舞台裏から
舞台を見終わった僕は、強烈は虚脱感に襲われた。もっと長く、一秒でも長く、あの人との時間を共有したい。したい。したい。だが、その願いは、終演の緞帳によって無惨にも砕け散る。
「ただいまぁ〜。晩御飯?。なんか今日はほしないねん。お風呂もろうて寝るから」
「信、体の具合でも悪いんか?」
「風邪? ちゃう。ちゃう。お芝居見てきて、ちょっと疲れただけやから」
この頃からだろう。僕は、常に、誰かに見られているような気配を感じるようになっていた。
《あれ? 誰、そこにいるの? あれ?? 何、影? なんか見える??》
一方的な、あの人へ想いが、僕に幻影を見させているのだろう? そう思っていた。だが、それは、文明人としての常識が、真実を直視する目を曇らせていたとも言える。確かに、あの人は魅力的な人物だ。そして、この想いは、僕の心にある泉から湧き出して来たものだと思っていた。
でも。でも。僕は、急速過ぎる想いの高まりを不自然だと、感じることはできなかった。何か得体の知れぬものが僕を誘導している、などとは夢想だにしなかった。
《綺麗な人やったなぁ〜。男の人やなんて信じられへんわ。素の顔も綺麗やった……。憧れ? いや、ちゃう。あの人と……》
僕は寝床に入って天井を見上げた。欄間には天女の彫り物。あの人の美しさをまた思い出してしまう。いやいや、違うだろう。一流と言われる彫り師すら、あのような造形美をこの世に生むことは不可能だろう。
《胸が苦しい。そうや。本で読んだことある。そうや。僕はあの人のことが好き?》
《僕は、あの人にどうしてもらいたいんやろ?。抱いてもらいたいんか? え、男どうしやのに何でそう思う? それとも……》
《あの人、どんな香りがするんやろ? ああ、どないなったや。僕は? そもそも、僕は、あの人に何を望んでるんや?》
《あの人? そんな言い方でええんか? いや、お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん!……》
《お兄ちゃんにぎゅっとしてほしいんか? 押さえつけられて、身動きできんようになって。そうや! そうしてほしい? 僕をあの人のもんにしてもらう?》
小説で読んだことがある。だから、自身が何を望んでいるのかは分かった。だが、それは、男女の話としての理解しか、当時の僕にはなかった。だけど僕の夢想は止まらない。僕の右手は僕自身を捉えて離さなかった。
お兄ちゃんにキスされる、そして……。その行為に、あまりに夢中になっていたので、周りに気付けなかったのだろう。ふと。
《誰? え? 見られた? そこ? 気のせいや。誰もいてへん……》
なにか黒い影のようなものが見えた気がした。さっきより色が濃くなっている気がする。
《僕の心の影か? なんか、もう、僕が僕でなくなっていくような。お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄……》
翌朝、僕は何か不安を抱えつつも「お芝居を見にいく」それだけは、決して譲ることができぬ日課となっていた。
「うん。今日もちょっと見に行ってくるわ。舞台の袖から見ててもええて……」
「ああ、ああ、分かった、分かった。ちゃんと宿題済ませてから行きや。ほな、いってらっしゃい」
「いとはん、は、やめてぇや」
《アレ、あんなに女の子みたいて言われるの嫌やったのに。なんか今は心地よい》
その夜。
《あっ、お兄ちゃん、こっち向いた。僕を見てくれていのかな? なんや、どうしたんや、また胸が熱うなる》
また、僕を不思議な感覚が襲った。
《これ、この感じ? 僕はお兄ちゃんが好き? そや。今、お兄ちゃんも振り向いてくれたんや。そうに違いない。お兄ちゃんも僕のこと好きなんや》
一方、僕にはまだ正常な心も残ってた。少し話しただけの人から、そこまでの好意を持たれるはずがない。分かっている。分かっているのだ。だから、であるが故に、僕の心は暴走した。
目の前は千尋の谷。僕は全速力で走り出す。その先に破滅が待っている、知っている、分かっている。だけど、崖の目前で止まる「勇気」は、僕にはない。
《いや、僕はお兄ちゃんの『もの』になる? そしたら、お兄ちゃんはいつも僕のこと…… 僕だけのもんにしたい。お兄ちゃん……》