能者という前提がなかったとしても、だ。それは僕の魂を穢して取り込む為だろ?」
鵤?
『…はぁ、はぁ、ぐぶ、ぶふふふ…。おめェさんからよォ…? 呪いの臭いがァ…芳しく臭ってくるゾぉ? なァ? おめェさんは、【この世に愛想が尽きてる…】ぶぶ、じゃあねェのか? この世をンンン、呪ってんじゃ、ねェのかァっ? じゃあよォ…。一緒に、に、呪い、腐り果てれば、楽でいいいいンじゃあねェか〜?』
鵤は四足になり輝彦に近寄ってくる。髪がだらりと伸び初め頭がボコボコと大きなブドウのように肥大していく。顔はそのままに頭部が恐ろしく大きい異形へと転じる。頭部には目が幾つも現れギョロギョロと辺りを見回す。そのおぞましき光景に輝彦は全身に鳥肌が立ち、恐怖で戦慄く。
輝彦
「…ふぅ、ふぅ、ああ、あああ…! 出来ることならこのまま走って逃げ去りたいよ。だが俺は立ち向かわなくちゃいけないんだ…。そうだ、その通りだ。【俺はこの世に愛想が尽きている】」
輝彦は日本刀を創造した。
悪霊は絶えず黒いヘドロを吐き出す。下に溜まっていくヘドロは茶色く腐敗した腐肉のような悪臭を放っている。
吐き出される黒いヘドロで辺りの景色が変化していく。
ヘドロの中からドロドロの人形がそこらかしこから現れ始める。製造途中で溶解したシリコンがまとわりついたような歪な形状の人形。目は窪んで真っ黒になっており、その目の奥に底知れない闇を感じる。
悪霊
『ぶぶ、げぼ、げぼ、じゃああああ? おめェの、その呪いもぉ…! 丸ごと呑み込、ンでやるよぉ…ぉおお』
悪霊が輝彦に向かって走り迫ってくる。
輝彦
「はぁ、はぁ、はぁっ!」
輝彦は日本刀を地面に突き刺し身体で支えた。悪霊が日本刀に突っ込んで来れば輝彦にそのまま噛み付く。
悪霊
『がぶっ! がぶっ! げひゃ、げひゃ、げひゃ、このまま、丸呑み、にしてやる…! げぼ、げほ』
悪霊は吐瀉物を輝彦に吐きかけながら日本刀をものともせず噛み付いていく。
輝彦
「…ウグッ! はぁ、はぁ、全くおぞましいよ。お前は、お前ら悪霊は、結局過去の積年の恨みってヤツを手放せなかった弱虫なんだよ。それがお前の現在だ!」
悪霊
『なな、なんだ、どぉ…? ごぼ、ごぼ』
輝彦
「ははは…。そんな醜い醜態を晒したままこの先無しに腐りゆく、ただの負債にしかならない業にしがみついたまま、生へ誤った執着を抱いたまま腐りゆくだけ。それがお前の未来だ」
輝彦は松明を創造し悪霊の口の中へ突っ込む。
悪霊
『ぐ、ぶぎゃああああっ! ぶが、ぶがらぁ…!』
ぼわっ! と燃え始めればアタフタと暴れ始める。
輝彦
「鵤ちゃん、今助けてやるぞ…」
輝彦は画材を創造する。
輝彦
「…おい、お前に【時】を授けてやる」
悪霊
『うぎゃあああっ、げほ、げぼっ!』
悪霊を抱き抱れば画材に向かって突進した。すると【水の中へ飛び込んだように世界が一変する。】真っ白な世界へ飛び込めば悪霊の体から黒いヘドロが溢れ出てくる。次第、次第に悪霊の姿が人間味を帯びてくる。
悪霊
『うが、うぎゃあああっ! なんだ、ここは何処だ!?』
輝彦
「ここは想像の世界だ。物事には始まりがあり、そして終わりがある。描き始め、そして完成させる。今からお前を完成させるんだよ」
悪霊
『はぁ、はぁ、完成だと? 何言ってやがるンだ!?』
輝彦
「徐々に正体を現し始めたな。あの陰陽師は間違いなく正しい方法で解呪を成し遂げていた。お前はさしずめ処刑された骸から追い剥ぎをする盗人の端くれだったんだろう? 違うか?」
悪霊
『お、追い剥ぎだとぉ? 違うね…。オイは【座敷牢を作った職人だ】』
悪霊はギョロギョロと目を剥いて輝彦を睨み付ける。
悪霊
『オイが作った座敷牢だ。オイが修理しなきゃ誰が修理する? 牢はボロボロに腐っていた。その腐った材を一つ一つ取り替えて組み立て直したさ』
輝彦
「その腐った材はどうしたんだ?」
悪霊
『勿論オイが責任をもって燃やしちまったよ。人形も材もな。気味が悪ぃ…。首の取れた人形に、材には人の顔をした模様もあったっけなぁ』
輝彦
「なんの知識も無いまま焚き上げをやらされていた訳か」
悪霊
『はぁ、はぁ、げほ、ごほ…。なんだかすごく長い間煤を吸い続けたような不快感がする…。オイはどうなっちまったんだ…?』
輝彦
「貴方は牢に囚われていた不具者と同様人柱にされたんだ。空気中に飛沫した呪いの分子をその身に受けて【深く穢れてしまった。】残念だが今からバラバラに魂を解体しなくちゃいけない。【魂の膿を出すんだ】」
悪霊
『どういう事だ…? やめろやめろ…!オイはまだ【死にたくない!】』
輝彦
「死んだ事にも気付いていない…。悪霊になる事でその魂を穢し目も耳も鼻も口も呪で塞がれてしまっていたんだろうな」
悪霊
『くそっ、クソッ!! 名家の連中に良いように扱われた挙句魂すら無惨に引き裂かれるってかッ! このクソッタレがそうはさせるかッ!』
ドバァッ! 輝彦は絵画から排出される。絵画から黒いヘドロが溢れだし悪霊も共に絵画から這い出てきた。
輝彦
「ぐ、げほ、げほ、吐き出されたか。だが【疾患箇所は特定した】」
悪霊
『ぶじゃあああっ!! グッでやる、グッでやるぞぉおおお』
輝彦は地面に突き刺さった刀を引き抜く。悪霊は輝彦に覆い被さり右手に噛み付いた。ギリギリと力を込められれば血が滲んでいく。
輝彦
「ぐ、はぁ、はぁ、さらばだ呪われた悪霊よ。我御仏の子等が【其方を赦す】」
【肺に向かって刀を突き刺す。】
悪霊
『ヴッ…。ぐぶ…』
悪霊は苦しそうに嘔吐く。
悪霊
『ごぼ、ごぼぼぉ…ごぼぼぼ…』
力が抜けたように輝彦に向かってヘドロを吐き出す。ヘドロは黒ずみ赤茶けており、腐敗した血が混じっているよう思われた。
どしゃ…。中から子供が吐き出された。
輝彦
「ぶ…。鵤ちゃん…?」
鵤に意識はない。ヘドロまみれになった鵤の顔を拭う。悪霊は力なく倒れ伏し起き上がる気配は無い。
輝彦
「ああ…。終わったか…」
震える足に力を入れて立ち上がる。鵤を抱き抱えその場を離れようとする。
ザク…。
『何処へ行かれるつもりか?』
なにかを突き刺される感覚。背後から声がする。
輝彦
「ぐぶ…。やっぱり…か」
製造途中で溶解したシリコンがまとわりついたような歪な形状の人形。怨みにより人の形から変成した怨霊の内側から槍が伸び、輝彦の背中に突き刺さる。
輝彦
「…【悪霊は複数体で行動する。】そう、こんな風に背後から不意打ちするために…」
『私は悪霊に非ず。陰陽師に仕えていた式神よ。最も既に陰陽師は死んで居なくなってもうたがな』
真っ青な顔をした犬のような黒い【鬼】が怨霊の中から輝彦を覗き込む。輝彦の心臓に槍をズブリズブリと突き刺していく。
輝彦
「…痩せこけた犬にそっくりだ。君、元は狗神だったんだろう、ね…」
『…へっ、へっ、へっ、へっ。そうだ。ワシは元狗神であった。今尚式神として使役されておるが? 屯倉家の子を贄として魂を永遠に喰らい、呪いの報復から逸らすため没落の運命から遠ざけておった。お主、ワシの餌食を殺しおった。屯倉家の子の魂を喰らい、肥大する頭部をワシが喰ろうていたというのに…。これではワシの魂は飢えで枯れてしまう。余計な事をしおって。責任を負ってもらうぞ。【お主が新たな餌食じゃ】』
ズリュ、ズリュ、と槍を引っ張る。輝彦は狗神の方へ引き寄せられていく。
輝彦
「う、がは…。人形は、集積した呪いを閉じ込める物…。そして呪いを焼くことで解き放ち、屯倉家の家族となる魂を引き寄せていたのか…」
狗神
『そうじゃ、そうじゃ。苦しみ悶えた魂ほど美味な物はない。餌食の中で、永遠に続くような苦しみを味合わされ、熟成され頭部から浮き出た【肉腫】は甘辛く甘美な味わいよ。今から其方にそうなってもらう。悪く思うな。餌食を殺した部外者風情の、矮小下劣な其方が悪いのだからな…』
輝彦
「…僕は、呪われているんだ」
狗神
『何?』
輝彦
「残念だけど、君の思い通りにはならないよ…」
輝彦の背中から黒い血が滲む。ドロドロ、ドロドロと血が滴り落ちれば、ゲホッと黒い血を吐血する。
『輝彦さん』
狗神
『むっ!? 貴様何者だ?』
『てて、輝彦さん』
背中から白い手が覗く。1本、2本。
狗神
『貴様…。式神でも無ければ霊でもない。一体何者なのだ?』
『て、輝彦さん…は、私のモノ』
背中から更に白い手が現れる。3本、4本。
狗神
『まさか…。貴様ッ!』
ズリズリ、ズリズリ…と手が幾つも現れだし、槍をグッと掴む。まるで綱を手繰り寄せるように白い手は狗神の方への棒に登るように迫り上がってくる。
輝彦
「…ぐ、はぁ、はぁ、絵画の中で、悪霊は真実を述べた。つまり、生が絵の中で始まり、焚きあげられる事により死で終わる…」
輝彦は絵画を松明で焼く。すると辺りが燃え始めた。
狗神
『貴様ッ! 常夜を焼く気かッ!?』
周りの怨霊達も炎上すれば、背景が先程の座敷牢へ戻っていく。肉の塊が悪霊の亡骸に絡みつき自分の方へ手繰り寄せている。
狗神
『そうはさせぬ! ワシの餌食を連れていかれてなるものか!』
狗神は槍を放せば肉の塊の方へ駆け寄より喰らい付く。
輝彦
「…君は魂になって尚産まれ持った役目を全うしようと努めるんだね。偉い子だ…。お前にその気高き使命の邪魔はさせない」
輝彦は殺虫スプレーを創造する。狗神に松明の火を向け殺虫スプレーを噴霧すれば勢いよく火が燃え移った。
狗神
『ギャワワワッ! オノレ巫蠱の【入れ物】の分際でッ! 不浄の内に穢れた下劣な魂が、このワシの邪魔をするなッ!』
狗神は輝彦の肩にガブリと噛み付く。しかし輝彦は動じない。
輝彦
「…過去を知り、現在を定め、未来を見る。そして想像の絵を描き、呪を解し、生が終わり死んだ事を理解せる。この常夜は火に焼かれ、死を実感するんだ…。終わりだ狗神…」
輝彦の内側から迫り上がってくる白い手から縦に割れた口が現れた。大きく開かれた口は狗神に向かってじわりじわりと迫っていく。
狗神
『や、やめろっ! ワシは喰われとうないッ! こんな化け物に! こんな異形に!』
『…ああ、あはあはあはあは…! 輝彦さんは私のモノ。誰にも渡さない』
口が裂けていけば、狗神を丸ごと呑み込めるほどの大きさにまで広げられる。逃げようとする狗神を数多の手で抑え込む。
狗神
『…へっ、へっ、はぁ、はぁ、キャワン、ギャワンッ! 喰われとうない! 喰われとうない! ワシが悪かった! …た、頼むッ! ゆる、赦してくれ!』
輝彦
「…君は陰陽師との契約でここから出ることは出来ないのだろう? 魂の世界は無明の世界…。しかし焼かれた絵画により呪いは解され、火の光で夜明けを迎える。お前が隠れられる場所は…」
狗神
『ギャアワンッ! バウ、バウ、キュウウンッ! キュウウウンッ…!』
輝彦
「もう、何処にもない」
バグッ!
大きな口は狗神を一口で丸呑みにした。そのまま異形の怪物は輝彦の中へ戻っていく。肉の塊は悪霊の亡骸を抱き、輝彦は鵤を抱き寄せたまま辺りは炎に包まれていった。
梟子
「輝彦さん、本当にありがとうございました」
輝彦
「いえ、依頼にあったことをした迄です。今後何かあるようでしたらご連絡ください」
鵤
「輝彦さん!」
鵤が駆け寄ってくる。
鵤
「私、全部覚えてるから」
輝彦
「夢の中の事?」
鵤
「うん。輝彦さん、ボロボロになっても犬の怪物に立ち向かって行ったよね。動けなかったけど、ずっと見てたよ」
輝彦
「…そうか。もう家で怖い想いをする事はもうないよ」
鵤
「私ね、いつか輝彦さんみたいになりたい。悪霊を倒して人助けをしたい」
輝彦
「実はこれ、本業じゃないんだ。いつもはトラックの運転をしてる。人付き合いが苦手なのさ。【訳あって女の人と深い関係になれないんだ】」
鵤
「…そうなの? でも私、【輝彦さんが好きだよ】」
ザザザ…。
一瞬辺りの空気が重くなる。
輝彦
「…僕は君のこと嫌いだよ。僕に相応しくない。君は僕のようにはなれない。早々に諦めるべきだ」
鵤
「…え?」
輝彦
「…じゃあ、そういう事だから」
輝彦は石階段を降りていく。
輝彦
「…元気でね」
輝彦は病室にいる。
輝彦
「…先生。また1つ呪いを祓ったよ」
目の前には目を開けたまま動かない女性がベッドで仰向けになっている。輝彦は添えられている花を入れ替える。
輝彦
「呪いを1つ1つ祓っていくことで僕の業は強まっていく。そうすることで先生にいつか辿り着くことが出来るんだ」
入れ替えられた古い花は萎れている。輝彦が持ってきた花と同じ種類の菊の花。
輝彦
「先生は僕を助けてくれるって言ったよね。命を懸けて僕を助けるって。僕信じてるから。だからこれからも先生がやったみたいに人の為に悪霊を祓う」
恐らくは脳死状態の女性。意識があるようには感じられない女性の手を握る。
輝彦
「この世は呪いで溢れているね。恐怖は伝播する。果たされなかった怨みの因果は巡り巡って形を変えて想いを果たそうとする。…僕、だんだん分かってきたよ。この吸い込む空気にすら目に見えない力が働いているんだよね。細かい粒子みたいに。魂はその力の流れに従って肉体の舵取りをしているんだ」
部屋の雰囲気が暗くなっていく。
輝彦の影が、怪しく蠢く。
輝彦
「先生は、意識の底へ行っちゃったんだよね…。深い深い無意識の底まで…。【僕から逃げる為に…】」
犬のような影、蛇のように蠢く影、無数の手の影。
輝彦
「…いつか先生に辿り着くから。先生を何処までも追いかけ続けるから、げほ…。ごほ…。この魂を、呪いの業で重く、重くして…だからね、先生ェ…」
輝彦の目から、口から、耳から黒いヘドロが溢れ出てくる。
『今度は、僕から逃げないでね…?』