上下左右と前後と私
「上を向いて歩こうぜ」
落ち込んでいる私に対し、友達は明るくそう言った。その言葉の通り上を向いて歩いていたら、ちょっとした段差に躓いた。
「ちゃんと足元を良く見て歩けよ」
友達はまるで子供を見るかのような眼で言った。ならばと足元を注意しながら歩いていたら、赤信号に気付かず車に轢かれそうになった。
「下を向くな。前を向いて歩け」
そう強めに言われた。そこで前を向いて歩いていたら、今度は横から現れた人とぶつかった。
「左右にも気を配りながら歩け」
これまた強く言われた。であればと、今度は前方に足元に左右にと、注意深くキョロキョロしながら歩く事にしたのだが……
「落ちついて歩けよ」
今度は半ば呆れる様子で言われた。いい加減腹が立ち「何処を見ろってんだよ!」とキレると「知らねぇよ!」とキレられ、売り言葉に買い言葉で喧嘩になった。それも取っ組み合いの大喧嘩となり、周囲の見知らぬ人達に制止されるに至った。決着が付かないままに終わるのは納得出来るものではなかったが、これ以上続けると警察を呼ばれそうな雰囲気であった事からも、私は振り上げた拳を降ろす事とした。友達もその場の空気を察したようで、不承不承ながらも拳を下ろした。
「チッ!」
友達はそんな舌打ちを捨て台詞にクルリと踵を返し、その場を去っていった……と思ったら直ぐに立ち止まり、再び踵を返すと私の方へと向かって歩いてきた。その様子に不穏な空気を感じた周囲の人達は、すぐさま私と友達の間に壁を作るかの如く立ち塞がった。友達はその壁の数歩手前で足を留め、壁越しに鋭い眼光を私に向けた。
「おい」
「何だよ」
友達の眼光が更に強くなった。
「これからは背中に気をつけて歩くんだな」
友達はそんな捨て台詞を残し、今度こそ本当に去っていった。その背中を見ている内、私は次第に冷静さを取り戻していった。
「何か随分とつまらない事で大喧嘩になっちゃったなぁ。は~あ……」
自己嫌悪的に落ち込んだ私に対し、周囲の人達が笑顔で語りかける。
「そんなに落ち込まないでさ、上を向いて歩こうよ」
「そうそう、後ろ向きにならず前を向いて行こうよ」
「そうそう、周りを見てごらんよ。皆楽しそうにして歩いているよ」
「そうそう、きっと良い事は案外その辺に落ちてるもんだよ」
「そうそう、いつか今日の日の事を振り返った時、きっと笑い話として良い思い出になってると思うよ」
上を向いて歩きつつも、前に左右に足元にと。そして終いには背後にまで気を付けて歩かなくてはならないとは、道を歩くとは何と大変な事だろうか。
2021年08月02日 初版