ある夜のこと
夜毎、芝居に通っている僕。あの人、お兄ちゃんのことが頭から離れない。
《好き? そんな下世話な言葉で表したらあかん。僕とお兄ちゃんはもっと、なんか、崇高なもんで結ばれるんや。恋? 愛? ちゃう。ちゃう〉
ある夜、僕はどうしても寝付けず、ご不浄に行こうと寝床を出た。すると。
《あれ、今の? お・に・い・ちゃん? 知らん女の人と……》
お兄ちゃんに違いない。見紛うはずはない。見知らぬ女性と親しげに離れの個室に消えた。僕の家は料亭だが、上客には、そういう特別なサービスもする事がある。そういう時、専用に部屋であることは、僕も知っていた。
《ちょっと覗いて……。あかん。そんなん。寝よ。寝よ》
なぜ、僕の知らない女の人とお兄ちゃんがいるのか? いや、人気の歌舞伎役者なのだ、女の一人や二人いたとして何の不思議もない。普通に考えればそうだ。
だが、僕の心から湧き出た汚泥、嫉妬というヘドロは、僕の脳髄を侵食し、腐らせて行った。こっそり、障子に穴をあけ覗き込む僕。
《えっ! 何、何してんのお兄ちゃん! いやや、お兄ちゃん、そんなことしたらあかん。何で? 何してんの》
《この売女!! 変な声だすんとちゃう! あかん。口合わせたら。あかん!!!!》
ふと、我に返った僕。また、背後に影のような何かを感じた。本当に、これは僕の心の影、幻影なのだろうか?
それから、お兄ちゃんは、来る日も来る日も、違う女の人とあの離れに来ているらしかった。もう、覗き見はしていない僕だが。
《嫉妬? ああ、この気持ちは好きとは違うんか? 般若のお面はこの感情を表すて聞いたことあるなぁ。そうや。お兄ちゃんの舞台。清姫は……。僕は心の火でお兄ちゃんを焼き殺すんかもしれんなぁ》
《いやや。いやや。もういやや。お兄ちゃん、お兄ちゃん。他の女の人にとられるくらいなら、殺したい殺してしまいたい》
《あれ? 誰? そこで囁くのは、誰?? 影? 誰? 誰や。僕を見てるんわ。僕の心の中、海の底からなんか気色悪いもんが上がってくる。あかん。飲まれたら。あかん……》
季節はもう梅雨になっていた。ある夜、僕は茶の間でラジオを聴いていた。
〜♪♪
6時のニュースをお伝えします。本日未明、有名歌舞伎役者の●●さんが道頓堀筋の路上で何者かに背中から刃物で刺され…………
〜
「えっ! なんやて。何? どういうことや! 刺される って!!……」
「ああ、少々、遊びが過ぎはりましたかなぁ〜」
「お母ちゃん、人が死んでるのに何言うてんの? もうええわ。ええ加減にしてそんなこと言うの? 僕、寝るから。おやすみ!」
《そうや。その通りや。僕が、僕が、こんなに想うてるのに浮気するからや。天罰や。ええきみや。スッとするわ》
《いや。なんや、この感じ。心の中が真っ白になって……。なんや、この気持ち……。あかん。違う。いやや。いやや。お兄ちゃんと会えんようになるとか信じられへん。何で、何で?》
《ちゃう。僕はお兄ちゃんの死を願った。そうやろ? 他の女の人を抱くんやったら。僕が抱いてもらえんのやったら。そやから。お兄ちゃんは死んだ? 僕のせいなんか?? そや。あの影? どこかの魔物が僕の大事なもんを持って行ってしもたんや。でも、それは僕がお願いしたこと……》
《いや、いやぁぁぁぁ!!!!》