再会
桜は散り、靴の泥にまみれた薄桃色の花びらが、校庭を汚していた。ある日の夕刻。
「ただいまぁ〜 今日のご飯何?? ご飯食べる前に て? 何?」
僕の実家は、料亭を生業としている。創業は明治時代と聞いているが、このあたりでは、老舗ということになっているようだ。その評判を聞きつけたのだろうか、あの人、この間、舞台で観た役者が来ているという。
確かに、あの舞台に、僕は魅了された。だから、母が妙な気を利かせたのだろう。せっかくだから、挨拶をしろと言う。
「挨拶? いらんわ。いらん言うてんのに。お酒が入る前に、て? 分かった。分かった。行くから」
僕は、急いで制服を着替え、母から聞いた奥座敷に向かった。
《もしかしたら、僕のこと知っててくれたんかな? 舞台から見える? 見つけてくれてたんか??》
あり得ぬ妄想だと分かっている。分かっている! 虚実だ! 幻影だ! だけど、僕の呼吸は次第に浅くなり、僅か数間の廊下を歩くだけで、息切れしていた。
大きく深呼吸をして、僕は、濃密なお酒の匂いが漂う、その障子を開けた。
「初めまして。本領亭の息子、信と言います」
《ほんま? 夢? 茶臼山の美術館で見た彫刻みたいや 綺麗? なんか言葉にでけへん。こんな人と一緒におれるなんて信じられへん》
「おお、真君と言うんだね。学生さん?」
「はい。学生です」
恥ずかしい。心なしか声が震えた。
「ほぅ。随分と、男前じゃないか。女の子にモテるだろう」
「そんなこと。学校も周りも、男ばっかりですから」
「そう言えば、舞台、観にきてくれたんだよね」
「お芝居? ですか? はい。この間、見せてもらいました!」
「どうだった?」
「えらい綺麗やったなぁ〜と。煌びやかで。優雅で。なんや、お月さん見てるみたいでした……」
僕は、何を言っている? これじゃあ、まるで、尋常小学校の生徒みたいじゃないか! だけど、言葉が出てこない。情けない。消え入りたい、もうこの場から逃げたい!
「あの…… あっ。僕、宿題まだやった。すいません。僕はこのへんで」
《こんな、ミエミエの嘘。もう、どうすれば?》
「そんなに緊張することないんだよ。そうだ。今度、楽屋に来てみないか? うん。うん。早々、明日にでも」
これは、彼の「大人」としての配慮なのだろう。少し、冷静に考えれば、厚かましいにも程がある。だけど、その時の僕の心境は穏やかならざるものがあった? いや、それどころではなかった。嵐に翻弄される笹舟のごとく、揺れていた。
「えっ! 楽屋に! お邪魔やないんですか? ありがとうございます」
改めて挨拶をして、部屋に戻った僕。少し冷静さを取り戻して、先程起きた、出来事を反芻していた。
《なんで? もうちょっと気の利いたこと言えんのや。アホやと思われた》
社会常識など、その時の僕の頭にはなかったと言える。とにかく、彼、あの人と再度会える、ただそれだけに僕は妄執していた。と言えるのではないか?
《そやけど。そやけど。話できた。楽屋に、遊びに行ってもええ……? 夢みたいやぁ~~ 今度こそ、ちゃんと話そ》
《なんや? この感じ? 体が、体が熱い。熱い。熱い! アレ? どないなってんねん? 僕……》
翌日の夜、早々に学校から帰った僕は、早々に千日前の歌舞伎座に向かった。母が無理に持たせた花束。いかにもな感じが何とも気恥ずかしかったが、まるで、初めての相引きに行く処女のごとく? いやいや、そんなんじゃない。ないから。
「こんばんわぁ〜。あ、これ。お花です。おかあちゃんが持って行け言うたから」
「おお、よくきたね。えーっと。信君? 気を使わせてしまったようだね。おーーい。可愛いお客さんにお茶持ってきて」
「ああ、おかまいなく。お邪魔にならんよう見てますから」
《あかん。やっぱり、この人を前にすると言葉がでてけえへん。どないしたらええねん。もっと、もっと話たいのに。僕の想いを……》
な、何を考えているんだ、僕は。自らの心の動きに戸惑いを禁じ得ない。僕は、彼が舞台化粧をするのを見学することに集中しようとしていた。だが……。白粉の香りが妙に鼻に付く。さきほどまで、男性だった彼、お兄ちゃん? え? が、みるみる綺麗な女性になっていく。呆然自失というのは、まさにこの事なのだろう。僕はただ息を呑み、言葉すら失っていた。
《あれ? なんや。どうしたんや僕。胸が締め付けられるみたいに…… 何? この感じ。どうなってしもたんや? 僕 こうやって見てると胸が苦しい。なんで、なんでぇぇぇ!!》